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彼女は名前を呼ばれた気がして、目を覚ました。瞼をこじ開け、辺りを見回すと、自分は腰掛けたまま、机にもたれかかって眠っていたことを思い出す。
「クラステフ先生! エミール=クラステフ先生!」
やはり呼ばれていた。
目をこすってから、窓から外の明るさを確かめる。眠ろうとしてから、まださほど時間は経っていないように感じられた。
「先生!」
さっきから怒鳴り散らしているだみ声の持ち主は、がつんがつんと扉の板を叩き始めた。
「聞こえてるわよ!」
寝起きのためにいらいらして怒鳴り返す。と同時に、大きなあくびが出た、片手を口に当て、もう片方の手を天井に向けて大きく伸ばす。
「起きていましたか。では、先生、ここを開けてください」
「私だって女よ。ちょっとぐらい、身だしなみを整える時間がほしいねっ」
鏡を手に苦笑いしながら、クラステフはもう片方の手で栗色の髪をなでつけた。巻き毛のように見えるが、ほとんど手入れしないで癖がついてしまったものだ。
(この歳になっても、そばかすが残っているなんて)
鏡で自分の顔を見る度、クラステフは思った。
「さあ、どうぞ!」
声の主――文科研究所職員のマリオを招き入れるクラステフ。
「お客さんです。お偉い方」
「お偉いって、どういうことよ」
「王立海軍からでさあ」
先ほどまでの丁寧な口調はどこへやら、面白がるように言う。
「海軍ですって? 軍が言語学者に何の用があるって?」
「それは聞いておりません。とにかく、早く願いますよ」
「分かったわ。案内して」
部屋を出て、廊下を行く。木の壁はあちこちが割れたり腐りかけたりで、お世辞にもきれいとは言い難い。
二度、角を曲がって、取って付けたような応接室――研究所内で一番ましな部屋――に到達した。
「さあ、どうぞ」
「私一人だけ?」
戸を開けようとするマリオに、急いで声をかけるクラステフ。
「そう言われていますので」
「相手から?」
「さようで」
いよいよ関わり合いたくない匂いが漂ってきたなと感じたクラステフだったが、マリオが戸を開けてしまった。当然、室内の客はクラステフへと視線を向けてきた。涼やかな目元だった。
「おお、あなたが、言語研究では第一人者のエミール=クラステフ先生ですか」
あらかじめ用意していたらしき台詞を、客人の男は早口に言った。それと同時に立ち上がり、クラステフへと近づいてくる。いかにも軍の人間らしく、正確で無駄のない動き。
当たり前だが、相手は軍の制服を着ている。それも将校の物らしい。接近されるとクラステフは威圧感を覚えた。
紺色の制服の胸には何やら勲章がぶら下がり、肩にはひらひらと飾りの紐みたいな物が数本着いている。帯剣したまま入ってくるのは、軍人にとって当然の権利であった。
「お目にかかれて光栄です」
「私もですわ」
人並みに挨拶を返してから、クラステフは相手に尋ねた。
「お名前をお聞かせ願えないのでしょうか?」
「失礼を。私はクレイグ=ケントラッキー。海軍大尉です」
整った目鼻立ちをした客は、声の響きもいい。
返答を聞いて、クラステフは少し安心した。相手の話し言葉は、事前の予想より遥かに優しげであった。
「海軍大尉が、一介の学者風情にどのようなご用件でしょう?」
「そこまで卑下なさるな。女性で、あなたのように学問を究めようとする人がいるのは、頼もしいことだ。国にとっても」
「お褒めの言葉に受け取っておきましょう」
「では、本題に移りましょう。無論、クラステフ先生の語学力を見込んでの用件です」
「ひょっとして、海で遺跡でも見つかりました? 古代の文字を刻んだ……」
それだったら喜んで手伝おうと思いながら、返事を待つクラステフ。
「いえいえ。残念ながら、そんな夢のある話ではありません。通訳というやつですよ」
「でしたらすでに、海軍にも専属の方がいらっしゃるはず」
「もちろん。だが、全ての言語に通じている訳でないのも至極当然でありましょう」
「つまり……国籍不明の密航者か漂流者でも?」
相手の言葉から推測するクラステフ。
「その通り。昨夕、ネゼルランから帰ってきた商船にね。これがまた、見たことのない風体をしており、おおよその推測さえ着けられない」
「ネゼルラン人じゃなかったわけですか」
「ネゼルラン語や我がユトヴィア語を初めとし、十三ヶ国語で試しましたが、まったく通じないのです」
「外見から推測できないのですか? 髪や目の色や顔立ちなんかから、どの地域なのかぐらい」
「金髪で黒の眸でしたが……顔はエイシア系そのものでしてね」
「ということは、混血ではない?」
分からなくて首を振るクラステフ。
「どうですかね? 専門家じゃありませんので」
「私だって、民族学は専門ではないんですけど」
「多少は知識はありましょう? それでですね、体格は小さい方ですな、あれは」
「持ち物は何かありました?」
「それはもう、大変なものでしたよ」
両腕を広げ、あきれた格好を取るケントラッキー。
「最初、袋一つであとは何も持ってないように見えたんですが、調べてみて驚かされましたね。あまり長くない刀が二本、小さいながら鋭い刃物がいくつか出てきたし、黒っぽい衣装も出てきました」
「刀に刃物ですか。それで軍が……」
「ええ、まあ、密航者と言うだけで充分な理由ですがね。その他にも奇妙な物をたくさんを持っていましたが、とても説明できません。見てもらうしかない」
「刀の形はどうでした? 特に鍔」
「ちょっと見かけない、珍しい物でしたな。これも確か、エイシア系ですよ」
「エイシア人である可能性が高いと見ていいかもしれません。とりあえず、その手の資料を持って行きますから、案内をお願いします」
「無論、そのつもりで訪ねさせてもらったのです。どうぞ、表に。馬車を待たせてあります」
立ち上がると、クレイグ=ケントラッキーはクラステフへ手を差し伸べた。
「クラステフ先生! エミール=クラステフ先生!」
やはり呼ばれていた。
目をこすってから、窓から外の明るさを確かめる。眠ろうとしてから、まださほど時間は経っていないように感じられた。
「先生!」
さっきから怒鳴り散らしているだみ声の持ち主は、がつんがつんと扉の板を叩き始めた。
「聞こえてるわよ!」
寝起きのためにいらいらして怒鳴り返す。と同時に、大きなあくびが出た、片手を口に当て、もう片方の手を天井に向けて大きく伸ばす。
「起きていましたか。では、先生、ここを開けてください」
「私だって女よ。ちょっとぐらい、身だしなみを整える時間がほしいねっ」
鏡を手に苦笑いしながら、クラステフはもう片方の手で栗色の髪をなでつけた。巻き毛のように見えるが、ほとんど手入れしないで癖がついてしまったものだ。
(この歳になっても、そばかすが残っているなんて)
鏡で自分の顔を見る度、クラステフは思った。
「さあ、どうぞ!」
声の主――文科研究所職員のマリオを招き入れるクラステフ。
「お客さんです。お偉い方」
「お偉いって、どういうことよ」
「王立海軍からでさあ」
先ほどまでの丁寧な口調はどこへやら、面白がるように言う。
「海軍ですって? 軍が言語学者に何の用があるって?」
「それは聞いておりません。とにかく、早く願いますよ」
「分かったわ。案内して」
部屋を出て、廊下を行く。木の壁はあちこちが割れたり腐りかけたりで、お世辞にもきれいとは言い難い。
二度、角を曲がって、取って付けたような応接室――研究所内で一番ましな部屋――に到達した。
「さあ、どうぞ」
「私一人だけ?」
戸を開けようとするマリオに、急いで声をかけるクラステフ。
「そう言われていますので」
「相手から?」
「さようで」
いよいよ関わり合いたくない匂いが漂ってきたなと感じたクラステフだったが、マリオが戸を開けてしまった。当然、室内の客はクラステフへと視線を向けてきた。涼やかな目元だった。
「おお、あなたが、言語研究では第一人者のエミール=クラステフ先生ですか」
あらかじめ用意していたらしき台詞を、客人の男は早口に言った。それと同時に立ち上がり、クラステフへと近づいてくる。いかにも軍の人間らしく、正確で無駄のない動き。
当たり前だが、相手は軍の制服を着ている。それも将校の物らしい。接近されるとクラステフは威圧感を覚えた。
紺色の制服の胸には何やら勲章がぶら下がり、肩にはひらひらと飾りの紐みたいな物が数本着いている。帯剣したまま入ってくるのは、軍人にとって当然の権利であった。
「お目にかかれて光栄です」
「私もですわ」
人並みに挨拶を返してから、クラステフは相手に尋ねた。
「お名前をお聞かせ願えないのでしょうか?」
「失礼を。私はクレイグ=ケントラッキー。海軍大尉です」
整った目鼻立ちをした客は、声の響きもいい。
返答を聞いて、クラステフは少し安心した。相手の話し言葉は、事前の予想より遥かに優しげであった。
「海軍大尉が、一介の学者風情にどのようなご用件でしょう?」
「そこまで卑下なさるな。女性で、あなたのように学問を究めようとする人がいるのは、頼もしいことだ。国にとっても」
「お褒めの言葉に受け取っておきましょう」
「では、本題に移りましょう。無論、クラステフ先生の語学力を見込んでの用件です」
「ひょっとして、海で遺跡でも見つかりました? 古代の文字を刻んだ……」
それだったら喜んで手伝おうと思いながら、返事を待つクラステフ。
「いえいえ。残念ながら、そんな夢のある話ではありません。通訳というやつですよ」
「でしたらすでに、海軍にも専属の方がいらっしゃるはず」
「もちろん。だが、全ての言語に通じている訳でないのも至極当然でありましょう」
「つまり……国籍不明の密航者か漂流者でも?」
相手の言葉から推測するクラステフ。
「その通り。昨夕、ネゼルランから帰ってきた商船にね。これがまた、見たことのない風体をしており、おおよその推測さえ着けられない」
「ネゼルラン人じゃなかったわけですか」
「ネゼルラン語や我がユトヴィア語を初めとし、十三ヶ国語で試しましたが、まったく通じないのです」
「外見から推測できないのですか? 髪や目の色や顔立ちなんかから、どの地域なのかぐらい」
「金髪で黒の眸でしたが……顔はエイシア系そのものでしてね」
「ということは、混血ではない?」
分からなくて首を振るクラステフ。
「どうですかね? 専門家じゃありませんので」
「私だって、民族学は専門ではないんですけど」
「多少は知識はありましょう? それでですね、体格は小さい方ですな、あれは」
「持ち物は何かありました?」
「それはもう、大変なものでしたよ」
両腕を広げ、あきれた格好を取るケントラッキー。
「最初、袋一つであとは何も持ってないように見えたんですが、調べてみて驚かされましたね。あまり長くない刀が二本、小さいながら鋭い刃物がいくつか出てきたし、黒っぽい衣装も出てきました」
「刀に刃物ですか。それで軍が……」
「ええ、まあ、密航者と言うだけで充分な理由ですがね。その他にも奇妙な物をたくさんを持っていましたが、とても説明できません。見てもらうしかない」
「刀の形はどうでした? 特に鍔」
「ちょっと見かけない、珍しい物でしたな。これも確か、エイシア系ですよ」
「エイシア人である可能性が高いと見ていいかもしれません。とりあえず、その手の資料を持って行きますから、案内をお願いします」
「無論、そのつもりで訪ねさせてもらったのです。どうぞ、表に。馬車を待たせてあります」
立ち上がると、クレイグ=ケントラッキーはクラステフへ手を差し伸べた。
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