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1ネジ

プロローグ①

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 まず、議題を挙げたい。

 ────大人の笑顔を貼り付けた隣人は、どこか頭のネジが緩んでいないだろうか?

 藤宮ふじみや千幸ちさは、扉を開け早々に目に入った光景につっと眉を寄せた。
 初夏の日差しが差し込むはずの前方に立ちはだかる、相変わらず何を考えているのかわからない相手を前に失礼なことを考える。

「千幸ちゃん」

 腰にくる響く低音の声が耳をかすめる。
 千幸はドアノブに手をかけたまま固まっていたがふっと息をつき、二十三歳の自分より三つ年上の隣人である小野寺おのでらしょうの胸元から徐々に視線を上げた。

 今日も完璧な出で立ちとバリトンボイスでのご登場に、千幸は仕方なく、もう一度言うが本当に前方を塞がれているから仕方なく、隣人と視線を合わせた。
 途端、軽く笑みをかたどっていた口元がにっと嬉しそうに上がっていき、慈しむかのように優しい眼差しで見つめられる。

「おはよう」
「……おはようございます」

 挨拶は基本だ。なので、常識の範囲だからと千幸は応じた。
 ご近所の奥様方のみならず小さな女の子からたまに同性まで軒並みノックアウトさせる甘さを含む爽やかな笑顔を前に、千幸はむしろさげずむように目を眇めた。

 だって、よく考えてほしい。
 ドアを開けてすぐに隣人がいるというこの状況。

 隣だから仕方がない?
 いやいや、それが毎日となれば表情も硬くなる。
 ただ、コミュニケーションを取ろうとしてくるだけだが、毎日、毎朝、見送られる身にもなってほしい。

 どれだけ格好よかろうが、爽やかだろうが、ハイスペックだろうが面倒だ。
 女性の朝は忙しい。さくさく用意して出勤したいのに、毎日出くわし一通りのやり取りが行われる。

 だから、こうして待っているだろう相手の時間も計算して、少し早めに家を出るようにしたのはここに住むようになって割とすぐだった。
 それくらい圧が強い相手に、押しても駄目なら引いてみな的な感じで、断っても駄目なら受諾してみたら、ますます身動きが取れなくなった。

「今日も麗しいね」
「小野寺さんも今日もうざい紳士ですね」

 麗しいと言う言葉がまさに似合う相手に胡散臭い眼差しを向けそうになったが、すんでのところで止める。
 だが、言葉は正直につるりと出てしまう。

「名字ではなくて翔と呼んでほしいな」

 それでもめげない隣人。
 ふっとダメな子だねと言いたげな笑顔とともに告げられた言葉に、千幸は呆れた表情を隠さなかった。
 耳は付いているのだろうかと疑うほど、都合の悪いことは聞こえないのか触れられない。

 このやり取りは何度目だろうかと思いながら、千幸は小さく溜め息をついた。
 そこまで言うなら呼ぼうかと考えたこともあったが、呼んだら呼んだで面倒そうなのでやめた。
 今回も、相手がそうくるならこちらもするっと聞かなかったふりをして視線で訴える。

「……どいてくれますか?」
「ああ、ごめん」

 言葉で謝罪し小野寺はわずかに身体をずらしたが、千幸が鍵をかけるのを待っている。

「…………」

 はっきり言ってすごく邪魔だ。真後ろに立たれ気になって仕方がない。
 背が高いから存在感があるし、突き刺す視線は訴えてくるようで無視しきれず千幸は肩を落とした。

「……それで、何か用があるんですか?」

 振り返り訊ねると、隣人の表情がふわりとほころんだかと思えば、真面目な顔をして千幸を見下ろした。
 はしばみ色の双眸とかち合い、この瞳の色は綺麗だと思いながら、次に何を言い出すのかと身構える。

「今晩、一緒に食事がしたい。できれば千幸ちゃんの…」
「仕事で外食って言ってなかったですか?」

 おっと、危ない。何かとんでもない要求がきそうだと察した千幸は被せるように質問する。

「覚えてくれてたの?」
「…………」

 冷静に返しただけの言葉に、途端に嬉しそうにほこほこと笑顔を浮かべるイケメン。
 格好いい男はどんなことをしてもイケメンだと認めるが、ずいぶんストレートな表情の変化を見せられると戸惑いのほうが勝つ。
 千幸の戸惑いなど関係なしに、首を傾げ柔らかな瞳の色が千幸をじっと捉える。

「それがキャンセルになったから。いい?」
「……わかりました。とりあえず、その緩んだ顔を直して頂いたらお付き合いします。外でなら」

 その熱い視線に根負けして千幸は了承した。しっかり『外で』と釘を刺すことは忘れない。
 小野寺はふっと苦笑したが、すぐに嬉しそうに笑うと今は整髪料をつけてない前髪をさらりとかきあげ、どうぞと前へ誘導するように手を動かした。

 ────無駄に色気あるんだよね、この人。

 そして、今は知らないが絶対昔は遊んでいただろうなとまた失礼なことを考えながら、目の前にある真っ黒ではなく茶色の髪を見る。
 光が当たると余計に明るく見える茶色の髪は目立つが、染めているのではなく天然ものだろうとわかる自然さだ。

 これだけの美貌の持ち主に積極的に接点を作ろうと働きかけられて、千幸だって何も感じないわけではない。
 綺麗なものは好きなので目の保養だ。
 小野寺の造形に対してはとても美しいものだと感心しているし、それに見合う仕草も素晴らしいものだと思うけれど、千幸にとってはそれだけだった。

「直す、直す。よかった。また晩にね」

 瞳の色もそうだが、楽しそうに千幸に返答する声も好みなのに、残念ながら今はその声を気軽に堪能できない。
 堪能してしまったら最後、何か捕って食われそうで、勘違いだったらいいがあまり気を抜きすぎるといけないと出会った時から思っていた。

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