上 下
75 / 103
6.大学時代【R18含む】

31.たっぷりの幸せ

しおりを挟む
 賢太くんとの別れ話は来年に持ち越すとして、私はそのまま東京で熊野先生と過ごすことにした。
 相変わらず母には嫌味を言われたけれど、勉強とバイトのためだから、と誤魔化しておいた。

 熊野先生が買い物に出掛けている間に、私は賢太くんに電話を掛ける。
『おお、どうした』
「あっ、賢太くん? ごめんね。お正月のことなんだけど――」
『うん、どした?』
 急に罪悪感が芽生えてきて、どうしようもない気持ち悪さを感じた。

「ごめんね、そっちに行けそうにないんだけど……」
『そっか、分かった。じゃあ来年会える時に会おう』
「あ、うん……。ごめんね?」
『いいよ。オレもちょっとバタバタしてるから……』
 賢太くんの声に元気がない。
 ちょっと気になったが、そろそろ彼が戻ってくるので、いったんここで切った。

「ふう……」
 ついこないだまで気楽に話せた相手なのに、急に話しづらくなるとは。
 40歳の精神でも結構堪えるようだ。

 玄関の方から音がして、「ただいま」と朗らかな声が響き渡ってくる。
「お帰りなさい」

 このなんでもないやりとりが、とても幸せだ。
 この充足感。満たされている感じ。
 今までに味わったことのない安心感。

 ようやく私が得る事が出来た安全地帯。

 リビングに入ってきた熊野先生の胸に飛び込んで、ぎゅっと抱き締めた。

「今日は鍋にしよう」
 先生はそう言って、スーパーの袋をキッチンのテーブルに置いた。

 ひとまずすぐに食べられるように下ごしらえをして、準備万端にしてから私たちは愛し合った。
 よく懲りないものだ、と考えつつ私は先生に抱かれながら、声を漏らす。

「ああ……幸せって、こんな感じなんですね」
 先生の温もりと繋がりを感じて、私はぽろっと言った。

「宣子ちゃんの中で、幸せな瞬間が一瞬でも感じられたのなら、それを僕が与えられているとしたら、この上ない喜びだよ」

 この幸せは、自分でつかみ取った幸せだ。

 諦めずに東大入試に挑むまでに努力してきた日々――。
 自分の置かれた環境に異常さを感じつつも、それに耐え抜いた日々――。
 自分の怖さを直視出来ずに逃げそうになるところを、なんとか堪えた日々――。

 一人で頑張ったように見えるけれど、実際は一人じゃなかった。

 賢太くん、百合子ちゃん、熊野先生、周りのいるみんな……。

 前の人生の恐怖感が甦ってきて、怖くなって、皆を拒絶して壁を作ろうとした瞬間もあった。

 けれど今の人生でそれをしてしまったら、私は何のために生きているのだろうか。

 やり直した意味をずっとずっと考え抜いて、怖いけれど心を開こうと懸命になった。
 その結果、私を大切に思う人たちが集まってきた。

 けれど――それは、前の人生の記憶ありきの話……。
 ではこうなるとは知らなかった私が、生きてきた人生は何なのか?
 前の人生を懸命に生きてきた私を、否定してしまうのか。

 そう考えると、だんだん悲しくなってきて、涙が零れ出た。

「宣子ちゃん?」
「先生……、私は……ずるい女です」

 この幸せは、本物なのだろうか。
 カンニングしているような気分だ。

 先生は私の中から抜いて、私の隣に寄り添うようにして寝転び、私をぎゅっと抱き締める。

「何があったのかは分からないけれど……、今こうして過ごしていることは、少なくとも君が『こうしたい』と望んだ結果でいいんじゃないかな。それが仮にズルをしていたとしても、君が望んだことだ。それが幸せだと思えるのなら、たっぷりと幸せを感じればいいと思うよ」
「先生……」
「僕はどこにも行かないよ」
「うん……例えば、世界が違っても?」
「世界が違っても? どういう意味?」
「うーんとね……、そう……パラレルワールド、っていうのかな」
「ああ。うん、どこにも行かない。もしも違う世界で、違う僕がいたとしても、そこから出会って構築していけばいいんじゃないかな」
「私を全く知らなくても? 私が東大に入ってなくても?」
「出会う場所と時間が違うだけじゃないの?」

 私が起き上がって、先生を見下ろす。

「お互い全然出会ってなくて、年を取っていて……それでも変わらないとでも?」
「多分ね。よく分からないんだけど、多分、きっとそう。君に出会うまで、僕は多分独り」
「どうかしら……先生はモテモテだもん」
「まあ別の世界の僕もモテるかもしれないけど、女性を好きになることはなかなかないと思うし、流れで結婚する、というのもあり得ないと思うよ」
「本当に?」
 私が屈んで先生の顔をまじまじと見つめた。

「今の僕がそう考えるんだから、きっと違う世界の僕もそう考えるよ」
「……仮に、ですよ。別の世界の私が、とんでもなくろくでなしで飲んだくれて死ぬような女だったら? 最初の結婚でDV男を引き当ててしまって、子どもを二人産んで、一生懸命育ててきたのに、DVに耐えられなくなって逃げ出した女だったら?」
 一気にまくし立てると、熊野先生がきょとんとして「すごい具体的だね」と笑った。

 熊野先生も起き上がって、私の髪を優しく撫でる。

「それでも、僕は君の話をちゃんと聞こうと思ってるよ」

 それだけで……私は救われたような気持ちだった。

 別に先生に助けてもらおうとも思っていないが、誰にも話を聞いてくれなかった孤独感が癒えそうな感じがして、希望が湧いてきた。

「私は……、今まで誰にも話を聞いてもらえなかった」
「そうだったんだ。よくぞここまで独りきりで頑張ってきたんだねえ」
「でも……それは私が人を拒んできたからかもしれない……」

 もうダメだった。涙が堪えきれなくて、大粒の涙がボタボタと私の太ももに落ちていく。

「そんなことないよ。人を拒むっていうより、自分を守るために必要だったんじゃないのかな。そうせざるを得ないほど、君は独りぼっちだったんだろう」
「私が、良い子じゃないと……お父さんもお母さんも振り向いてもらえなかった。でも、良い子になったらなったで……! 私をありのままに見てもらえなくなった!」

 どうして。
 どうやったら私そのものを、私の存在を認めてくれるのか――。

「先生……、あっちの世界でも、先生に出会ったら、先生は私の話を聞いてくれるんですよね?」
「もちろんだよ」
「ありがとう、先生」

 私たちは、そのまま抱き合ってまどろんだ。

 いつの間にか深い、深い眠りへ――私は落ちていく。
 真っ暗闇の中に、ゆっくりと落ちていく感覚があった。

 どうなるんだろう。

 このまま目が覚めないのかな。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

♡蜜壺に指を滑り込ませて蜜をクチュクチュ♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとHなショートショート♡年末まで毎日5本投稿中!!

生贄にされた先は、エロエロ神世界

雑煮
恋愛
村の習慣で50年に一度の生贄にされた少女。だが、少女を待っていたのはしではなくどエロい使命だった。

【R18】僕の筆おろし日記(高校生の僕は親友の家で彼の母親と倫ならぬ禁断の行為を…初体験の相手は美しい人妻だった)

幻田恋人
恋愛
 夏休みも終盤に入って、僕は親友の家で一緒に宿題をする事になった。  でも、その家には僕が以前から大人の女性として憧れていた親友の母親で、とても魅力的な人妻の小百合がいた。  親友のいない家の中で僕と小百合の二人だけの時間が始まる。  童貞の僕は小百合の美しさに圧倒され、次第に彼女との濃厚な大人の関係に陥っていく。  許されるはずのない、男子高校生の僕と親友の母親との倫を外れた禁断の愛欲の行為が親友の家で展開されていく…  僕はもう我慢の限界を超えてしまった… 早く小百合さんの中に…

お嬢様、お仕置の時間です。

moa
恋愛
私は御門 凛(みかど りん)、御門財閥の長女として産まれた。 両親は跡継ぎの息子が欲しかったようで女として産まれた私のことをよく思っていなかった。 私の世話は執事とメイド達がしてくれていた。 私が2歳になったとき、弟の御門 新(みかど あらた)が産まれた。 両親は念願の息子が産まれたことで私を執事とメイド達に渡し、新を連れて家を出ていってしまった。 新しい屋敷を建ててそこで暮らしているそうだが、必要な費用を送ってくれている以外は何も教えてくれてくれなかった。 私が小さい頃から執事としてずっと一緒にいる氷川 海(ひかわ かい)が身の回りの世話や勉強など色々してくれていた。 海は普段は優しくなんでもこなしてしまう完璧な執事。 しかし厳しいときは厳しくて怒らせるとすごく怖い。 海は執事としてずっと一緒にいると思っていたのにある日、私の中で何か特別な感情がある事に気付く。 しかし、愛を知らずに育ってきた私が愛と知るのは、まだ先の話。

性欲の強すぎるヤクザに捕まった話

古亜
恋愛
中堅企業の普通のOL、沢木梢(さわきこずえ)はある日突然現れたチンピラ3人に、兄貴と呼ばれる人物のもとへ拉致されてしまう。 どうやら商売女と間違えられたらしく、人違いだと主張するも、兄貴とか呼ばれた男は聞く耳を持たない。 「美味しいピザをすぐデリバリーできるのに、わざわざコンビニのピザ風の惣菜パンを食べる人います?」 「たまには惣菜パンも悪くねぇ」 ……嘘でしょ。 2019/11/4 33話+2話で本編完結 2021/1/15 書籍出版されました 2021/1/22 続き頑張ります 半分くらいR18な話なので予告はしません。 強引な描写含むので苦手な方はブラウザバックしてください。だいたいタイトル通りな感じなので、少しでも思ってたのと違う、地雷と思ったら即回れ右でお願いします。 誤字脱字、文章わかりにくい等の指摘は有り難く受け取り修正しますが、思った通りじゃない生理的に無理といった内容については自衛に留め批判否定はご遠慮ください。泣きます。 当然の事ながら、この話はフィクションです。

連続寸止めで、イキたくて泣かされちゃう女の子のお話

まゆら
恋愛
投稿を閲覧いただき、ありがとうございます(*ˊᵕˋ*)   「一日中、イかされちゃうのと、イケないままと、どっちが良い?」 久しぶりの恋人とのお休みに、食事中も映画を見ている時も、ずっと気持ち良くされちゃう女の子のお話です。

【完結】女子大生は犯されたい

asami
恋愛
女子大生たちが堕ちていく物語

処理中です...