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182話 天使奇譚

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 アァ参った……参ったなぁ。今月の原稿の〆切まで、たったの二日しかない……。
 だのに、ただの一行も書けていない……。サァいよいよ参ったぞ。

 俺はグラスの洋酒が琥珀色の陽炎(かげろう)のごとく、ドヨドヨと氷水に混ざってゆくのをボンヤリと眺めながら、幾度も幾度も同じ事を呟(つぶや)いていた。

 ここは狭苦しい六畳の俺のアパートではなく、幼なじみの綾(アヤ)ちゃんがチーママをやってる、上野の高級キャバレーの個室だ。

 この売れない物書き風情の俺なんぞが、どうしてこんなハイグレイドな空間で微睡(まどろ)んでいられるのか──。

 それは別段、運良く大金の入った財布を拾った訳でも、また、ここに気になるゾッコンの娘がいる訳でも、はたまた、この店が格別気に入ってるという訳でもナンでもなく、只、単に綾ちゃんのお陰でツケの催促がやかましくないという、それだけの事情によるのだった。

 俺は、とある月刊誌に陳腐で子供騙しな空想小説の連載を一本持っているのだが、目下のところ、所謂(いわゆる)スランプというヤツの真っ只中であり、遅々どころかまったく筆が進まず、こうして決して安くもない現実逃避に浸かっていた。

 「あら、トウジクン。もう酔っ払っちゃった?
 お酒ばかりじゃナンだし、中華料理でも取ろうか?」

 黄色いきらびやかなドレスの綾ちゃんが、ふわりとソファーへやって来て、俺のすぐ隣に腰かけ、脚を斜めにして揃えた。

 こいつは本人には決して、それこそ口が裂けても言えないが、俺は昔から綾ちゃんの細面な顔に似合わず、なんとも''でぶでぶふっくら''とした、この女らしい脚が大好きだった。

 俺はそれを何となく横目で見やりながら、マッチを摩(す)って安タバコに火を点(とも)した。

 「いや、このくらいじゃまだまだ序の口だよ。
 それよりさ、綾御前(あやごぜん)。お客のテーブルを廻るうちに、なにかこう、俺の創作欲を呼び覚ましそうな、そんなピリリと刺激的な話のひとつも拾わないものかね?」

 「えー?トウジクン、またスランプなのー?
 そうねぇ……。ンー……。うん、どこも似たり寄ったりで、みーんなくだらない愚痴ばっかりよ。
 お役に立てなくてゴメーン遊ばせ」

 「そうか。まぁキャバレーに飲みに来る客なんてえのは、なんの面白味もない、薄っぺらな勤め人がいいとこだよな。
 んま、かくいう俺も他人様のことをとやかく言える立場じゃあないがね」

 俺は自虐と煙とを吐いて、ガックリとうなだれた。

 「ああ、そうそう。面白い話といえば、この前、家のお祖父(じい)ちゃんがね、いよいよ老境になってしまったから、まだ気が確かなうちに、折り入ってトウジクンに話しておきたい事があるとかいってたわね」

 「ん?あー、影虎(かげとら)さんね。待てよ、老境って、あの人まだ六十幾つだろ?」

 「やだトウジクンたら、お祖父ちゃんは今年でもう七十三になるのよ?」

 「そっかそっかー、ンー俺も歳をとる訳だ。それよりさ、その折り入っての話ってのはなんだろね?」

 「うーん。私も気になったから訊いてみたんだけど、トウジクンとじゃなきゃダメだ、の一点張りなのよね。
 それでも私がしつこく訊いたら、なんでもー、お祖父ちゃんが若い頃にたった一度だけ''天使様''を見た事があって、しかもなぜだか、それとトウジクンが関係ある、みたいなことを言ってたわ。
 うん、なんともヘンテコな話だけど、あのお祖父ちゃんの目は本気だったなぁ。
 ウフフ、天使を見たーなんて、お祖父ちゃん、まさかもうボケちゃったのかなー?
 ま、そういうことだから、近いうちに……どしたの?トウジクン?そんなに怖い顔して」

 「綾御前。それだよ!」

 「えぇ?どれよ?」

 俺はソファーの背に投げていた上着を引っかけ、面食らう綾御前に無理矢理の早退を持ちかけると、一緒に連れ立って、広小路の大通りのM百貨店で一番高い羊羮(ようかん)を二本買い込み、それを抱えてすぐにタクシーを拾い、綾御前の自宅である長尾家へと急遽突撃することとなったのである。

 なにせ、原稿の〆切が迫っているこの俺には、火急に精神のカンフル剤が必要なのだ。


 ──さて、久し振りにお逢いした影虎のジイ様だが、確かに俺の記憶の中の血気盛んな日本男児という面影からは余りに遠く、遥か遠く変わり果てており、それはそれは悲しいほどに、まさしく老いさらばえていた。

 「うん?君は……おぉおぉ、もしや藤次君か?いや少し見ない間に、お嬢様のお孫殿もなんとも立派な大人になったものだね。
 はて……その藤次君が、こんな夜更けになんの御用かな?」

 あーあージイ様ときたら、すっかり声まで嗄(しゃが)れ果て、見事に老、衰(すい)としているじゃないか。

 このジイ様、若い時分には俺の祖母ちゃんの住んでた屋敷で執事のようなことをやっていたらしく、いまだに俺の祖母ちゃんのことを''お嬢様''と呼ぶのだ。
 まぁその豪邸も今はなく、その祖母ちゃんも他界して久しいがね。

 「あ、ども、ご無沙汰してます。あいえ、あのー、綾ちゃんからボクに関係した大事な話があるとか聞きまして──」

 ツルツル頭の枯れ木、いや影虎のジイ様は、はてと小首を傾げ、アゴの先の白髭を撫で付けた。

 「おぉ。そうだそうだ。私も老い先短い身なのでな、ひとつ君の出生に関わる昔話をしておこうとね、そうだそうだ、うん、少し前に綾に託(ことづ)け頼んでいたな」

 俺はジイ様の左手に握られたロザリオの黒い鎖を眺めて、いまだこのジイ様の信仰心だけは渇れ果ててはいないのだな、と思った。

 「ハイ。あ、いえ、何を気弱なことを仰有(おっしゃ)いますか。まだまだ長生きしてくださいよ」

 ジイ様は俺の常識的な返しを無視するように、ついと俺の背後を見上げ、そこの暖簾(のれん)をかき分けて入って来た愛する孫娘を迎えた。

 「おぉ。綾、お前もこっちに来て座りなさい」

 「あら?もう始まってるの?」

 すっかりと派手な化粧を洗い落とし、髪も下ろした綾御前が、お茶と羊羮を置きながら俺とジイ様とを代わる代わる見て言った。

 「いや、まだだよ。ほー、こいつは魔王堂の柿羊羮じゃないか。
 ほほほ、藤次君。こりゃまた随分と張り込んだものだな。うん、これは遠慮なくいただこう」

 フフフ、アンタがそれに目がないのは俺達の間じゃ、最早公認ですよ。

 「いえ、夜分にお邪魔したホンのお詫びの気持ちです。
 で、そのお話なんですが、一体どんな話なんですか?それにはボクの祖母も出てくるのでしょうか?」

 「うん、うん。出てくるというよりは主軸となる、が相応しいかな。
 では、前置きは無しにして申し伝えよう」

 「は、ハイ。それは助かります」

 俺はなんとはなしにメモ帳と万年筆を手に取り、向かいの痩せ細った老人の濃い影の落ちた顔を見つめた。

 「フフフ、トウジクンたら手帳なんか広げちゃってー、なんだか刑事さんか新聞記者みたいよ?」
 
 「ふふふ、宜しい。では、つつがなくお話申し上げよう。
 
 私が若かりし頃、君のお祖母様の家で働いていたというのは周知だね?
 そう、もう五十年以上も前になるな、そのある年のクリスマス・イヴのことだ。

 その聖なる前夜祭の夜、君の曽祖父にあたるご主人様は、師も走る年末のこと、生憎とご多忙であられ、無論、その日の夕食(ゆうげ)はご主人様のご帰宅を待ってからということで、時刻は優に21時を越えていた、か。

 私はディナーの七面鳥の丸焼きの火加減を確認すべく、それにナイフを当てようとしていた時だった。

 突然、階上の二階、お嬢様の部屋のある辺りから、不意に絹を裂くような悲鳴が聴こえたのだ。

 私はギョッとして、奥様と一緒に天井を見上げ、何事か!?と食堂を飛び出し、お嬢様の部屋へと向かった。

 君は知らないかもしれないが、当時のお嬢様は生まれつき脚が効かず、常に車椅子が欠かせぬ状態であったものだから、何かの拍子にお部屋で転んでしまわれ、どこかお怪我でもされたのでは?と一心にその身を案じたよ。

 あぁ、忘れもしない。あの時の私はどうしたものか、それとはまた別に、まさか賊でも侵入したかと用心の為にピストルなんぞを手に握りしめ、二階へと続くスロウプを駆けずり上がったのだ。

 そして奥様を後ろに、一目散にお嬢様の部屋のドアへと迫り、夢中でそこをノックしたのだ。

 だがね、その部屋からはラジオの音が漏れ聴こえて来るばかりで、肝心のお嬢様の声は聞こえてこない。

 そこで戸惑い、狼狽(うろた)えた私が奥様へと振り向くと、奥様は青い顔で
 《構いません!影虎!そこを開けなさい!》 と仰有られたので、私は一も二もなくそこを開き、ピストルをこう前方に構え、お嬢様の部屋の中へと突入飛び込んだのだ。

 すると、なんとそこには信じられない存在が降臨なされていたのだ」

 「はっ!?存在?降臨?居たのは賊ではなかったのですか?」

 ジイ様は大きく頷いて湯飲みに手を伸ばした。
 
 「ちょっと待ってよお祖父ちゃん。まさかそれが天使様だったっていうの?」

 「ああ、そうだよ」

 「天使って……あの天使ですか?」

 「ああ、そうだよ」

 「え?ちょっと待ってお祖父ちゃん。一体なにが言いたいの?
 あー、トウジクンのお祖母様の若い頃の姿が天使のように綺麗だったって、そういうこと?」

 「ふふふ」

 ジイ様は短く笑うと、膝をひとつ叩いてから立ち上がり、クルリと俺達に背を向けたかと思うと、スタスタと書斎の奥へと歩き、そこで一冊の本を手に取りすぐに帰ってきた。

 「あのね、お祖父ちゃん。トウジクンも暇だけど、あんまり暇じゃあないのよ?
 余りお祖父ちゃんの青春昔話に付き合わせちゃ気の毒、」

 影虎のジイ様は孫娘の苦言に耳を貸さず、手にした分厚い書籍を開き、その頁(ページ)の間に挟んでいた何かを、実に無造作に柿羊羮の隣に置き、グッと俺達へと押し出した。

 「えっ?なによ?コレ」

 自然、俺と綾御前はそれが何かと前のめる。

 「うん?写真、か」

 「まさか、コレがその天使様の写真だ、なんて言うんじゃないでしょーね?うわっ!コレ天使だっ!!」

 そう、その写真には見まごうことなき、いや、いっそ白々しいくらいの有翼の天使が、車椅子らしき物に腰掛けた美少女の肩へと片手をのせ、なんの意思表示か、こちらに向けて親指を立てて微笑(ほほえ)んでいたのである。

 だ、だが、こいつは──

 「……あのさ、お祖父ちゃん。えーっと、天使様ってこんなに豊満なモノなの?
 それに、なーんで眼帯してんのよ?」 

 やや鼻の下を伸ばし、この証拠の品を覗き込んでいた綾御前が、俺とまったく同じ感想を漏らした。
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