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122話 適度に楽しめない人もいる
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上位(ハイ)エルフが創ったという魔法の飴玉は、再生されて間もない真新しい舌の上で転がすと、ミント・ハッカ系の清涼感と、控えめで仄(ほの)かな甘さとがあった 。
(ユリアの述べた甘言(かんげん)につい誘われ、一も二もなく口に放り込んだはよいが、さてさて、こんなちっぽけな飴玉ひとつなどで、この魔王(俺)の強靭なる精神と肉体に何ほどの効果をもたらそうというのか?)
と、魔法飴を幾らか揶揄(やゆ)し、軽く蔑(さげす)みながらも、しっかりと期待をしているドラクロワであった。
そうして、起き抜けに昨晩の酔いが残っていないかを探るような目付きで左、次いで右とを睨んでいると、突然、視覚に変化が来た。
ドラクロワに見える景色、その目の前の女勇者達と、それらの背後の段々畑状のユニークな造りの酒場とが、突如、賽(さい)の目切りにされたように縦横に細かく切り刻まれ、その升目(ますめ)状となった一枚絵は、幾何学的に並んだガラスのキューブみたいになった。
そして、その均等かつ丁寧に切られた寒天みたいな立方体群は、其々(それぞれ)が好き勝手に、グリグリッと角度と色を変え始め、目にも鮮やかな色彩のモザイクを形成し、目まぐるしく色を変えて行くのだった。
ドラクロワは微笑を浮かべ「ウム。来たな」と小さく唸(うな)り、期待と好奇の目で眼前に展開される摩訶不思議なる視界ジャックを見つめ、それらの幻惑的(サイケデリック)な波が静まり、そこに異なる景色が描出されるのを待った。
そうして、ふと気付くと、なんとも座り心地のよい何かに座していた。
さて、彼の眼前に広がった光景だが、先(ま)ず見えたのは、真正面に大きな窓ガラスらしき物。
そして、その先の景色は、誠に形容し難き大きな物体が、その深海魚のような眼をこちらに向けて、黒い大地に整然と並んでいた。
このやや角度(アール)のついた、極めて透明度の高いガラス窓を眺めていたドラクロワだったが、それを透過して来る、刺すように強い日差しに美しい顔をしかめた。
どうやらここの時節は真夏。しかもその快晴の茹(う)だるような午後のようである。
魔族としてはこの陽光、実に有り難くない。
この閉塞・閉鎖的な空間は、ジリジリと射し込む陽光と息の詰まるような暑さが有った。
ドラクロワは、カーテンも鎧戸もない、この狭すぎる小屋のような室内を見渡し、その内装の造りの異様さと、見たこともない滑らかな建材とを熟視しながら撫で回し、そこから伝播された熱さを握り締め
「ウム。現時点では、これが幻覚なのか転移魔法による景観の変化なのかは判然とせんが、それにつけても何とも珍妙な建築様式であるな。
それに、魔界もかくやというような、茹(う)だるのうな暑さだ。
ウム。これはあれだ、所謂(いわゆる)、蒸し風呂のようだ」
確かにそこは、遠慮なしに吸気すると、鼻と喉の奥が熱く焼けるような、そんな猛烈な熱気が充満していた。
「だ……だ、れ?」
ドラクロワは、不意に後方から届いた、掠(かす)れた吐息のような、恐ろしく薄弱なる声に瞳を流し、逆巻く炎を漆黒に染め、それをそのまま流麗なる装飾としたような、禍々しい暗黒色の甲冑を鳴らしつつ、ゆっくりと振り向いた。
そうした魔王の紫の眼に映ったものとは、有人の座席だった。
たがそれは、彼自身が座している柔らかな一人用の椅子とは異なり、優に大人二人が腰掛けて寛(くつろ)げそうな程の長椅子ようなモノであり、そこの中央にちょこんと居たのは、おかっぱ頭の黒髪の小さな女児に見えた。
その幼い顔は蒼白となっており、焦点の定まらぬ両眼は虚ろであり、まるで風呂上がりのように、顔面、頭髪といわず、その全身が汗水漬(あせみず)くであった。
更によくよく観察すると、その小さな手の指は、その全てが第一関節から奇妙に曲がっており、かつ小刻みに痙攣していた。
つまり、この幼児からは、極度の脱水症状が見てとれたのである。
魔王は、それが亡霊などの類いではなく、ただの人間族の幼体であることを認めると、ツイと顔を前方に戻して、自分の座している直ぐ隣、そこの一人用の座席の前、そこに材質不明の黒い舵輪(だりん)の様な物が設置されているのを目に留(と)め、それに少なからぬ好奇を示し
「お前は、この小屋の住人か?」
と、ぶっきらぼうに後方に向けて問いかけた。
だが、そのちっぽけな女児からの返答はなかった。
ドラクロワは、特にそれを気にした風もなく、睨むように狭い室内を見回してから、ゆっくりと腕組みを解き、その左手の掌を眼前にかざし、それを拳にした。
すると忽(たちま)ち、シューッ!キチキチ、パキッパキッと大気が鳴って、握って折った白い指から拳骨(げんこつ)、暗黒甲冑の黒い手首、肘の順で、そこには真っ白い霜が噴き、スチームのごとき勢いで、ボウボウと冷気が吹き出したのである。
どうやらそこを中心にして、急激な空気の凍結が為されているようで、魔王の左腕から空気中の水分が、バシバシと音を立てつつ、光のふりかけ(ダイヤモンドダスト)として、キラキラと舞い踊った。
そうして狭い室内を占めていた苛烈なる熱い空気は、それこそ瞬く間に電子の動きを抑えられ、数瞬にして四方の窓は白く曇り、そこは凍(こご)えるほどに冷却させられたのであった。
こうして、超低温の氷魔法を発動・行使した魔王は、その効果に満足そうに独り首肯(しゅこう)し
「ウム。お前達民族は高温を好むのかも知れんが、俺には余りに暑苦しかったので、少し涼しくした。
ウム。いい具合に陽も陰ったし、まずまずといったところか。
しかし、お前達の家屋は変わっておるな。いや、これはもしや、陸路を移動する乗り物か?
だが、それにしては馬も牛も、これを牽(ひ)く畜獣の類いが見当たらんな。
では、このモノの動力とはなんだ?」
魔王は独り、ブツブツと呟(つぶや)いて、窓ガラスの霜を指で払い、物珍しげに外を覗いては物思いに耽(ふけ)っていた。が
「クシュッ!!」
という女児のくしゃみに、それを破られた。
「ん?どうした?急激なる冷却で汗が冷えたか?」
再び振り返って女児を見るが、後方の小さな住人は先程と同じく、そこに無造作に置かれた人形のごとく、座席にもたれて脱力し切ったままであった。
ドラクロワは、その深刻なる憔悴(しょうすい)具合を認めると、氷魔法を解除し、右腰辺りの深紅の蛇革のパウチを開け、逆巻く白波を想わせる飾り彫りが印象的な、掌サイズの角張った小瓶を取り出した。
そして無造作にその栓を抜き、女児の眼前へと突き出したのである。
衰弱しきった女児は、頬に当てられんばかりにして差し出されたその小瓶を、放心したような虚ろな目にぼんやりと映していたが、それに水が入っているのに気付くと、僅(わず)かに目蓋を上げ、それを、ユルユルと上げた震える左手で受け取ろうとした。
だが、その指は皆、痛々しく歪(いびつ)に曲がっているので上手くいかず、両手で挟むようにしてなんとか受け取った。
そして、その両手と同じく震える唇へと持って行き、その美術品のごとく綺麗な小瓶を傾けた。
初めは小さな口の両端から、ダラダラと溢(こぼ)すだけだったが、直ぐに、ゴクッゴクッと幼い喉が鳴るのが聴こえた。
女児はその水の美味さに覚醒したようで、突然、傾けていた瓶を逆さまにしてあおり始めた。
だが、直ぐに「ブバッ!!」と噎(む)せて咳き込み、小さな噴水と化した。
「フフフ……そう焦らずともよい、ゆっくりと飲め。その瓶は少々のことでは空にはならん。
何しろ小川を丸ごと一つ封じてあるからな。
しかし、お前達の部族はホトホト変わっておるな。
移動の最中(さなか)にも蒸し風呂を炊いて発汗と爽快を嗜(たしな)もうなどとはな。
フフフ……。俺も熱い湯と蒸し風呂は嫌いではない。だが、流石にこの発想はなかったな。
ウム。これを参考に、カミラーの馬車にもひとつ配備させるか?
ならばお前としては、闖入者(ちんにゅうしゃ)のこの俺に勝手に冷却をされ、さぞや不満であろうな?
フフ、俺はこの土地は初めてでな。お前達の習俗を知らなんだ。まぁ許せ許せ。
それより、この蒸し風呂車には幼いお前一人なのか?」
それに応えぬ後方の女児は、未だ力なく壁にもたれていた。
少しして、また魔法の水瓶から飲み、学習能力がないのか、それをまた逆さまにしては吹き出し、ドラクロワの隣の舵輪席の背を濡らす。
ドラクロワは再度パウチから何かを取り出して、女児の短いズボンの膝上に投げてやる。
それは押し固められた角砂糖のようなもので、ダルそうにした女児はぼんやりとそれに目を落とした。
「ウム。察するに、お前は親の監視もなく、限界までこの蒸し風呂車に入っておったようだな。
ただの水ばかりでは力が入らんであろう。その塩も水と併(あわ)せて喰らうがよい」
すると、後ろでは女児がそれを拾うような気配が動いて
「わっ。しょっぱい。な、何これ?
あーっ!ドンドン水が出てる!?わぁっなんで!?どーして!?
わわっ!汚したらママに怒られちゃう!
ヘキシッ!」
女児は、やっとまともな声を上げ、舵輪側の座席の裏をその小さな掌を雑巾がわりにして、必死の形相で撫で回しているようだった。
「ウム。少しは動けるようになったか。
幼児よ。お前の父親でも母親でも構わん。一体、そいつらは何処に居(お)る?
俺はこの飴が溶け切る前に、助力を求める弱き者を救わねばならんのだ。
お前達は今現在、一体、何に窮(きゅう)しておるのだ?」
訊(き)きながら顔を上げると、そこに小さな鏡が固定されているのに気付いたので、それを介して女児に問う。
しかし、そこに映る小さな影は、床に落とした小瓶から止めどなく水が湧き出すのにパニックになっており、必死でその水溜まりに手を突っ込んでそれを拾い上げ、何かを呟(つぶや)きながら、その美麗なる小瓶をドラクロワに差し出すようにして返してきた。
ドラクロワは無言でそれを受け取って、その先に栓をしながら
「ウム。少し話せるようになったようだな。だが、お前の話す言葉。どう聴いても大陸の共通語ではないな。
やれやれ。十年に一度の好機とやらが、ろくすっぽ意思の疎通も出来ん、希少民族の幼児との邂逅(かいこう)とはな……。
この魔法飴とやらの気まぐれさ加減には参った。
これでは一向に英雄に成れんではないか」
魔王は困り果て、前方の曇りガラスを眺め
「では外に出て、お前の親を探すか。
おい、幼児よ。この気密性の高い扉はどうやって開けるのだ?
握りも閂(かんぬき)も見当たらぬ。何かしらの魔法でもって解錠するのか?」
鏡の曇りを指で払って見上げるが、そこに映る女児は、ただただ水浸しの床を見下ろして小さな頭を抱え、オロオロと当惑・困惑するばかりで、そんな声などは届いていなかった。
ドラクロワは、上位(ハイ)エルフの飴玉の効能に相当の期待をしていたようだが、未だ一つの賛辞も与えられず、その飴玉は口内にて確実に小さくなっていくばかりであった。
「ウム。この幼児と幾ばくか話をして、この不可思議な言語体系を理解してやり、然(しか)る後に会話をしてやれん事もない。
だが、それではこの飴が消え失せてしまうな……。
ええい、儘(まま)ならぬものよ……。
ウム。ま、なんだ、あの三色馬鹿娘達の持ってくるものなどは、所詮はこんな程度が精々のモノだったということか……。
ウム。期待した俺がバカだったな」
白い手で無念・諦念(ていねん)の顔の額を押さえたところで、ふと暗黒色のブーツの足裏に何かの違和感を感じたので、そこに目をやり、摘まんで拾い上げると、それは小さな鉄の玉であった。
魔王はそれを見ている内に、なんだか全てが急速に馬鹿馬鹿しくなってきたので、苛立ち紛(まぎ)れに口内の飴玉を、ガリガリと噛み砕いて飲み込んだ。
すると、この場に顕(あらわ)れた時と同じく、目に映る景色が賽(さい)の目切りに刻まれ、それは無数のガラスのキューブみたいなモザイクを為し、目まぐるしく色彩を変えつつ、数瞬で「水蜜桃」の景色を描き出した。
そして、見慣れた忌々しき女勇者達を映し出したのである。
首をかしげてこちらを見ている、陽に焼けた顔に黒革の眼帯をした美しい女が
「アララ……。ドラクロワったら、スッゴい勢いで口に入れたねぇ。
ねねね?それってどんな味?甘いの?辛いの?すっぱいの?
それとさ、何か変わった感じとかしてきたかい?」
と無遠慮に感想を求めてきた。
ドラクロワは左手の掌を軽く握って、揃えた紫の爪を眺め、その親指で中指の爪を擦り、ハッカで涼しくなった口内から冷たいタメ息を吐き出すと、あれこれと説明するのも面倒になったので
「ウム。やはり、既に英雄の俺にはなんの効果もないようだな」
と言って、左拳に包まれた先程拾った銀色の玉を、今しがた飲み込んだ魔法の飴玉の代わりに、手前のミニチュア宝箱の台座に置いた。
その鉄の玉は、ツルリとした無表情でありつつも、そこで何処(どこ)と無く誇らしげに輝いているように見えた。
が、魔王は幻滅したように鼻を鳴らし、直ぐにその蓋を閉じた。
(ユリアの述べた甘言(かんげん)につい誘われ、一も二もなく口に放り込んだはよいが、さてさて、こんなちっぽけな飴玉ひとつなどで、この魔王(俺)の強靭なる精神と肉体に何ほどの効果をもたらそうというのか?)
と、魔法飴を幾らか揶揄(やゆ)し、軽く蔑(さげす)みながらも、しっかりと期待をしているドラクロワであった。
そうして、起き抜けに昨晩の酔いが残っていないかを探るような目付きで左、次いで右とを睨んでいると、突然、視覚に変化が来た。
ドラクロワに見える景色、その目の前の女勇者達と、それらの背後の段々畑状のユニークな造りの酒場とが、突如、賽(さい)の目切りにされたように縦横に細かく切り刻まれ、その升目(ますめ)状となった一枚絵は、幾何学的に並んだガラスのキューブみたいになった。
そして、その均等かつ丁寧に切られた寒天みたいな立方体群は、其々(それぞれ)が好き勝手に、グリグリッと角度と色を変え始め、目にも鮮やかな色彩のモザイクを形成し、目まぐるしく色を変えて行くのだった。
ドラクロワは微笑を浮かべ「ウム。来たな」と小さく唸(うな)り、期待と好奇の目で眼前に展開される摩訶不思議なる視界ジャックを見つめ、それらの幻惑的(サイケデリック)な波が静まり、そこに異なる景色が描出されるのを待った。
そうして、ふと気付くと、なんとも座り心地のよい何かに座していた。
さて、彼の眼前に広がった光景だが、先(ま)ず見えたのは、真正面に大きな窓ガラスらしき物。
そして、その先の景色は、誠に形容し難き大きな物体が、その深海魚のような眼をこちらに向けて、黒い大地に整然と並んでいた。
このやや角度(アール)のついた、極めて透明度の高いガラス窓を眺めていたドラクロワだったが、それを透過して来る、刺すように強い日差しに美しい顔をしかめた。
どうやらここの時節は真夏。しかもその快晴の茹(う)だるような午後のようである。
魔族としてはこの陽光、実に有り難くない。
この閉塞・閉鎖的な空間は、ジリジリと射し込む陽光と息の詰まるような暑さが有った。
ドラクロワは、カーテンも鎧戸もない、この狭すぎる小屋のような室内を見渡し、その内装の造りの異様さと、見たこともない滑らかな建材とを熟視しながら撫で回し、そこから伝播された熱さを握り締め
「ウム。現時点では、これが幻覚なのか転移魔法による景観の変化なのかは判然とせんが、それにつけても何とも珍妙な建築様式であるな。
それに、魔界もかくやというような、茹(う)だるのうな暑さだ。
ウム。これはあれだ、所謂(いわゆる)、蒸し風呂のようだ」
確かにそこは、遠慮なしに吸気すると、鼻と喉の奥が熱く焼けるような、そんな猛烈な熱気が充満していた。
「だ……だ、れ?」
ドラクロワは、不意に後方から届いた、掠(かす)れた吐息のような、恐ろしく薄弱なる声に瞳を流し、逆巻く炎を漆黒に染め、それをそのまま流麗なる装飾としたような、禍々しい暗黒色の甲冑を鳴らしつつ、ゆっくりと振り向いた。
そうした魔王の紫の眼に映ったものとは、有人の座席だった。
たがそれは、彼自身が座している柔らかな一人用の椅子とは異なり、優に大人二人が腰掛けて寛(くつろ)げそうな程の長椅子ようなモノであり、そこの中央にちょこんと居たのは、おかっぱ頭の黒髪の小さな女児に見えた。
その幼い顔は蒼白となっており、焦点の定まらぬ両眼は虚ろであり、まるで風呂上がりのように、顔面、頭髪といわず、その全身が汗水漬(あせみず)くであった。
更によくよく観察すると、その小さな手の指は、その全てが第一関節から奇妙に曲がっており、かつ小刻みに痙攣していた。
つまり、この幼児からは、極度の脱水症状が見てとれたのである。
魔王は、それが亡霊などの類いではなく、ただの人間族の幼体であることを認めると、ツイと顔を前方に戻して、自分の座している直ぐ隣、そこの一人用の座席の前、そこに材質不明の黒い舵輪(だりん)の様な物が設置されているのを目に留(と)め、それに少なからぬ好奇を示し
「お前は、この小屋の住人か?」
と、ぶっきらぼうに後方に向けて問いかけた。
だが、そのちっぽけな女児からの返答はなかった。
ドラクロワは、特にそれを気にした風もなく、睨むように狭い室内を見回してから、ゆっくりと腕組みを解き、その左手の掌を眼前にかざし、それを拳にした。
すると忽(たちま)ち、シューッ!キチキチ、パキッパキッと大気が鳴って、握って折った白い指から拳骨(げんこつ)、暗黒甲冑の黒い手首、肘の順で、そこには真っ白い霜が噴き、スチームのごとき勢いで、ボウボウと冷気が吹き出したのである。
どうやらそこを中心にして、急激な空気の凍結が為されているようで、魔王の左腕から空気中の水分が、バシバシと音を立てつつ、光のふりかけ(ダイヤモンドダスト)として、キラキラと舞い踊った。
そうして狭い室内を占めていた苛烈なる熱い空気は、それこそ瞬く間に電子の動きを抑えられ、数瞬にして四方の窓は白く曇り、そこは凍(こご)えるほどに冷却させられたのであった。
こうして、超低温の氷魔法を発動・行使した魔王は、その効果に満足そうに独り首肯(しゅこう)し
「ウム。お前達民族は高温を好むのかも知れんが、俺には余りに暑苦しかったので、少し涼しくした。
ウム。いい具合に陽も陰ったし、まずまずといったところか。
しかし、お前達の家屋は変わっておるな。いや、これはもしや、陸路を移動する乗り物か?
だが、それにしては馬も牛も、これを牽(ひ)く畜獣の類いが見当たらんな。
では、このモノの動力とはなんだ?」
魔王は独り、ブツブツと呟(つぶや)いて、窓ガラスの霜を指で払い、物珍しげに外を覗いては物思いに耽(ふけ)っていた。が
「クシュッ!!」
という女児のくしゃみに、それを破られた。
「ん?どうした?急激なる冷却で汗が冷えたか?」
再び振り返って女児を見るが、後方の小さな住人は先程と同じく、そこに無造作に置かれた人形のごとく、座席にもたれて脱力し切ったままであった。
ドラクロワは、その深刻なる憔悴(しょうすい)具合を認めると、氷魔法を解除し、右腰辺りの深紅の蛇革のパウチを開け、逆巻く白波を想わせる飾り彫りが印象的な、掌サイズの角張った小瓶を取り出した。
そして無造作にその栓を抜き、女児の眼前へと突き出したのである。
衰弱しきった女児は、頬に当てられんばかりにして差し出されたその小瓶を、放心したような虚ろな目にぼんやりと映していたが、それに水が入っているのに気付くと、僅(わず)かに目蓋を上げ、それを、ユルユルと上げた震える左手で受け取ろうとした。
だが、その指は皆、痛々しく歪(いびつ)に曲がっているので上手くいかず、両手で挟むようにしてなんとか受け取った。
そして、その両手と同じく震える唇へと持って行き、その美術品のごとく綺麗な小瓶を傾けた。
初めは小さな口の両端から、ダラダラと溢(こぼ)すだけだったが、直ぐに、ゴクッゴクッと幼い喉が鳴るのが聴こえた。
女児はその水の美味さに覚醒したようで、突然、傾けていた瓶を逆さまにしてあおり始めた。
だが、直ぐに「ブバッ!!」と噎(む)せて咳き込み、小さな噴水と化した。
「フフフ……そう焦らずともよい、ゆっくりと飲め。その瓶は少々のことでは空にはならん。
何しろ小川を丸ごと一つ封じてあるからな。
しかし、お前達の部族はホトホト変わっておるな。
移動の最中(さなか)にも蒸し風呂を炊いて発汗と爽快を嗜(たしな)もうなどとはな。
フフフ……。俺も熱い湯と蒸し風呂は嫌いではない。だが、流石にこの発想はなかったな。
ウム。これを参考に、カミラーの馬車にもひとつ配備させるか?
ならばお前としては、闖入者(ちんにゅうしゃ)のこの俺に勝手に冷却をされ、さぞや不満であろうな?
フフ、俺はこの土地は初めてでな。お前達の習俗を知らなんだ。まぁ許せ許せ。
それより、この蒸し風呂車には幼いお前一人なのか?」
それに応えぬ後方の女児は、未だ力なく壁にもたれていた。
少しして、また魔法の水瓶から飲み、学習能力がないのか、それをまた逆さまにしては吹き出し、ドラクロワの隣の舵輪席の背を濡らす。
ドラクロワは再度パウチから何かを取り出して、女児の短いズボンの膝上に投げてやる。
それは押し固められた角砂糖のようなもので、ダルそうにした女児はぼんやりとそれに目を落とした。
「ウム。察するに、お前は親の監視もなく、限界までこの蒸し風呂車に入っておったようだな。
ただの水ばかりでは力が入らんであろう。その塩も水と併(あわ)せて喰らうがよい」
すると、後ろでは女児がそれを拾うような気配が動いて
「わっ。しょっぱい。な、何これ?
あーっ!ドンドン水が出てる!?わぁっなんで!?どーして!?
わわっ!汚したらママに怒られちゃう!
ヘキシッ!」
女児は、やっとまともな声を上げ、舵輪側の座席の裏をその小さな掌を雑巾がわりにして、必死の形相で撫で回しているようだった。
「ウム。少しは動けるようになったか。
幼児よ。お前の父親でも母親でも構わん。一体、そいつらは何処に居(お)る?
俺はこの飴が溶け切る前に、助力を求める弱き者を救わねばならんのだ。
お前達は今現在、一体、何に窮(きゅう)しておるのだ?」
訊(き)きながら顔を上げると、そこに小さな鏡が固定されているのに気付いたので、それを介して女児に問う。
しかし、そこに映る小さな影は、床に落とした小瓶から止めどなく水が湧き出すのにパニックになっており、必死でその水溜まりに手を突っ込んでそれを拾い上げ、何かを呟(つぶや)きながら、その美麗なる小瓶をドラクロワに差し出すようにして返してきた。
ドラクロワは無言でそれを受け取って、その先に栓をしながら
「ウム。少し話せるようになったようだな。だが、お前の話す言葉。どう聴いても大陸の共通語ではないな。
やれやれ。十年に一度の好機とやらが、ろくすっぽ意思の疎通も出来ん、希少民族の幼児との邂逅(かいこう)とはな……。
この魔法飴とやらの気まぐれさ加減には参った。
これでは一向に英雄に成れんではないか」
魔王は困り果て、前方の曇りガラスを眺め
「では外に出て、お前の親を探すか。
おい、幼児よ。この気密性の高い扉はどうやって開けるのだ?
握りも閂(かんぬき)も見当たらぬ。何かしらの魔法でもって解錠するのか?」
鏡の曇りを指で払って見上げるが、そこに映る女児は、ただただ水浸しの床を見下ろして小さな頭を抱え、オロオロと当惑・困惑するばかりで、そんな声などは届いていなかった。
ドラクロワは、上位(ハイ)エルフの飴玉の効能に相当の期待をしていたようだが、未だ一つの賛辞も与えられず、その飴玉は口内にて確実に小さくなっていくばかりであった。
「ウム。この幼児と幾ばくか話をして、この不可思議な言語体系を理解してやり、然(しか)る後に会話をしてやれん事もない。
だが、それではこの飴が消え失せてしまうな……。
ええい、儘(まま)ならぬものよ……。
ウム。ま、なんだ、あの三色馬鹿娘達の持ってくるものなどは、所詮はこんな程度が精々のモノだったということか……。
ウム。期待した俺がバカだったな」
白い手で無念・諦念(ていねん)の顔の額を押さえたところで、ふと暗黒色のブーツの足裏に何かの違和感を感じたので、そこに目をやり、摘まんで拾い上げると、それは小さな鉄の玉であった。
魔王はそれを見ている内に、なんだか全てが急速に馬鹿馬鹿しくなってきたので、苛立ち紛(まぎ)れに口内の飴玉を、ガリガリと噛み砕いて飲み込んだ。
すると、この場に顕(あらわ)れた時と同じく、目に映る景色が賽(さい)の目切りに刻まれ、それは無数のガラスのキューブみたいなモザイクを為し、目まぐるしく色彩を変えつつ、数瞬で「水蜜桃」の景色を描き出した。
そして、見慣れた忌々しき女勇者達を映し出したのである。
首をかしげてこちらを見ている、陽に焼けた顔に黒革の眼帯をした美しい女が
「アララ……。ドラクロワったら、スッゴい勢いで口に入れたねぇ。
ねねね?それってどんな味?甘いの?辛いの?すっぱいの?
それとさ、何か変わった感じとかしてきたかい?」
と無遠慮に感想を求めてきた。
ドラクロワは左手の掌を軽く握って、揃えた紫の爪を眺め、その親指で中指の爪を擦り、ハッカで涼しくなった口内から冷たいタメ息を吐き出すと、あれこれと説明するのも面倒になったので
「ウム。やはり、既に英雄の俺にはなんの効果もないようだな」
と言って、左拳に包まれた先程拾った銀色の玉を、今しがた飲み込んだ魔法の飴玉の代わりに、手前のミニチュア宝箱の台座に置いた。
その鉄の玉は、ツルリとした無表情でありつつも、そこで何処(どこ)と無く誇らしげに輝いているように見えた。
が、魔王は幻滅したように鼻を鳴らし、直ぐにその蓋を閉じた。
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