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◆ 参拾弐 ◆
しおりを挟む掌の花弁を指でつぅと撫でる。
美しい女の爪にも似たその花弁は、滑らかでしっとりとした手触りをしている。
「そんな無理して咲かなくなっていいのに」
頑是無い子供のような口調で弥生は吐き出した。
「咲けなかったなら、無理して咲かなくたっていいじゃないですか。どうして誰も彼も、花だ、盛りだって囃し立てては騒ぐんでしょう」
それは桜のことを語っていると同時に、違うものへと向けられた不満だ。
きっと、弥生が桜の花とそれを見る人たちの賑わいが苦手な、根本的な理由。
笑え、楽しめ、幸せになれ、悪気なんて欠片もなしに世間はそう強要してくる。くよくよするな、前を向け、まだ若いんだから……。
若い娘ならなにも考えずに恋や現の楽しみに浮かれて花の盛りを謳歌しろとでもいうのだろうか。
別にいいじゃないか。前を向けなくたって、立ち止まったって。
どうして誰も放っておいてはくれないんだろう_________。
弥生が感じている全てが伝わったわけではないだろうが、その不満が花のことだけを指しているわけではないことは感じ取ったようだ。
幼子を宥めるような優しい眼差しで慎之介は困った笑みを浮かべた。
「そうですね。花を美しいと感じ、愛でるために咲き誇るのを望むのは人の勝手だ」
伸ばされた指が弥生の髪に触れた。
どうやら花弁が髪にくっついていたらしい。慎之介の指先から離れたそれはひらひらと地面に舞った。
「だけど、花はただ咲きたいだけなんじゃないですかね」
「え?」
「きっと人がどう思うかなんて関係ないんですよ。花が咲いたり散ったりするのを人は勝手に喜んだり残念がったりするけど、そんなこと関係なしに花は生命の本能に従ってるだけなんじゃないかなぁ」
にっこりと笑って慎之介は弥生の手元を指した。
「食事時じゃなくったって腹が減っていたらなにか食べるし、八つ時でなくとも美味しいものは食べたくなるでしょう?きっとそれと同じです。周りなんて関係ない、あの桜にとってはやっと咲ける準備が整ったから花開いた。それだけのことなんだと思います」
桜の時期はまだ花冷えなんていってなんだかんだで寒いですしね、となんでもない顔で口にするその横顔を弥生はちょっとの間ただ見つめていた。
ただ咲きたいから咲いただけ。
考えてもみないことだった。
そうなのかもしれない。艶やかな花姿に人が浮かれようと花にとっては関係ないのと同じように、狂い咲きなんて……と哀れむ弥生の気持ちだって花にとっては無意味なものだ。
薫風が掌の花弁をそよそよと攫っていった。
若葉の間を吹き抜けた風は代わりに爽やかな新緑の香りを漂わせて過ぎていく。
「神社、ここからすぐなんですか?」
そっと一瞬だけ瞼を伏せ、眸を開いた弥生は聞いた。
「案内してもらえます?見てみたいです、狂い咲きの桜」
寂れた神社の裏手にその樹はあった。
慎之介が言っていた通り、あまり日当たりはよくなさそうだ。敷地の脇にある石には苔むしているところもある。
たった一本だけ咲いた桜。
そう太くもない、だけどしっかりと地面に根差した樹だった。
石畳を踏みつつその樹に近づく。
風に枝葉がざぁっと揺れた。
周りの深緑の木々が葉を揺らし、桜の古木が舞いあげるように薄紅の雨を降らす。
青空に鮮やかな緑が眩しかった。
まるで幻想みたいに薄紅の花弁がひらひらと舞い踊る。
「……奇麗」
無意識にそう呟いていた。
弥生の髪にも、差し出した両の手のうえにもそれはひらひらと舞い降りる。
あの娘に似た薄紅がそっと頬を撫でるように。
その光景は、胸が痛くなるほどに奇麗だった。
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