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◆ 参拾壱 ◆
しおりを挟むそれでも、胸が痛い。
胸に広がる甘い疼きにも似た痛みに弥生はいつしか泣いていた。
涙なんてあの日とっくに枯れ果てたものだと思っていた。
顔を覆った両の手を濡らすそれに弥生自身が驚いた。だけど弥生よりも驚き慌てたのは突然に目の前の相手に泣き出された慎之介の方だった。
「や、弥生さん?どうしたのです?!どこか痛いのですか……それとも俺が気に障ることでも言ったから……」
中途半端に手を伸ばし、おろおろと彷徨わせる。
通りがかった二人組が「おや、痴話喧嘩かい?」「兄さん、女を泣かしちゃ駄目じゃないか」と冷やかすがそれに構う余裕もない。
「……きです」
「え?なんですか?」
聞き返してくる慎之介に「平気です」と泣きながらまるで説得力のないことを言った。
「すぐ、泣き止みます。ちょっと辛いことを想い出しちゃっただけだから……もう少しだけ、待ってください」
幾人かの通行人にじろじろと視線を向けられながら二人はその場に立ち尽くした。
やがて言葉の通りに涙は止まり、化粧が崩れない程度にぐいっと袖口で目元を拭う。
「ご迷惑をおかけしました」
「い、いえ」
自分でしておきながらしゃちほこばったやり取りが可笑しくて笑いが漏れた。弥生の笑みに慎之介もほっとした笑みを浮かべる。それがまた可笑しくて笑った。
頭を掻いた慎之介は場所を確認するようにきょろきょろと辺りを見渡す。
「少しお茶をしていきませんか?あっちに美味しいわらび餅を出す店があるんです」
喉も乾いていたから、弥生は素直に頷いた。
道すがら、慎之介は泣き出した理由を尋ねてはこなかった。
「なにも聞かないんですか?」
「気にはなりますよ。でも話したくなければ言わないで構いません」
複雑な気持ちで弥生はちょっと唇を突き出した。
言いたくはないし、だけど聞かれないのはそれはそれで面白くないような気もする。
床机に座って茶とわらび餅を頼んだ。
立っている間は感じなかったけど、座った途端に少しだけ足に疲れを感じた。
可愛らしい見世の娘が並べた茶を飲み、わらび餅を口にする。ぷるぷるとした絶妙な柔らかさと黒蜜の甘さが広がった。きな粉の風味も香ばしい。
「美味しいでしょう?」
にっこりと笑みを向けてくる慎之介に、表情に感情がただ漏れだったことに気付いて恥ずかしくなる。
もう一つ口に運んだ。美味しさに自然と頬が綻ぶ。
子どもなら皿に残った蜜までぺろりと舐め取ってしまいそうな美味しさだ。
そう思ったところでまた心の声を読んだように声をかけられた。
「お土産も販売してますよ」
皿の上のわらび餅をじっと見下ろす。
おりんお嬢さんもきっと喜ぶし、ゆきちゃんにもお土産のお返しをしてない。
買っていこうと決めたところで慎之介が手をあげて見世の娘を呼んだ。お土産を注文して、「おかわりもいりますか?」笑いながら問いかけられたそれにはちょっと迷ってから結局頷いた。
二杯目の小皿にとりかかる弥生の横で、慎之介はお茶のおかわりだけを頼みゆっくりと口をつけていた。
風が舞った。
青空を背景にひらひらと舞う薄紅の花弁。
数枚が弥生たちの座る床机のうえにも舞い落ちる。
「……桜?こんな時期に?」
頼りないほどに儚い花弁を摘み上げ、まじまじと見る。
ああ、と納得した声をあげて慎之介は少し首を捻って斜め後ろを振り返った。
「やっと咲いたんですね。あっちの神社の裏手に桜の古木があるんです。日当たりが悪くて花の盛りの頃には一向に咲く気配もなかったんですけどね。前回通りがかったときにやっと蕾が顔を出してたからそこから飛んできたんでしょう」
「今頃……ですか?」
もう葉桜だってとうに過ぎた時期だ。
「狂い咲き、っていうんだそうですよ。季節を違えて咲いてるんです。一般には時期より早く咲くのをそう呼ぶことが多いそうですけど」
狂い咲き……。
不穏にも聞こえるその響きが妙に胸に残った。
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