桜花 ~いまも記憶に舞い散るは、かくも愛しき薄紅の君~

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◆ 弐拾 ◆

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そうこうする内に日も暮れてきた。
これ以上はどうしようもない。

一度帰ろうと駕籠屋かごやを教わって夕暮れの中を歩き出したところで、がくりと膝から力が抜けた。
自分の身体を支えられずに崩れるように膝をつく。
脇腹の辺りが燃えるように痛い。

「おいっ、どうしたっ?!」

「ちょっとお嬢さん、どうしたんだい?」

慌てた声がいくつも響き、駆け寄った一人に身を起こされるが弥生は痛みでそれどころじゃなかった。言葉も出せずに口からは苦悶の声だけが漏れる。

痛い、痛い、痛い、痛い。

まるで刺されたように脇腹が痛くて堪らない。

ぎゅっと瞳を閉じる。視界が闇に満ちた。
いつものあの声が、「殺せ」「殺してしまえ」という怨嗟に満ちた声が聞こえてきそうで弥生は無理矢理に目を開いた。

ぼんやりと景色が動く。
驚く人々の顔から燃えるような夕暮れに目に映る景色が変わる。
誰かに抱き上げられたようだ。近場の家の屋内にそっと降ろされる。
「医者だ!」「お水を飲めるかい?」矢継ぎ早に声が響く。
身体をくの字に曲げながら痛みに呻いた。頬を背を、汗が伝う。まなじりからは涙が零れた。

身を丸めながら無意識に伸ばした腕。
その指は、誰に届くこともなく畳の上にぽとりと落ちた。

数分すると痛みは消えた。
手妻みたいにすうっと消えた痛みに弥生自身も困惑しながら身体を起こす。疲労感は強くすごくふらふらしたが、それでも痛みは完全に消えていた。

「まだ休んでいた方がいいよ」

親切に声をかけてくれる申し出に首を振り、集まった人々に「もう大丈夫です。ご迷惑をおかけしました」と頭を下げる。その拍子にまたふらっとした。
すぐ脇に座った女がそんな弥生を支えながら湯冷ましの入った湯のみを差し出してくれた。

「ほら、どこが大丈夫なんだい。そんなに青い顔をしてさ。お飲み」

こくこくと飲み下せば柔らかな熱が胃の腑に広がる。
人心地ついてほっと息を吐き出した。

「本当に大丈夫です。それに……もう帰らないと日が落ちてしまいます」

心配顔の長屋の住人らは何度も「本当に平気かい?お医者さまはいいのかい?」と確認したあと、駕籠屋かごやへ使いをだして駕籠かごかきを呼んでくれた。

一刻も早く帰りたかった。
何故かはわからないけど気が急いていた。

もどかしい想いで痛みのあった脇腹を押さえる。触れてもいまはなんともない。


どれくらい経っただろう。

不吉な音が聞こえた。
かき鳴らすような半鐘の固い音色、火事を告げる不吉な音だ。
しかもそれはどんどん大きく近くなる。

これ以上は近づけない、そう告げる駕籠かごかきに謝礼を渡し、止める声も無視して転げるように弥生は走った。

いまや闇に浮かび上がる紅蓮の舌は弥生の目にも明らかだった。
逃げまどう人々の流れに逆らいただ走る。

そして目の前には、
巨大で悍ましい生き物の舌に蹂躙され、飲み込まれつつある柳屋の姿があった。

怒号と悲鳴の中、ひらひらと火の粉が舞う。
夜に火を灯したかのようなその様は、いっそ美しくさえあった。

むっとした熱気が炎のただなかでない弥生の肌を舐める。
飛んできた火の粉が一つ、弥生の腕に散った。

「……っ!」

その熱で弥生のもとに現実が帰ってきた。

火消したちによって打ち壊される壁や建物。
野次馬に紛れて火傷を負った者がちらほらと居た。
慌ただしく周囲を見渡す。

美桜は?美桜は何処に?

人にぶつかりながら視線を彷徨さまよわす弥生の目に見知った姿が映った。
周囲の人に取り囲まれながら力なく座り込むかえでに駆け寄った。

「かえでさ……」

呼び掛ける声は途中で止まった。
かえでは顔や手足に火傷を負っており、すすで黒く汚れていた。
声に気付いたのか、かえでが緩慢に首をあげる。
男が一人、かえでを起こそうと手をかけていたがかえでにはその気力もなさそうだった。放心したようにぼんやりとした目をしている。

「お嬢さまは?お嬢さまはご無事なんですよね?」

問いに、かえでは緩く首を振った。


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