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◆ 拾漆 ◆

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ほっとしたようにゆきの表情がわずかに綻ぶ。
彼女特有の、優しい、目尻を下げた笑い方。

「けどね、弥生ちゃん。おとっつあんやおっかさんの方が絶対的に正しかったことがあるの。働いて、おおあしを稼いで、おまんま食べて寝て。そういう暮らしを手放しちゃいけないんだよ。どんなときでも食べて、寝て、それをおろそかにしちゃいけないの」

冷えた指がそっと弥生の目の下を撫でた。

別嬪べっぴんさんが台無し。だめだよ。弥生ちゃんは影の看板娘なんだから」

いつもより濃い目の化粧で隠したつもりが目の下のくまは見抜かれていたらしい。

冗談めかして笑うゆきに弥生もつられて微かに笑った。
弥生の顔から離した手でさっと袂を探り、ゆきが小さな袋を差し出した。

「はい、お土産。朝に渡しそびれちゃったから」

白地に薄紅の桜模様の匂い袋だった。
控え目な色味と柄がゆきらしい可愛らしい巾着だ。

「そんな……わたし、なにも買ってきてないのに」

梅見では主人夫婦に頼まれたお土産とお菓子は買ってきたが、ゆき個人に対するものは買ってきていない。
自分の気の利かなさに気後れする弥生にゆきは匂い袋を押し付けた。

「いいって。あたしが買いたくて買っただけだもん。ごめんね、弥生ちゃんが桜、苦手って知らなかったから」

「ううん。可愛いし嬉しい。ありがとう」

「へへ、よかった。あのね、お揃いなの」

そういってゆきは袂から自分の分の匂い袋を取り出してみせた。
同じ柄で巾着の紐の部分だけ色が違う。弥生のは濃い紅でゆきのはそれより薄い桃色だ。

またあとでね、そう言って店の方へ戻っていくゆきの背を見送り、そっと匂い袋を持ち上げた。
柔らかで、甘くすがしい香りがふわりと鼻孔をくすぐる。目を閉じて香りを味わい、そっと袂にそれを落とした。



桜の季節は少し苦手だ。

それは昔からそうだった。
満開に咲き乱れる花も、可憐に舞い散る花弁も美しいとは思う。

一本、二本ならばまだ構わない。
だけど並木の花々が我が世の春とばかりに爛漫らんまんに咲き乱れるその様を、喧騒に溺れる人々を見るとどうしても場違いな気分を感じてしまうのだ。
同じ理由で祭りや華やかな場所もあまり得意でない。

それが顕著けんちょになったのは自分の生まれを知ったとき。
おつたは弥生の生家や両親のことは頑なに口にはしなかったが、殺されかけ、捨てられた子だと知ったあの日も桜の季節だった。

そして_________弥生の名が示す通り、生まれ、殺されかけたそのときも。

美桜と出会い、薄紅の桜のようだったあの娘を喪って。
桜という樹は一層深くにに弥生の中で根を下ろしてしまった。

ひらひらと舞い散る桜の花弁を見るたびに益体もない色んなことが頭をよぎる。
想い出してしまう。考えてしまう。心が騒めく。

だから、この時期はとりわけ多くあの夢を見る。何度も何度も見続けたあの夢を。お陰で最近は少し寝不足気味だ。

今夜は枕元にあの匂い袋を置いてみようか。
柔らかな甘くすがしい香りが夢を追い払ってくれるだろうか、それとも桜模様に喚起されまた夢を見るだろうか。

どちらでもいい。

夢を、記憶を連れてくる薄紅の花弁が苦手であっても嫌いじゃないのは、それが美しいからだけじゃない。
きっと、弥生にとってそれはいとうものではないのだ。

弟を忘れてないのだと、幼いゆきが掌に立てた爪の痛みのように。

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