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◆ 拾陸 ◆
しおりを挟む「あたし……弟がいたんだよね」
そうゆきが打ち明けたのは昼餉の膳を片付けている最中だった。
大量の食器を水につけ、まだ冷たい水で丁寧に洗う。
いつもなら共に洗い物に励むのは女中頭のおしまだが、小芋の皮をむく際につるりと刃が滑って手を怪我してしまった彼女の代わりにここ数日はゆきがその役割を担っていた。
水仕事の出来ないおしまは他の仕事にあたっているし、お妙は店表に出ているので洗い場には二人だけ。
それでも水音に紛れてようやく聞こえるようなゆきの声に思わず弥生は彼女を見た。
ゆきには兄が一人いる。
既に所帯を持っている兄は家を出ており、ゆきは父母と三人暮らしのはずだ。
弟の話なんて聞いたことがなかった。
「もうずっと前だから。流行り病でね、まだ6歳だった」
口を開いて、だけど言葉がでなかった。
悔やみも、慰めもたいした意味をもたないことを知っている。下手に口にしてしまえばひどく薄っぺらい言葉にしかならなそうで、眸を伏せて「そう」とだけ相槌を打った。
七つ前は神のうち。
流行り病に、腹痛、水難、火事に怪我。
幼い子どもの命は儚いほどにあっけなくとられてしまう。
だがどれだけ世に溢れていることであろうと大切な者を喪った哀しみが薄れるわけでもない。
胸に広がったやるせなさを払い落とそうとするように、さして汚れてもいない茶碗をごしごしと力を入れて擦った。
こんな風に胸の中のもやも洗い落とせればいいのに。
「みんなで泣いて悲しんだ。だけどおとっつあんは次の日には仕事に行ったし、おっかさんだって家のことをしてた。全部なかったみたいに笑ってるの。あたしがびぃびぃ泣いてるとね、おっかさんが言うだ。「忘れなさい」って。あたし、わからなかった。だってあの子は死んじゃったんだよ?あたしの弟で、おっかさんたちの子どもで、大事な家族なのに」
ぎゅっとゆきが瞼を閉じた。
だけど涙は流れなかった。
「忘れるもんか、って思った」
「うん」
「絶対にあたしはあの子を忘れたりしない。そう、思ったの」
水からあげた茶碗や皿を水きりのために立てかけていく。
冷たい水にさらされていた手は指先まで真っ赤だった。
そんな指先をこすり合わせながら、ゆきがふっと笑みを浮かべて声の調子を変えた。
「あたしねぇ、必死だったの。あの子のことは本当に悲しかった。でもほら、遊んでれば楽しいし、美味しいものを食べれば嬉しいでしょう?友達ときゃらきゃら笑う自分に気付いて愕然としてさ、家に帰って必死にあの子のことを思い出して、あたしは悲しいんだ。あの子のことを忘れてないんだって。ぐっと握りこぶし作って爪を掌に食い込ませては泣こうと頑張ったの」
バカだよねぇと笑うゆきに弥生は首を振った。
健気な幼いゆきの姿が頭に浮かぶようだった。
「わかるよ」
ゆきの目を見つめて告げれば、へへ、と照れたように彼女は笑う。
「うん。ありがと」
でもね、とゆきは続けた。
「あるとき夜中に目を覚まして見たの。おっかさん、あの子の着物を握って泣いてた。忘れてなんていなかった。悲しんでないわけじゃなかった。そりゃそうだよねぇ、家族だもん」
水桶の水を捨て、濡れた手を前掛けでぬぐう。
かじかむ指にはぁと息を吹きかけた。
同じようにしたゆきも前掛けを外し、店に戻るためさっと髪を撫でつけた。
「無理して泣こうとするのも、忘れたふりして笑うのも可笑しいよね」
「そうだね」
素直にその言葉が漏れた。
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