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◆ 拾肆 ◆
しおりを挟む「表立っては逢えなかったわ。でも時と場所を決めておいて、お稽古ごととか他出したときにお互いちらりと姿を目にしたり文のやり取りをしてたの。捨坊を使ってね」
「捨坊?」
「一度弥生も会ったわ」
言われてすぐあの丁稚の姿が思い浮かんだ。
捨坊はやはり美桜が拾ってきた子で、他の奉公人や丁稚からはやや爪はじきにされているらしい。
「すぐに実行は出来ないけど、駆け落ちの話はずっと前からしていたの」
それは美桜から持ち掛けた話らしい。
仕事を持っており、美桜より年上で浮世の苦労も身に染みている佐助は最初、美桜を宥めそうだ。
それはそうだろう。
一人娘が家を出て、柳屋が彼女を探さないわけがない。並みの町人ならまだしも、大店である柳屋が金と人を使って探せばすぐに見つかってしまう。
だが恋に燃え上がり、想いを募らせたお嬢さま育ちの美桜のこと。
納得も諦めも出来ず、また父や祖母が佐助への嫁入りを認めてくれるとも思えなかった。
「だから駆け落ちするしかないって思ったのよ。でもそれだって逃げるには時が必要だわ。お父さまはわたしが外に出るのは目を光らせているけど、この離れで大人しくする分には興味がないもの。だからわたしがここに居るって思わせて、なんとか抜け出せないかと思ったの」
「そのための影武者がわたしということですね」
「ええ。弥生はわたしによく似てる。前に口にしたみたいに奇麗な着物を着て着飾ったらきっとわからないわ。もちろん近くで顔を見らたらわかるでしょうけど、日中にここを訪れる者なんていないし、渡り廊下からなら距離もあるわ。弥生が私の着物を着て縁側付近に姿を見せればみんな「ああお嬢さまは今日も離れにいるな」って勘違いするでしょう?」
それだって誤魔化せるのは一日かよくて二日だろう。
そんな言葉を弥生は飲み込んだが、口を引き結んだ表情から美桜も悟ったようで泣き出しそうな顔で眉を下げた。
「わかってる。甘い考えだってわかってるわ」
細い肩が、寒さとは別のもので小刻みに揺れた。
揺れはどんどん大きくなり、瘧にかかったように震える美桜の身体を弥生は両腕で抱きしめた。嗚咽が聞こえ、俯いた顔から涙が落ちてじゅうっと炭のうえで音を立てた。
「知られてしまったの」
ぽたぽたと雨だれのように雫が落ちる。
「内緒で佐助さんと連絡をとっていたこと」
ああ、と声にならない声を零して弥生は眸を閉じた。
近頃の美桜の気鬱の原因、それはこれだったのかと腑に落ちた。
やるせない気持ちになりながら震える美桜の背中を撫でる。
慰める言葉も、術も持たないことがひどくもどかしい。
「お嫁入りが決まったの」
手あぶりから降ろされ、膝の上に置かれた美桜は耐えるようにぎゅっと拳を握った。
はっと顔を上げて蝋人形のように真っ白な美桜の顔を見る。
「相手は俵物を扱うお店の跡取りで、わたしより一回りも年上よ。……商いものだけじゃ飽き足らず、お父さまは娘まで売りにだすの」
痛みと憎しみが混じった声だった。
膝に置かれた握りこぶしがブルブルと震えていた。
「人でなしよ」
また一つ、雫がぽつりと頬を伝う。
「お婆さまもお父さまも、わたしも。この家の人間はみんな人でなしなの」
「そんな、お嬢さま……」
宥める弥生にかぶりを振って、人でなしと何度も繰り返した美桜はぎゅっと両腕で自分の身体を抱きしめた。
「捨坊が……折檻されたわ」
ひゅっと息を飲みこんだ。
折檻の理由は言わずもがなだろう。
「ひどいでしょう?わたし、捨坊のことなんてちっとも考えなかった。秘密の使いのことが知れたら、あの子がどんな目に合うかなんて。弥生のことだってそう。影武者を使ってわたしが逃げ出したらあなたがどうなるかなんて考えもしなかった。ううん、わかっていて見ないふりをしようとした。自分の幸せだけを願って、平気で人を踏みつけにしようとしたの」
美桜の頬にもう涙は流れなかった。
ただ一度だけ、弥生の胸に顔を埋めて「ごめんなさい」そう一言呟いた。
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