桜花 ~いまも記憶に舞い散るは、かくも愛しき薄紅の君~

文字の大きさ
上 下
9 / 33

◆ 玖 ◆

しおりを挟む


たすき掛けをし、冷たい水に身を縮めながら洗濯をしていた。

「あんたは働き者だねぇ」

すぐ脇でかえでが感心した声を漏らす。

「じっとしてるのは苦手なんです」

じゃぶじゃぶと水音を響かせながら弥生は答えた。

美桜は三味線しゃみせんのお稽古で外出中だ。
空いた時間は好きにしていいと言われてはいたが、することがないのは気づまりなので日ごろから繕いものだの掃除、洗濯だのを手伝っていた。最近は膳を下げに行った先で洗い物などを手伝うこともある。

それでも店表や屋敷の奥には決して近づかないようにしていた。
面倒を避けるためにもそうした方がいいと美桜やかえでからもそう言われている。

「わたしみたいなことはよくあるんですか?」

かねてから疑問に思っていたことを口にすれば、かえでの眉がわずかに潜められた。

「幼いころからときどきね。猫だの犬だのを拾ってきたこともあれば、孤児みなしごを引き取ろうとしたこともあるよ。人を連れ帰るようなのはここ数年かね」

「美桜お嬢さまは優しい方だから」そう笑うかえでの笑顔に混じるものが弥生にはわかる気がした。

きっと美桜は心根の優しい娘なのだろう。
かえではそんなお嬢さまの気質を微笑ましく思っている反面、美桜のその優しさがその恵まれた立場ゆえのものであることもわかっている。

「お嬢さまが連れ帰った子らは居着いた子もいれば出て行った子も多い。問題を起こして出て行ったののほうが圧倒的に多いけどね」

「はい」

神妙に頷く弥生にかえではにかりと笑う。

「なんせ他の奉公人らとは違うからね。妬み、嫉みもある。そりゃ自分はお嬢さまの特別だ、なんて踏ん反り返ってりゃ反感を買うのも仕方ないだろ。その点、あんたは働き者で真面目だからそんなことにはならないだろうけどね。あのおくまさんが褒めてたぐらいだ」


実際、かえでの言うようなことは既にあった。

離れだけではすることがなくなって、くりやに顔を出すようになった頃にそこで働く若い娘たちにちくりとやられたのだ。

「いいわよねぇ、お嬢さまのお気に入りは。でも正式な奉公人でないといつまでいられるかわからないわよ」

「ここに来る前は茶店で働いていたんでしょ?」

世間の荒波を知らぬ、浮かれた娘だとでも思われたのだろう。

食ってかかることはせずに、洗い物の手を休めぬまま弥生は「はい」と頷いたあとで「わかってます」と続けた。
その返しが意外だったのだろう、まじまじとこちらを見る二人に淡い笑みを浮かべて弥生は言った。

「少しの間で充分です。おっかさんの弔いで色々要りようだったので、お嬢さまには感謝しかありませんから」

「弔いって……」

「蓄えはないけど、女手一つで苦労して育ててくれたおっかさんなんで人並みのことはしてあげたかったんです」

狼狽うろたえたように二人が怯んだ。

ことさら同情を引こうとは思わない。
だけど好んで面倒事を放置しようという気もない。

店表で働く者達ならともかく、くりやの女中とは今後も顔を会わせる機会があるからなおさらだ。茶店で働いていたことも知っているようだし、遅かれ早かれ身の上は噂になるだろうからあえて弥生はそう告げた。

「……ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの」

芯から意地悪な娘たちでないのだろう。
謝ってくれた二人の娘たちは今では親し気に話しかけてくれるし、くりやを取り仕切るおくまという古参の女中も自発的に働く弥生を気にいってくれ、いまのところ面倒なことに巻き込まれていなかった。


「旦那さまがたは何も言われないのですか?」

前掛けで濡れた手を拭いながら、もうひとつ気になっていたことを口にした。

柳屋の権力者だという大お内儀おおおかみも美桜の父親である柳屋の主人にも弥生は顔を会わせたことがないが彼らは口を挟まないのだろうか?

かえでは周囲をはばかるように見渡して、弥生に数歩近づいた。
口元に手をやり、耳元へと顔を寄せる。

「だから、ここ数年なのよ。大お内儀さまが寝たきりになってめっきり目が届かなくなったからね。それでも目につくようなら辞めさせられることもあるけどさ。でもあんたはたぶん平気よ」

含むようにそう言って、かえでは再び周囲を見渡す。
誰もいないのを確認してさらに身を寄せてきた。

「お嬢さまのお稽古ごとにいつも他の女中がお供につくの、不思議に思わなかった?」

それは弥生も不思議に感じていた。
かえでは美桜つきの女中でもある。完全にというわけではなく、店表のことも熟しながらだが。
だけど、はじめて出会った日のお供も彼女でなかった。

「あたしはここも長いし、美桜お嬢さまとは気安いからね」

眉をしかめてそう言うかえでに弥生はなんとなく理由わけを悟った。

以前、美桜が口にしていたお目付け役の言葉。
他出たしゅつの供につくのは主人らの息のかかった奉公人で美桜と親しいかえでではまずいのだろう。

「ちょいとさ、少し前に美桜さまが問題を起こしてね。だからさ姉妹ごっこでもなんでも、お嬢さまの意識が外に向かずに大人しくしてくれるんなら旦那さまも大歓迎ってとこでしょうよ。でも念のため、あたしやおくまさんら以外には関わらないようにした方がいいわよ」

話しはこれでお終い、とばかりにさっときびすを返され、美桜が起こした問題というのがなんなのかは聞けなかった。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

南町奉行所お耳役貞永正太郎の捕物帳

勇内一人
歴史・時代
第9回歴史・時代小説大賞奨励賞受賞作品に2024年6月1日より新章「材木商桧木屋お七の訴え」を追加しています(続きではなく途中からなので、わかりづらいかもしれません) 南町奉行所吟味方与力の貞永平一郎の一人息子、正太郎はお多福風邪にかかり両耳の聴覚を失ってしまう。父の跡目を継げない彼は吟味方書物役見習いとして南町奉行所に勤めている。ある時から聞こえない正太郎の耳が死者の声を拾うようになる。それは犯人や証言に不服がある場合、殺された本人が異議を唱える声だった。声を頼りに事件を再捜査すると、思わぬ真実が発覚していく。やがて、平一郎が喧嘩の巻き添えで殺され、正太郎の耳に亡き父の声が届く。 表紙はパブリックドメインQ 著作権フリー絵画:小原古邨 「月と蝙蝠」を使用しております。 2024年10月17日〜エブリスタにも公開を始めました。

大江戸美人揃

沢藤南湘
歴史・時代
江戸三大美人の半生です。

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地~ 家族愛の三国志大河

墨笑
歴史・時代
『家族愛と人の心』『個性と社会性』をテーマにした三国志の大河小説です。 三国志を知らない方も楽しんでいただけるよう意識して書きました。 全体の文量はかなり多いのですが、半分以上は様々な人物を中心にした短編・中編の集まりです。 本編がちょっと長いので、お試しで読まれる方は後ろの方の短編・中編から読んでいただいても良いと思います。 おすすめは『小覇王の暗殺者(ep.216)』『呂布の娘の嫁入り噺(ep.239)』『段煨(ep.285)』あたりです。 本編では蜀において諸葛亮孔明に次ぐ官職を務めた許靖という人物を取り上げています。 戦乱に翻弄され、中国各地を放浪する波乱万丈の人生を送りました。 歴史ものとはいえ軽めに書いていますので、歴史が苦手、三国志を知らないという方でもぜひお気軽にお読みください。 ※人名が分かりづらくなるのを避けるため、アザナは一切使わないことにしました。ご了承ください。 ※切りのいい時には完結設定になっていますが、三国志小説の執筆は私のライフワークです。生きている限り話を追加し続けていくつもりですので、ブックマークしておいていただけると幸いです。

処理中です...