桜花 ~いまも記憶に舞い散るは、かくも愛しき薄紅の君~

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◆ 漆 ◆

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柳屋での生活は拍子抜けするほどに平穏だった。

「日中はわたしの話し相手と身の回りのことをしてくれればそれでいいわ。お店や奥向きのことには関わらなくていいし、空いた時間は好きに過ごしていいわ。お稽古ごとにはほかのお供がつくから。お目付け役なのよ。いやになっちゃう」

最後の部分は顔をしかめつつ美桜はそう口にした。

実際、弥生のすることはほとんどなかった。
お茶を支度したり、身支度を手伝ったりするくらい。

このお江戸でこれほどの敷地を有することができるのか。狭い長屋の暮らししか知らない弥生がそう感心するほどに柳屋の敷地は広かった。
立派な店構えに、主人や奉公人たちが暮らす母屋おもや。そして整えられた中庭が見渡せる離れ。
美桜はその離れで生活をしていた。

「ここはお母さまが寝起きしていたのよ。お母さまは体が弱かったから。もっとも、病んでいたのは体でなく心だったのかもしれないけど。跡継ぎを生めなかったことでお婆さまからずいぶんと虐められたようだから。お婆さまに殺されたっていっても過言じゃないかもしれないわ」

「美桜さま」

あまりに剣呑けんのんな発言にかえでが小さくたしなめる。

かえでは弥生とは異なり正式に柳屋の主人に雇われている奉公人だ。二十代前半の目元の涼しいこの女は美桜の世話も仰せつかっているようで顔を会わすことも多い。

美桜はといえば、軽く肩をすくめただけで気にする素振りもなくまた口を開いた。

「お婆さまはこの家の一番の権力者なの。……と言っても近頃は御歳でほぼ寝たきりなのだけど。それでもこんな離れに引っ込む気はないみたいだから、代わりにわたしがここを使わせてもらってるってわけ」

「一日中監視されてちゃたまったもんじゃないもの」と唇を尖らせて子ども染みた仕草でこぼした美桜は金平糖こんぺいとうをぽいっと一つ放り込んだ。
カリッという音のあとで、その甘さにか表情が綻ぶ。

「ね、弥生は十六なのでしょう?」

「は、はい」

身を乗り出して尋ねられ、心臓がとくりと跳ねた。

ここに来てから自分の年を話題にだしたことはない。
一瞬驚いたものの、他所よその人間を敷地の中に入れるのだから素性の確認は当然だ。きっと茶屋の主人らから身の上の確認は済んでいるのだろうと納得した。

「わたしは十四よ。弥生はわたしの二つ上ね」

美桜の黒目がちの眸がじっと弥生を見る。

「どうしてわたしがあなたを連れて来たかわかる?」

「いいえ」とぎこちなく首を振った。
ふふっと笑った美桜が手を伸ばした。
水仕事ひとつしたことがないだろう繊手が弥生の頬に触れた。

「あなた、わたしによく似てる」

滑らかな手がするりと頬を撫でる。

「はじめて茶屋で出会ったときに思ったの。なんてわたしによく似てるんだろう、って。奇麗な着物を着て、化粧をして着飾ったらきっと大店のお嬢さんにしか見えないわ。まるで姉妹みたいにそっくりだものわたしたち」

「そんなことは……」

「まっ、わたしの方がずっと器量よしだけどね」

ぺろりと舌を出す美桜に思わず小さく「はい」と頷けば、「ちょっと!」と片頬を膨らませて睨まれた。

「ここはむっとした顔をするなりなんなりしなさいよ!そんな素直に頷かれたんじゃわたしがただの嫌な女じゃない!」

「お嬢さまとわたしなんかが比べものにならないのは事実ですので」

「だーかーら、ちょっとした冗談だったのに、もうっ」

腕を組んでそっぽを向いた美桜は少しして真っすぐに弥生を見た。

「さっきの冗談はおいといて、姉妹みたいだって思ったのは本当。わたしね、ずっと姉妹が欲しかったの。だから弥生がお姉さんみたいになってくれたら嬉しいわ」

そう笑いかける顔は、まるで花のような笑顔だった。

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