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◆ 陸 ◆

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あの娘と、美桜みおと出会ったのは菊屋橋の近くだった。

母であるおつたを流行り病でなくし、弥生は独りになった。
産みの母ではないと知ったものの、本当の母を知らぬ弥生にとってのおっかさんはおつただけ。
おつたは若い頃に亭主を亡くし、親類との付き合いもなかったから弥生は頼れる者もなく、泣き暮らしている間もなかった。


「菊屋橋の向こうに行ってはいけない」

生前おつたはそう言っていた。

菊屋橋は浅草門跡の西側を貫く新堀川に架かっている橋のひとつで、そう大きな橋ではない。
その橋をなぜそれほどまでに気に掛けるのかおつたは理由を告げなかったが、あたかもそれがなにかの境界であるかのようにときおりそう口にした。

まるで何かから逃れるがごとく弥生たち母娘は何度か引っ越しを繰り返したが、おつたは決して菊屋橋の向こうに足を向けようとはしなかった。

理由もなしに言いつけられればよけいに湧き出る好奇心と、戒められた言いつけ。
相反する心持ちの中で弥生が選んだ働き口は菊屋橋の手前だった。

これならおっかさんの言いつけを破ったことにはならない。

橋を行き交う人は多く、毎日多くの人が行き来するその一帯は繁盛しており、弥生が働く茶店も毎日目がまわりそうなぐらい忙しかった。

弥生は菊屋橋を渡らなかった。
だけど……それはあちらの方から橋を渡って弥生の元へと訪れた。

お盆に湯のみと茶菓子を乗せて何往復も行ったり来たり。肌寒い季節にも関わらずうっすらと汗ばみそうなほどに忙しく立ち回っていると「あら?」と声が落ちてきた。
華やいだ若い娘の声に湯のみを置いて顔を上げたその瞬間、時が止まったように思えた。

つかの間、声もなく見つめ合う。

まだ若い娘だった。
透き通るような白い肌に、黒目がちな目のぱっちりとした愛らしい顔。
朱色の着物は上等で、一目でいいとこのお嬢さんとわかる出で立ちだった。

まじまじと不躾ぶしつけなほどに眺められて弥生はちょっと顔を伏せた。
それでも娘はじっと観察でもするように視線を逸らさず、居心地の悪さに身を固くしながらか細い声で弥生は尋ねた。

「あの……なにか?」

その声にはっとしたように娘は慌てて「ごめんなさい」と口にしたあと、再び弥生をじっと見て「あなた、名前は?」と問いかけた。

有名な茶店の看板娘ならいざ知らず、芸名など名乗ってもいない弥生は小さく自分の名を告げるとそそくさと逃げるように一礼してその場を去った。
それでも、他の客のもとを行き来する間も視線はずっと感じていた。


茶店の主人が呼んでいると同僚に告げられ慌てて向かうと、その場には先程の娘が居た。

「あなた、わたしのとこで働く気はない?」

にっこりと笑みを浮かべて、その娘はそう言った。


それが弥生と美桜の出会いだった。


美桜は弥生でさえ名前を聞いたことのある薬種問屋・柳屋の一人娘で、その日は遠出の帰りにたまたま茶店に寄ったのだという。

突然の提案に驚く弥生に美桜は言った。
これは柳屋の正式な奉公人として働いてもらうのではなく、自分の話し相手兼身の回りの世話をしてほしいのだと。

弥生は迷った。
あまりに突然の話になにかに化かされているのではないかと疑ってさえみた。

だけど結局、弥生はその話を受けた。
住み込みの条件と、なにより給金が破格だったからだ。

母のおつたが生きていれば決してそんな話は受けなかっただろう。
だけど、弥生はたった一人の身寄りを亡くしてばかりで、一日でも早く生活を安定させたい気持ちがまさった。

戸惑いもためらいも大いにあった。
それと同時に抑えきれぬ想いも胸に沸いた。

別にずっと働こうというわけじゃない。
ただのお嬢さまのわがままだ。すぐに追い出されるかもしれない。
それだって数日勤めるだけでいまの何倍もおあしがもらえる。
それを元手に住まいを借りて、必要なものを揃えれば、そのあとは繕いものの腕を活かして食べていくことだってきっとできる。
生活さえ整えば、誰に頼ることなく生きていくことだってできるんだ。

追い出されたって構わない。
自分から出て行ったっていい。

そう決めて、弥生はおっかさんの言いつけを破って菊屋橋を渡った。

菊屋橋を渡り、柳屋で、お嬢さまのもとで働きはじめた。

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