6 / 33
◆ 陸 ◆
しおりを挟むあの娘と、美桜と出会ったのは菊屋橋の近くだった。
母であるおつたを流行り病でなくし、弥生は独りになった。
産みの母ではないと知ったものの、本当の母を知らぬ弥生にとってのおっかさんはおつただけ。
おつたは若い頃に亭主を亡くし、親類との付き合いもなかったから弥生は頼れる者もなく、泣き暮らしている間もなかった。
「菊屋橋の向こうに行ってはいけない」
生前おつたはそう言っていた。
菊屋橋は浅草門跡の西側を貫く新堀川に架かっている橋のひとつで、そう大きな橋ではない。
その橋をなぜそれほどまでに気に掛けるのかおつたは理由を告げなかったが、あたかもそれがなにかの境界であるかのようにときおりそう口にした。
まるで何かから逃れるがごとく弥生たち母娘は何度か引っ越しを繰り返したが、おつたは決して菊屋橋の向こうに足を向けようとはしなかった。
理由もなしに言いつけられればよけいに湧き出る好奇心と、戒められた言いつけ。
相反する心持ちの中で弥生が選んだ働き口は菊屋橋の手前だった。
これならおっかさんの言いつけを破ったことにはならない。
橋を行き交う人は多く、毎日多くの人が行き来するその一帯は繁盛しており、弥生が働く茶店も毎日目がまわりそうなぐらい忙しかった。
弥生は菊屋橋を渡らなかった。
だけど……それはあちらの方から橋を渡って弥生の元へと訪れた。
お盆に湯のみと茶菓子を乗せて何往復も行ったり来たり。肌寒い季節にも関わらずうっすらと汗ばみそうなほどに忙しく立ち回っていると「あら?」と声が落ちてきた。
華やいだ若い娘の声に湯のみを置いて顔を上げたその瞬間、時が止まったように思えた。
つかの間、声もなく見つめ合う。
まだ若い娘だった。
透き通るような白い肌に、黒目がちな目のぱっちりとした愛らしい顔。
朱色の着物は上等で、一目でいいとこのお嬢さんとわかる出で立ちだった。
まじまじと不躾なほどに眺められて弥生はちょっと顔を伏せた。
それでも娘はじっと観察でもするように視線を逸らさず、居心地の悪さに身を固くしながらか細い声で弥生は尋ねた。
「あの……なにか?」
その声にはっとしたように娘は慌てて「ごめんなさい」と口にしたあと、再び弥生をじっと見て「あなた、名前は?」と問いかけた。
有名な茶店の看板娘ならいざ知らず、芸名など名乗ってもいない弥生は小さく自分の名を告げるとそそくさと逃げるように一礼してその場を去った。
それでも、他の客のもとを行き来する間も視線はずっと感じていた。
茶店の主人が呼んでいると同僚に告げられ慌てて向かうと、その場には先程の娘が居た。
「あなた、わたしのとこで働く気はない?」
にっこりと笑みを浮かべて、その娘はそう言った。
それが弥生と美桜の出会いだった。
美桜は弥生でさえ名前を聞いたことのある薬種問屋・柳屋の一人娘で、その日は遠出の帰りにたまたま茶店に寄ったのだという。
突然の提案に驚く弥生に美桜は言った。
これは柳屋の正式な奉公人として働いてもらうのではなく、自分の話し相手兼身の回りの世話をしてほしいのだと。
弥生は迷った。
あまりに突然の話になにかに化かされているのではないかと疑ってさえみた。
だけど結局、弥生はその話を受けた。
住み込みの条件と、なにより給金が破格だったからだ。
母のおつたが生きていれば決してそんな話は受けなかっただろう。
だけど、弥生はたった一人の身寄りを亡くしてばかりで、一日でも早く生活を安定させたい気持ちが勝った。
戸惑いもためらいも大いにあった。
それと同時に抑えきれぬ想いも胸に沸いた。
別にずっと働こうというわけじゃない。
ただのお嬢さまのわがままだ。すぐに追い出されるかもしれない。
それだって数日勤めるだけでいまの何倍もおあしがもらえる。
それを元手に住まいを借りて、必要なものを揃えれば、そのあとは繕いものの腕を活かして食べていくことだってきっとできる。
生活さえ整えば、誰に頼ることなく生きていくことだってできるんだ。
追い出されたって構わない。
自分から出て行ったっていい。
そう決めて、弥生はおっかさんの言いつけを破って菊屋橋を渡った。
菊屋橋を渡り、柳屋で、お嬢さまのもとで働きはじめた。
10
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
枢軸国
よもぎもちぱん
歴史・時代
時は1919年
第一次世界大戦の敗戦によりドイツ帝国は滅亡した。皇帝陛下 ヴィルヘルム二世の退位により、ドイツは共和制へと移行する。ヴェルサイユ条約により1320億金マルク 日本円で200兆円もの賠償金を課される。これに激怒したのは偉大なる我らが総統閣下"アドルフ ヒトラー"である。結果的に敗戦こそしたものの彼の及ぼした影響は非常に大きかった。
主人公はソフィア シュナイダー
彼女もまた、ドイツに転生してきた人物である。前世である2010年頃の記憶を全て保持しており、映像を写真として記憶することが出来る。
生き残る為に、彼女は持てる知識を総動員して戦う
偉大なる第三帝国に栄光あれ!
Sieg Heil(勝利万歳!)
大日本帝国、アラスカを購入して無双する
雨宮 徹
歴史・時代
1853年、ロシア帝国はクリミア戦争で敗戦し、財政難に悩んでいた。友好国アメリカにアラスカ購入を打診するも、失敗に終わる。1867年、すでに大日本帝国へと生まれ変わっていた日本がアラスカを購入すると金鉱や油田が発見されて……。
大日本帝国VS全世界、ここに開幕!
※架空の日本史・世界史です。
※分かりやすくするように、領土や登場人物など世界情勢を大きく変えています。
※ツッコミどころ満載ですが、ご勘弁を。
おぼろ月
春想亭 桜木春緒
歴史・時代
「いずれ誰かに、身体をそうされるなら、初めては、貴方が良い。…教えて。男の人のすることを」貧しい武家に生まれた月子は、志を持って働く父と、病の母と弟妹の暮らしのために、身体を売る決意をした。
日照雨の主人公 逸の姉 月子の物語。
(ムーンライトノベルズ投稿版 https://novel18.syosetu.com/n3625s/)
不屈の葵
ヌマサン
歴史・時代
戦国乱世、不屈の魂が未来を掴む!
これは三河の弱小国主から天下人へ、不屈の精神で戦国を駆け抜けた男の壮大な物語。
幾多の戦乱を生き抜き、不屈の精神で三河の弱小国衆から天下統一を成し遂げた男、徳川家康。
本作は家康の幼少期から晩年までを壮大なスケールで描き、戦国時代の激動と一人の男の成長物語を鮮やかに描く。
家康の苦悩、決断、そして成功と失敗。様々な人間ドラマを通して、人生とは何かを問いかける。
今川義元、織田信長、羽柴秀吉、武田信玄――家康の波乱万丈な人生を彩る個性豊かな名将たちも続々と登場。
家康との関わりを通して、彼らの生き様も鮮やかに描かれる。
笑いあり、涙ありの壮大なスケールで描く、単なる英雄譚ではなく、一人の人間として苦悩し、成長していく家康の姿を描いた壮大な歴史小説。
戦国時代の風雲児たちの活躍、人間ドラマ、そして家康の不屈の精神が、読者を戦国時代に誘う。
愛、友情、そして裏切り…戦国時代に渦巻く人間ドラマにも要注目!
歴史ファン必読の感動と興奮が止まらない歴史小説『不屈の葵』
ぜひ、手に取って、戦国時代の熱き息吹を感じてください!
16世紀のオデュッセイア
尾方佐羽
歴史・時代
【第12章を週1回程度更新します】世界の海が人と船で結ばれていく16世紀の遥かな旅の物語です。
12章では16世紀後半のヨーロッパが舞台になります。
※このお話は史実を参考にしたフィクションです。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる