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◆ 肆 ◆

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たった三カ月。
弥生があの屋敷で過ごした期間は一つの季節が移ろうほどの短さだ。

それでも、そのわずか三カ月足らずのことが鮮やかに記憶に住み着いて離れない。



弥生には幼い時分から繰り返し見る夢がある。

今朝がたも見たあの夢だ。
寝ている時に限らず、時には起きている時にさえ脳裏に響くこともあるあの声、あの言葉。

はじまりは八つの頃だった。

母子二人で慎ましく暮らしていた弥生はある日、おっかさんが居ない隙にこっそり戸棚を探った。
子どもが触れてはいけないと戒められていたが、あまりに退屈だったのと、いけないと言われるほどに子どもは興味を抱くものだ。
そして不思議なものを見つけた。

おっかさんを問い質し、教えられたのは弥生が母・おつたの本当の子でないという事実だった。

弥生は捨てられた子どもだった。
不要と断じられ、殺されるはずだった子ども。

衝撃的なその事実をおつたから聞いてから弥生はあの夢を見るようになった。

生まれたばかりの赤子が言葉を理解できるはずもなく、またそれを覚えているわけもない。
そもそもおつたからあの話を聞くまでは一度もそんなものを見たことも聞いたこともなかったのだ。

だからあれは弥生の頭が作り出した幻。
今しがた見聞きしたようにどれほどに鮮明で強烈だろうと、ただの夢幻ゆめまぼろしにほかならない。

だから……。
弥生は自分の記憶に自信が持てない。

あの屋敷で過ごした日々が、の想い出が同じでないとどうして言い切れよう?

全てが幻だったのではないか。
時折、そんな風に思うことがある。

繰り返し見るあの夢、時には目覚めている時でさえ脳裏に響くあの声のように……。




「やよい」

走ってきた小さな手が、弥生の裾を掴んだ。

「遊びましょ。今日はお手玉をする約束よ」

おりんは主人夫婦に似たのか年のわりに賢く、またな子供だ。
あどけない顔とくりくりした眸で大人のようなしゃべり方をするのが可愛らしい。
二年前のことを正確には覚えておらずとも、恐ろしいことから守られたのは覚えているようで弥生にえらく懐いていた。

雪でもちらつきそうな寒さのなか、おりんが風邪をひかないように半纏はんてんを着せ火鉢のそばに座らせる。小さな手が二つのお手玉をゆっくりと操るのを見て、上手、上手と手を鳴らした。

「こんどはやよいよ」

渡された四つのお手玉を弥生は器用に操った。
きゃあと歓声をあげ、今度はおりんが手を打ち鳴らす。

しばらくしてお手玉にも飽きたところでおつの支度をした。

「ねぇ、明日は慎之介さんが来るんでしょう?」

両手に湯のみを抱えたまま、声を潜めておりんが聞いた。
まろい頬は色を染め、黒目がきらきらと輝いている。
つい数刻前にお妙から耳にしたばかりの話題に、相変わらず耳が早いことと苦笑いを浮かべて「そのようですよ」と弥生は答えた。

「応対はやよいがするのでしょう?慎之介さんも喜ぶでしょうね」

大人をまねするようにおりんがふふっと笑う。

慎之介というのは生駒屋に出入りする飾り職人だ。

まだ若いのに仕事も丁寧で腕がいい。
色白でつるりとした顔立ちに気の弱そうな笑みを浮かべたこの若者は弥生のことが好きらしい。
文次のように口説いてくるわけでも、想いを告げられたわけでもない。
それでも素直な性質たちの慎之介の気持ちはこんな幼い少女にも筒抜けだ。もっとも、お妙らが噂してるのを漏れ聞いたのもあるだろうが。

さる大店の主人から生駒屋にかんざしの発注があったそうだ。
その簪を手掛けるのが慎之介で、娘の嫁入り道具に持たせる簪の細工の注文に明日、大店の主人が訪れるのだ。

そのことを先程お妙に話され、お茶を出すのを頼まれたのだ。
おりんはどこかでそれを聞いていたのだろう。

どちらかと言えば弥生の気持ちを汲んでくれ、こうして奥向きの仕事をさせてくれるし、文次のような手合いは追い払ってくれるお妙たちだ。だが娘らしい喜びを見つけて欲しいという想いもあるようで、時折こうした機会を作られる。

慎之介は主人夫婦のお眼鏡にも適ったようで、お使いを頼まれることも度々だ。

その度に弥生はなんともいえない心持ちになる。
真面目で親切な慎之介のことは嫌いでないが好きでもない。不用意に距離を詰めてこようとする男たちのように厭う気持ちはないものの、色恋そのものに興味が向かない。

誰かを好いて、好かれて、所帯を持つ。

そんな当たり前のことがまるで想像できないのだ。

放っておいてほしい。
そう思う気持ちはあるものの、来客へのお茶出しもお使いも仕事だと言われれば断る術も理由もない。

声に出さず、弥生は小さく息を吐いた。

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