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愛し君に名を贈ろう
しおりを挟む自分の中に満ちる何か。
それが何かもわからぬままに唐突に彼の傷が癒えた。
まるで夢のように。
熱を失った躰が僅かに熱を取り戻し、指先が僅かに動いた。在った筈の傷口は存在を失くし、ただ名残のように彼や自分を染める紅い液体。血と泥に汚れた端正な顔の中、長い睫毛が震えるのを息を呑んで歓喜を持って眺めた。
彼が眼を開けてくれることを。
大好きな深い海のような蒼が私を映すことを____。
「眼を開けた彼の瞳は、深い海の蒼から紺碧の夜空のような紺に色を変えていたわ。
そして見慣れぬその瞳には、白かった髪が黒に変わったわたくしの姿が映ってた。瞳を開けた彼は、自分の事もわたくしの事も、直前に在った事故の事ですら何も覚えていなかったわ」
息を呑む音を受けながら、唇がひくりと震える。
「・・・クローディア嬢が・・・・・あわれた事故、というのは・・・」
「列車事故ですわ。脱線した車両が崖下に落ちて沢山の死者が出ました」
絞り出すように問いかけるテオドールにクローディアははっきりと答える。
「まさか」と絞り出された誰かの声は、きっと一同の総意で。
驚愕を飲み込めずにいる彼らを前に、今度はクローディアからテオドールへと問いかけた。
「ジルベルト様のお名前はお父様がお付けになられましたの?それは偶然かしら。それとも、彼が身に着けていたネックレスのネームプレートの“ジル”という名前から付けられたもの?」
「・・・本当、なのですね」
呆然とした声に「ええ」と返す。
「あれは以前わたくしが彼にプレゼントした物ですの。貴族の間ではあまり馴染みがないかしら。名を持たぬ女神に名を贈り存在を与えた逸話に因んで《星祝祭》では相手の名を刻んだアクセサリーを贈る習慣がありますのよ」
名を持たぬ女神が、女神としてではなくただ一人の存在であれるように。
何者かに成れるように、そんな祈りを込めて名は贈られる。
女神としてではなく、唯一の愛しい人として若者が女神に送った名前。
恋愛成就のジンクスにならって何年も前に送ったそれを彼は大切にしてくれていた。
「・・・マジか・・・」
「ええ、マジですの」
思わず、といった感じで漏れたアルバートの言葉に投げやりに返す。
言っておくが、一番その感想を胸に抱いているのは当事者である自分自身だ。
そして、もう一人の当事者は。
「思ったよりも驚きませんのね。中々に衝撃の事実のつもりでしたのに」
「いえ、驚いてはいますよ」
ジルベルトは眼を見開きはしたものの、思ったよりも落ち着いた反応だった。
「ただ・・・」
長い睫毛が伏せられて瞳が影を帯びる。
どことなく影を帯びた彼の美貌にはそんな表情がよく似合う。
「クローディアが先程の筋書きの前提を話した時に、何となく予感はしていました。もしかしたら、と。つい最近、思い出した事があるので」
「ジルベルトっ。お前、まさか記憶がっ?」
ジルベルトの言葉にテオドールがガタリと席を立つ。だけど彼はそれには緩く首を振った。
「いえ、記憶は未だにありません。ですが昔から夢を見ていたんです」
「夢?」
「はい、昏闇で誰かが泣いている夢です。何度も同じ夢を見て、だけど目覚める度にそれが誰かは思い出せない」
何度も、何度も繰り返す夢。
「先日貴女を見てはっきりと思い出しました。
夢の中で泣いているのは、白い髪に紫の瞳の少女だった」
その言葉に、今度はクローディアが息を呑んだ。
「っ」
漏れてしまいそうな声を留めるように唇を噛みしめる。
感情を振り払うように一度瞬きをすれば、すぐに冷静な声を出せた。そのことに内心で安堵する。
「大怪我を負っていたジルも、突然聖女として目覚め能力を行使したわたくしも、負担が大きかったのかその後に意識を失いましたの。眼が醒めたのは随分と後で、沢山の負傷者は様々な病院に運ばれて小娘だったわたくしにはジルの居場所はわからなかった」
勿論、最初はすぐに彼を探そうとした。
「その内にある貴族がわたくしの元を訪れた。同じ病院に運ばれた者の中に、わたくしを覚えている方がいたの。元々白い髪だったわたくしを。血塗れの服を着ていたのにわたくしにほとんど傷がなかった事もおおきかったのでしょうね。元々わたくしの血ではなかったのだけど。わたくしは聖女としてシュネールクラインへ連れて行かれる事になったわ」
「拒否はなさらなかったのですか?」
「強制だったの?」
「さぁ?最初の接触はそれ程強硬なものではありませんでしたわ。断ったところでわたくしに拒否権があったのかは定かではありませんけれど。だけどわたくしは素直について行くことを決めた」
「何で?」
「聖女としてわたくしを必要として下さったから」
他に居場所なんてなかった。
還るところなんて何処にもないと、ある日気づいてしまった。
「あの日・・・わたくしの頭にあったのはジルを助ける事だけだった。他には何も、見えていなかった。だけど時間が経って、唐突に恐くなったんです。あの場に沢山の負傷者が居たことに気づいて」
見詰める先の手が、小さく震える。
「本当は助けられたかも知れない、そう思ったら、もう駄目だった」
「それはクローディアの所為じゃない。貴女は能力の使い方だって知らなかったのだから」
「全てを救うなんて傲慢な事が出来るわけじゃないのはわかってる。だけど、ジルベルト様は手の届く範囲で誰かが亡くなっても同じ事が言える?先日わたくしの能力をご覧になったでしょう。わたくしには・・・救うことが出来たのかも知れない」
遠征や大規模な争いにも出向くことのある彼らにもきっと経験があるのだろう。
言葉を詰まらすジルベルトをじっと見据えた。
「それに・・・・・・もしもあの時、ジルを救う為に誰かの命が必要なら。わたくしはきっと何だって犠牲に出来た。
・・・出来てしまったの、貴方と違って」
誰かを想う気持ち。
それを抱きながら、迷い、葛藤し、踏み止まったジルベルトやカイルは人としてとても正しい。
「もしもあの場の全ての人とジルを天秤に掛けたとしたら、わたくしはそれでも選んでしまったわ」
「自分にとって最善を選ぶのは当然のコトだよ」
落とされた言葉には慰めも迷いもなくて。
はっきりとそう言い切れるゼロスが羨ましかった。
「わかってますわ。今更こんな事を言っても意味がない事も全部。だけど、あの場にはジルのおば様達も居たんです。わたくしの事を本当に可愛がって下さって、お料理だって教えてくれた。このパイだっておば様の得意料理だった。大好きだった。それなのに、あの時はおば様達の事だって思い浮かばなかったの」
願ったのは、たった一つだけ。
「たった一人を助ける事だけを願う。一途と言えば聞こえがいいけれど、それは盲目であまりにも醜悪だわ。幸せだったわたくしは平然と「皆が幸せになれますように」なんて祈りを流れ星に掛けられるような少女だった。だけどそれは幸福な世界しか知らなかったからだとまざまざと思い知らせれた。年端のいかない小娘には受け止めきれるものじゃなかったの」
突如柔らかな感触に包まれた。
俯いていた顔を上げれば、視界を覆うのは柔らかな萌黄色のドレス。
「シャーロット様?」
「辛かったわね」
席を立ったシャーロットはクローディアを抱きしめたままそっと髪を撫でる。柔らかな感触と甘やかな花の香り、優しく髪を撫でる感触に込み上げるものがあった。「大丈夫」そう繰り返し、「クローディアちゃんは悪くないわ」と何度も髪を撫でてくれる。幼い子供にするように何度も。
思い出したのはクローディアが捨てた母親だった。
「わたくしは全てから逃げ出した」
両親の許へも、故郷へも戻らずにシュネールクラインへ行くことを決めた。
一度だけ、これが最後になるからとクローディアを見つけた貴族の計らいで故郷へと帰った。必死に引き留める両親を前に、クローディアはどうあったって以前のように振る舞うことは出来なかった。
部屋に閉じこもり、たった一人で眺めた《星祝祭》のランタン。
全てがもう二度と元には戻らないことをはっきりと自覚した夜。
何処にいるかはわからないジルが無事なことは漠然と感じていた。自分を覚えていない彼に会う勇気も、今の自分を見られるだけの覚悟もなかった。
だから____全てを捨てて、逃げ出した。
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