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どうかこの祈りが届きますように
しおりを挟むだけど覚悟した痛みは訪れなかった。
クローディアが放った刃が魔獣を真っ二つに切り裂く。
ついで襲いくる魔獣を剣が弾いた。
腕の中にクローディアを庇ったジルベルトの剣が。
ぽたり、ぽたりと落ちる雫。
「大丈夫ですか?」
問われた声は、この場に不自然な程優しかった。
崩れるジルベルトの躰を支えきる事が出来ずに、クローディアも彼を支えたまま地に足を着く。ぬるりとした感触。恐々と手を持ち上げれば掌はべったりと紅い。
それが誰のものかなんて考えるまでもなくて。
「血がっ!!?」
「大丈夫です。急所は外れています」
叫び声をあげたクローディアにジルベルトは脇腹を抑えながら冷静にそう告げる。
彼の抑えた掌のした、脇腹はクローディアに襲い掛かった魔獣の牙により深く抉られていた。彼の言う通り臓器までは達していないのかも知れないが、出血が多い。掌を伝ってみるみる溢れ出る血液。
「ジルッ!時間は稼ぐから取り敢えず止血しろ」
「ああ、頼む」
尚も此方へと向かう魔獣達をアルバート達が喰いとめてくれる。
だけど皆一様に消耗しているのは一目瞭然だった。
ああ、本当に、なんて廻り合わせが悪いんだろう。
もう少し、もう少しだったのに。
此処にはレオンも、沢山の上流階級の人間たちも居る。
クローディアは唇を噛みしめた。プツリと切れて血の味がする。
ジルベルトの手を伝って流れる鮮血を見た。
胸を焼いたのは、全てを焼き焦がす程の激しい怒りだった。
「ゼロス様、大規模な術式を編んでください。他の方々はゼロス様が魔術を編む間絶対に彼に魔獣を近づけさせないで。ちまちま倒してても埒があきませんわ。ゼロス様は森ごと魔獣を氷漬けにして下さい」
「はっ?流石にそれは無理に決まってんじゃん!」
「いいから早く術式をっ!!わたくしが可能にして差し上げますからっ!!」
反論してくるゼロスに叫ぶ。
「わたくしの鏡台の引き出しに水色のリボンの小箱が入ってますの。鍵はジュエリーボックスに入ってますから、クリストファー様の誕生日プレゼントです。中身はペンダントですので、必ずお渡しになって身につけて頂いて」
座り込んだまま、ジルベルトの紺碧の瞳を見つめてクローディアは告げる。
「何を言って・・・?」
唐突な言葉に訝し気なジルベルトに構わずにクローディアは両手を伸ばした。
彼の首へと回した手を引いて、唇を重ねる。
見開かれた紺碧の瞳をほんの少し可笑し気に見つめて瞳を閉じる。
動揺する周りの空気と視線を感じたがそれにも構わず更に深く唇を重ねた。
というか、此方は気にせず魔獣に集中して欲しい。
少しカサついたジルベルトの唇を舌で割り開き、舌を絡める。やがて唇を離せば、呆然と此方を見る彼の表情は何処か幼く見えた。血に濡れたままの手で彼の頬を包み、真ん丸に見開かれた紺碧の瞳へと笑いかける。
深い夜の闇のような紺碧が私を映すのが好きだった。
今、大好きなその瞳にはクローディアの姿だけが映ってる。
「愛してたわ、ジル」
そう告げて、頬を包んでいた手をそっと放す。
立ち上がったクローディアは瞳を閉じて魔術を組み上げているゼロスの背中に触れた。同じようにクローディアも瞳を閉じて全神経を集中させる。
胸の中に巣食った、魔獣に対する狂暴なまでの怒りを注ぎこむようにゼロスへと能力を注ぎ込む。
獣の分際でジルベルトを傷つけたことを決して許す気はなかった。
例え傷が癒えていようと絶対に。
長い睫毛を震わせてアメジストの瞳を開いたクローディアは屋敷のある方へと走り出した。
制止の声にも足は止めない。
森の方はゼロスに任せた。あとはこの敷地内と屋敷の中に入った魔獣だ。屋敷の中からはまだ悲鳴や物の壊れる音が響き、テラスの上などにも逃げ出した人々が見える。クローディアは屋敷と森の丁度中間地点辺りで足を止める。
息を一つ吸って覚悟を決める。
先程までずっと胸に巣食っていた気持ちが悪いほどの胸騒ぎは既に収まっていた。
自分はずっと、この瞬間が来ることを恐れていて、
自分はずっと、この瞬間が来ることを待ち焦がれていた。
淋しさが胸を覆ったが、不思議と心は穏やかだった。
胸の前で祈るように両手を組んで瞳を閉じる。唇から漏れるのは、言語なのかすらわかなない不思議な旋律。囁くようなそれは、だけど不思議と誰の耳へも美しく響いた。
それは同時に起きた。
「《万物よ凍りつけ》」
鋭い声と共にゼロスが両手を突き出した先で、森が魔獣ごと凍りつく。彼がいる前の部分からじわじわと範囲を広めて。葉が、枝が、白く覆われて樹氷となる。
それと同時にクローディアの立つ場所を起点として、幾つもの茨が這い出した。
まるでそれ自体が意思を持つかのように茨は魔獣を払い、貫き、今にも襲われそうになった人の盾となる。幾つもの鮮やかな薔薇が咲き、魔獣が触れる度に鮮血の花を咲かす。
ひらひらと何処からともなく舞い落ちる真紅の花びら。
それは魔獣に降りかかれば彼らの命を摘み取り、人々に降りかかれば傷ついた傷口が見る間に塞がっていく。
人々の眼に映る森の全てが白い世界に覆われた頃、アメジストの瞳が開いた。
直後立っていられない程の疲労感とともにぐらりと躰が揺れてクローディアは膝をつく。それと同時に霧散する茨と薔薇。荒い息が耳に煩い。
倒し損ねた残党がクローディアを脅威と判断したのだろう、咆哮をあげて此方へ向かってくるのを感じる。
脚に力が入らない。躰中が限界を告げている。
きっともう 何処にも戻れはしない。
始めからわかっていた事だった。
例えあの魔獣を捌けても、無事に助かったとしても
聖女としての能力をこれだけの人前で使ってしまった自分にはもう逃げ場なんてない。
きっと元の生活には戻れないし、クリストファーの誕生日会に出るという約束も果たせない。
だから約束は嫌いなのだ。
果たせない約束は悲しくなるだけ。
彼にもその想いをさせるのが酷く申し訳なかった。せめてあと数日だけでもこのおままごとを続けたかったのに。
本当に、何て廻り合わせが悪いんだろう。
もう、戻れない。
戻る気はなかった、絶対に。
俯いたクローディアの唇に浮かんでいたのは笑みだった。
震える指が払った切っ先が先頭の魔獣の首を刎ねる。
「あげないわ」
太腿に括りつけた短剣を右手で抜いた。
あんな獣風情に命をやるつもりは毛頭なかった。
聖女としてシュネールクラインに連れ戻される気も、マーリンで聖女として使われる気も。
『出来損ないの聖女』
何度も耳にした言葉が頭に浮かぶ。
その通りだ。私は出来損ないで聖女らしくなんて在れなかった。
聖女にもなれなかった。
クローディア・シリングスフェルストでも居られなかった。
幼い頃夢見た幸せなお嫁さんにもなれなかった。
私は、
クローディアだ。
他の何者でもない。
他の何者にもなるつもりはない。
ただのクローディアのままでいい。
だから
「幕は自分で引くわ」
迫る牙。息遣いさえ伝わる距離で躍りかかる魔獣。
その牙が届くよりも早く、クローディアは真紅の短剣を両手で自分の心臓へと振り下ろした。
激しい痛みと、逆流する血液。
倒れ込む瞳に映る魔獣の鮮血と彼の姿。
必死な形相で此方へと手を伸ばすジルベルトの紺碧の瞳にはクローディアの姿だけが映ってた。
だから、大好きな瞳へ最後の力を振り絞って笑いかけた。
どうか彼が、私を覚えていてくれますように_____
そんな、祈りを込めて。
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