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空っぽなんかじゃない
しおりを挟むそうして夜。
訪れたジルベルトの自室でクローディアはただ待った。
悲壮な程に悔恨を表情に刻んだ彼が重い口を開くのを。
急かす事もなく、責める事もなく。
以前は開けられたままだった扉は、流石に話の内容を考え閉められ、鍵が掛けられていた。何とはなしに鍵を見つめてただ待ち続ける。
ぽつり、ぽつりとジルベルトが重い口を開いて話し始めた。
「私が貴女を利用する為に傍に置いたことは、貴方も始めから気づいていたと思います。」
組んだ手の上に額を乗せて語る姿はまるで懺悔。
「あの書物を手に入れたのは偶然でした。6年前、義母の死の後譲り受けたものです。内容に興味を覚えこそすれ禁術を使用するつもりなんてこれっぽっちもありませんでした。もうずっと書架に置き去りにし、存在を意識する事すらなかった」
「だけど」と握り締めた紫紺の前髪の奥の表情が歪んだ。
「クリスが生まれ、一歳の時に医者にこの子は3歳まで生きられないだろうと言われました。義兄上も義姉上も高名な医師をあたり、手を尽くしたけれどどうにもならなかった。私もあらゆる手を調べ、あの書物を思い出しました」
クローディアもジルベルトが何かに自分を利用しようとしているのなら、きっと病弱だという甥の為だろうと予測していた。他に理由なんて思いつかなかったから。
そして初めてオルセイン邸を訪れた日にシャーロットと話をしてクリストファーの現状を知り、彼らに向けるジルベルトの優しい瞳を見てそれは確信に変わっていた。ただ一つだけ不思議だったのはクローディアの『出来損ないの聖女』の噂を知っているジルベルトが自分をどう使うつもりなのかという事だけ。
その一つでさえ真相を知って尚、驚愕を抱きはしない。
「聖女を贄とし、生贄の命の一部を契約者へと移す禁術。それでも、そんな事が出来る訳がないと・・・そう、思っていました」
額を支えていた腕が力を失って落ちる。
ジルベルトは紺碧の瞳に恐れを浮かべて自身の広げた掌を見つめた。
まるでそれが血に染まって見えているかのように。指先がカタカタと小さく震えている。
「出来る訳ないと、そう思っていたのに。あの夜クローディアを見つけた。レオン殿下に剣を突きつけられて尚、貴女は少しも死を畏れていないように見えた。心の何処かが囁きました。貴女を手に入れるべきだと」
カタカタと震えるジルベルトの指先を眺めながらクローディアは考える。
きっと、焦っていたのだろう。
生まれながらに心臓に欠陥を抱え、病弱なままのクリストファー。3歳まで生きるのが難しいと言われていた彼は今年でもう6歳になる。およそ2倍の年月を彼は時折繰り返す発作と苦痛に闘いながら生きながらえた。これには医者達も首を傾げ驚くばかり。病状が悪化する度に、ジルベルトやオルセイン邸の皆は幼い命がいつ途絶えてしまうのか不安に呑まれそうになっていたのだろう。
繋いだ年月が、もしかしたらという一縷の希望を育んだが故により切実に。
聖女の命を生贄に。
そんな事が出来る筈ないと思っていた所にまるで自身の命を要らないように扱う自分が現れた。そうして彼はそれを成す為の方法を知っており、実現させる為の魔力と才能にも恵まれていた。
そう、彼にとって正に「運命」だと思った事だろう。
人は弱い。
都合の良過ぎる出来事を「運命」だと思い込もうとする事に、
眼の前に垂らされた蜘蛛の糸に縋ろうとする事に、
何の不思議があるだろう。
被害者であれば嘆き、絶望を抱き、
傍観者であれば哀れみ、憤り、唾を飛ばして加害者を責め立てるかも知れない。
だけどいざ加害者の側に立った時、どれだけの人間が少しも揺らがずにいれるというのだろう。
踏み止まる事が出来るのだろう。
「貴女に求婚をしてこの国に、私の許へと連れて来た。唐突な行動に貴女や周囲が怪しむ事は分かっていました。禁術を使えば恐らく私自身も無事で済まない事も。だけど構わないと思った。方法があるのならっ・・・」
一通りの流れを聞いた後で、クローディアは静かに再度問いかけた。
「昼の質問をもう一度してもいいかしら」
答えはもう知っているのだけど。
「貴方は私を殺すの?」
力なくジルベルトの首が振られた。
「出来ません・・・出来ませんでした」
紺碧の瞳に浮かぶのは深い深い悔恨と、それと安堵だろうか。
「私に貴女を殺す事は出来ません」
ツキリと小さく胸が痛んだ。
分かっていた答えを受け入れて、クローディアは小さく笑った。
「残念だわ」
「・・・如何して」
「聖女としての役目を果たせるなら構わなかったの。貴方が見ず知らずのわたくしを利用しようとする価値なんて聖女としてしかないもの。貴方がわたくしに求婚した時、貴方の瞳を見てすぐにわかったわ。この人は命を捨てる覚悟をしてるって。そういう瞳をしていた」
自らの命を捨てる覚悟を決められたのに、他人の命を奪う覚悟を決められなかったなんて。
彼は優しい。
クローディアは淋しさと共に心からそう思う。
「あの書物を見つけたとき、わたくしの心に浮かんだ感情がわかる?歓喜だったわ」
全身を震わせる程の歓喜。
だけど冷静な頭はすぐにそれが叶わない事も理解していたけれど。
「聖女として死ねるなら。
貴方が一緒に地獄に堕ちてくれるなら、こんなに嬉しい事はなかったのに」
だって、独りは寂しいでしょう?力なく言って、微笑う。
「クローディア・・・。如何して、私を責めないんです。何故貴女はそうなんですか!如何してっ!?何でっ・・・・・・私には貴女がわからない」
「誰だって他人の事なんてわからないわ。自分の事すら」
珍しく取り乱すジルベルトへと返したクローディアの声は何の感情も孕んでいなかった。ただ自明の理を語るかのように温度がなく平坦。
ジルベルトはずっと、クローディアが恐かった。
自らの醜い企みが。
何を考えているのかわからない彼女が。
恐れる事も、責める事もせず隣で笑う彼女が。
彼女を殺してしまうかも知れない自分が。
彼女が消えてしまう事が。
「貴女は自分に無頓着すぎる」
「そうかも知れないわね。だけどそれは貴方も同じだわ。ねぇ、教えて。貴方は幸せじゃなかったの?」
「幸せでした。十分すぎる程に」
首を振る動作に、紫紺の髪が一筋頬にかかった。ほつれた髪に、ジルベルトが漆黒のリボンを引けばさらりと髪が肩を滑る。
「じゃあ如何してクリストファー様の為とはいえ、自身の命を投げ出す覚悟をしたの?」
クローディアの問い掛けにジルベルトはふっと息を吐いて、何処か眩しいものを見る眼で遠くを見つめた。
「彼らこそが私の幸せそのものだったからです。クリスの為と言うのは勿論ですが、私は私の幸せを壊したくなかった」
「私は空っぽです」ジルベルトが呟く。
「私がオルセイン家の養子だというのはご存じですね。多少はその経緯なども耳に入っているでしょうか」
「ええ、でも噂話でしかないもの。直接聞きたいわ」
「元々私は貴族の子供ですらありません。いえ、それどころか自分が何者なのかも、本当の名前すら知らない。私の記憶は13歳からです。大きな列車事故に巻き込まれたらしくそれ以前の記憶が全くありません。
大きな外傷はなかったそうですが私はずっと昏睡状態が続いていたそうです。目覚めた私は慰問に訪れた義父、前オルセイン当主に養子として引き取られました。穏やかで優しい気質の方だったので、記憶のない私を憐れんで下さったのと、義母が躰が弱かった事も大きいでしょう。兄弟の居ない義兄を心配し養子をとる話は何度か持ち出されては立ち消えていたそうです。更に私には魔力の素養が強く表れていますから」
解かれた紫紺の髪を一房持ち上げて見せる。
「義父も義母も義兄も皆優しかった。私を本当の家族のように扱って下さいました。幸いにも実際私の魔力量は多く、私は周囲の期待に応える事も出来た。義兄上が義姉上と結婚し、カイルやクリスが生まれ、順調に出世を重ねて私は本当に幸せでした」
「なのに如何して自分は空っぽだなんて仰るの?」
「幸せであれば在るほど自分の事がわからなかったのです。心の何処かにいつも喪失感と焦燥があった。空虚なそれはいつだって私の中に寄り添って、言葉なく私を責め立てる。そんな形のない自責に苛まれる私の眼に映るオルセイン邸の光景はまるで優しい物語のようでした」
「何となくわかる気がしますわ」
「彼らを眺めるのが好きだった。完成した物語のような世界で自分は異物のようでした。優しい物語の中に翳る一点の影、そんな気持ちが常にありました。それでもその世界を眺めているだけで私は幸せだった。その世界を守りたかった」
想いを馳せるように紺碧の瞳が閉じられた。
瞼裏に映るのはきっと彼が焦がれた優しい光景なのだろう。
「莫迦な人ね」
椅子に腰かけたままのジルベルトをクローディアは抱きしめた。愛しさが胸を突く。驚いて身じろぐジルベルトの頭を一層胸に抱え込めば、彼のフレグランスの香りがした。シトラスの爽やかさに甘く奥深いトンカビーンやムスクのラストへと香るそれはもう嗅ぎ慣れたものだ。
そう、慣れるほど傍にいた。
「カイル様が教えてくれたわ。貴方が副団長になった時の事。カイル様も魔力量が多いから、将来は貴方のように成りたいのですって。その話を聞いたクリストファー様はほっぺを膨らましてむくれていたわ。貴方の事が大好きなのに、忙しくなった貴方と会う機会が減ってしまったから魔術団には複雑な思いを抱いてらしゃるの」
どうかこの声が、彼の心に届けばいいと思う。
「シャーロット様が貴方を見る眼がカイル様達に向けるみたいに慈しみと優しさに満ちている事を、テオドール様が貴方を呼ぶ声に親しみと誇らしさが混じっている事を、貴方も気づいているでしょう。本当の家族みたいにじゃない、彼らにとって貴方は紛れもなく本当の家族よ。貴方にとって彼らがそうであるように」
優しい物語のような世界。それに本当に憧れていたのは私の方だ。
「私の瞳には、いつだって貴方もその物語の一員に見えていたわ。優しくて、暖かい陽だまりのようだと思った。カイル様やクリストファー様に向ける瞳の色が優しくて、シャーロット様にジル君と呼ばれて困ったように笑う表情は柔らかかった。テオドール様と語らう貴方には偽物なんかじゃない、確かな親愛に溢れてた。さっきの言葉をテオドール様達に言えばいいわ。優しいシャーロット様だってきっと怒ってしまうし、クリストファー様なんか泣いてしまうかも知れない」
抱きしめた耳元で祈るように囁いた。
どうか届きますように。
「貴方は空っぽなんかじゃないわ」
息を呑む音が聞こえた。
ジルベルトの腕がクローディアの背を掴む。縋るように弱弱しかった腕が強くクローディアを掻き抱く。折れてしまいそうに強く。僅かに零れる嗚咽と、胸元に感じる熱い雫。
「貴方は泣けるもの。空っぽなんかじゃないわ」
幼子にするように、クローディアは紫紺の髪を撫で続けた。
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