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夢を見ている
しおりを挟む泣き声が聴こえる。
心臓が締め付けられるような哀しい声。
辺りを見渡せば、昏闇の中 ぽつりと浮かぶ人影。
もう何度、この光景を眼にしただろう。
瞳から零れ落ちる大粒の雫。
頬を伝い、顎を伝って零れ落ちる。
「如何して泣いているの?」
問い掛けに、上げられた顔が、瞳が私を見る。
瞳に溜まった雫がまたひとつ流れ落ち、
その雫を掬い上げたくて手を伸ばした。
一人きりの夕食をとった後、自室で思想に耽っていると窓の外で馬の蹄の音がした。
立ち上がり窓を見下ろせば馬車から降りるジルベルトの姿が見えた。差し出された傘を受け取り、足早に玄関向かう姿をじっと見送る。雨脚が強い。先程まで小振りだった雨は次第に強さを増し、外の景色を暗く染めていた。
ザァザァとひっきりなしに降り注ぐ雫が窓を叩く。
闇に沈んだ景色越しに、窓硝子にはクローディアの姿が映っている。
硝子に映る自身の顔は、降り注ぐ雨粒によって歪み、輪郭を失う。
泣いているような。笑っているような。
あるいはその両方のような、そんな自分の姿を見ていたくなくてクローディアはカーテンを引いた。閉ざされた景色の向こう、ただ雨音だけが響いていた。
「おかえりなさい」
階下に降りれば、ジルベルトがタオルで髪や肩を拭っているところだった。
「濡れてしまいましたのね、風邪を召されては大変。すぐに温まった方が宜しいですわ」
「ただいま戻りました。傘が意味をなさない横殴りの雨だったので」
苦く笑う彼の紫紺の髪からポタリと雫が落ちた。
彼の手にしたタオルへと手を伸ばして、雫を零す髪を包み込む。一瞬、彼が身じろぐのを感じたけれども、それには気づかない振りを。
「遅くまでお疲れ様です。お食事は?」
「いえ、今日は止めておこうかと」
「お身体に良くないわ。でしたらわたくしのお茶に付き合って下さいな。クロード、何か軽い物を用意して下さる?まずはお身体を温めてお寛ぎになって、後程旦那さまのお部屋に伺いますわ」
クロードに指示を出し、ジルベルトの背を軽く押す。
「ではまた後程」
クローディアの声にジルベルトは一瞬躊躇った後、微笑んで頷いた。
重厚なマホガニーのテーブルの上にはガラス製のティーポットとカップが二つ。
ミルクポットに、ジルベルト用に用意されたサンドイッチと、ハーブティーに合わせた素朴な味わいのクッキーとヌガー。ティーカップは一つが空で、一つは半分程減っていた。
視線を扉へと向ける。
夜間だからと半分開けられたままの扉はクローディアへの配慮だ。
手を出すつもりも無い癖にマメな事だ。開かれた扉の先にいるクロードを促した。
礼をして入室したクロードの視線がティーカップへと流れる。
「カモミールとペパーミントのハーブティーよ。旦那さまは甘いものが得意でないからローマンの方がいいかとも思ったのだけれど、リラックス効果の高いジャーマンカモミールにミルクをプラスしてみたの」
まだ中身の残っているカップにティーポットの残りを注ぎ、クロードの前で口にしてみせた。
「効能を高めたハーブを使用してはいるけど、混ぜ物はしてないわ。安心して」
言って、一人用の椅子に腰かけたまま眠るジルベルトを見遣る。
深く腰掛け、僅かに左に傾いだ躰。
膝の上で組まれたいた手は左腕だけがだらりと零れ落ちていた。
「よっぽどお疲れだったのね。安眠効果を狙ったとはいえぐっすり」
「最近は、あまり・・・眠られておられなかったようなので」
「そうでしょうね」
苦く、笑う。
眠る彼の瞼の下には薄っすらと隈が透けて見える。
滲む疲労の色。いつか見たそれは、かつてのそれより尚色濃くて。
クローディアが仕事を手伝うようになって、明らかに手が空くようになった筈なのに。
最近また一人で食事をとる機会が増えた理由は、
睡眠時間は増えた筈なのに彼が眠れないその理由は_____
胸が、軋む様に痛んだ。
「出来る執事としては主人を諫める事も仕事なのではなくて?」
座ったままクロードを見上げて問えば、小さく笑って首を振られた。
「そうですね。しかしジルベルト様には逆効果です。この方は生真面目で優しい、優しすぎる程に。私が忠言をしたところでこの方の意見を変える事は出来ませんし、却って深く思い悩まれるだけです」
琥珀色の瞳が心配気に、それでも柔らかい色を湛えてジルベルトを映す。
胸に手を当て、言葉を続けるクロードの瞳は幼子を見るように優しい。
「それに私は信じておりますので」
だから主人の苦しみを深めてまで諫める必要はない、とそう告げるクロードに「そうね」と返したクローディアへと柔らかな瞳が向けられた。
「貴女様の事も」
アメジストの瞳が見開かれる。
驚愕を浮かべる素の表情が何処か幼くて、クロードは瞳を細めた。
「クローディア様も“大丈夫だ”と、そう信じていらっしゃるのでしょう」
反論をしたくて、だけどクロードの全て見透かすような瞳に圧されてクローディアは唇を噛んで視線から逃げるように顔を背けた。
「貴方のそういうところ、苦手だわ」
「それは申し訳ございません」
慇懃に腰を折るダークブラウンの頭を横目に拗ねたように問いかける。
「どうしてそう思うの?」
「クローディア様がジルベルト様のことをとても大切にして下さっているからでしょうか。お仕事を手伝い、体調を気遣い、お心を砕いて下さっている」
フッと鼻で笑った。行儀が悪いだとかもう知った事か。
「皮肉かしら?現にわたくしの事で彼は苦しんでいるのよ」
「貴方様が原因であろうとも、それは貴方様の責任ではありません。むしろその点に関してはジルベルト様の落ち度であり、クローディア様には責める権利こそあれ責められる謂れなどありません」
先程とは一転して厳しい眼を眠るジルベルトへと向け、クロードは嘆息する。
「クローディア様にはジルベルト様を恨む権利がおありです」
「ないわ。だって此れは対等な取引だもの」
「ええ、ですから気づいたのです。クローディア様がジルベルト様が踏み止まれると気づいている事に。対等な取引と仰るのなら、申し出があってすぐに婚約をお受けする事も婚姻を結ばれる事も出来たでしょう。それをしなかったのは取引が成立しない事を始めからご存じだったからでしょう?」
「・・・」
「幾らでも付け入る隙はあった筈です。貴方様もジルベルト様と同じく生真面目でお優しい方ですね」
優しくなんてない。
そんな事、自分が一番知っている。
だから一層、柔らかく告げる声音が煩わしくて、クローディアは更に強く唇を噛んだ。
「ひとつ、お聞きしても宜しいでしょうか?」
「碌な質問の予感がしないわね」
投げ捨てるように言って、肩を竦める。
「クローディア様の視線の先には何があるのですか?」
ほら、予感は的中だ。
「時折感じておりました。クローディア様の視線はまるでジルベルト様を通して他の何かを見ているようだ、と」
淡々と語るクロードの声は何処か遠く聞こえる。クローディアは肺の底から全て吐き出すように息を吐きながら前髪をくしゃりと掴む。椅子の肘置きを握りしめた手は力を入れすぎて指先が白くなっていた。見透かされたくなかった事ばかり見透かされて一気に色んな事が莫迦らしくなってくる。
「鈍感な男はモテないけど、鋭すぎる男も嫌煙されるわよ」
せめてもの嫌味を零すけど、それさえも眼の前の男には意味を成さないのだからやってられない。軽く躱す彼は大人で、これが人生経験の差というものか。
「・・・夢を見てるの」
ポツリと呟いた声は酷く頼りなかった。
言葉にして改めて、自身の吐き出した言葉はストンと胸に堕ちる。
そう、夢だ。
自覚すると共に自嘲が漏れた。
「子供の頃、成りたかったものがあるの。何だと思う?」
聖女でも、王妃でもなかった。
お伽噺のお姫様に憧れてはいたけれど、成りたかったのはそんなものではなくて。
「お嫁さん」
クロードの丸い眼を見つめて「似合わないでしょう?」とクローディアは笑った。
「大好きな人と結婚して、お嫁さんになるの。おままごとみたいなありふれた幸せ。何てことなくて、だけど特別なそれが欲しかったし手に入ると信じてた。でも叶わなかった」
何かを掬おうとするかのように両の手を合わせ、指の隙間から零れ落ちていった沢山のものに想いを馳せる。
「だから差し出された手を取ったの。手に入らなかったものの代わりに、束の間のおままごとに興じようと思ったの。理由なんてどうでもいいし、真実なんて要らない。ただもう少しだけ夢を見ていようと決めた」
莫迦みたいなこんな気持ちは、大人なクロードにはわからないだろう。
呆れられる事を覚悟してたのに、彼は痛まし気にクローディアを見る。
「それならば尚更、ジルベルト様の提案を呑まれれば宜しかったでしょう」
「駄目よ、クロードが言ったでしょう?取引が成立しないのをわかってた、って。破綻するのが分かってて婚姻を結ぶつもりはなかったもの。おままごとぐらいが丁度いいのよ」
クローディアは立ち上がって隣の椅子に置いていた紙袋をクロードに渡した。
「わたくしの淹れたお茶はもう飲んで下さないかも知れないから。貴方が時々淹れてあげて。ぐっすり眠れる筈よ、効果は保証するわ」
眠るジルベルトに視線を投げかけて笑えば「畏まりました」とクロードが袋を受け取る。
クローディアは穏やかに眠り続けるジルベルトの頬を包んでそっと額に唇を落とした。
「夢も見ずにおやすみなさい」
祝福を与えるかのように落とした唇を離して、クロードに「彼をお願いね」と後を任す。「おやすみなさいませ」と腰を曲げて見送ってくれるクロードにふと、扉の前で足を止め振り返った。
「そういえば、クロードこそクレアと結婚しないの?」
一瞬止まった彼の表情にやっと一矢報いた気持ちになった。
でもそれもほんの一瞬の事で
「今は主人達の事で手一杯で、私事にかまけている余裕などありませんので」
にこやかに返された言葉に思わず舌打ちしたくなった。
大分開き直ってしまったとはいえ、流石に行儀が悪いからしなかったけど。
「おやすみなさい」
投げやりに告げた声に、もう一度丁寧な就寝の挨拶と共に見送られた。
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