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第1話 序幕

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 青天は洛央らくおうの都の上空に広がり、街の喧騒が今日も翠花ツイファの耳を楽しませる。茶褐色の街路を馬に引かれた荷車が走り抜け、埃っぽい匂いが彼女の鼻の奥を突いた。
 翠花はお盆に載せた二つの湯呑みに満ちている飲み水に視線を落とす。水面が微かに揺れているけれど、いたって平穏。それはきっと今の紫銀国の天下そのものなのだと、なんとなく思った。
 そう思っていた刹那、背中の方向から大きな声がした。

「お前! ちょっと待て! おいそこの女! いや、誰でもいい、その男を捕まえろ!」

 焦燥に溢れた声。それでも良く通る美しい声だ。
 振り返るより先に、翠花の背中に何かがぶつかったような衝撃が走った。

「――きゃっ!」

 お盆の上の湯呑みは倒れ、満たされていた飲水は酒場の広い軒下に広がる日陰の地面へと撒き散らされた。足元に黒い染みが広がる。背中を強く押された翠花は思わず両膝を突いた。
 誰かが背後を駆け抜けていく足音がした。両手を地面に突いて顔を上げると、何か鞄のようなものを抱えて走り去っていく、ひょろりとした男の背中が見えた。きっと盗人だ。酒場での盗難は洛央の都でよくある話だし、そんなに優秀な盗人にも思えなかった。そもそも本当に優れた盗人であれば、気づかれることなく盗みを終えるものだ。つまり盗まれた側がかなり不用心であったのだろう。
 丁度、走り去った荷馬車を追うように、その男は雑踏の中へと消えていった。その背中を酒場の客人たちは愉快そうに眺めていた。時に他人の不幸は蜜の味だったりするのだ。

「おい! お前たち、なぜ追わない!? あれは泥棒だぞ! 私の大切な荷物を奪っていったのだぞ!?」

 またさっきと同じ男が居丈高な声をあげた。翠花は立ち上がり拾った湯呑みとお盆を脇にあった机に置くと、膝に付いた砂を軽く払う。振り返るとその視線の先で声の主を確認した。
 声を上げていたのは女性みたいに白い肌を持った背の高い男だった。髪は長く、それを無造作に頭の上で結わっている。服装は決して高級なものではないが、いかにも下ろしたてといった感じ違和感があった。
 纏う雰囲気からして普通の庶民でないことは明らかだった。どこかの富豪の三男坊か何かだろうか? でもその男の右手が左腰に伸びているのを見て、翠花は別の可能性を考えた。もしかしたら宮廷の人間だろうか? 左腰に右手を伸ばす仕草は帯刀を許された宮廷の武官や文官が良くする仕草だ。さらにより地位の高い貴族とも考えられるが「そんなはずはないか」と、翠花はその可能性を頭の外へと追いやった。
 周囲の机に座るお客たちをに回すと、その多くは無視を決め込んでいたし、残りは怪訝そうな目でその男を見ていた。あとはクスクスと忍び笑いを漏らす娘たち。

 そんな店内を見回して、男は、憤懣やるかたないという表情を浮かべている。そしてもう一度声を張り上げようとでもするように、息を吸った。とんだお坊ちゃまだ、――と翠花は溜め息を吐く。どこの豪商の息子か、貴人の御曹司かは知らないけれど。

「ええい、埒が明かん! お前たち、店のものを――」
「――お客様」

 翠花は手に持ったお盆を色白美男子の顔の前に立てた。
 食卓へとずいと身体を寄せて。その口を塞ぐように。
 視界を突然、茶色いお盆の底で男は驚いたように言葉を止めた。
 翠花がお盆を下ろすと、その後ろから、怪訝そうに眉を寄せた整った顔が現れた。

「……何だお前は?」
「店員でございます。ただの給仕でございます」
「ただの給仕がどうした?」

 男はまだ不機嫌そうな顔のまま翠花を見下ろしている。
 翠花は今更ながら、男の背が高いことを実感する。
 彼女とて女性としては特に背が低いわけではない。街に住む同じ年頃の女の中では中くらいだろうか。それでもこの怪しい男の身長は、翠花よりも頭一つ分は優に高かった。やたらさっぱりとした身なりの美丈夫は。

 翠花は努めて笑顔を作って、彼女は見下ろすその男の顔を見上げた。首は少しだけ横に傾けながら。

「いえ、お客様が店の者を呼んでおいでのように思いましたので」
「それはそうだが。お前みたいな女の給仕が出てきても話にはならん。ちゃんとした男の店主を出せ」

 鼻で笑うと、男は両腕を胸の前でゆったりと組んだ。その所作を見て、翠花はこの男が武官ではないことを悟った。
 武官であればことさらその腕の筋肉を際立たせ、その威容を示すような腕の組み方をするものである。それに比べるとこの男の腕の組み方は、まるで着物の袖に両手を入れるような滑らかさがあった。
 では、文官だろうか? 文官であるならばもう少し礼節を弁えて欲しいなぁ、などと、生意気にも翠花は町娘ながらに思ったりする。

「それは申し訳ございません、お客様。実は残念なことに、この店の店主は齢60を超え、酒に入り浸り、すでに耄碌もうろくしておりまして、男ではありますが、『ちゃんとした』と言えますかどうか?」
「いや、まぁ、そうか――。それは、……何だか大変だな。では他には頼れる男などはいないのか? 私は必ずしも店主にこだわるわけではないのだ」

 少しだけ申し訳なさそうな表情を浮かべる。きっと翠花の話が残念すぎたのだろう。――いや、わかる。残念すぎる自覚は、翠花にもある。
 どうやらこの男は必ずしも話の分からない人間というわけでもなさそうだ。

「それでも男であることにはこだわられると?」
「……そういうわけでもないが。家長は普通、男子であろうし、だな」
「一応、男子もおりますが、彼はどちらかというと筋肉ですから、お店のことに関して『ちゃんとした』話をするのでしたら、私になるかと思います」

 そう言いながら翠花は、幼馴染の飛龍フェイロンに頭の中で「ごめんね」と舌を出した。

「――お前がか? 本当に給仕の町娘にしか見えないが」
「失礼ですね。こう見えても働き者でこのあたりのじゃ評判なんですよ。私」

 自分で言うものでもないが、まんざら嘘でもない。
 血の繋がらない父親代わりが、飲んだくれて酒だ、賭博だ、女だにお金を使うばかりで禄に働かなくなってから、この店を切り盛りしているのは自分なのだ。
 まあ、人と話すのも、人を観察するのも嫌いじゃないから良いのだけれど。時々、こういうトラブルを始めとした面倒事もあるけれど、それも含めて翠花はこのお店が好きだった。常連のお客さんも個性的で、面白い人ばかりだったから。

「では、わかった。お前が店の代表だと言うなら、それでいい。――では、そちらに座ってくれたまえ」

 その男は何を思ったか、翠花に彼は座る椅子の正面の席を進めてきた。
 いや、どこに給仕に着席を勧めるお客がいるのか? どうにもこの客は世間知らずらしい。武官でも文官でもない世間知らずとなれば、異国からの旅人かもしれない。それにしては紫銀国の言葉が流暢である。もしかして本当に宮廷に住まう貴人なのだろうか。

「――どうした。座らないのか?」
「は、……はぁ」

 翠花は仕方なく正面の席を引いて腰を下ろした。店がちゃんと回っているかが少しだけ気になって振り返ったが、他の娘たち、厨房の中の料理人も問題なく働けているようだった。
 色白長髪男のせいでさっきまで変な空気だったお客たちも、次第に自分たちの食事と会話に戻っていた。チラチラとこちらを見る目もあるけれど、特段の悪感情を持ってのものでもないようだ。むしろただの野次馬根性。このお客のせいで店内がお客様の過ごしにくい空気になることは防げたようで、翠花はホッと胸を撫で下ろした。

「それで、お話とは何でしょうか?」

 机の上にはまだ食べさしの肉の塊と、茶碗いっぱいのスープが残っていた。いずれも当店では、高価格帯にある料理である。
 その腰にはきっと銀貨でもじゃらじゃらと入った小袋でも潜ませているのだろう。そう考えるとこの女みたいな顔の男が急に上客に見えてきて、翠花は涎を垂らしそうになった。基本的には現金で逞しい娘なのである。

「私は大切な荷物を知らない男に盗まれてしまったのだ」
「それは、災難でしたね……。お気の毒に存じます」

 できるだけ丁寧に、翠花は両手を膝の上に揃え、小さく頭を下げた。

「驚いたぞ。店の中で物を盗まれることがあろうとは」

 その一言に、むしろ翠花が驚いた。なぜそんなことに驚くのか、と。
 特にこの席は店の中とはいえ藁葺き屋根を伸ばした軒下の空間だ。街路とも接していて、別に屋内というわけでもない。もちろん屋内だったら盗みがないというわけでもないのだけれど。それでもその頻度は屋外よりも小さくなるだろう。
 いずれにせよ、そんな屋外だから、都の街路と同じ程度に盗難には気をつけなければならない。それはこの都に住むものなら誰でも知っている常識だった。

「お客様はこの都は初めてでいらっしゃいますか?」

 この気位と身長の高い女男が、異国からの旅人であったという想定のもとで、翠花は質問を投げかける。

「失礼な。私は生まれも育ちもこの洛央の都である。お主よりもきっと長い間、この都に住んでおるぞ」

 外れだったみたいだ。

「そんなに長くお住みでしたら、ご存知でしょう? 都では街路での窃盗は日常茶飯事でございます。とくにお客様みたいにいかにも育ちが良さそうで、お金を持っていそうな人なんて、『是非、僕からお金を盗んでください』とでも言っているようなものですよ?」
「……そうなのか?」
「そうですよ」

 男が目を見開いて、少年みたいにその瞳を驚きで満たずものだから、翠花はなんだか変な気分になって視線を逸した。
 男は考え込むように腕を組むと、顎に親指を付けた。

「あの荷物。大切なものなのだ。どうすれば取り戻せるだろうか?」
「――さぁ。――県尉けんいさまが偶然にも捕まえてくだされば良いのですが」
「県尉か……、そうだな」

 真っ当な意見だと言わんばかりに、男は何度かうなずいた。

「でもお客さま、県尉は都の犯罪者を取り締まる役人ではありますが、取り締まりはしても、遺失物や盗難物を持ち主に返してくれるところまでやってくれることなんてほとんどありませんよ?」
「――そうなのか?」
「ええ」

 このお客は本当に世間知らずらしい。この国の県尉は腐敗しているとまでは言えないけれど、流石に盗難物を盗まれた本人を探して返してくれるというところまでやってはくれない。むしろ取り締まった犯罪者が持っていた盗難物はこっそり懐に入れてしまうというのは、もっぱらの噂だ。

「それは困ったな」

 本当に困った様子だ。この世間知らずっぷりから見て、相当のお金持ちの坊やなのだというのは間違いないだろう。そんな彼がそこまで盗まれて困るものとはなんだろう? 幾許かの好奇心が胸の奥で頭を擡げた。

「いや、そうだ。だからこそ、盗まれた時に、すぐにでも追いかけて欲しかったのだ」
「そうですね。初動で捕まえてしまわないと、逃げられたあとでは取り返すことはとても困難だと思います」

 両手を組んで、男は肘をつくと、続けた。

「ではなぜ、そこにいる者たちは誰一人あの盗人を追いかけてくれなかったのだろうか? 私は追いかけて欲しいと皆に願ったのに」

 本当に不思議そうに。男は整った美しい顔の上で目を細めた。
 翠花はその時のことを、思い出してみる。
 目の前の男はこんなことを言っていた。

『お前! ちょっと待て! おいそこの女! いや、誰でもいい、その男を捕まえろ!』
 それを彼はこう表現したのだ。「追いかけて欲しいと皆に願った」と。

「ねぇ、お客さん。それ、本気で言っています?」

 翠花の言葉に、男は組んだ手から顔を上げると、「ん?」と眉を上げた。
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