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Episode 14 僕を知らない君
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【2024年10月30日】
後期が始まって、一ヶ月が経った。未央が彼女の世界へと帰ってから三週間だ。僕は京都御苑の南、丸太町通を西に歩いている。夏は完全に過ぎ去った感じで、最近は夜七時にもなると、京都の空もとっぷりと暗い。
烏丸通りにぶつかり、赤信号で足を止める。北からヘッドライトをつけて通り抜けるタクシーを目で追ってから、僕はゆっくりと視線を南から空へと上げる。京都の中心地がある烏丸通りの南方はまだ明るかったけれど、十分に高度を上げると、頭上にはいくつかの星が見えた。
あの日のことを思い出す。未央と出会った日のことだ。もう一ヶ月以上前のことだけれど、あの日のことは鮮明に覚えている。ただ充電器を借りただけだったのだけれど。今から考えたら、一目惚れだったのだと思う。同じ人物にもう一度一目惚れをしたら、それはなんと言うのだろうか? 二目惚れ? それじゃあ、どこか一度目は惚れていなくて、二度目に惚れたみたいだな。
横断歩道の信号が青に変わり、丸太町通りを東に向かう車が動き出す。僕の隣に立っていたビジネススーツの男性が疲れた様子で歩き出し、左側を薄緑色のタクシーが抜けていく。僕もまた横断歩道へと一歩を踏み出した。
かすかな不安と、期待を抱えながら。君にもう一度出会いたくて。
夏菜子と翔とは、あれからまた話すようになった。話すようになったと言っても、バンドを再結成したわけでもなく、同じ講義を取っているわけでもないから、メッセージのやりとりをするくらいだ。会う機会はそんなにない。三人で一度、ご飯に行ったくらいだ。
母の過去、そして自分の出生の秘密を知ってから、十年来抱えてきた思い。それが解消されたと言ったら嘘になる。だけど僕にとってそれに比べても、一年間、夏菜子に対して抱えてきた秘密とその罪悪感は大きかったようで、夏菜子に彼女の怒りをぶつけられて、謝罪の心をぶつけられて、それから抱えていた気持ちをぶつけられて、なんだかその嵐の中で、何かがリセットされてしまった気がした。
物理学でいうところの対消滅にも似た概念かもしれない。対消滅というのは、素粒子とその反粒子の対が合体して消滅し、他の素粒子に変わることだ。そのときにものすごいエネルギーが放出されることもある。
あの事件と僕の告白の後、姿を消していた一週間ほど、夏菜子は実家に帰っていたのだと言う。自分の心の整理をつけるために。そして父親に真相を問いただすために。
そういう直情的なところが夏菜子らしい。血はつながっているけれど、僕にはないところだと思うから、もしかすると母親似の部分なのだろうか。夏菜子の母親には会ったことがないけれど、いつか見てみたい気もする。
夏菜子に問い詰められた父親は、もう隠すこともなく、事実を認めたのだそうだ。
『どちらにせよ、夏菜子が二〇歳になったら言う予定だった』
とのこと。僕の母親と同じことを夏菜子の父親も言っていたわけだ。お互いの子供が二〇歳になるまでは、話さないというのは、やっぱり両サイドでの合意だったのだろう。僕は先に知ってしまったのだけれど。
問い詰めるつもりだった夏菜子は、あっさり認められたことに、逆に心のやり場がなくなったらしく、実家で大爆発したのだという。――いかにも夏菜子らしい。事実関係を確認した後、当然のように夏菜子と父親は大喧嘩をしたのだという。――そりゃそうだろう。
夏菜子は実家の自室に盛大に引きこもり、心を落ち着けるために、一週間近く、悶々とした日々を過ごしたという。その間、何をしていたのか、僕は聞かないことにした。多分、大音量でピアノなりキーボードなりを叩いて、甚だしい近所迷惑を起こしていたのは、間違いないだろう。
いずれにせよ、一週間以上の時間をかけて彼女なりの心の整理をつけてきた夏菜子は、僕らのもとへと戻ってきたわけだ。根本原因である父親のことは許さないらしいけれど、知っていながら黙っていた僕のことはそこそこ許してくれるらしい。それがどこまで本当の許しなのかはわからないけれど。
アイスティーに差した赤いストローを指先で摘んで揺らしながら、彼女は言った。
『だけど、「お兄ちゃん」とは死んでも呼ばないからね』
それは呼ばなくていいと思った。
【2024年10月30日】
「――ダブルチーズバーガーセット。ホットコーヒーMで」
スマートフォンのアプリでクーポンを見せながら注文する。あの日の注文とまったく一緒。ちょっとした験担ぎみたいなものかもしれない。こんなことばかりしていたら、そのうち太ってしまいそうだけれど。
今日はお客さんも少なくて、すぐにできるから、カウンター前で待つように誘導される。しばらくするとダブルチーズバーガーとポテトとコーヒーの乗ったトレイが呼出番号と共にやってきた。受け取ると僕はカウンター脇にある階段で二階に登る。そこには今日も彼女の姿はなかった。かすかな落胆が胸の奥に落ちる。
両目を一度閉じて気持ちをリセットすると、三階への階段に足をかける。一歩ずつ階段を上がる。深夜遅くまで営業しているこのハンバーガーショップは夜になっても明るい。むしろ夜だからこそ明るい。なんだか外から隔絶された別世界みたいな感覚がある。だからもし君がいなかったとしても、僕は一人でこの空間で時間を過ごしてきた。毎日というわけじゃないけれど、時々。勉強のために。君の姿を探しながら。
三階の飲食スペースに入った僕は不審者にならないように、店内を見回す。いかにも自分の座る席を探すみたいに。そして僕は見つけた。あの日の君とそっくりのさらりとしたボブヘアを。机の上にドイツ語のテキストを広げている君の姿を。思わず声をあげそうになる。声をかけそうになる。
だけど僕の理性がそれに一旦ブレーキをかける。だって、彼女にとって僕は知らない人。いきなり声なんてかけたら、それはただの不審者なのだ。同じ大学の学生だから、不思議の度合いは若干低下するとはいえ。
僕のことを知っている未央はここにはいない。彼女は元いた世界線へと帰ったのだ。
僕の元バンドメンバーであり、義理の妹である東雲夏菜子の命を救って。だから彼女は僕のことを知らない初対面の女の子なのだ。違う学部の。
あらためて「これなら、やっぱり夏菜子に紹介してもらった方がよかったかな」と、ここまで来て思う。だけど夏菜子の気持ちを知ったあとで、それを頼むのは気が引けた。
それにクラスの違う顔を知っている程度の関係で、仲介を頼んだところで、気まずさは何一つ軽減されないように思えた。まるで青春恋愛漫画に出てくる友達にラブレターを渡してもらう女子じゃないか。モブキャラ確定である。
僕はノートに向かう未央の後ろ姿をあらためて確認してから、そこから少し離れた窓際の席にトレイを置いて、カバンを下ろした。横目に彼女の横顔を盗み見ながら、どうやって声をかけようかと思案する。誰かに相談したいくらいだけど、翔に相談するというのも何か違う。夏菜子には聞けない。
なんとなくスマホの画面をつける。ポップアップウィンドウがバッテリー残量の低下を告げる。画面右上のインジケーターを確認すると、残り17%だった。家に帰るまでギリギリ持ちそうに思うけど、なんとも微妙な数字だ。
ふと僕の心の中に悪戯っぽい発想が浮かび上がってきた。それが正しいことかはわからないし、それが不審者の行動ではないとは言い切れないのだけれど。それほど不自然なことでもないように思えたから。
僕は一度着席して、ドイツ語の教科書とノートを開く。コーヒーにミルクを入れると、まだ熱い褐色の液体を口元に運んだ。大きな息をひとつ吐くと、スマートフォンを手に立ち上がった。心臓が徐々に煩く音を立て始める。
僕は本当は僕が知らない女性――有坂未央の隣まで来ると、恐る恐る声をかけた。
「――あの、すみません。勉強中、申し訳ないんですけど、携帯の充電器を借りたりできませんか?」
僕が声をかけると、彼女ははっとしたように顔を上げた。こちらを見て、その目を大きく見開く。なんだか心の底から驚いたように。
――ごめんなさい。不審者ですよね。すみません。
ふわりとしたミディアムボブの髪。あの日の未央の夏服と違って、リブTシャツと厚手のベージュのカーディガンは、秋の装いだ。なんだかどこかやっぱり大人っぽさを感じる。
とりあえず怪しまれないように困った人アピールをしよう。スマートフォンを片手に、右手を「ごめん」というように垂直に立てていた。
彼女は驚いた表情で一瞬固まったのちに、取り繕うように「あ、あぁー」と頷いた。急に声をかけられて驚いたのだとは思うが、僕の顔と手に持ったスマートフォンを見比べて、ようやく状況を理解したように、「いいですよ」と口にした。隣の席に置いていたカバンを机の上に置き、その中を開いて探しはじめる。
「えっと。携帯の充電器ってどのタイプですか? ……両側が丸いやつでしたっけ? ――USB Type-Cって言うんでしたっけ?」
「はい。それです。……すみません。勉強に来たんですけど、スマホの電池がほぼほぼなくて。……スマホ切れると勉強の音声データも聞けないんで」
程なく未央は充電アダプターを見つけ出した。「はい」と差しだれた黒いアダプター。僕が右手を広げると、彼女はその上にちょこんとそれを置いた。
「ありがとう。少しだけ借りていていいですか?」
「いいですよ。私はまだ勉強しているので、私が帰るまでは使ってもらっていて大丈夫ですよ」
そう言って柔らかく君は微笑んだ。
まるで他人みたいに。
会話が途切れる。繋がりが途切れる。駄目だ。これじゃ駄目だ。
踵を返しかけた僕は、その足を一度だけ踏ん張る。
「――それドイツ語ですか? 僕も同じ教科書です」
少し離れた座席に開いた教科書を指さして見せる。彼女は首を伸ばすと、それを見つけて、僕に笑顔を浮かべた。穏やかに。
「本当ですね。先生も同じなのかな。――もうすぐ中間テストあります?」
「あります、あります。……前期から。追いつくのがギリギリで大変だったんですよ」
「結構ハードですもんね、あの先生。私は文学部だし、なんとなく専門に近いみたいなところで『できなきゃなー』ってのはありますけど、理系だとそうでもないでしょうし」
彼女は共感したみたいに両腕を抱いて頷いた。
「――あれ? 理系って言いましたっけ?」
「え? あ、なんとなく。……違いました?」
「いや、合っていますけど。はい。工学部です」
確かに男子学生の大多数は本学の人口比率的に男子なので、その推測は正しいだろう。まあ「いかにも理系学生」と見えていたのなら、なんとなく「すみません」という感じがあるのだが……。
「元々、前期はかなりやばかったんですよ。サークルも二回生の頭でやめて、勉強くらいしかなかったので、単位を落とすのはなんだか本当に駄目になっちゃう気がして頑張りましたけど。多分、ドイツ語の前期の得点は単位ギリギリだと思いますよ」
「そうなんだ。じゃあ、後期は大変ですよね。また、ぐっと難しくなってきているし」
「まー、そうですよね。――でも、夏休みの終わりから、ドイツ語はかなり勉強したんで、ずいぶんとマシになったと思いますよ。……一緒に勉強してくれる相手がいたので」
僕はなんだか問いを投げかけるみたいに言葉を紡ぐ。どこかかまをかけるみたいに。彼女は座って、頬杖をついたまま、「へー」と返した。
「それは、友達? ――恋人とか?」
「――さあ、どうなんでしょうね」
僕と未央はどういう関係だったのだろう。恋人ではなかったと思う。友達にはなれていただろうか。それを問うことももうできないのだけれど。
ふとこの世にいない母のことを思った。僕らを助けてくれた未央は、違う世界線で生きている。だけどそれは母がこの世を去ったこととどこが違うのだろうか。
「――じゃあ、頑張ってね」
そう言って彼女は目を細めた。僕の中に衝動が湧き上がる。目の前の未央を抱きしめたい衝動が。だけど、彼女は未央だけど、未央じゃない。
「ありがとう。そこそこ充電できたら返すから」
「――うん、わかった」
僕は携帯電話の充電アダプターを握りしめると、彼女に背を向けて自分のテーブルへと向かった。
もう一度出会った未央はやっぱりなんだか話していて心地が良かった。だけど君を好きな僕が、他の君を好きになることは、果たして誠実だと言えるのだろうか。僕が好きになった君はあの日の君で、今は違う世界線で生きている君なのだ。
「――もう一度、あの時の君に会いたい」
ハンバーガーショップを出て、空を見上げる。深夜になった空にはまばらに星が見えた。ポケットに手を突っ込むと、指先に硬い塊が触れた。僕はそれに結ばれた紐を指先で摘んでポケットから引っ張り出す。夜空を背景にぶら下げたそれは僕の前で街灯の光を浴びて揺れた。
――「刻を翔ける紫水晶」
後期が始まって、一ヶ月が経った。未央が彼女の世界へと帰ってから三週間だ。僕は京都御苑の南、丸太町通を西に歩いている。夏は完全に過ぎ去った感じで、最近は夜七時にもなると、京都の空もとっぷりと暗い。
烏丸通りにぶつかり、赤信号で足を止める。北からヘッドライトをつけて通り抜けるタクシーを目で追ってから、僕はゆっくりと視線を南から空へと上げる。京都の中心地がある烏丸通りの南方はまだ明るかったけれど、十分に高度を上げると、頭上にはいくつかの星が見えた。
あの日のことを思い出す。未央と出会った日のことだ。もう一ヶ月以上前のことだけれど、あの日のことは鮮明に覚えている。ただ充電器を借りただけだったのだけれど。今から考えたら、一目惚れだったのだと思う。同じ人物にもう一度一目惚れをしたら、それはなんと言うのだろうか? 二目惚れ? それじゃあ、どこか一度目は惚れていなくて、二度目に惚れたみたいだな。
横断歩道の信号が青に変わり、丸太町通りを東に向かう車が動き出す。僕の隣に立っていたビジネススーツの男性が疲れた様子で歩き出し、左側を薄緑色のタクシーが抜けていく。僕もまた横断歩道へと一歩を踏み出した。
かすかな不安と、期待を抱えながら。君にもう一度出会いたくて。
夏菜子と翔とは、あれからまた話すようになった。話すようになったと言っても、バンドを再結成したわけでもなく、同じ講義を取っているわけでもないから、メッセージのやりとりをするくらいだ。会う機会はそんなにない。三人で一度、ご飯に行ったくらいだ。
母の過去、そして自分の出生の秘密を知ってから、十年来抱えてきた思い。それが解消されたと言ったら嘘になる。だけど僕にとってそれに比べても、一年間、夏菜子に対して抱えてきた秘密とその罪悪感は大きかったようで、夏菜子に彼女の怒りをぶつけられて、謝罪の心をぶつけられて、それから抱えていた気持ちをぶつけられて、なんだかその嵐の中で、何かがリセットされてしまった気がした。
物理学でいうところの対消滅にも似た概念かもしれない。対消滅というのは、素粒子とその反粒子の対が合体して消滅し、他の素粒子に変わることだ。そのときにものすごいエネルギーが放出されることもある。
あの事件と僕の告白の後、姿を消していた一週間ほど、夏菜子は実家に帰っていたのだと言う。自分の心の整理をつけるために。そして父親に真相を問いただすために。
そういう直情的なところが夏菜子らしい。血はつながっているけれど、僕にはないところだと思うから、もしかすると母親似の部分なのだろうか。夏菜子の母親には会ったことがないけれど、いつか見てみたい気もする。
夏菜子に問い詰められた父親は、もう隠すこともなく、事実を認めたのだそうだ。
『どちらにせよ、夏菜子が二〇歳になったら言う予定だった』
とのこと。僕の母親と同じことを夏菜子の父親も言っていたわけだ。お互いの子供が二〇歳になるまでは、話さないというのは、やっぱり両サイドでの合意だったのだろう。僕は先に知ってしまったのだけれど。
問い詰めるつもりだった夏菜子は、あっさり認められたことに、逆に心のやり場がなくなったらしく、実家で大爆発したのだという。――いかにも夏菜子らしい。事実関係を確認した後、当然のように夏菜子と父親は大喧嘩をしたのだという。――そりゃそうだろう。
夏菜子は実家の自室に盛大に引きこもり、心を落ち着けるために、一週間近く、悶々とした日々を過ごしたという。その間、何をしていたのか、僕は聞かないことにした。多分、大音量でピアノなりキーボードなりを叩いて、甚だしい近所迷惑を起こしていたのは、間違いないだろう。
いずれにせよ、一週間以上の時間をかけて彼女なりの心の整理をつけてきた夏菜子は、僕らのもとへと戻ってきたわけだ。根本原因である父親のことは許さないらしいけれど、知っていながら黙っていた僕のことはそこそこ許してくれるらしい。それがどこまで本当の許しなのかはわからないけれど。
アイスティーに差した赤いストローを指先で摘んで揺らしながら、彼女は言った。
『だけど、「お兄ちゃん」とは死んでも呼ばないからね』
それは呼ばなくていいと思った。
【2024年10月30日】
「――ダブルチーズバーガーセット。ホットコーヒーMで」
スマートフォンのアプリでクーポンを見せながら注文する。あの日の注文とまったく一緒。ちょっとした験担ぎみたいなものかもしれない。こんなことばかりしていたら、そのうち太ってしまいそうだけれど。
今日はお客さんも少なくて、すぐにできるから、カウンター前で待つように誘導される。しばらくするとダブルチーズバーガーとポテトとコーヒーの乗ったトレイが呼出番号と共にやってきた。受け取ると僕はカウンター脇にある階段で二階に登る。そこには今日も彼女の姿はなかった。かすかな落胆が胸の奥に落ちる。
両目を一度閉じて気持ちをリセットすると、三階への階段に足をかける。一歩ずつ階段を上がる。深夜遅くまで営業しているこのハンバーガーショップは夜になっても明るい。むしろ夜だからこそ明るい。なんだか外から隔絶された別世界みたいな感覚がある。だからもし君がいなかったとしても、僕は一人でこの空間で時間を過ごしてきた。毎日というわけじゃないけれど、時々。勉強のために。君の姿を探しながら。
三階の飲食スペースに入った僕は不審者にならないように、店内を見回す。いかにも自分の座る席を探すみたいに。そして僕は見つけた。あの日の君とそっくりのさらりとしたボブヘアを。机の上にドイツ語のテキストを広げている君の姿を。思わず声をあげそうになる。声をかけそうになる。
だけど僕の理性がそれに一旦ブレーキをかける。だって、彼女にとって僕は知らない人。いきなり声なんてかけたら、それはただの不審者なのだ。同じ大学の学生だから、不思議の度合いは若干低下するとはいえ。
僕のことを知っている未央はここにはいない。彼女は元いた世界線へと帰ったのだ。
僕の元バンドメンバーであり、義理の妹である東雲夏菜子の命を救って。だから彼女は僕のことを知らない初対面の女の子なのだ。違う学部の。
あらためて「これなら、やっぱり夏菜子に紹介してもらった方がよかったかな」と、ここまで来て思う。だけど夏菜子の気持ちを知ったあとで、それを頼むのは気が引けた。
それにクラスの違う顔を知っている程度の関係で、仲介を頼んだところで、気まずさは何一つ軽減されないように思えた。まるで青春恋愛漫画に出てくる友達にラブレターを渡してもらう女子じゃないか。モブキャラ確定である。
僕はノートに向かう未央の後ろ姿をあらためて確認してから、そこから少し離れた窓際の席にトレイを置いて、カバンを下ろした。横目に彼女の横顔を盗み見ながら、どうやって声をかけようかと思案する。誰かに相談したいくらいだけど、翔に相談するというのも何か違う。夏菜子には聞けない。
なんとなくスマホの画面をつける。ポップアップウィンドウがバッテリー残量の低下を告げる。画面右上のインジケーターを確認すると、残り17%だった。家に帰るまでギリギリ持ちそうに思うけど、なんとも微妙な数字だ。
ふと僕の心の中に悪戯っぽい発想が浮かび上がってきた。それが正しいことかはわからないし、それが不審者の行動ではないとは言い切れないのだけれど。それほど不自然なことでもないように思えたから。
僕は一度着席して、ドイツ語の教科書とノートを開く。コーヒーにミルクを入れると、まだ熱い褐色の液体を口元に運んだ。大きな息をひとつ吐くと、スマートフォンを手に立ち上がった。心臓が徐々に煩く音を立て始める。
僕は本当は僕が知らない女性――有坂未央の隣まで来ると、恐る恐る声をかけた。
「――あの、すみません。勉強中、申し訳ないんですけど、携帯の充電器を借りたりできませんか?」
僕が声をかけると、彼女ははっとしたように顔を上げた。こちらを見て、その目を大きく見開く。なんだか心の底から驚いたように。
――ごめんなさい。不審者ですよね。すみません。
ふわりとしたミディアムボブの髪。あの日の未央の夏服と違って、リブTシャツと厚手のベージュのカーディガンは、秋の装いだ。なんだかどこかやっぱり大人っぽさを感じる。
とりあえず怪しまれないように困った人アピールをしよう。スマートフォンを片手に、右手を「ごめん」というように垂直に立てていた。
彼女は驚いた表情で一瞬固まったのちに、取り繕うように「あ、あぁー」と頷いた。急に声をかけられて驚いたのだとは思うが、僕の顔と手に持ったスマートフォンを見比べて、ようやく状況を理解したように、「いいですよ」と口にした。隣の席に置いていたカバンを机の上に置き、その中を開いて探しはじめる。
「えっと。携帯の充電器ってどのタイプですか? ……両側が丸いやつでしたっけ? ――USB Type-Cって言うんでしたっけ?」
「はい。それです。……すみません。勉強に来たんですけど、スマホの電池がほぼほぼなくて。……スマホ切れると勉強の音声データも聞けないんで」
程なく未央は充電アダプターを見つけ出した。「はい」と差しだれた黒いアダプター。僕が右手を広げると、彼女はその上にちょこんとそれを置いた。
「ありがとう。少しだけ借りていていいですか?」
「いいですよ。私はまだ勉強しているので、私が帰るまでは使ってもらっていて大丈夫ですよ」
そう言って柔らかく君は微笑んだ。
まるで他人みたいに。
会話が途切れる。繋がりが途切れる。駄目だ。これじゃ駄目だ。
踵を返しかけた僕は、その足を一度だけ踏ん張る。
「――それドイツ語ですか? 僕も同じ教科書です」
少し離れた座席に開いた教科書を指さして見せる。彼女は首を伸ばすと、それを見つけて、僕に笑顔を浮かべた。穏やかに。
「本当ですね。先生も同じなのかな。――もうすぐ中間テストあります?」
「あります、あります。……前期から。追いつくのがギリギリで大変だったんですよ」
「結構ハードですもんね、あの先生。私は文学部だし、なんとなく専門に近いみたいなところで『できなきゃなー』ってのはありますけど、理系だとそうでもないでしょうし」
彼女は共感したみたいに両腕を抱いて頷いた。
「――あれ? 理系って言いましたっけ?」
「え? あ、なんとなく。……違いました?」
「いや、合っていますけど。はい。工学部です」
確かに男子学生の大多数は本学の人口比率的に男子なので、その推測は正しいだろう。まあ「いかにも理系学生」と見えていたのなら、なんとなく「すみません」という感じがあるのだが……。
「元々、前期はかなりやばかったんですよ。サークルも二回生の頭でやめて、勉強くらいしかなかったので、単位を落とすのはなんだか本当に駄目になっちゃう気がして頑張りましたけど。多分、ドイツ語の前期の得点は単位ギリギリだと思いますよ」
「そうなんだ。じゃあ、後期は大変ですよね。また、ぐっと難しくなってきているし」
「まー、そうですよね。――でも、夏休みの終わりから、ドイツ語はかなり勉強したんで、ずいぶんとマシになったと思いますよ。……一緒に勉強してくれる相手がいたので」
僕はなんだか問いを投げかけるみたいに言葉を紡ぐ。どこかかまをかけるみたいに。彼女は座って、頬杖をついたまま、「へー」と返した。
「それは、友達? ――恋人とか?」
「――さあ、どうなんでしょうね」
僕と未央はどういう関係だったのだろう。恋人ではなかったと思う。友達にはなれていただろうか。それを問うことももうできないのだけれど。
ふとこの世にいない母のことを思った。僕らを助けてくれた未央は、違う世界線で生きている。だけどそれは母がこの世を去ったこととどこが違うのだろうか。
「――じゃあ、頑張ってね」
そう言って彼女は目を細めた。僕の中に衝動が湧き上がる。目の前の未央を抱きしめたい衝動が。だけど、彼女は未央だけど、未央じゃない。
「ありがとう。そこそこ充電できたら返すから」
「――うん、わかった」
僕は携帯電話の充電アダプターを握りしめると、彼女に背を向けて自分のテーブルへと向かった。
もう一度出会った未央はやっぱりなんだか話していて心地が良かった。だけど君を好きな僕が、他の君を好きになることは、果たして誠実だと言えるのだろうか。僕が好きになった君はあの日の君で、今は違う世界線で生きている君なのだ。
「――もう一度、あの時の君に会いたい」
ハンバーガーショップを出て、空を見上げる。深夜になった空にはまばらに星が見えた。ポケットに手を突っ込むと、指先に硬い塊が触れた。僕はそれに結ばれた紐を指先で摘んでポケットから引っ張り出す。夜空を背景にぶら下げたそれは僕の前で街灯の光を浴びて揺れた。
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