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8月編
98話 好きな理由
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またみんなと逸れた。
日光と一緒にみんなと合流し、歩き始めて数分と経たない内の出来事だった。
ふとクロワッサンたい焼きの屋台に目が止まり、おいおい普通のたい焼きよりも倍の値段もするのかよ、と驚愕していたその一瞬で僕はみんなを見失ってしまった。
橘と一緒に飴を食べた両脇に屋台が並んでいた一般道や、それよりもやや狭く、日光と一緒に射的をした片方にだけ屋台が並んでいた道と比べ、今歩いている道は屋台が点々としか並べないほどの狭い道だ。
しかも灯りはその点々と並んでいる屋台とぶら下げられている提灯だけでなんとも薄暗く、花火の打ち上げ1時間前ということもあってか人がさらに増えてごった返しになっていて…………まぁ、そんなのはただの言い訳で、よそ見をしていた自分が悪いってのは分かってはいるんだけども……。
「はは……」
高校生にもなってろくに集団行動の取れない自分が情けなくて、自嘲気味な笑いが1人でにこぼれた。
「迷子の達人」という不名誉なあだ名を晴矢につけられ「太◯の達人みたいに言うなよ」とか言っていた数分前のやりとりがはるか昔のように感じられる。
はっちゃんから「迷子にならないように手を繋いでやろうか」と冗談混じりに言われたが、次にみんなと合流した時は本気で言われそうだ。
ひょっとすれば僕はそこら辺を歩いている小さな子たちよりも迷子になる才能があるのかもしれない。
……待てよ。そもそも迷子の達人って何? それに自分で言っておいてなんだけど迷子になる才能って? いや、今はそんなことどうでもいいな。僕が今やらなきゃいけないことは、電話でみんなと連絡をとって早く合流することだ。
僕は人の邪魔にならない所で電話をするために、人気の少ないところを探しながら歩く。
……ん? あれは……。
細い脇道の入り口近くに僕は見知った顔を発見し、近付いた。
そこにいたのは薊だった。
薊はなにやら困っている様子で携帯電話を触っていて、側にいる僕に全然気付く様子はない。
「薊」
僕の呼びかけで薊はやっと僕がいることに気付くと、彼女は苦笑しながら軽く頭を下げた。
「丁度良かった。助けを呼ぼうと思いよったけん」
「助け?」
「その……下駄の鼻緒が切れちゃって」
僕は薊の足元に目を向ける。
薊が左足に履いている下駄。その下駄の鼻緒の足先の部分が見事に根本から切れてしまっていた。
「どうしよう……」
「下駄をちょっと見せてもらえないか? もしかしたら直せるかもしれないから」
「え? これって直せるん?」
「あー、いや。直すというよりは応急処置って感じかも。でも、今日ぐらいなら普通に歩けると思う」
「へぇ。そんなんよう知っとるなぁ」
「じいちゃんちの横に個人で営んでいる小さな呉服店があってさ。そこの店主さんとじいちゃんが昔っからの知り合いで仲が良かったんだ。じいちゃんちに帰った時はその店主さんがよく僕に話掛けてくれて……それで教えて貰った」
呉服店の店主のおばあちゃんはいつも険しい顔をしていて、その顔に似合うようなぶっきらぼうな喋り方をする人だったけど、とても優しい人だった。
鼻緒の応急処置の仕方を教えてもらったのは、祭りの最中に姉の下駄の鼻緒が切れてしまった出来事があったからだ。
屋台を巡っている最中に姉の下駄の鼻緒が切れてしまい、歩きづらそうにしている姉を見て僕は家に帰ろうと促したが、姉はそれを拒否し結局僕たちは花火を見終わるまで家に帰らなかった。姉がそうしたのはきっと、僕が花火を楽しみにしていたからだ。
その夏祭りの次の日。もしまた姉の下駄の鼻緒が切れてしまってもいいように、僕は呉服店に行って店主さんに鼻緒の応急処置の仕方を教えてもらった。……まぁ、教えてもらった次の年に姉は死んでしまったので、それを使う機会がくることは結局はなかったけど……。
「ユキ?」
薊に呼びかけられ、僕はハッと我に帰る。
昔のことを思い出して感傷に浸り、ついぼーっとしてしまっていた。
「ごめんごめん。教えてもらったのがかなり昔のことだから、思い出していて……。それはそうと、浴衣だと下駄を屈んで取るのはきついだろうから僕が取ろうか?」
「流石にそれくらいは自分で……あー、ごめん。やっぱりお願い……。何から何まで申し訳ないなぁ……」
「全然構わないよ」
僕は屈んで鼻緒の切れた下駄に手を伸ばす。
…………こんなにも間近で見ることなんてなかったから知らなかったが、薊はとても綺麗な足をしていた。男のデコボコとした足とは違って滑らかで、爪はしっかりと整えられていて、全体的に細くて美しく――
「ユキ……」
「ん?」
「あの……そんなまじまじと足を見られると、ちょびっと恥ずい……かなぁ」
「うぃっ⁈」
僕は奇声に近い声を上げ、慌てて薊の足から下駄を抜き取り立ち上がる。
「足なんて、み、見てないよ? その……下駄を見てたんだ。こんな細かいところにまで拘りがあるんだなぁと思って」
持っている下駄を指で適当にぐるぐると円を描いて差しながら僕はそう言うが、ちょっと無理のある言い訳だと自分でも思った。
具体的なことは何も言ってないし。細かいところとか言っておいて下駄の全体を指で差したし。何よりの話、下駄に見惚れていたのなら手に取ってからじっくり見ればいい訳だし……。
言った本人でさえそう思っているので、薊は当然疑いの目を僕に向ける。
「ほんまに?」
「ほ、本当本当」
薊にじっと見つめられて、嘘を吐いている後ろめたさから僕はつい彼女から目を逸らしそうになってしまう。
しかし、ここで逸らしてしまえばそれはあれが図星であったと認めているのも同意。
僕は負けじと薊の目を見つめ返す。
そのまま1秒、2秒、3秒…………と、僕たちはしばらく見つめ合い、薊は目を瞑って軽く息を吐き、力を抜くように少し肩を落とした。
「変な勘違いしてごめんなぁ。ウチの足なんて見る訳ないのにね」
恥ずかしそうに照れながら苦笑する薊を見て、半端ない罪悪感が僕を襲う。
今からでも遅くはない。本当は下駄なんかそっちのけですごく綺麗な足に見惚れてましたって言っ……いや、バカか。言える訳ないだろ。そんなことを口走ってしまった日には、足を見たいが為に下駄を取ろうとした足フェチど変態のレッテルを貼られてしまうぞお前は。
雑念を振り払うように僕は頭を軽く振って、鼻緒の応急処置に取り掛かるため、ポケットから財布と包装されたままの手拭いを取り出す。
それを見た薊は「えっ」と声を上げ、困惑するような表情をした。
まぁ、薊がそういう顔をするのも分かる。
人が手を拭いたり汗を拭ったりした可能性のあるものを使うのは嫌だよな。
「大丈夫。見ての通りの新品だから。なんなら薊にあげるよ」
「いやいや、そういう心配やなくって、まさかユキの物を使うなんて思わんくて……。それになんも大丈夫やないよ。ユキの手を拭くもんが無くなってしまうやん。そんなん申し訳ないけんウチのを使って」
薊は小物入れの袋からハンカチを取り出し僕に渡そうとするが、それは見るからにタオルのような厚手の布地であり、大きさも小さく、鼻緒の応急処置には使えなさそうな物だった。
「これはちょっと使えないかな。手拭いみたいな薄い布地じゃないといけないから。それにいいんだ。もう一つ別で手拭いを持って来てるから。橘って小さい子どもみたいで危なっかしいところがあるだろ? だから、橘がこうなる事を予測して新品と普段よく使っている物の2つを持って来たんだ」
もちろんそれは嘘だった。
橘の下駄の鼻緒が切れることなんて全く想定しておらず、手拭いは新品のこれだけしか持って来ていない。……だけど、新品の手拭いを持ってきたのは無意識の内にどこかで、誰かが昔の姉のように下駄の鼻緒が切れてしまった時の為に――なんて思っていた僕がいたのかもしれない。
「それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらうけど……」
そう言った薊は渋々とハンカチを戻した。
もう一つの手拭いを見せろと言われれば危なかったが、差し詰めこの場は乗り切れたようだ。
薊がそのことに気付く前に終わらせるため、僕は急いで鼻緒の応急処置に取り掛かる。
教えてもらったのはもう8年も前のこと。
しかし、その手順は今でもしっかりと覚えている。
まず捻った手拭いの先端を5円玉の穴に通して…………穴に通し……通、くっ、このっ……!
手順は覚えているが僕の手先の技量が足りず、なかなか手拭いが5円玉の穴を通らない。
決まりが悪くなった僕は横目で薊の様子を確認する。
薊は見られていることに気付かないほど僕の手元を注視しており、どうやって直すのだろうという興味津々な目をしていた。
きっと、次に切れるようなことがあったとしても自分で直せるように覚えようとしているのだろう。
そんな薊に「見られているとやりづらいから見ないでくれ」とは言えないし、かといって醜態をこのまま無言で見つめ続けられるのはなんとも堪え難いものがある。
何か話題を振って手元から少しでも気を逸らせることは出来ないものだろうか。
そんな事を考えながら話のネタを探していると、ふと目に止まったのは薊の浴衣だった。
彼女の浴衣は濃い藍色の地に細い白色の線が幾つか流れ、その間あいだに薄紫色の花が咲いていた。
そういえば日光も橘も名前と同じ柄の浴衣だったよな。アザミやアヤメという名前の花があった気がするが、まさか……。
「薊のその浴衣の柄って、もしかして名前と同じ花か?」
「うん、そうやで。この柄の花はアヤメの花。ウチが中学生の時にお母さんが買ってくれたんよ。『花の浴衣には大人の魅力を高めてくれる意味を持つものが多くあって、その中でもアヤメの浴衣は勝負強さを意味する浴衣なんやで』言うてなぁ」
薊はにこにこと楽しそうに話す。
そんな彼女の様子を見るに、着ているその浴衣を相当気に入っているのだろう。
「へぇ、勝負強さを意味する……か。アヤメの花言葉だったりするのかな?」
「ううん。アヤメの花言葉は全くの別もんやで。花のアヤメの漢字が『しょうぶ』と読めることから勝負浴衣って言われよんやって。じゃけん、お母さんから『いつかこの浴衣を着て好きな人を落とさんとなぁ』言われとんやけど……いくら浴衣が綺麗でもそれを着る本人が綺麗やなかったら、落とせるもんも落とせんよね」
薊はそう言って自信なさげに笑った。
浴衣自体を気に入ってはいるものの、それが自分の身の丈に合ったものではないと薊は思っているのかもしれない。
「大丈夫だよ。薊は綺麗だから」
「え?」
「薊が着ている浴衣は確かに綺麗だよ。だけどそれは薊が着ているからこそだと、僕は思うんだ。浴衣で凛と咲く薄紫の花が美しく見えるのも、浴衣姿から大人っぽさを感じるのも、現に薊に美しさと大人っぽさがあるからだ。浴衣なんて結局、着ている本人の魅力を引き出しているに過ぎないんだよ。だから、きっと大丈夫。僕が保証する」
いきなり僕がそんなことを言ったからか、薊の顔は驚きやら戸惑いやらが混じったかのような複雑な表情で僕のことを見ていた。
何も考えずにその場の勢いであんなことを言ってしまった僕が悪いと思うが、そういった顔でただ見られるだけというのはくるものがある。
「あのー、何も返されないと気取ったようなことを言って、ただスベった恥ずかしい奴みたいになってしまうので……なんでもいいから言ってもらえると助かるのですが……」
「あっ、ご、ごめん。まさかユキがそんな事を言うなんて思わんくて……」
「えっ……それって僕が『似合ってる』とか『可愛い』ぐらいの言葉しか言えないと思ってたってこと?」
確かに昨日の水着の時や他の人達の浴衣姿に対してもそんな感じのことしか言ってないような気がするけれども……そう思われていたのなら、それはそれで少し凹む……。
「ちゃうよ。ユキがウチのことそう思っとるなんて、ってこと」
はにかんだような笑顔でそう言った薊に、僕は「あっ。あぁ~、そういうことねぇ……」としどろもどろ気味に返した。
単なる自分の思い込みで勝手に凹んでた事にホッとしつつも、僕が薊のことをどう思っていたのかがバレて結局は恥ずかしい思いをしてしまった。
あれは薊を励まそうとかそう言ったものではなく、本心からの言葉なので誤魔化すようなことは言わないけど。
「ありがとうなぁ。ユキが言うなら……うん、きっとそうやね。またいつか好きな人と夏祭りに来ることがあるんなら、この浴衣を着て頑張ってみる」
薊は両手の握り拳をグッと握りしめ、胸の辺りまで上げた。
その瞬間、彼女の体がグラッと後ろの方に傾いて背後の壁に――
「っ⁈ 薊!」
僕は咄嗟に薊の腕を掴んで引っ張る。
そして、薊の体はそのまま流れるように僕の方にへと――
「あうっ」「ゔぇ⁈」
薊の額が僕の喉と胸の中間部に勢いよく激突した。
「ごめん! まあまあの勢いでぶつかってもうたけど大丈夫⁈ 怪我とかない⁈」
「ぜ、全然大丈夫だよ。こっちこそ引っ張りすぎた。薊も怪我は?」
「ウチも大丈夫やけど……」
僕たちは顔を見合わせ……固まった。
ここは薄暗い細い通りの中だったが、それでも薊の顔がみるみる内に赤くなっていくのが分かった。
それぐらい近い距離に僕たちの顔はあった。
僕たちはぎこちない動きでお互いの体から離れる。
薊は僕に下駄を預けてからずっと片足立ちの体勢だったので、それで疲れてバランスを崩してしまい、転倒しそうになったのだろう。
そしてその下駄の方はというと……話す前から何一つとして進んでいなかった。
醜態を見られるのが恥ずかしいとか、そんなどうでもいいことを気にしている場合じゃない。
僕は一刻も早く下駄を直せるように、それだけに集中して作業に取り掛かる。
すると、あれほど苦戦していたのが嘘だったみたいに、10秒と経たずに手拭いが5円玉の穴を通った。
「あのさ。ウチもユキに聞きたいことがあるんやけどええかな? それとも邪魔になる?」
さっきのことがあってか、もじもじとした様子で薊は僕に聞いてきた。
あとはもう手拭いを5円玉の穴より大きい下駄の穴に通して結ぶだけなので、時間もそれ程掛からないだろうし、作業的にも話せる余裕はある。
それにたったの数秒程のことだったとはいえ、黙々と作業を見られるのはやはりやりづらいものがあった。
「大丈夫だけど、僕に聞きたいことって?」
「一学期の期末考査の前にユキの家でみんなと勉強会したの覚えとる?」
「もちろん。覚えてるよ」
「あの時ユキはさ……好きな人おらんって言よったけど、本当はおるんやろ?」
全くもって想像してなかった質問に手元が狂って5円玉が手拭いと下駄の両方から抜けた。
落ちた5円玉の地面に跳ねる音がやけに大きく耳に響く。
僕の視線はそれの行く先を追うよりも、薊の方を向くことを選んだ。
薊はいつになく真剣な表情で僕のことを見つめていた。
――あぁ、これは間違いない。薊は僕に好きな人がいるというのを確信を持って聞いている。
「……うん。本当はいる。あの時は恥ずかしくて嘘をついた。ごめん……」
下手な嘘はすぐにバレる。そう思った僕は正直な事を言った。
「別に謝らんでもええよ。責めたい訳やないし。それに、あんなみんながおる中で言うのなんか恥ずかしくて無理よなぁ」
薊はそう笑って落ちた5円玉を拾い、僕に渡した。
その顔はまた真剣な面持ちに戻っており、この話がまだ続くことを物語っていた。
好きな人がいることを聞いてきた。となれば、次にくる質問はきっとあれだろう。
「どうしてその人のことが好きなん?」
「ごめん。それは言えな……ん?」
準備していた返答を言っている途中で、僕は自分の耳を疑い言葉を止めた。
好きな人を聞かれると思っていた。理由を聞かれるなんて思ってなかった。
もしかしたら僕の聞き間違いの可能性もあるが……。
「好きな人が誰かじゃなくて、好きな理由を聞きたいのか?」
「うん、そうやで」
どうやらあれは聞き間違いではなかったらしい。
しかし、どうして薊は好きな人ではなくて、好きな理由を聞きたいのだろう?
もしかしてもう既に僕の好きな人が分かっているとか?
……いや、それは考えすぎか。
流石に好きな人が誰なのかは言いたくないだろう、という薊なりの配慮なのかもしれない。
「言いたくないなら別にええよ。ちょっとした世間話みたいな、そんな軽い気持ちで聞いただけやけん」
なかなか話そうとしない僕に、薊は固い表情を崩して遠慮気味に言った。
どうして好きな理由が知りたいのだろうと考えていただけなので、言いたくない訳ではないのだが…………しかし、いつもの仲良しグループに僕の好きな人がいる訳なので、薊がもし僕から聞いた話を瑞稀さんに話してしまえば、僕の気持ちが瑞稀さんにバレてしまう可能性があるかもしれない。
薊は人のプライベートなことを他人に話すような子ではないと思うが……念を押すにこしたことはないだろう。
「その……こういう話って恥ずかしいからさ。だから、他の人には言わないって約束してくれる?」
「心配せんでも大丈夫やで。ただ、ウチが知りたいだけやけん他に広めたりなんかせんよ。約束する」
薊はそう言って頷き、微笑みながらも熱誠を感じさせる視線で僕のことを見つめた。
僕は薊の言葉と表情を信じ、瑞稀さんの好きなところを頭に浮かべていく。
少し幼さのある顔立ちが、勉強や運動が出来るところが、性格は大人しめな方なのに小さい子どもみたいに表情がころころと変わるところが――上げ出したらキリがないくらい瑞稀さんの好きなところは沢山ある。
でも、それらは『好きな理由』として出すには相応しいものでないのかもしれない。
こう改めて考えさせられてみると、好きな人のことが好きな理由を出すというのは意外と難しいものがあった。
他の人ではなく、瑞稀さんでなければならない理由。それを僕は出さないといけない。
僕が瑞稀さんのことを好きになった、ある出来事。
きっとそれが、僕が瑞稀さんのことが『好きな理由』に結びついている――
「少し重たい話になるし、長くなるけどそれでもいいかな?」
「ユキがええなら」
「分かった。なら、話すよ。僕には歳の離れた姉がいたんだけど、僕が小2の時に事故で死んだんだ」
「えっ? ちょっ……待って待って待って⁉︎」
薊は慌てて僕の話を遮る。
その彼女の表情は引きつっていた。
そりゃあ、そういう反応になるよな。好きな人の好きな理由の話で重たい話になると聞かされながらも、話始めが家族の死から始まるなんて普通は思いもしないだろう。
「ほんまにユキはその話しても大丈夫なん? 聞いといてなんやけど……嫌な気持ちにはなったりはせん?」
「もう昔のことだから」
下駄で姉との夏祭りのことを思い出して感傷に浸っていたやつが何を言ってんだか。そんなことを思いながらも、僕はこれ以上薊に変に気を遣わせないよう間髪入れずに話を続ける。
「姉さんは人の為に生きるのが生きがいのような人で、僕にとっては憧れの人だった。だから姉さんが亡くなった時、周りの人や仲のいい友達はそれを知っていたから気遣ってくれたり励ましてれたりしてさ。そのおかげもあってか、自分でもびっくりしてしまうくらい早く立ち直ることができたんだ。でも、本当はそうじゃなかった……僕は姉さんの死とちゃんと向き合えてなかったんだ。そして、姉さんが亡くなってから数ヶ月後の夏休み。姉さんの死と向き合わさせられる、ある出来事が起こった」
姉が亡くなった後、1人で高台の神社から見た花火はいつもの様に綺麗だった筈なのに、僕には色褪せた様に見えていた。
どうしてそう見えるのか? なんて、考えるまでもなかった。
いつも隣で一緒に花火を見ていた人がいない。
それだけのこと。でも、それだけが全てだった。
物心がついた時から毎年姉と一緒に行っていた夏祭りは、僕にとっては姉との大切な思い出だったのだ。
憧れだった人であり、大切だった人はもうこの世にはいない。そんな覆しようのない現実が、1人で花火を見たその時になって、姉の死から目を背けていた僕の心をようやくやっと締めつけた。
「夏休みが終わった後も悲しみや苦しみは残ったままでさ。だけど、数ヶ月も前の姉さんの死を未だに引きずっていると周りに思われたくなくて、僕はそれをずっと1人で抱え込んだままでいようと決めて、隠していたんだ。流石に仲の良い友達には様子がおかしいことに気付かれて『何があったんだ』って聞かれたけど、それでも僕は体調が悪いだのなんだのと適当なことを言って誤魔化した」
晴矢とはっちゃんは僕を心配して声を掛けてくれた。
だけど僕は晴矢たちに嘘を吐いた。
僕の嘘を聞いた晴矢たちは納得をしてない顔をしながらも、それ以上は関わろうとはしなかった。
それは晴矢たちが軽薄とか冷酷という訳では決してなく、僕の意思を尊重しようという彼らなりの優しさだったからだ。
「そんなある日、1人の女の子が僕に聞いてきたんだ。『最近元気がないけど何があったの?』って。もちろん僕は他の友達に言ったように体調が少し悪いだけって言ったよ。でも、その女の子は『それは嘘だよ』って何度も何度もしつこく、僕に元気がない理由を尋ねてきたんだ」
声を掛けてくれた女の子。それが瑞稀さんだった。
忘れ物をして先生に怒られた。親にゲームを隠された。友達と喧嘩した。いくら僕が嘘を重ねても、瑞稀さんは納得しようとはしなかった。
「根負けしてしまった僕は元気がなかった理由を正直に打ち明けた。そうすれば、その女の子もこれ以上はつかかってはこれないと思ったから。案の定、やってしまったって顔をして女の子は押し黙ったよ。心配してくれた人をこんなふうに突き放してしまうことに罪悪感はあったけど、でもこうするしかなかったんだって自分自身に言い聞かせて、僕はその場から逃げようとした。だけど、それは出来なかった。いや、させてくれなかった。女の子が僕の手を引いて止めたんだ」
まさか止められるなんて、これっぽっちも思っていなかった。
瑞稀さんは僕が深刻な悩みを抱え込んでいることに勘づいてはいたものの、それが姉の死であるということまでは察していなかった。なので当然、僕にかける励ましの言葉や慰めの言葉を瑞稀さんは用意していない。だから、僕を止めることなんてしないだろうと、僕はたかをくくっていたのだ。
しかし、その予想に反して瑞稀さんは僕を止めた。
止めたからには、パッと思い付いた気休め程度の言葉ではなく、悲しみや苦しみを丸ごと消し去ってくれる魔法のような言葉があるのだろうと、僕は期待して瑞稀さんの方を振り返った。
瑞稀さんは瞳をいっぱいの涙で潤ませて、それを今にも溢れさせてしまいそうな顔をしていた。
魔法のような言葉――そんなものがないことを、瑞稀さんのその表情が語っていた。
「女の子は『1人で抱え込んでちゃダメだよ』って急にぼろぼろ泣き出してさ。あの時は凄くびっくりしたなぁ……。だって、その女の子が泣く理由なんて何も無いはずなのに泣くからさ。彼女がまるで自分のことのように泣くから、気付いたら僕もつられて泣いてしまっていて……堰き止めて、溜めに溜めていたものが止め処なく溢れて、もう駄目だった」
人前で泣くことでさえ恥ずかしいことなのに、僕は声を上げて泣いてしまっていた。
目の前にいる瑞稀さんもまた、声を上げて泣いていた。
泣いて、泣いて、泣いて――僕たちは涙が枯れるまで……というのは言い過ぎだけど、それくらい長い間泣いていた。
「それまで姉さんの死を思い返して1人で泣くことは度々あった。でも、人前で泣くのは姉さんの葬式以来で、かなり久々だった。1人で泣いた後と誰かと一緒に泣いた後だと、やっぱり気持ちの違いがあって、1人で泣いた後は苦しさや悲しみがそのまま残ったままだったけど、女の子と一緒に泣いた後はそれらがとても和らいだ気がしてさ。それで、今まで悲しみや苦しみで一杯一杯だった頭に考える余裕が産まれたのか、その時になってやっと僕はまた姉さんの死から逃げているってことに気が付いたんだ」
僕は姉の死と向き合っているようで、まだちゃんと向き合えてはいなかった。
仲の良い友人に本当のことを話せずに嘘を吐いたのは、本当のことを彼らに話してまた励まされたり慰められたりし、姉の死とより強く向き合わせさせられるのが怖かったからだ。
だから本当のことを誰にも話すことが出来なかった。
だけど、瑞稀さんに本当のことを伝えて、一緒に泣いて、抱えていた悲しみや苦しみは和らいで、姉の死とまだ向き合えていないことに気付いて……このままじゃ駄目だと思った。
「これからはちゃんと姉の死と向き合おう。そして前へ進む。そう決めた僕はもう大丈夫だと女の子に伝えた。すると彼女は『りっくんは誰かの痛みに触れるのに、自分の痛みを誰かに触れさせようとはしないよね』って言ったんだ。僕はそれに対して何も言えなかった。僕は人の痛みに触れることの辛さを知っている。知っているからこそ、僕は自分なんかの痛みを誰かに触れさせたくはなかったから……。何も言えずにただ目の前にいる女の子のことを見つめるだけの僕に、彼女は優しく微笑みかけて、そして、こう言った。『全部は分かってあげられなくて、ほんの少しだけ分かってあげることしかできないかもしれない。触れたところで何も出来なくて、今日みたいに一緒に泣くことしかできないかもしれない。それでも、りっくんの心を少しでも救うことができるかもしれないのなら、私は貴方の痛みに触れたいよ』って。それを聞いた瞬間、今まで感じたことのないような温かさを胸に感じてさ。気が付いたら僕はまた涙を流していた。きっと僕は、女の子が最後にくれたような言葉を誰かがくれるのを、ずっとずっと待っていたんだ」
心が傷ついている人がいる。でも、その人がその心の痛みを誰にも触れてほしくないと思っているのなら、そっとしておいてあげるのも優しさの一つだと思う。
僕の友人の大半はそういう優しさを持った人だった。
しかし、瑞稀さんは違った。
下手をすれば相手を傷つけてしまうかもしれない。自分さえも傷つくかもしれない。それでも瑞稀さんは人の心の痛みに触れてくれた。
それが他の人とは違う瑞稀さんの優しさであり、それが僕の求めていたものだった。
「誰も触れられなかった心の痛みに触れてくれた。一緒に心の痛みを分かちあってくれた。そして最後に痛みを取っ払って、僕の心を救ってくれた。それが僕の好きな人のことが好きな理由だよ」
そう話しを終えたのと同時に、話しと並行して進めていた鼻緒の応急処置も丁度終わった。
薊に下駄を返すために僕は彼女の方を振り向く。
「よしっ。もう……下駄も…………」
思ってもいなかった薊の表情に出かかっていた言葉は止まった。
寂しげで、それでいて胸がつまったような顔で薊は僕のことを見つめていた。
「そっか……」
吐く息と一緒に出したような声で薊はそう言い、そして……
「――いなぁ」
と、ぼそっと呟いた。
しかし、その声は余りにも小さく、何を言っているのかはっきりとは聞き取れなかった。
「今なんて……」
「独り言みたいなもんやけん気にせんでええよ。ところで、下駄の方ってもしかして……」
薊はそわそわとした様子で僕の顔と自身の浮かした片足の交互に視線を行き来させる。
その行為の意図するところがすぐに分かり、僕は慌てて薊の足元に下駄を置いた。
「どうかな?」
下駄を履いた薊は細い通りの奥にへと数歩ほど歩き、そしてすぐに戻ってきて「うん」と明るい声で頷く。
「すごいなぁ、切れる前と全然変わらんよ。ありがとう」
薊の笑顔を見て、僕は心の中でほっと安堵のため息を漏らす。
教えてもらったのがだいぶ昔というのと、人が実際に使用する下駄に処置を施すのは初めてということもあり、常に頭の中には些細な不安がちらついていたのだが、どうやら杞憂に終わってくれたようだ。
問題が一つ片付いた僕は「いえいえ、どういたしまして」と薊に返し、もう一つの問題を片付けるために携帯電話を取り出す。
携帯電話の画面には3件の着信履歴と1件のメッセージが表示されていて、それらは全て晴矢からのものだった。
いつの間にか携帯電話がサイレントモードになっていて、鼻緒を直している時にパーカのポケットの中で震えていたけど直すことを優先してずっと放置していた。
「晴矢から連絡がきてる。屋台が出ている道を北の方向に進むと大きい道に出るから、そこに10分に集合だってさ」
「うん、ウチも日光ちゃんから同じ連絡がきとったよ。でも10分ってことは……」
「あぁ。かなり急がないとだな」
今の時刻は午後7時9分。晴矢に今からそっちに向かうと連絡を送り、僕たちはすぐに歩き始める。
細い通りから屋台の出ている道に出ると、みんなと逸れた時よりも人が増えていて更に道は混雑していた。
行き交う人々の波でなかなか思うように進めない。この様子だと、みんながいる場所に辿り着くのは20分とか、下手をすれば30分ぐらいになりそうだな……。
そんなことを考えながら歩いていると、後ろから薊に「待って」と呼び止められた。
まさかもう下駄の手拭いが抜けたのかと、僕は焦燥を胸に薊の方を振り返る。
しかし、どうやら僕が危惧していた事態は起こっていないらしく、薊は左の方向に顔を向けて立ち止まっていた。
「あそこにおるのって……」
そう言って薊が指差した先。そこには壁に背をもたれさせて手で額を覆っている人がいた。
その人の服装は休日の楓がよく身につけているものと同じで、背格好も彼女とよく似ていて…………うん。顔半分が手で隠れていて見えないから断定は出来ないけど、きっと楓だ。
「おーい、楓?」
僕たちは声を掛けながら楓に近付く。
楓は額を覆っていた手を降ろし、僕と目を合わせた。
「あれ……? 陸……?」
楓の出したその声はいつもの様なハッキリとしたものではなく、ぼんやりとした声だった。
そして、楓はいきなり僕に体を押し付けてきて――
日光と一緒にみんなと合流し、歩き始めて数分と経たない内の出来事だった。
ふとクロワッサンたい焼きの屋台に目が止まり、おいおい普通のたい焼きよりも倍の値段もするのかよ、と驚愕していたその一瞬で僕はみんなを見失ってしまった。
橘と一緒に飴を食べた両脇に屋台が並んでいた一般道や、それよりもやや狭く、日光と一緒に射的をした片方にだけ屋台が並んでいた道と比べ、今歩いている道は屋台が点々としか並べないほどの狭い道だ。
しかも灯りはその点々と並んでいる屋台とぶら下げられている提灯だけでなんとも薄暗く、花火の打ち上げ1時間前ということもあってか人がさらに増えてごった返しになっていて…………まぁ、そんなのはただの言い訳で、よそ見をしていた自分が悪いってのは分かってはいるんだけども……。
「はは……」
高校生にもなってろくに集団行動の取れない自分が情けなくて、自嘲気味な笑いが1人でにこぼれた。
「迷子の達人」という不名誉なあだ名を晴矢につけられ「太◯の達人みたいに言うなよ」とか言っていた数分前のやりとりがはるか昔のように感じられる。
はっちゃんから「迷子にならないように手を繋いでやろうか」と冗談混じりに言われたが、次にみんなと合流した時は本気で言われそうだ。
ひょっとすれば僕はそこら辺を歩いている小さな子たちよりも迷子になる才能があるのかもしれない。
……待てよ。そもそも迷子の達人って何? それに自分で言っておいてなんだけど迷子になる才能って? いや、今はそんなことどうでもいいな。僕が今やらなきゃいけないことは、電話でみんなと連絡をとって早く合流することだ。
僕は人の邪魔にならない所で電話をするために、人気の少ないところを探しながら歩く。
……ん? あれは……。
細い脇道の入り口近くに僕は見知った顔を発見し、近付いた。
そこにいたのは薊だった。
薊はなにやら困っている様子で携帯電話を触っていて、側にいる僕に全然気付く様子はない。
「薊」
僕の呼びかけで薊はやっと僕がいることに気付くと、彼女は苦笑しながら軽く頭を下げた。
「丁度良かった。助けを呼ぼうと思いよったけん」
「助け?」
「その……下駄の鼻緒が切れちゃって」
僕は薊の足元に目を向ける。
薊が左足に履いている下駄。その下駄の鼻緒の足先の部分が見事に根本から切れてしまっていた。
「どうしよう……」
「下駄をちょっと見せてもらえないか? もしかしたら直せるかもしれないから」
「え? これって直せるん?」
「あー、いや。直すというよりは応急処置って感じかも。でも、今日ぐらいなら普通に歩けると思う」
「へぇ。そんなんよう知っとるなぁ」
「じいちゃんちの横に個人で営んでいる小さな呉服店があってさ。そこの店主さんとじいちゃんが昔っからの知り合いで仲が良かったんだ。じいちゃんちに帰った時はその店主さんがよく僕に話掛けてくれて……それで教えて貰った」
呉服店の店主のおばあちゃんはいつも険しい顔をしていて、その顔に似合うようなぶっきらぼうな喋り方をする人だったけど、とても優しい人だった。
鼻緒の応急処置の仕方を教えてもらったのは、祭りの最中に姉の下駄の鼻緒が切れてしまった出来事があったからだ。
屋台を巡っている最中に姉の下駄の鼻緒が切れてしまい、歩きづらそうにしている姉を見て僕は家に帰ろうと促したが、姉はそれを拒否し結局僕たちは花火を見終わるまで家に帰らなかった。姉がそうしたのはきっと、僕が花火を楽しみにしていたからだ。
その夏祭りの次の日。もしまた姉の下駄の鼻緒が切れてしまってもいいように、僕は呉服店に行って店主さんに鼻緒の応急処置の仕方を教えてもらった。……まぁ、教えてもらった次の年に姉は死んでしまったので、それを使う機会がくることは結局はなかったけど……。
「ユキ?」
薊に呼びかけられ、僕はハッと我に帰る。
昔のことを思い出して感傷に浸り、ついぼーっとしてしまっていた。
「ごめんごめん。教えてもらったのがかなり昔のことだから、思い出していて……。それはそうと、浴衣だと下駄を屈んで取るのはきついだろうから僕が取ろうか?」
「流石にそれくらいは自分で……あー、ごめん。やっぱりお願い……。何から何まで申し訳ないなぁ……」
「全然構わないよ」
僕は屈んで鼻緒の切れた下駄に手を伸ばす。
…………こんなにも間近で見ることなんてなかったから知らなかったが、薊はとても綺麗な足をしていた。男のデコボコとした足とは違って滑らかで、爪はしっかりと整えられていて、全体的に細くて美しく――
「ユキ……」
「ん?」
「あの……そんなまじまじと足を見られると、ちょびっと恥ずい……かなぁ」
「うぃっ⁈」
僕は奇声に近い声を上げ、慌てて薊の足から下駄を抜き取り立ち上がる。
「足なんて、み、見てないよ? その……下駄を見てたんだ。こんな細かいところにまで拘りがあるんだなぁと思って」
持っている下駄を指で適当にぐるぐると円を描いて差しながら僕はそう言うが、ちょっと無理のある言い訳だと自分でも思った。
具体的なことは何も言ってないし。細かいところとか言っておいて下駄の全体を指で差したし。何よりの話、下駄に見惚れていたのなら手に取ってからじっくり見ればいい訳だし……。
言った本人でさえそう思っているので、薊は当然疑いの目を僕に向ける。
「ほんまに?」
「ほ、本当本当」
薊にじっと見つめられて、嘘を吐いている後ろめたさから僕はつい彼女から目を逸らしそうになってしまう。
しかし、ここで逸らしてしまえばそれはあれが図星であったと認めているのも同意。
僕は負けじと薊の目を見つめ返す。
そのまま1秒、2秒、3秒…………と、僕たちはしばらく見つめ合い、薊は目を瞑って軽く息を吐き、力を抜くように少し肩を落とした。
「変な勘違いしてごめんなぁ。ウチの足なんて見る訳ないのにね」
恥ずかしそうに照れながら苦笑する薊を見て、半端ない罪悪感が僕を襲う。
今からでも遅くはない。本当は下駄なんかそっちのけですごく綺麗な足に見惚れてましたって言っ……いや、バカか。言える訳ないだろ。そんなことを口走ってしまった日には、足を見たいが為に下駄を取ろうとした足フェチど変態のレッテルを貼られてしまうぞお前は。
雑念を振り払うように僕は頭を軽く振って、鼻緒の応急処置に取り掛かるため、ポケットから財布と包装されたままの手拭いを取り出す。
それを見た薊は「えっ」と声を上げ、困惑するような表情をした。
まぁ、薊がそういう顔をするのも分かる。
人が手を拭いたり汗を拭ったりした可能性のあるものを使うのは嫌だよな。
「大丈夫。見ての通りの新品だから。なんなら薊にあげるよ」
「いやいや、そういう心配やなくって、まさかユキの物を使うなんて思わんくて……。それになんも大丈夫やないよ。ユキの手を拭くもんが無くなってしまうやん。そんなん申し訳ないけんウチのを使って」
薊は小物入れの袋からハンカチを取り出し僕に渡そうとするが、それは見るからにタオルのような厚手の布地であり、大きさも小さく、鼻緒の応急処置には使えなさそうな物だった。
「これはちょっと使えないかな。手拭いみたいな薄い布地じゃないといけないから。それにいいんだ。もう一つ別で手拭いを持って来てるから。橘って小さい子どもみたいで危なっかしいところがあるだろ? だから、橘がこうなる事を予測して新品と普段よく使っている物の2つを持って来たんだ」
もちろんそれは嘘だった。
橘の下駄の鼻緒が切れることなんて全く想定しておらず、手拭いは新品のこれだけしか持って来ていない。……だけど、新品の手拭いを持ってきたのは無意識の内にどこかで、誰かが昔の姉のように下駄の鼻緒が切れてしまった時の為に――なんて思っていた僕がいたのかもしれない。
「それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらうけど……」
そう言った薊は渋々とハンカチを戻した。
もう一つの手拭いを見せろと言われれば危なかったが、差し詰めこの場は乗り切れたようだ。
薊がそのことに気付く前に終わらせるため、僕は急いで鼻緒の応急処置に取り掛かる。
教えてもらったのはもう8年も前のこと。
しかし、その手順は今でもしっかりと覚えている。
まず捻った手拭いの先端を5円玉の穴に通して…………穴に通し……通、くっ、このっ……!
手順は覚えているが僕の手先の技量が足りず、なかなか手拭いが5円玉の穴を通らない。
決まりが悪くなった僕は横目で薊の様子を確認する。
薊は見られていることに気付かないほど僕の手元を注視しており、どうやって直すのだろうという興味津々な目をしていた。
きっと、次に切れるようなことがあったとしても自分で直せるように覚えようとしているのだろう。
そんな薊に「見られているとやりづらいから見ないでくれ」とは言えないし、かといって醜態をこのまま無言で見つめ続けられるのはなんとも堪え難いものがある。
何か話題を振って手元から少しでも気を逸らせることは出来ないものだろうか。
そんな事を考えながら話のネタを探していると、ふと目に止まったのは薊の浴衣だった。
彼女の浴衣は濃い藍色の地に細い白色の線が幾つか流れ、その間あいだに薄紫色の花が咲いていた。
そういえば日光も橘も名前と同じ柄の浴衣だったよな。アザミやアヤメという名前の花があった気がするが、まさか……。
「薊のその浴衣の柄って、もしかして名前と同じ花か?」
「うん、そうやで。この柄の花はアヤメの花。ウチが中学生の時にお母さんが買ってくれたんよ。『花の浴衣には大人の魅力を高めてくれる意味を持つものが多くあって、その中でもアヤメの浴衣は勝負強さを意味する浴衣なんやで』言うてなぁ」
薊はにこにこと楽しそうに話す。
そんな彼女の様子を見るに、着ているその浴衣を相当気に入っているのだろう。
「へぇ、勝負強さを意味する……か。アヤメの花言葉だったりするのかな?」
「ううん。アヤメの花言葉は全くの別もんやで。花のアヤメの漢字が『しょうぶ』と読めることから勝負浴衣って言われよんやって。じゃけん、お母さんから『いつかこの浴衣を着て好きな人を落とさんとなぁ』言われとんやけど……いくら浴衣が綺麗でもそれを着る本人が綺麗やなかったら、落とせるもんも落とせんよね」
薊はそう言って自信なさげに笑った。
浴衣自体を気に入ってはいるものの、それが自分の身の丈に合ったものではないと薊は思っているのかもしれない。
「大丈夫だよ。薊は綺麗だから」
「え?」
「薊が着ている浴衣は確かに綺麗だよ。だけどそれは薊が着ているからこそだと、僕は思うんだ。浴衣で凛と咲く薄紫の花が美しく見えるのも、浴衣姿から大人っぽさを感じるのも、現に薊に美しさと大人っぽさがあるからだ。浴衣なんて結局、着ている本人の魅力を引き出しているに過ぎないんだよ。だから、きっと大丈夫。僕が保証する」
いきなり僕がそんなことを言ったからか、薊の顔は驚きやら戸惑いやらが混じったかのような複雑な表情で僕のことを見ていた。
何も考えずにその場の勢いであんなことを言ってしまった僕が悪いと思うが、そういった顔でただ見られるだけというのはくるものがある。
「あのー、何も返されないと気取ったようなことを言って、ただスベった恥ずかしい奴みたいになってしまうので……なんでもいいから言ってもらえると助かるのですが……」
「あっ、ご、ごめん。まさかユキがそんな事を言うなんて思わんくて……」
「えっ……それって僕が『似合ってる』とか『可愛い』ぐらいの言葉しか言えないと思ってたってこと?」
確かに昨日の水着の時や他の人達の浴衣姿に対してもそんな感じのことしか言ってないような気がするけれども……そう思われていたのなら、それはそれで少し凹む……。
「ちゃうよ。ユキがウチのことそう思っとるなんて、ってこと」
はにかんだような笑顔でそう言った薊に、僕は「あっ。あぁ~、そういうことねぇ……」としどろもどろ気味に返した。
単なる自分の思い込みで勝手に凹んでた事にホッとしつつも、僕が薊のことをどう思っていたのかがバレて結局は恥ずかしい思いをしてしまった。
あれは薊を励まそうとかそう言ったものではなく、本心からの言葉なので誤魔化すようなことは言わないけど。
「ありがとうなぁ。ユキが言うなら……うん、きっとそうやね。またいつか好きな人と夏祭りに来ることがあるんなら、この浴衣を着て頑張ってみる」
薊は両手の握り拳をグッと握りしめ、胸の辺りまで上げた。
その瞬間、彼女の体がグラッと後ろの方に傾いて背後の壁に――
「っ⁈ 薊!」
僕は咄嗟に薊の腕を掴んで引っ張る。
そして、薊の体はそのまま流れるように僕の方にへと――
「あうっ」「ゔぇ⁈」
薊の額が僕の喉と胸の中間部に勢いよく激突した。
「ごめん! まあまあの勢いでぶつかってもうたけど大丈夫⁈ 怪我とかない⁈」
「ぜ、全然大丈夫だよ。こっちこそ引っ張りすぎた。薊も怪我は?」
「ウチも大丈夫やけど……」
僕たちは顔を見合わせ……固まった。
ここは薄暗い細い通りの中だったが、それでも薊の顔がみるみる内に赤くなっていくのが分かった。
それぐらい近い距離に僕たちの顔はあった。
僕たちはぎこちない動きでお互いの体から離れる。
薊は僕に下駄を預けてからずっと片足立ちの体勢だったので、それで疲れてバランスを崩してしまい、転倒しそうになったのだろう。
そしてその下駄の方はというと……話す前から何一つとして進んでいなかった。
醜態を見られるのが恥ずかしいとか、そんなどうでもいいことを気にしている場合じゃない。
僕は一刻も早く下駄を直せるように、それだけに集中して作業に取り掛かる。
すると、あれほど苦戦していたのが嘘だったみたいに、10秒と経たずに手拭いが5円玉の穴を通った。
「あのさ。ウチもユキに聞きたいことがあるんやけどええかな? それとも邪魔になる?」
さっきのことがあってか、もじもじとした様子で薊は僕に聞いてきた。
あとはもう手拭いを5円玉の穴より大きい下駄の穴に通して結ぶだけなので、時間もそれ程掛からないだろうし、作業的にも話せる余裕はある。
それにたったの数秒程のことだったとはいえ、黙々と作業を見られるのはやはりやりづらいものがあった。
「大丈夫だけど、僕に聞きたいことって?」
「一学期の期末考査の前にユキの家でみんなと勉強会したの覚えとる?」
「もちろん。覚えてるよ」
「あの時ユキはさ……好きな人おらんって言よったけど、本当はおるんやろ?」
全くもって想像してなかった質問に手元が狂って5円玉が手拭いと下駄の両方から抜けた。
落ちた5円玉の地面に跳ねる音がやけに大きく耳に響く。
僕の視線はそれの行く先を追うよりも、薊の方を向くことを選んだ。
薊はいつになく真剣な表情で僕のことを見つめていた。
――あぁ、これは間違いない。薊は僕に好きな人がいるというのを確信を持って聞いている。
「……うん。本当はいる。あの時は恥ずかしくて嘘をついた。ごめん……」
下手な嘘はすぐにバレる。そう思った僕は正直な事を言った。
「別に謝らんでもええよ。責めたい訳やないし。それに、あんなみんながおる中で言うのなんか恥ずかしくて無理よなぁ」
薊はそう笑って落ちた5円玉を拾い、僕に渡した。
その顔はまた真剣な面持ちに戻っており、この話がまだ続くことを物語っていた。
好きな人がいることを聞いてきた。となれば、次にくる質問はきっとあれだろう。
「どうしてその人のことが好きなん?」
「ごめん。それは言えな……ん?」
準備していた返答を言っている途中で、僕は自分の耳を疑い言葉を止めた。
好きな人を聞かれると思っていた。理由を聞かれるなんて思ってなかった。
もしかしたら僕の聞き間違いの可能性もあるが……。
「好きな人が誰かじゃなくて、好きな理由を聞きたいのか?」
「うん、そうやで」
どうやらあれは聞き間違いではなかったらしい。
しかし、どうして薊は好きな人ではなくて、好きな理由を聞きたいのだろう?
もしかしてもう既に僕の好きな人が分かっているとか?
……いや、それは考えすぎか。
流石に好きな人が誰なのかは言いたくないだろう、という薊なりの配慮なのかもしれない。
「言いたくないなら別にええよ。ちょっとした世間話みたいな、そんな軽い気持ちで聞いただけやけん」
なかなか話そうとしない僕に、薊は固い表情を崩して遠慮気味に言った。
どうして好きな理由が知りたいのだろうと考えていただけなので、言いたくない訳ではないのだが…………しかし、いつもの仲良しグループに僕の好きな人がいる訳なので、薊がもし僕から聞いた話を瑞稀さんに話してしまえば、僕の気持ちが瑞稀さんにバレてしまう可能性があるかもしれない。
薊は人のプライベートなことを他人に話すような子ではないと思うが……念を押すにこしたことはないだろう。
「その……こういう話って恥ずかしいからさ。だから、他の人には言わないって約束してくれる?」
「心配せんでも大丈夫やで。ただ、ウチが知りたいだけやけん他に広めたりなんかせんよ。約束する」
薊はそう言って頷き、微笑みながらも熱誠を感じさせる視線で僕のことを見つめた。
僕は薊の言葉と表情を信じ、瑞稀さんの好きなところを頭に浮かべていく。
少し幼さのある顔立ちが、勉強や運動が出来るところが、性格は大人しめな方なのに小さい子どもみたいに表情がころころと変わるところが――上げ出したらキリがないくらい瑞稀さんの好きなところは沢山ある。
でも、それらは『好きな理由』として出すには相応しいものでないのかもしれない。
こう改めて考えさせられてみると、好きな人のことが好きな理由を出すというのは意外と難しいものがあった。
他の人ではなく、瑞稀さんでなければならない理由。それを僕は出さないといけない。
僕が瑞稀さんのことを好きになった、ある出来事。
きっとそれが、僕が瑞稀さんのことが『好きな理由』に結びついている――
「少し重たい話になるし、長くなるけどそれでもいいかな?」
「ユキがええなら」
「分かった。なら、話すよ。僕には歳の離れた姉がいたんだけど、僕が小2の時に事故で死んだんだ」
「えっ? ちょっ……待って待って待って⁉︎」
薊は慌てて僕の話を遮る。
その彼女の表情は引きつっていた。
そりゃあ、そういう反応になるよな。好きな人の好きな理由の話で重たい話になると聞かされながらも、話始めが家族の死から始まるなんて普通は思いもしないだろう。
「ほんまにユキはその話しても大丈夫なん? 聞いといてなんやけど……嫌な気持ちにはなったりはせん?」
「もう昔のことだから」
下駄で姉との夏祭りのことを思い出して感傷に浸っていたやつが何を言ってんだか。そんなことを思いながらも、僕はこれ以上薊に変に気を遣わせないよう間髪入れずに話を続ける。
「姉さんは人の為に生きるのが生きがいのような人で、僕にとっては憧れの人だった。だから姉さんが亡くなった時、周りの人や仲のいい友達はそれを知っていたから気遣ってくれたり励ましてれたりしてさ。そのおかげもあってか、自分でもびっくりしてしまうくらい早く立ち直ることができたんだ。でも、本当はそうじゃなかった……僕は姉さんの死とちゃんと向き合えてなかったんだ。そして、姉さんが亡くなってから数ヶ月後の夏休み。姉さんの死と向き合わさせられる、ある出来事が起こった」
姉が亡くなった後、1人で高台の神社から見た花火はいつもの様に綺麗だった筈なのに、僕には色褪せた様に見えていた。
どうしてそう見えるのか? なんて、考えるまでもなかった。
いつも隣で一緒に花火を見ていた人がいない。
それだけのこと。でも、それだけが全てだった。
物心がついた時から毎年姉と一緒に行っていた夏祭りは、僕にとっては姉との大切な思い出だったのだ。
憧れだった人であり、大切だった人はもうこの世にはいない。そんな覆しようのない現実が、1人で花火を見たその時になって、姉の死から目を背けていた僕の心をようやくやっと締めつけた。
「夏休みが終わった後も悲しみや苦しみは残ったままでさ。だけど、数ヶ月も前の姉さんの死を未だに引きずっていると周りに思われたくなくて、僕はそれをずっと1人で抱え込んだままでいようと決めて、隠していたんだ。流石に仲の良い友達には様子がおかしいことに気付かれて『何があったんだ』って聞かれたけど、それでも僕は体調が悪いだのなんだのと適当なことを言って誤魔化した」
晴矢とはっちゃんは僕を心配して声を掛けてくれた。
だけど僕は晴矢たちに嘘を吐いた。
僕の嘘を聞いた晴矢たちは納得をしてない顔をしながらも、それ以上は関わろうとはしなかった。
それは晴矢たちが軽薄とか冷酷という訳では決してなく、僕の意思を尊重しようという彼らなりの優しさだったからだ。
「そんなある日、1人の女の子が僕に聞いてきたんだ。『最近元気がないけど何があったの?』って。もちろん僕は他の友達に言ったように体調が少し悪いだけって言ったよ。でも、その女の子は『それは嘘だよ』って何度も何度もしつこく、僕に元気がない理由を尋ねてきたんだ」
声を掛けてくれた女の子。それが瑞稀さんだった。
忘れ物をして先生に怒られた。親にゲームを隠された。友達と喧嘩した。いくら僕が嘘を重ねても、瑞稀さんは納得しようとはしなかった。
「根負けしてしまった僕は元気がなかった理由を正直に打ち明けた。そうすれば、その女の子もこれ以上はつかかってはこれないと思ったから。案の定、やってしまったって顔をして女の子は押し黙ったよ。心配してくれた人をこんなふうに突き放してしまうことに罪悪感はあったけど、でもこうするしかなかったんだって自分自身に言い聞かせて、僕はその場から逃げようとした。だけど、それは出来なかった。いや、させてくれなかった。女の子が僕の手を引いて止めたんだ」
まさか止められるなんて、これっぽっちも思っていなかった。
瑞稀さんは僕が深刻な悩みを抱え込んでいることに勘づいてはいたものの、それが姉の死であるということまでは察していなかった。なので当然、僕にかける励ましの言葉や慰めの言葉を瑞稀さんは用意していない。だから、僕を止めることなんてしないだろうと、僕はたかをくくっていたのだ。
しかし、その予想に反して瑞稀さんは僕を止めた。
止めたからには、パッと思い付いた気休め程度の言葉ではなく、悲しみや苦しみを丸ごと消し去ってくれる魔法のような言葉があるのだろうと、僕は期待して瑞稀さんの方を振り返った。
瑞稀さんは瞳をいっぱいの涙で潤ませて、それを今にも溢れさせてしまいそうな顔をしていた。
魔法のような言葉――そんなものがないことを、瑞稀さんのその表情が語っていた。
「女の子は『1人で抱え込んでちゃダメだよ』って急にぼろぼろ泣き出してさ。あの時は凄くびっくりしたなぁ……。だって、その女の子が泣く理由なんて何も無いはずなのに泣くからさ。彼女がまるで自分のことのように泣くから、気付いたら僕もつられて泣いてしまっていて……堰き止めて、溜めに溜めていたものが止め処なく溢れて、もう駄目だった」
人前で泣くことでさえ恥ずかしいことなのに、僕は声を上げて泣いてしまっていた。
目の前にいる瑞稀さんもまた、声を上げて泣いていた。
泣いて、泣いて、泣いて――僕たちは涙が枯れるまで……というのは言い過ぎだけど、それくらい長い間泣いていた。
「それまで姉さんの死を思い返して1人で泣くことは度々あった。でも、人前で泣くのは姉さんの葬式以来で、かなり久々だった。1人で泣いた後と誰かと一緒に泣いた後だと、やっぱり気持ちの違いがあって、1人で泣いた後は苦しさや悲しみがそのまま残ったままだったけど、女の子と一緒に泣いた後はそれらがとても和らいだ気がしてさ。それで、今まで悲しみや苦しみで一杯一杯だった頭に考える余裕が産まれたのか、その時になってやっと僕はまた姉さんの死から逃げているってことに気が付いたんだ」
僕は姉の死と向き合っているようで、まだちゃんと向き合えてはいなかった。
仲の良い友人に本当のことを話せずに嘘を吐いたのは、本当のことを彼らに話してまた励まされたり慰められたりし、姉の死とより強く向き合わせさせられるのが怖かったからだ。
だから本当のことを誰にも話すことが出来なかった。
だけど、瑞稀さんに本当のことを伝えて、一緒に泣いて、抱えていた悲しみや苦しみは和らいで、姉の死とまだ向き合えていないことに気付いて……このままじゃ駄目だと思った。
「これからはちゃんと姉の死と向き合おう。そして前へ進む。そう決めた僕はもう大丈夫だと女の子に伝えた。すると彼女は『りっくんは誰かの痛みに触れるのに、自分の痛みを誰かに触れさせようとはしないよね』って言ったんだ。僕はそれに対して何も言えなかった。僕は人の痛みに触れることの辛さを知っている。知っているからこそ、僕は自分なんかの痛みを誰かに触れさせたくはなかったから……。何も言えずにただ目の前にいる女の子のことを見つめるだけの僕に、彼女は優しく微笑みかけて、そして、こう言った。『全部は分かってあげられなくて、ほんの少しだけ分かってあげることしかできないかもしれない。触れたところで何も出来なくて、今日みたいに一緒に泣くことしかできないかもしれない。それでも、りっくんの心を少しでも救うことができるかもしれないのなら、私は貴方の痛みに触れたいよ』って。それを聞いた瞬間、今まで感じたことのないような温かさを胸に感じてさ。気が付いたら僕はまた涙を流していた。きっと僕は、女の子が最後にくれたような言葉を誰かがくれるのを、ずっとずっと待っていたんだ」
心が傷ついている人がいる。でも、その人がその心の痛みを誰にも触れてほしくないと思っているのなら、そっとしておいてあげるのも優しさの一つだと思う。
僕の友人の大半はそういう優しさを持った人だった。
しかし、瑞稀さんは違った。
下手をすれば相手を傷つけてしまうかもしれない。自分さえも傷つくかもしれない。それでも瑞稀さんは人の心の痛みに触れてくれた。
それが他の人とは違う瑞稀さんの優しさであり、それが僕の求めていたものだった。
「誰も触れられなかった心の痛みに触れてくれた。一緒に心の痛みを分かちあってくれた。そして最後に痛みを取っ払って、僕の心を救ってくれた。それが僕の好きな人のことが好きな理由だよ」
そう話しを終えたのと同時に、話しと並行して進めていた鼻緒の応急処置も丁度終わった。
薊に下駄を返すために僕は彼女の方を振り向く。
「よしっ。もう……下駄も…………」
思ってもいなかった薊の表情に出かかっていた言葉は止まった。
寂しげで、それでいて胸がつまったような顔で薊は僕のことを見つめていた。
「そっか……」
吐く息と一緒に出したような声で薊はそう言い、そして……
「――いなぁ」
と、ぼそっと呟いた。
しかし、その声は余りにも小さく、何を言っているのかはっきりとは聞き取れなかった。
「今なんて……」
「独り言みたいなもんやけん気にせんでええよ。ところで、下駄の方ってもしかして……」
薊はそわそわとした様子で僕の顔と自身の浮かした片足の交互に視線を行き来させる。
その行為の意図するところがすぐに分かり、僕は慌てて薊の足元に下駄を置いた。
「どうかな?」
下駄を履いた薊は細い通りの奥にへと数歩ほど歩き、そしてすぐに戻ってきて「うん」と明るい声で頷く。
「すごいなぁ、切れる前と全然変わらんよ。ありがとう」
薊の笑顔を見て、僕は心の中でほっと安堵のため息を漏らす。
教えてもらったのがだいぶ昔というのと、人が実際に使用する下駄に処置を施すのは初めてということもあり、常に頭の中には些細な不安がちらついていたのだが、どうやら杞憂に終わってくれたようだ。
問題が一つ片付いた僕は「いえいえ、どういたしまして」と薊に返し、もう一つの問題を片付けるために携帯電話を取り出す。
携帯電話の画面には3件の着信履歴と1件のメッセージが表示されていて、それらは全て晴矢からのものだった。
いつの間にか携帯電話がサイレントモードになっていて、鼻緒を直している時にパーカのポケットの中で震えていたけど直すことを優先してずっと放置していた。
「晴矢から連絡がきてる。屋台が出ている道を北の方向に進むと大きい道に出るから、そこに10分に集合だってさ」
「うん、ウチも日光ちゃんから同じ連絡がきとったよ。でも10分ってことは……」
「あぁ。かなり急がないとだな」
今の時刻は午後7時9分。晴矢に今からそっちに向かうと連絡を送り、僕たちはすぐに歩き始める。
細い通りから屋台の出ている道に出ると、みんなと逸れた時よりも人が増えていて更に道は混雑していた。
行き交う人々の波でなかなか思うように進めない。この様子だと、みんながいる場所に辿り着くのは20分とか、下手をすれば30分ぐらいになりそうだな……。
そんなことを考えながら歩いていると、後ろから薊に「待って」と呼び止められた。
まさかもう下駄の手拭いが抜けたのかと、僕は焦燥を胸に薊の方を振り返る。
しかし、どうやら僕が危惧していた事態は起こっていないらしく、薊は左の方向に顔を向けて立ち止まっていた。
「あそこにおるのって……」
そう言って薊が指差した先。そこには壁に背をもたれさせて手で額を覆っている人がいた。
その人の服装は休日の楓がよく身につけているものと同じで、背格好も彼女とよく似ていて…………うん。顔半分が手で隠れていて見えないから断定は出来ないけど、きっと楓だ。
「おーい、楓?」
僕たちは声を掛けながら楓に近付く。
楓は額を覆っていた手を降ろし、僕と目を合わせた。
「あれ……? 陸……?」
楓の出したその声はいつもの様なハッキリとしたものではなく、ぼんやりとした声だった。
そして、楓はいきなり僕に体を押し付けてきて――
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