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8月編
90話 嫌な予感
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泣いて。泣いて。泣いて。僕はずっと楓の腕の中で泣いていて、その間彼女は何も言わずに僕の頭をずっと撫でてくれていた。
いったいどのくらいの間そうしていただろう。
涙は枯れ果ててしまい、気持ちが段々と落ち着くにつれて恥ずかしさが急に込み上げてきた。
無理があるとは分かっていながらも、僕は何事もなかったかのように楓の体から離れ、彼女から人1人分のスペースを空けてベンチに座り直す。
「もう大丈夫?」
「あー……うん……大丈夫…………」
心配してくれている楓にぎこちない返事を返し、僕は照れを誤魔化そうと頭を掻きながら彼女から目を逸らす。
声を上げて泣いたのなんていつぶりだろうか?
少なくとも中学生になってからは一度もなかったはずだ。
しかもその情けない姿を同い年の女の子に見られ、終いにはあやされてしまうなんて……あ、不味い。思い出してたらなんだか死にたくなってきた。
「あのさ」
「はひっ⁈」
不意を突かれる形で楓に声をかけられ、裏返った声が出てしまった。
楓はそんな僕の反応がおかしかったのか、クスクスと笑う。
恥ずかしさに拍車がかけられた僕は急いで楓に続きの言葉を促す。
「何か言いかけてなかった?」
「うん、言いかけてた。でもりっくんがあまりにも変な声を出したのが面白くって、何を言おうとしてたか忘れちゃった」
「それは申し訳ないことをした。……まぁ、だからと言って僕が何かを出来るわけではないし、頑張って思い出してくれ」
「そう言われても、あれくらいのことで忘れてしまうことだから、きっとどうでもいいことだったと思うんだけど……。うーん……あ、そうだ。もう手元にはないけどさ、りっくんがゲームセンターで取ってくれたぬいぐるみがあったでしょ。ボクが女の子にあげたやつ。りっくんは自分が欲しいからって理由であのぬいぐるみを取ってたけど、あれって嘘だよね?」
楓は首を少し傾けて、悪戯な笑みを僕に向けた。
きっと楓は先に言おうとしていたこととは違うことを言っている。
全く意地が悪い。このタイミングであのことを掘り返し、僕の羞恥心に追い討ちをかけようとするなんて。
「嘘じゃないよ。本当に僕が欲しかっただけだから」
「じゃあ、どうしてボクにくれたの?」
「それはあれだよ……あれ。えっと……そう! 取れるとなんだか満足してしまったから!」
「うわぁ……。今の反応、適当な理由だったから自分でも忘れてたやつじゃん」
「いやいや、違う違う。さっきのはゲームセンターでのことを思い返しながらだったから言葉が中々出てこなかっただけで……まぁ、それは置いといてだな。楓だって一度くらいはあるだろ? とてつもなく欲しいと思っていた物をやっとの思いで手に入れたのに、その瞬間に妙な達成感で急に冷静になること。あれ? なんでこんな物の為にあんなにも頑張ったんだろう、って」
「それはあるけどさ……。でもだからって、ボクにいきなりあげようと思うのは違くない? このネックレスみたいに三百円で取れたものならまだ分かるけど、あのぬいぐるみは三千円もしたんだよ?」
楓は首にかかっているネックレスを手でこれ見よがしに左右に揺らした。
思ってもいなかった言葉に僕は上手い言い訳や、楓を言いくるめることのできるような言葉を必死になって探すが、それが見つかるよりも先に彼女は言葉を続ける。
「それにあの時はあまりにも嬉しすぎたから言わなかったけどさ、りっくんのあれが演技だってすぐに分かったよ。抑揚のない声で言葉を連ねていただけだったし。どうせやるなら、もっと心を込めないと」
楓は空いていた1人分のスペースを詰め寄り、顔を僕に近づけた。
その距離の近さに、蓋をされてしまったかのように喉の奥が詰まる。
ただでさえ痛いところを突かれて何も言えない状態だったのに、呼吸さえもが止められてしまった。
「どうしてあそこまでしてあのぬいぐるみを取ってくれたの? ねぇ、教えてよ」
僕の答えを待っている楓は勝ちを確信しているような顔をしている。
もう僕が折れると楓は思っているのだろう。
そして、それは事実その通りだった。
僕は既に言い訳など考えておらず、これから事を正直に話す恥ずかしさを紛らわせている最中だった。
思い返してみろ。数分前まで僕は楓の腕の中で泣いていたのだ。中学2年生にもなって同い歳の女の子の前で泣くことでさえ恥ずかしいことなのに、子どものように抱きしめられながらあやされてしまうなんて――あぁ、不味いぞ。また死にたくなってきた……って今は感傷に浸っている場合じゃない。あれ以上に恥ずかしいことがあるか? いや、ない。絶対にない。つまり僕は自分のこれまでの人生史上最も恥ずかしいことをつい数分前に体験した訳だ。しかもそれは当分は更新されることのない程の出来事。それが今更何を恐れる必要がある? 言え。言ってしまえ。今の僕ならどんな恥ずかしいことだって耐えられる。
「楓の喜ぶ顔が……見たかったからだ……」
僕から出た声はあまりにも小さかった。
距離が近くなかったらきっと楓には届いていない。それくらいの声の大きさだった。
顔が熱い。体も熱い。僕はすぐに楓から顔を背ける。
……うん。まぁ、そりゃあこうなるよ。分かっていたことだ。
いくら凄く恥ずかしい体験をしたといえど、やはり恥ずかしいことには変わりはない。そもそもの話、恥ずかしさに大も小も関係あるか。今が恥ずかしいならそれが全てだ。
絶対にからかわれる。そう思っていたのに、楓から何かを言ってくる気配は一向にない。
もしかして、あまりにも僕の声が小さすぎたから届かなかったのか? 流石にそこまで小さい声ではなかったと思うけど……。
おかしいと思いながら僕が再び楓の方に顔を向けると、彼女はずっとその時が来るのを待っていたのか、僕と目が合うや否や楓はニッコリと微笑んだ。
「ほらっ。やっぱり君は優しいじゃん」
この楓の言葉が、これまで散々自分は優しくないと否定し続けていた僕への最後のダメ押しのようなものだということに、僕はすぐに気付いた。
さっきまでの会話は僕の羞恥心を煽ろうとしていた訳では決してなく、あれを言いたいがためだけのものだったのだろう。
正直なところを言ってしまえば、純粋に楓を喜ばせたいというよりも、楓の喜んだ時の顔が見てみたいという一種の下心に近いものだったが……今ここで「僕は優しくない」と返すのは間違いだ。
僕が今ここで返すべき言葉はたった一つだけ――
「色々とありがとう」
僕は礼を言ってから楓に微笑む。
僕が言った色々がいったい何のことかを楓は理解しているようで、彼女はえへへと嬉しそうに笑い「いいえ。どういたしまして」と言った。
そして、互いに僕たちは声を出して笑い合う。僕は心の底から笑っていた。
今日のところどころで僕は楓との間に壁を作っていた。踏み込ませないように。互いが傷つかないように。だけど、もうその壁を作る必要はないのだと、目の前の彼女が教えてくれた。今になってやっと、僕たちは本当の意味で友達になれたのかもしれない。
それに気づいた瞬間、僕は自然と次の言葉を発していた。
「なぁ、楓。僕も楓の苗字が知りたい」
その僕の要求は楓にとっては意外なものだったらしい。
楓は途端に笑うのをやめて、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして僕を見た。
「なんだよ。その顔は」
「いやぁ。だってりっくんはボクが最初に苗字を教えなかった時、たった一回で聞くのをやめちゃったからさ。ボクのことなんて全然興味がないんだなって思ってたからびっくりしちゃって……」
楓は少しふてくされたような表情をして言った。
先に楓が言った通り、何度も僕の名前を聞いてきた彼女に対し、僕はたったの一回しか楓の苗字を聞かなかった。でも、それは女の子を下の名前で呼ばないといけなかったことが恥ずかしかっただけで、一回聞いてすぐに諦めたのはその他に不都合がなかったからだ。
「興味が無いわけではなかったけど、特にこれといって聞かなければならない理由もなかったし……」
「へぇ。それじゃあ、どうして今になってボクの苗字を聞こうと思ったの?」
「このまま別れてしまえば絶対に後悔すると思ったから。楓にとってはどうだか知らないけど、もう僕にとって楓は大切な友人の1人だ。だから、ちゃんとした名前が知りたいんだよ」
僕がそう言い終えると、楓は何故か突然ふいっと僕から顔を逸らした。
その彼女の横顔はうっすらと赤い。
「…………ねぇ、ずっと思ってたんだけど、りっくんは聞いているこっちが恥ずかしくなるようなことをよく口にするよね。りっくん自身は恥ずかしくないの?」
「はぁ? 待て待て待て。そんなに言うほど恥ずかしいことなんて僕は言って…………」
言ってる。喋っている途中でそれに気づき、僕は否定の言葉を最後まで言い切れなかった。
「ね? 言ってるでしょ?」
「あぁ、うん。言ってるな……。恥ずかしいって想いながらも言っている時もあるし、さっきみたいに自覚が無くて言っている時もある。もしそれで楓が嫌な想いをしていたと言うなら謝るよ。ごめん」
僕は未だに顔を逸らしている楓に頭を下げる。
楓の横顔がうっすらと赤かったのはきっと、恥ずかしさと怒りの両方のせいだったのだろう。
そう思いながら顔を上げると、楓はこっちを向いて焦った様子で手をバタバタと左右に振っていた。
「あっ、いやいやいや。別に嫌な想いをしていた訳じゃないよ。ただりっくんはどう思っているんだろうなぁって気になっただけだから……って、ボクのせいで話が大きくそれちゃったね。苗字が知りたいんだっけ? いいよ。ボクもちゃんとした名前をりっくんに知ってほしいと思ってたから」
そう言ってから楓は目を閉じて仕切り直すようにコホンと一回だけ咳払いをし、僕を見た。
互いの視線が交じ合う。
楓は口を軽く開き、そして――すぐに閉ざした。
彼女の視線が僕の目と顎のあたりを行ったり来たりを繰り返す。
僕はその楓の挙動がいったい何を意味しているのかをすぐに理解した。
楓はまだ躊躇している。
もともと一回だけとはいえ、拒否したことだ。名前を知ってほしい、と言っていたのはきっと本心からだろうが、それでもやはり苗字を言いたくないという気持ちもあるのだろう。
教えたい気持ちと教えたくない気持ち。それらはちょうど半々ぐらいなのかもしれない。
「まだ気持ちの整理が出来ていないなら言わなくてもいいんだ。楓の気持ちがしっかりと固まるまで僕は待つから。……もし花火が終わって僕たちが別れるまでにまだ楓が迷っているようなら、僕は潔く諦めるよ。苗字を知ったからといって、特別何かが変わるわけでもないしな」
僕がそう言うと、楓は切なそうな顔をして唇をギュッと結んだ。
最後の言葉は余計だったかもしれない……。そんな遅い後悔が今になって僕を襲う。
迷っている楓の気持ちを少しでも楽にしようと思っての一言だったけど、見方を変えれば冷たくも聞こえるし、事実楓にはそう聞こえたのだろう。
僕は楓の誤解を解こうとするが、それよりも先に彼女が口を開いた。
「うん。やっぱり嫌だなぁ……」
楓はボソッと呟くように小声でそう言った。
そう、確かに小声で言ったのだ。
それなのに僕にはそれがまるで、耳元でメガホンを使って叫ばれたかのような大きい声に感じられた。
脳が揺さぶられる。心も揺さぶられる。エコーがかかった先ほどの楓の声が何度も何度も頭の中を反芻する。
やっぱり最後のあれは余計な一言だった。あれが迷っていた楓の気持ちに踏ん切りをつけさせてしまった。
深い深い後悔に僕は文字通りに頭を抱える。
楓のことを想って潔く諦めるとか言いながらも、彼女の名前をちゃんと知りたいという僕の想いは、僕が思っていた以上に強かったみたいだ。
でも、今からどんな言い訳をしたところできっともう意味をなさない。
「いちょう」
「…………え?」
急に植物の名前を出してきた楓に僕は顔を上げた。
楓はなぜか不安そうな顔をして、僕の様子を伺うように見ている。
「えっと……いちょうがどうした?」
「どうしたって……ボクの苗字だけど……」
楓はムスッとした表情で言った。
だけど楓が何を言っているのか僕にはさっぱり理解出来なかった。
「は? んんっ? いや、さっき楓はやっぱり嫌だなぁって言って……」
混乱して未だに状況が理解出来ない僕とは違い、楓はここで何かに気づいたらしい。「なるほどね」と言って手を大きく叩いた。
「あれは苗字を教えないままで終わるのは嫌だなぁって意味だよ。ごめんね言葉足らずで」
「あぁ、そうだったんだ。ってことは、楓のフルネームは『いちょう 楓』ってこと?」
「そうだよ。ボクの名前はいちょう 楓。改めてよろしくね」
楓は丁寧な深々としたお辞儀を僕にした。
僕も同じように丁寧なお辞儀を楓に返す。
ここに至るまでに色々なことがあったが、最終的にはお互いの名前を知ることが出来てよかった。そんな喜びに胸を撫で下ろしつつも、ふと、とある疑問が頭に引っ掛かった。
楓が苗字を隠していた理由だ。
今日の朝一に楓が苗字を答えなかった時、楓にも僕と同じように悪い噂があるから苗字が言えないのだろうと、僕は勝手に思い込んでいた。(まぁ、1日を楓と一緒に過ごして彼女のことを知り、それは無いだろうともう既に分かっているのだが、僕の件もあるし……)しかし、いちょう 楓という名前に全く覚えはない。今日初めて聞いた名前だ。
次に僕が想像していたのは、からかわれてしまうくらいの面白おかしい苗字であるというもの。いちょう……珍しい苗字と言われればそうかもしれないが、別におかしいとも面白いとも思わない。
楓が苗字を隠していた理由が僕には何一つ分からなかった。
「ふっ……あはははははははははは!」
楓は急に吹き出し、声を出して高らかに笑った。
「あの……楓が苗字を隠していた理由も分からなければ、笑っている理由も分からないんだけど……」
「ごめんごめん。ボクの家は住んでいる街では知らない人なんていないくらい有名な、いわゆる名家ってやつでさ。りっくんがボクの苗字を知ってしまったら、気を遣わせてしまって態度が余所余所しいものになってしまうかも、なんて思っていたんだけど……でも、りっくんの不思議そうな顔を見ていると、結局その程度だったんだなって思うとバカらしくって」
隣街で知らない人がいない。その楓の言葉で僕の頭に一つ浮かんだ家があった。
街の中心部からは少し離れた場所にある、一見どこかのお寺さんだと間違えてしまいそうな広い敷地と高い塀に囲まれた大きな和風の屋敷。門の横にかけられていた表札には確か――
「もしかして、苗字のいちょうって公園の公に孫と……あと……」
「樹木の樹?」
「そうそう! ってことはやっぱり、あの大きな屋敷が楓の家だったのか」
「正解。驚いた?」
「あぁ、驚いた。怖い大人が大人数で住んでいるものだとずっと思っていたし、もし子どもがいたとしても、お堅い考えをお持ちの仏頂面のお嬢様かお坊ちゃんが住んでいるのかと思っていたから。言っちゃなんだが……いたって普通の女の子が住んでたんだな」
僕は笑いながら楓を見る。
楓はポカンと呆けた顔をして僕のことを見つめていた。
……マズイ。今度こそ本当に余計なことを僕は口走ってしまったのかもしれない。名家育ちに『普通』って言葉はプライドを傷つけるようなものだったのではないか? ……いや、それはないか。これまでの間にそれ以上に失礼なことを僕は楓に言っていただろうし。それじゃあ、どうして楓は僕のことをこんな顔で見るんだ? ――駄目だ。考えても分からない。とりあえず何か話さないと。
「悪い。あれは言葉のあやみた――」
「あはははははははははははははははは!」
今度は僕が呆けた顔で楓を見る番だった。
楓はお腹を抱え、先ほど以上に声を出して笑っていた。
彼女の目尻の端が濡れて光っている。
楓は泣きながら笑っていた。
「なぁ。さっきのって涙が出るほど面白いことだったか?」
「うん。それはもうとてつもなく」
目元を擦りながら楓は「ああ、本当におかしい」と付け足して鼻を啜った。
そして楓は、ふぅ、と深い呼吸をしてからベンチの背にもたれかかり、そのまま空を見上げる。
涙がまだ残っているのか、楓の瞳は滲んでいた。
溢れそうで溢れなかった涙は楓が目を閉じた瞬間に一粒の滴となって頬を流れた。
楓は目を閉じたままで、幸せそうに微笑む。
どうして楓がそんな顔をしているのかは僕には分からない。だけど、さっきの僕の言葉がただ面白かったという理由だけで、あんな顔をしている訳ではないということだけは確かだった。
「楓……」
気がついた時には僕は声を発していた。
僕に呼びかけられた楓は当然こちらの方を向き、どうしたの? と尋ねるように首を傾ける。
僕は続く言葉を言おうとしたが……迷いが喉をつっかえさせて言葉が出なかった。
楓が学校をサボった理由を僕は聞こうとしていた。
だけど、わざわざ聞く必要はあるのか? なんて思っている僕もいた。
傷みに触れるだけ触れて何も出来ないかもしれない。互いが暗い気持ちで終わるだけかもしれない。
今のこの落ち着いてきた空気を再びぶち壊してしまうくらいなら、聞かない方がきっと正しい筈だ。
…………だけど、僕は知っている。正しいだとか間違いだとか、そんなものを無視し勇気を出して踏み込んでくれた人がいたことを、僕は知っている。
救ってあげられる事は出来ないかもしれない。
背負わなくてもよかった傷みを自分が背負う事になるかもしれない。
相手の傷口を更に広げる事になってしまうかもしれない。
それを理解していながらも、目の前にいる彼女は僕の傷みに触れてくれた。優しい言葉を掛けてくれた。そして、僕を救ってくれた。
だから、今度は僕が楓を救ってあげたいと、そう思ったんだ。
「楓も僕と同じで学校をサボったんだよな? その訳が知りたい。聞いたところで、楓の抱えている問題を解決することは僕には出来ないかもしれない。でもそれを、楓の苦しみを知らないままでいていい理由にはしたくはない。もし、僕に出来ることで楓の苦しみを少しでも和らげることが出来るのなら、僕はそれを精一杯に頑張るよ。楓が僕にしてくれたように、僕も君の役に立ちたいんだ」
いきなりこんなことを言われても楓は困るだろうな。
そんな僕の予想を反し、楓はすぐに返事を返した。
「その必要はないよ」
楓は悲しそうな、申し訳なさそうとも取れるような顔で僕を見た。
どうして――と僕がそう言うよりも先に楓は言葉を続ける。
「りっくんみたいな大それた理由なんてボクにはないからさ。登校途中に駅の近くを歩いていたらあの男の子たちに絡まれて、もう学校に間に合わない時間になったからいっそのことこのままサボっちゃえ、ってなっちゃっただけ。それだけだよ」
楓は淡々とした調子で言った。
自然的な楓のその様子に嘘は微塵も感じられない。
しかし、僕は楓の言ったことを信じ切ってあげることは出来なかった。
間に合わなくなったからサボる。そんなたわいない理由で楓が学校をサボったとは、僕は到底思えなかった。
「それは本当か?」
僕のその言葉に楓の肩が微かに震える。視線も僅かに揺れる。
表情は何も変わらなかったが、楓が動揺しているのが僕には分かった。
「……まぁ、言いたくないならそれでもいいんだ。言いたくない理由は色々あるだろうしさ。でも、もし楓が『りっくんに言ったところできっと何も変わらないだろうしな』と決めつけて言わないのだとしたら、僕は少し悲しいかな」
少し意地悪な言い方だな、と自分でも思った。
言われた当の楓もそう感じたらしく「その言い方はずるいよ……」と言って苦笑した。
楓は視線を下に落として考え込むような顔をする。
しばらくの沈黙。
考えが纏ったのか、楓は深い深呼吸をしてから顔を上げ、僕に再び視線を向けた。
「うん。学校をサボったこととは関係ないんだけどさ。悩みはあったよ。取るに足らないような、ちっぽけな悩みがさ。だけどね……もう大丈夫なんだ。ボクは今日1日で充分すぎるくらい、りっくんに救われたから」
そう言って最後に楓は笑った。
僕に救われた。その言葉と楓の表情を、僕は先程とは打って変わってすぐに心の底から信じた。
自分が望んでいた結果だったから。楓のあの言葉と笑顔が嘘であってほしくはなかったから。だから僕は楓のことを簡単に信じたのかもしれない。
楓の悩みは何だったのか? 僕が楓にいったい何をしてあげられたのか?
それらを知らないままだと僕が本当に楓のことを救えたという確証は何一つとしてないということを、それを僕はちゃんと理解していたが……だけど、僕はもう何も聞かないことにした。
楓が悩み、考えて出した答えがあれだったのなら、彼女が救われていようと救われていまいと、これ以上首を突っ込もうとするのは逆に迷惑になってしまうだろうと分かっていたから。
「身に覚えはないけど……楓がそう言ってくれるなら良かった」
僕は笑いながら言ったつもりだったが、笑顔を上手に作ることが出来ていなかったのかもしれない。
楓は申し訳なさそうに笑いながら「ごめんね……」とポツリと呟き、前を向いた。
「んー! 時間もけっこう経ったし、もうそろそろで花火が始まるんじゃないかなぁ」
気分を切り替えるためか、話を逸らすように楓がそう言った直後だった。
花火の打ち上げ10分前を知らせる放送が公園の広場に鳴り響いた。
楓との話に夢中になって気がつかなかったが、いつのまにか花火が打ち上がるであろう噴水の周りには多くの人だかりが出来ていた。
「実はね、花火を生で見るの初めてなんだ。ずっと見てみたいと思ってたからすっごく楽しみ」
楓は両足を前後に振って、はしゃぐ子どもみたいに嬉しそうに言った。
「あれ? 楓が住んでる所って花火大会があったはずだよな? っていうか屋敷から結構近い距離で打ち上がっていなかったっけ?」
「うん。花火が打ち上がっている河川敷は家から近いよ。でも、ボクは一度も見に行ったことがないんだ。一緒に行く友達も親もいなかったから」
余程花火を見るのが楽しみなのか、楓は暗い話をまるで笑い話のように明るく話した。
そんな楓とは相まって、僕は反応に困る。
楓の言った一緒に行く友達がいないというのは多分、花火を一緒に見に行く程の特別仲が良い友人がいなかった、という意味だろう。しかし、親もいなかったというのはいったいどういうことだ? 楓の両親は既に他界しており、そのまま文字通りの意味なのか? それとも、ただただ家族仲が悪いだけなのか? まぁ、そのどちらにせよ、結局は暗い話であることに変わりないのだが……。
僕は何も言えないまま楓の方を見ていると、彼女はいかに自分が反応し辛い事を口走ってしまったのかを自覚したようで、少し焦った様子で苦笑した。
「ごめん。なんだか変な空気になっちゃたね。この話はこれでお終いにして――」
それは話している最中の楓が、視線を僕の方から目の前にへと移した瞬間だった。
楓は急にビクッと体を震わせて固まった。
絶望。困惑。それらが入り混じったかのような青ざめた顔で、楓は人混みの方を見つめている。
「嘘……どうして……」
「楓?」
「ごめん。ちょっと用事を思い出して……」
楓は急にベンチから立ち上がり、人混みの方とは逆の方向へ行こうとする。しかし、それを僕は手を引いて止めた。
「待てよ。用事って……そんなもんある訳がないだろ?」
「トイレだよ。恥ずかしいから察して欲しかったな……。すぐに戻ってくるから」
楓は僕の手を振り解こうとする。だけど、僕は彼女から手を離さない。
トイレではないということは先の楓の反応を見たら分かる。楓は人混みの中に何かを見つけたのだ。そして楓はそれから逃げるために、急いでこの場を離れようとしている。
「一緒に行こう」
「っ……駄目。恥ずかしいからついてこないで」
「僕も花火が始まる前に行っておきたいんだよ」
「お願いだからついてこないで!」
楓の大きな声とともに、繋いでいた手を力強く振り払われた。
それはハッキリとした拒絶だった。
鋭く睨みつけてくる楓に、僕はついて行くことを諦め携帯電話をポケットから取り出す。
「……あぁ、分かった。それじゃあ、連絡先を交換しとこう。戻ってきた時に人が多くて合流出来ないかもしれない」
「ごめん。もう、漏れそうで……。絶対に戻ってくるから!」
「あっ、待て! 楓!」
僕の言葉を待たずに楓は商店街の方に走り出した。
楓を止めようとして僕は咄嗟に手を伸ばしたが、僅かに距離が足らなくて手が何もない空を掴む。
――どうする? 走って追いかけるか? いや、駄目だ。あんなにも強くついてくるなと言われたんだ。きっと何か理由があるはず。でも、人が多くて本当に合流出来ないかもしれない。せめて時間と場所だけでも明確にして伝えておかないと――
「じゃあ、8時にまたこの時計台で!」
それは言った自分でも驚いてしまうくらいの、痛々しく悲しみが込められた声だった。
離れて行く楓の背中が何故か不安で不安でたまらなかったから、そんな声が出てしまったのかもしれない。
楓は立ち止まって僕の方を振り向く。
きっと僕は今、どうしようもないくらいに情けない顔をしているのだろう。
こっちを向いた楓は困ったような顔で僕のことを見ていた。
「うん。約束ね」
優しい声でそう言ってから、楓は微笑んだ。
約束――その言葉を楓から使ってくれたことにより、自分の中の不安が少しだけ和らいだのを感じた。戻ってくる気がさらさらないのなら、あんな言葉なんて使わないはず。
「あぁ。約束だ」
僕は笑わない。真剣な顔をして想いを込めて言葉を返した。
楓は頷くと、すぐに振り返って再び商店街の方にへと走り出す。
段々と小さくなって行く楓の姿に、約束をしながらもやはり僕は拭い切れない不安と嫌な予感を感じていた。
楓がどこか遠くに行ってしまうような、もう楓とは会えなくなってしまうような、そんな予感。
そして、その予感は後に当たることになる。
この日、僕と楓が再び出会うことはなかった。
いったいどのくらいの間そうしていただろう。
涙は枯れ果ててしまい、気持ちが段々と落ち着くにつれて恥ずかしさが急に込み上げてきた。
無理があるとは分かっていながらも、僕は何事もなかったかのように楓の体から離れ、彼女から人1人分のスペースを空けてベンチに座り直す。
「もう大丈夫?」
「あー……うん……大丈夫…………」
心配してくれている楓にぎこちない返事を返し、僕は照れを誤魔化そうと頭を掻きながら彼女から目を逸らす。
声を上げて泣いたのなんていつぶりだろうか?
少なくとも中学生になってからは一度もなかったはずだ。
しかもその情けない姿を同い年の女の子に見られ、終いにはあやされてしまうなんて……あ、不味い。思い出してたらなんだか死にたくなってきた。
「あのさ」
「はひっ⁈」
不意を突かれる形で楓に声をかけられ、裏返った声が出てしまった。
楓はそんな僕の反応がおかしかったのか、クスクスと笑う。
恥ずかしさに拍車がかけられた僕は急いで楓に続きの言葉を促す。
「何か言いかけてなかった?」
「うん、言いかけてた。でもりっくんがあまりにも変な声を出したのが面白くって、何を言おうとしてたか忘れちゃった」
「それは申し訳ないことをした。……まぁ、だからと言って僕が何かを出来るわけではないし、頑張って思い出してくれ」
「そう言われても、あれくらいのことで忘れてしまうことだから、きっとどうでもいいことだったと思うんだけど……。うーん……あ、そうだ。もう手元にはないけどさ、りっくんがゲームセンターで取ってくれたぬいぐるみがあったでしょ。ボクが女の子にあげたやつ。りっくんは自分が欲しいからって理由であのぬいぐるみを取ってたけど、あれって嘘だよね?」
楓は首を少し傾けて、悪戯な笑みを僕に向けた。
きっと楓は先に言おうとしていたこととは違うことを言っている。
全く意地が悪い。このタイミングであのことを掘り返し、僕の羞恥心に追い討ちをかけようとするなんて。
「嘘じゃないよ。本当に僕が欲しかっただけだから」
「じゃあ、どうしてボクにくれたの?」
「それはあれだよ……あれ。えっと……そう! 取れるとなんだか満足してしまったから!」
「うわぁ……。今の反応、適当な理由だったから自分でも忘れてたやつじゃん」
「いやいや、違う違う。さっきのはゲームセンターでのことを思い返しながらだったから言葉が中々出てこなかっただけで……まぁ、それは置いといてだな。楓だって一度くらいはあるだろ? とてつもなく欲しいと思っていた物をやっとの思いで手に入れたのに、その瞬間に妙な達成感で急に冷静になること。あれ? なんでこんな物の為にあんなにも頑張ったんだろう、って」
「それはあるけどさ……。でもだからって、ボクにいきなりあげようと思うのは違くない? このネックレスみたいに三百円で取れたものならまだ分かるけど、あのぬいぐるみは三千円もしたんだよ?」
楓は首にかかっているネックレスを手でこれ見よがしに左右に揺らした。
思ってもいなかった言葉に僕は上手い言い訳や、楓を言いくるめることのできるような言葉を必死になって探すが、それが見つかるよりも先に彼女は言葉を続ける。
「それにあの時はあまりにも嬉しすぎたから言わなかったけどさ、りっくんのあれが演技だってすぐに分かったよ。抑揚のない声で言葉を連ねていただけだったし。どうせやるなら、もっと心を込めないと」
楓は空いていた1人分のスペースを詰め寄り、顔を僕に近づけた。
その距離の近さに、蓋をされてしまったかのように喉の奥が詰まる。
ただでさえ痛いところを突かれて何も言えない状態だったのに、呼吸さえもが止められてしまった。
「どうしてあそこまでしてあのぬいぐるみを取ってくれたの? ねぇ、教えてよ」
僕の答えを待っている楓は勝ちを確信しているような顔をしている。
もう僕が折れると楓は思っているのだろう。
そして、それは事実その通りだった。
僕は既に言い訳など考えておらず、これから事を正直に話す恥ずかしさを紛らわせている最中だった。
思い返してみろ。数分前まで僕は楓の腕の中で泣いていたのだ。中学2年生にもなって同い歳の女の子の前で泣くことでさえ恥ずかしいことなのに、子どものように抱きしめられながらあやされてしまうなんて――あぁ、不味いぞ。また死にたくなってきた……って今は感傷に浸っている場合じゃない。あれ以上に恥ずかしいことがあるか? いや、ない。絶対にない。つまり僕は自分のこれまでの人生史上最も恥ずかしいことをつい数分前に体験した訳だ。しかもそれは当分は更新されることのない程の出来事。それが今更何を恐れる必要がある? 言え。言ってしまえ。今の僕ならどんな恥ずかしいことだって耐えられる。
「楓の喜ぶ顔が……見たかったからだ……」
僕から出た声はあまりにも小さかった。
距離が近くなかったらきっと楓には届いていない。それくらいの声の大きさだった。
顔が熱い。体も熱い。僕はすぐに楓から顔を背ける。
……うん。まぁ、そりゃあこうなるよ。分かっていたことだ。
いくら凄く恥ずかしい体験をしたといえど、やはり恥ずかしいことには変わりはない。そもそもの話、恥ずかしさに大も小も関係あるか。今が恥ずかしいならそれが全てだ。
絶対にからかわれる。そう思っていたのに、楓から何かを言ってくる気配は一向にない。
もしかして、あまりにも僕の声が小さすぎたから届かなかったのか? 流石にそこまで小さい声ではなかったと思うけど……。
おかしいと思いながら僕が再び楓の方に顔を向けると、彼女はずっとその時が来るのを待っていたのか、僕と目が合うや否や楓はニッコリと微笑んだ。
「ほらっ。やっぱり君は優しいじゃん」
この楓の言葉が、これまで散々自分は優しくないと否定し続けていた僕への最後のダメ押しのようなものだということに、僕はすぐに気付いた。
さっきまでの会話は僕の羞恥心を煽ろうとしていた訳では決してなく、あれを言いたいがためだけのものだったのだろう。
正直なところを言ってしまえば、純粋に楓を喜ばせたいというよりも、楓の喜んだ時の顔が見てみたいという一種の下心に近いものだったが……今ここで「僕は優しくない」と返すのは間違いだ。
僕が今ここで返すべき言葉はたった一つだけ――
「色々とありがとう」
僕は礼を言ってから楓に微笑む。
僕が言った色々がいったい何のことかを楓は理解しているようで、彼女はえへへと嬉しそうに笑い「いいえ。どういたしまして」と言った。
そして、互いに僕たちは声を出して笑い合う。僕は心の底から笑っていた。
今日のところどころで僕は楓との間に壁を作っていた。踏み込ませないように。互いが傷つかないように。だけど、もうその壁を作る必要はないのだと、目の前の彼女が教えてくれた。今になってやっと、僕たちは本当の意味で友達になれたのかもしれない。
それに気づいた瞬間、僕は自然と次の言葉を発していた。
「なぁ、楓。僕も楓の苗字が知りたい」
その僕の要求は楓にとっては意外なものだったらしい。
楓は途端に笑うのをやめて、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして僕を見た。
「なんだよ。その顔は」
「いやぁ。だってりっくんはボクが最初に苗字を教えなかった時、たった一回で聞くのをやめちゃったからさ。ボクのことなんて全然興味がないんだなって思ってたからびっくりしちゃって……」
楓は少しふてくされたような表情をして言った。
先に楓が言った通り、何度も僕の名前を聞いてきた彼女に対し、僕はたったの一回しか楓の苗字を聞かなかった。でも、それは女の子を下の名前で呼ばないといけなかったことが恥ずかしかっただけで、一回聞いてすぐに諦めたのはその他に不都合がなかったからだ。
「興味が無いわけではなかったけど、特にこれといって聞かなければならない理由もなかったし……」
「へぇ。それじゃあ、どうして今になってボクの苗字を聞こうと思ったの?」
「このまま別れてしまえば絶対に後悔すると思ったから。楓にとってはどうだか知らないけど、もう僕にとって楓は大切な友人の1人だ。だから、ちゃんとした名前が知りたいんだよ」
僕がそう言い終えると、楓は何故か突然ふいっと僕から顔を逸らした。
その彼女の横顔はうっすらと赤い。
「…………ねぇ、ずっと思ってたんだけど、りっくんは聞いているこっちが恥ずかしくなるようなことをよく口にするよね。りっくん自身は恥ずかしくないの?」
「はぁ? 待て待て待て。そんなに言うほど恥ずかしいことなんて僕は言って…………」
言ってる。喋っている途中でそれに気づき、僕は否定の言葉を最後まで言い切れなかった。
「ね? 言ってるでしょ?」
「あぁ、うん。言ってるな……。恥ずかしいって想いながらも言っている時もあるし、さっきみたいに自覚が無くて言っている時もある。もしそれで楓が嫌な想いをしていたと言うなら謝るよ。ごめん」
僕は未だに顔を逸らしている楓に頭を下げる。
楓の横顔がうっすらと赤かったのはきっと、恥ずかしさと怒りの両方のせいだったのだろう。
そう思いながら顔を上げると、楓はこっちを向いて焦った様子で手をバタバタと左右に振っていた。
「あっ、いやいやいや。別に嫌な想いをしていた訳じゃないよ。ただりっくんはどう思っているんだろうなぁって気になっただけだから……って、ボクのせいで話が大きくそれちゃったね。苗字が知りたいんだっけ? いいよ。ボクもちゃんとした名前をりっくんに知ってほしいと思ってたから」
そう言ってから楓は目を閉じて仕切り直すようにコホンと一回だけ咳払いをし、僕を見た。
互いの視線が交じ合う。
楓は口を軽く開き、そして――すぐに閉ざした。
彼女の視線が僕の目と顎のあたりを行ったり来たりを繰り返す。
僕はその楓の挙動がいったい何を意味しているのかをすぐに理解した。
楓はまだ躊躇している。
もともと一回だけとはいえ、拒否したことだ。名前を知ってほしい、と言っていたのはきっと本心からだろうが、それでもやはり苗字を言いたくないという気持ちもあるのだろう。
教えたい気持ちと教えたくない気持ち。それらはちょうど半々ぐらいなのかもしれない。
「まだ気持ちの整理が出来ていないなら言わなくてもいいんだ。楓の気持ちがしっかりと固まるまで僕は待つから。……もし花火が終わって僕たちが別れるまでにまだ楓が迷っているようなら、僕は潔く諦めるよ。苗字を知ったからといって、特別何かが変わるわけでもないしな」
僕がそう言うと、楓は切なそうな顔をして唇をギュッと結んだ。
最後の言葉は余計だったかもしれない……。そんな遅い後悔が今になって僕を襲う。
迷っている楓の気持ちを少しでも楽にしようと思っての一言だったけど、見方を変えれば冷たくも聞こえるし、事実楓にはそう聞こえたのだろう。
僕は楓の誤解を解こうとするが、それよりも先に彼女が口を開いた。
「うん。やっぱり嫌だなぁ……」
楓はボソッと呟くように小声でそう言った。
そう、確かに小声で言ったのだ。
それなのに僕にはそれがまるで、耳元でメガホンを使って叫ばれたかのような大きい声に感じられた。
脳が揺さぶられる。心も揺さぶられる。エコーがかかった先ほどの楓の声が何度も何度も頭の中を反芻する。
やっぱり最後のあれは余計な一言だった。あれが迷っていた楓の気持ちに踏ん切りをつけさせてしまった。
深い深い後悔に僕は文字通りに頭を抱える。
楓のことを想って潔く諦めるとか言いながらも、彼女の名前をちゃんと知りたいという僕の想いは、僕が思っていた以上に強かったみたいだ。
でも、今からどんな言い訳をしたところできっともう意味をなさない。
「いちょう」
「…………え?」
急に植物の名前を出してきた楓に僕は顔を上げた。
楓はなぜか不安そうな顔をして、僕の様子を伺うように見ている。
「えっと……いちょうがどうした?」
「どうしたって……ボクの苗字だけど……」
楓はムスッとした表情で言った。
だけど楓が何を言っているのか僕にはさっぱり理解出来なかった。
「は? んんっ? いや、さっき楓はやっぱり嫌だなぁって言って……」
混乱して未だに状況が理解出来ない僕とは違い、楓はここで何かに気づいたらしい。「なるほどね」と言って手を大きく叩いた。
「あれは苗字を教えないままで終わるのは嫌だなぁって意味だよ。ごめんね言葉足らずで」
「あぁ、そうだったんだ。ってことは、楓のフルネームは『いちょう 楓』ってこと?」
「そうだよ。ボクの名前はいちょう 楓。改めてよろしくね」
楓は丁寧な深々としたお辞儀を僕にした。
僕も同じように丁寧なお辞儀を楓に返す。
ここに至るまでに色々なことがあったが、最終的にはお互いの名前を知ることが出来てよかった。そんな喜びに胸を撫で下ろしつつも、ふと、とある疑問が頭に引っ掛かった。
楓が苗字を隠していた理由だ。
今日の朝一に楓が苗字を答えなかった時、楓にも僕と同じように悪い噂があるから苗字が言えないのだろうと、僕は勝手に思い込んでいた。(まぁ、1日を楓と一緒に過ごして彼女のことを知り、それは無いだろうともう既に分かっているのだが、僕の件もあるし……)しかし、いちょう 楓という名前に全く覚えはない。今日初めて聞いた名前だ。
次に僕が想像していたのは、からかわれてしまうくらいの面白おかしい苗字であるというもの。いちょう……珍しい苗字と言われればそうかもしれないが、別におかしいとも面白いとも思わない。
楓が苗字を隠していた理由が僕には何一つ分からなかった。
「ふっ……あはははははははははは!」
楓は急に吹き出し、声を出して高らかに笑った。
「あの……楓が苗字を隠していた理由も分からなければ、笑っている理由も分からないんだけど……」
「ごめんごめん。ボクの家は住んでいる街では知らない人なんていないくらい有名な、いわゆる名家ってやつでさ。りっくんがボクの苗字を知ってしまったら、気を遣わせてしまって態度が余所余所しいものになってしまうかも、なんて思っていたんだけど……でも、りっくんの不思議そうな顔を見ていると、結局その程度だったんだなって思うとバカらしくって」
隣街で知らない人がいない。その楓の言葉で僕の頭に一つ浮かんだ家があった。
街の中心部からは少し離れた場所にある、一見どこかのお寺さんだと間違えてしまいそうな広い敷地と高い塀に囲まれた大きな和風の屋敷。門の横にかけられていた表札には確か――
「もしかして、苗字のいちょうって公園の公に孫と……あと……」
「樹木の樹?」
「そうそう! ってことはやっぱり、あの大きな屋敷が楓の家だったのか」
「正解。驚いた?」
「あぁ、驚いた。怖い大人が大人数で住んでいるものだとずっと思っていたし、もし子どもがいたとしても、お堅い考えをお持ちの仏頂面のお嬢様かお坊ちゃんが住んでいるのかと思っていたから。言っちゃなんだが……いたって普通の女の子が住んでたんだな」
僕は笑いながら楓を見る。
楓はポカンと呆けた顔をして僕のことを見つめていた。
……マズイ。今度こそ本当に余計なことを僕は口走ってしまったのかもしれない。名家育ちに『普通』って言葉はプライドを傷つけるようなものだったのではないか? ……いや、それはないか。これまでの間にそれ以上に失礼なことを僕は楓に言っていただろうし。それじゃあ、どうして楓は僕のことをこんな顔で見るんだ? ――駄目だ。考えても分からない。とりあえず何か話さないと。
「悪い。あれは言葉のあやみた――」
「あはははははははははははははははは!」
今度は僕が呆けた顔で楓を見る番だった。
楓はお腹を抱え、先ほど以上に声を出して笑っていた。
彼女の目尻の端が濡れて光っている。
楓は泣きながら笑っていた。
「なぁ。さっきのって涙が出るほど面白いことだったか?」
「うん。それはもうとてつもなく」
目元を擦りながら楓は「ああ、本当におかしい」と付け足して鼻を啜った。
そして楓は、ふぅ、と深い呼吸をしてからベンチの背にもたれかかり、そのまま空を見上げる。
涙がまだ残っているのか、楓の瞳は滲んでいた。
溢れそうで溢れなかった涙は楓が目を閉じた瞬間に一粒の滴となって頬を流れた。
楓は目を閉じたままで、幸せそうに微笑む。
どうして楓がそんな顔をしているのかは僕には分からない。だけど、さっきの僕の言葉がただ面白かったという理由だけで、あんな顔をしている訳ではないということだけは確かだった。
「楓……」
気がついた時には僕は声を発していた。
僕に呼びかけられた楓は当然こちらの方を向き、どうしたの? と尋ねるように首を傾ける。
僕は続く言葉を言おうとしたが……迷いが喉をつっかえさせて言葉が出なかった。
楓が学校をサボった理由を僕は聞こうとしていた。
だけど、わざわざ聞く必要はあるのか? なんて思っている僕もいた。
傷みに触れるだけ触れて何も出来ないかもしれない。互いが暗い気持ちで終わるだけかもしれない。
今のこの落ち着いてきた空気を再びぶち壊してしまうくらいなら、聞かない方がきっと正しい筈だ。
…………だけど、僕は知っている。正しいだとか間違いだとか、そんなものを無視し勇気を出して踏み込んでくれた人がいたことを、僕は知っている。
救ってあげられる事は出来ないかもしれない。
背負わなくてもよかった傷みを自分が背負う事になるかもしれない。
相手の傷口を更に広げる事になってしまうかもしれない。
それを理解していながらも、目の前にいる彼女は僕の傷みに触れてくれた。優しい言葉を掛けてくれた。そして、僕を救ってくれた。
だから、今度は僕が楓を救ってあげたいと、そう思ったんだ。
「楓も僕と同じで学校をサボったんだよな? その訳が知りたい。聞いたところで、楓の抱えている問題を解決することは僕には出来ないかもしれない。でもそれを、楓の苦しみを知らないままでいていい理由にはしたくはない。もし、僕に出来ることで楓の苦しみを少しでも和らげることが出来るのなら、僕はそれを精一杯に頑張るよ。楓が僕にしてくれたように、僕も君の役に立ちたいんだ」
いきなりこんなことを言われても楓は困るだろうな。
そんな僕の予想を反し、楓はすぐに返事を返した。
「その必要はないよ」
楓は悲しそうな、申し訳なさそうとも取れるような顔で僕を見た。
どうして――と僕がそう言うよりも先に楓は言葉を続ける。
「りっくんみたいな大それた理由なんてボクにはないからさ。登校途中に駅の近くを歩いていたらあの男の子たちに絡まれて、もう学校に間に合わない時間になったからいっそのことこのままサボっちゃえ、ってなっちゃっただけ。それだけだよ」
楓は淡々とした調子で言った。
自然的な楓のその様子に嘘は微塵も感じられない。
しかし、僕は楓の言ったことを信じ切ってあげることは出来なかった。
間に合わなくなったからサボる。そんなたわいない理由で楓が学校をサボったとは、僕は到底思えなかった。
「それは本当か?」
僕のその言葉に楓の肩が微かに震える。視線も僅かに揺れる。
表情は何も変わらなかったが、楓が動揺しているのが僕には分かった。
「……まぁ、言いたくないならそれでもいいんだ。言いたくない理由は色々あるだろうしさ。でも、もし楓が『りっくんに言ったところできっと何も変わらないだろうしな』と決めつけて言わないのだとしたら、僕は少し悲しいかな」
少し意地悪な言い方だな、と自分でも思った。
言われた当の楓もそう感じたらしく「その言い方はずるいよ……」と言って苦笑した。
楓は視線を下に落として考え込むような顔をする。
しばらくの沈黙。
考えが纏ったのか、楓は深い深呼吸をしてから顔を上げ、僕に再び視線を向けた。
「うん。学校をサボったこととは関係ないんだけどさ。悩みはあったよ。取るに足らないような、ちっぽけな悩みがさ。だけどね……もう大丈夫なんだ。ボクは今日1日で充分すぎるくらい、りっくんに救われたから」
そう言って最後に楓は笑った。
僕に救われた。その言葉と楓の表情を、僕は先程とは打って変わってすぐに心の底から信じた。
自分が望んでいた結果だったから。楓のあの言葉と笑顔が嘘であってほしくはなかったから。だから僕は楓のことを簡単に信じたのかもしれない。
楓の悩みは何だったのか? 僕が楓にいったい何をしてあげられたのか?
それらを知らないままだと僕が本当に楓のことを救えたという確証は何一つとしてないということを、それを僕はちゃんと理解していたが……だけど、僕はもう何も聞かないことにした。
楓が悩み、考えて出した答えがあれだったのなら、彼女が救われていようと救われていまいと、これ以上首を突っ込もうとするのは逆に迷惑になってしまうだろうと分かっていたから。
「身に覚えはないけど……楓がそう言ってくれるなら良かった」
僕は笑いながら言ったつもりだったが、笑顔を上手に作ることが出来ていなかったのかもしれない。
楓は申し訳なさそうに笑いながら「ごめんね……」とポツリと呟き、前を向いた。
「んー! 時間もけっこう経ったし、もうそろそろで花火が始まるんじゃないかなぁ」
気分を切り替えるためか、話を逸らすように楓がそう言った直後だった。
花火の打ち上げ10分前を知らせる放送が公園の広場に鳴り響いた。
楓との話に夢中になって気がつかなかったが、いつのまにか花火が打ち上がるであろう噴水の周りには多くの人だかりが出来ていた。
「実はね、花火を生で見るの初めてなんだ。ずっと見てみたいと思ってたからすっごく楽しみ」
楓は両足を前後に振って、はしゃぐ子どもみたいに嬉しそうに言った。
「あれ? 楓が住んでる所って花火大会があったはずだよな? っていうか屋敷から結構近い距離で打ち上がっていなかったっけ?」
「うん。花火が打ち上がっている河川敷は家から近いよ。でも、ボクは一度も見に行ったことがないんだ。一緒に行く友達も親もいなかったから」
余程花火を見るのが楽しみなのか、楓は暗い話をまるで笑い話のように明るく話した。
そんな楓とは相まって、僕は反応に困る。
楓の言った一緒に行く友達がいないというのは多分、花火を一緒に見に行く程の特別仲が良い友人がいなかった、という意味だろう。しかし、親もいなかったというのはいったいどういうことだ? 楓の両親は既に他界しており、そのまま文字通りの意味なのか? それとも、ただただ家族仲が悪いだけなのか? まぁ、そのどちらにせよ、結局は暗い話であることに変わりないのだが……。
僕は何も言えないまま楓の方を見ていると、彼女はいかに自分が反応し辛い事を口走ってしまったのかを自覚したようで、少し焦った様子で苦笑した。
「ごめん。なんだか変な空気になっちゃたね。この話はこれでお終いにして――」
それは話している最中の楓が、視線を僕の方から目の前にへと移した瞬間だった。
楓は急にビクッと体を震わせて固まった。
絶望。困惑。それらが入り混じったかのような青ざめた顔で、楓は人混みの方を見つめている。
「嘘……どうして……」
「楓?」
「ごめん。ちょっと用事を思い出して……」
楓は急にベンチから立ち上がり、人混みの方とは逆の方向へ行こうとする。しかし、それを僕は手を引いて止めた。
「待てよ。用事って……そんなもんある訳がないだろ?」
「トイレだよ。恥ずかしいから察して欲しかったな……。すぐに戻ってくるから」
楓は僕の手を振り解こうとする。だけど、僕は彼女から手を離さない。
トイレではないということは先の楓の反応を見たら分かる。楓は人混みの中に何かを見つけたのだ。そして楓はそれから逃げるために、急いでこの場を離れようとしている。
「一緒に行こう」
「っ……駄目。恥ずかしいからついてこないで」
「僕も花火が始まる前に行っておきたいんだよ」
「お願いだからついてこないで!」
楓の大きな声とともに、繋いでいた手を力強く振り払われた。
それはハッキリとした拒絶だった。
鋭く睨みつけてくる楓に、僕はついて行くことを諦め携帯電話をポケットから取り出す。
「……あぁ、分かった。それじゃあ、連絡先を交換しとこう。戻ってきた時に人が多くて合流出来ないかもしれない」
「ごめん。もう、漏れそうで……。絶対に戻ってくるから!」
「あっ、待て! 楓!」
僕の言葉を待たずに楓は商店街の方に走り出した。
楓を止めようとして僕は咄嗟に手を伸ばしたが、僅かに距離が足らなくて手が何もない空を掴む。
――どうする? 走って追いかけるか? いや、駄目だ。あんなにも強くついてくるなと言われたんだ。きっと何か理由があるはず。でも、人が多くて本当に合流出来ないかもしれない。せめて時間と場所だけでも明確にして伝えておかないと――
「じゃあ、8時にまたこの時計台で!」
それは言った自分でも驚いてしまうくらいの、痛々しく悲しみが込められた声だった。
離れて行く楓の背中が何故か不安で不安でたまらなかったから、そんな声が出てしまったのかもしれない。
楓は立ち止まって僕の方を振り向く。
きっと僕は今、どうしようもないくらいに情けない顔をしているのだろう。
こっちを向いた楓は困ったような顔で僕のことを見ていた。
「うん。約束ね」
優しい声でそう言ってから、楓は微笑んだ。
約束――その言葉を楓から使ってくれたことにより、自分の中の不安が少しだけ和らいだのを感じた。戻ってくる気がさらさらないのなら、あんな言葉なんて使わないはず。
「あぁ。約束だ」
僕は笑わない。真剣な顔をして想いを込めて言葉を返した。
楓は頷くと、すぐに振り返って再び商店街の方にへと走り出す。
段々と小さくなって行く楓の姿に、約束をしながらもやはり僕は拭い切れない不安と嫌な予感を感じていた。
楓がどこか遠くに行ってしまうような、もう楓とは会えなくなってしまうような、そんな予感。
そして、その予感は後に当たることになる。
この日、僕と楓が再び出会うことはなかった。
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