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8月編

88話 何度目の最後

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 日はすっかりと落ち、商店街の中にある街灯が灯りを灯した。蛍光灯のような白色の冷たい灯ではなく、橙色をした温かさのある灯だった。
 金曜日の夜ということもあってか、昼間よりも多くの人で商店街は賑わっている。
 そんな中、僕は抱え持っている大きな細長の箱状の荷物を周りの人にぶつからないように気を配りながら歩いていた。
 これは僕の物でなければ楓の物でもない。僕と楓の間を歩くお爺さんの物だ。
 なんでこんな事になっているかというと……ことの始まりは夕食を食べ終わった十数分前に遡る。
 2時間後に打ち上がる花火までの時間を潰そうと行くあてもなくぶらぶらと商店街を歩いていた僕たちは、大きな細長の箱状の荷物を地面に置いて腰を押さえているお爺さんを見かけた。もちろん声を掛けたのは僕ではなく楓の方で、そのお爺さんに何があったか話を聞いたところ、買い物帰りの途中で腰を痛めてしまったらしかった。僕たちはお爺さんの体調が良くなるまで荷物を運んであげることにしたのだが、彼の荷物が中々の大荷物だったため、女の子である楓に持たせる訳にもいかず、僕が持つ羽目になり……そして今に至るという訳だ。

「大丈夫ですか? かなり重たいものですし……しんどいでしょう? ここまで運んでくれてありがとうございました。私の腰の方も充分に休めてもう平気ですから」

 お爺さんは心配そうな表情を浮かべ、自分の荷物を受け取るために手を差し出しながら僕に言った。
 ここに至るまでの経緯を思い出していて、げんなりといったふうな顔を僕はしていたのかもしれない。それをお爺さんは疲れている顔だと勘違いしたのだろう。

「大丈夫です。まだまだいけますので」

 僕は首を横に振って、お爺さんに荷物を返さずに歩き続ける。
 もう平気ですから――そう言ったお爺さんの額からは汗が滲み出ており、しかもそれはこの寒い時期にただ歩いているだけで出るような量ではなく、彼の腰が全然大丈夫ではないことを物語っていたからだ。
 他人を助けない。そう決めた僕にとってお爺さんの荷物を持ち続けることは不本意ではあったが、ここで「はい、そうですか。なら返します」と言って荷物を返すほど、僕は非情には慣れ切れなかった。
 一度関わってしまった以上、途中で投げ出すようなことはしたくない。
 お爺さん曰く、彼の家はこの商店街から近くのところにあるらしいし、僕は最後まで運んであげることにした。

「……あの、失礼を承知で聞くんですけど。これの中身って何が入っているんですか?」

 僕は持っている荷物に視線を移しながらお爺さんに尋ねた。
 人の物なので慎重に運ぶ事に変わりはないけれど、割れ物だったり傾けたりしてはいけないものだったりすると、より慎重に運ばないといけないので今更にはなるが聞いておきたかった……というのは建前で、中々の重量のこの荷物がいったい何なのか、僕はただ純粋に興味があった。

「それは電子ピアノが入っているんです」

 お爺さんは嬉しそうに答えた。

「電子ピアノ……ということは、ピアノを弾かれるんですね」

 僕のその言葉にお爺さんは首を横にへと振る。

「私はこれっぽっちも引けません。それは私のものではなく、孫娘のものです」

「あぁ、お孫さんのものですか」

「えぇ、孫娘の誕生日プレゼントです。ピアノを弾くのが好きな娘でね、来年の春から大学生になるんです」

 お孫さんのことが余程好きなのか、お爺さんはずっと嬉しそうに話をしていた。
 そんなお爺さんを見ていると、こちらも不思議と和やかな気持ちになってしまい、つい顔が緩んでしまう。
 にしても大学生か……。お爺さんの見た目はだいたい六十歳前後といったところであり、彼に孫娘がいると聞いた瞬間、お孫さんは幼稚園児か大きくっても小学生高学年ぐらいかな? と僕は思ったのだが……まさか歳上だったとは……。
 
「こう言うのもなんですが……そんなに大きいお孫さんなら、一緒に買いにいけば良かったんじゃないですか? 秘密にしておいて喜ばせたい気持ちは分かりますが、お爺さんに何かがあったらきっとお孫さんも悲しむ事になると思いますし……」

 僕も思っていたが、あえて言わないようにしていた事を楓はそのままに言った。
 途端に今まで楽しそうで明るかったお爺さんの表情が変わり、落ち込んだかのような暗い表情になった。

「お、おいっ、楓……。その、なんというか……すみません……」

「いえいえ構いません。全くもってその通りですから。……ただ、一緒に買いにいけない理由がありまして。つまらない話になりますし、長くもなると思いますが……聞いてくれますか?」

 お爺さんは苦笑いを浮かべながら僕たちに聞いた。
 これといって断る理由もなければ、聞かない理由もない。
 僕と楓は同時に頷いていた。
 お爺さんは一度軽い咳払いをし、ゆったりと話し始めた。

「もう十五年も前の話です。孫娘は事故で両親を亡くしましてね。私以外の身寄りがいなかった彼女は私と暮らすことになりました。私の妻は孫娘が生まれるよりも前に他界しており、私と孫娘の2人暮らし。妻に子育てを任せっきりだった四十半ばの男一人が幼子を育てられるのかという心配もありましたが、孫娘は手のかからないしっかりとした子で、私の心配を他所に彼女はすくすくと立派に育っていきました。だけど、そんなしっかりとした娘だったからこそ、私は彼女の祖父であって、親になる事は出来なかった。彼女はどこか一歩引いたような、遠慮した態度でいつも私と接していました。あれが欲しい、これがしたい、そういった子どもが親に言うような普通のお願いをすることもせず、誕生日プレゼントも何が欲しいかと聞くと『新しい文房具が欲しい』だなんて今時の子どもに似合わないようなことを毎年言っていました。でも、そんな孫娘が一度だけ、私にお願いをしたことがあったのです」

「それがピアノだったと?」

 僕の質問に「えぇ、そうです」とお爺さんは頷く。

「あの日のことは今でも忘れはしません。孫娘が小学五年生に上がってすぐの夏のことでした。彼女は私の妻が生前に使用していた電子ピアノを持ってきて『ピアノを教えて欲しい』とお願いしてきたのです。残念ながら私はピアノを弾くことは出来なかったのですが、商店街で楽器屋を営んでいる友人がピアノを嗜んでおりまして、私はその友人に孫娘にピアノを教えてやってくれないかと頼みました。友人はそれを快く引き受けてくれ、孫娘はみるみるうちにピアノを弾くことが出来る様になりました。……まあ、それから孫娘がピアノに没頭するようになって、私が彼女と接する時間は更に減ることにはなりましたが……しかし、それでも良かった。私は孫娘のピアノを聴くのが好きでしたし、何よりピアノを弾く時だけに見せる彼女の楽しそうな表情を見るのが凄く嬉しかったのです。しかし、ここ最近使っていた電子ピアノの調子が悪いみたいで、楽器屋の友人に見てもらったのですが、彼いわく部品が出回っていないから直すことは出来ないと言われました。なので誕生日プレゼントと大学の合格祝いを兼ねて新しい電子ピアノを買ってあげようと、私は孫娘にそう提案したのですが、彼女は遠慮した様子で『大学生になったらバイトをするから、そのお金で買うよ』と言って断られてしまって……。でも、私は諦めることが出来なかった。いくら遠慮をされようとも、買ってしまえばこっちのもの。受け取るしかないでしょう。だから私は孫娘に内緒で一人、電子ピアノを買いにきたという訳なのですが……」

 お爺さんは足を止めて、両隣の僕と楓の顔を交互に一瞥すると、深々と頭を下げた。

「その結果、孫娘を喜ばせたいがために身知らぬあなた方に迷惑をかけてしまうことになってしまって……本当に申し訳ありません」

「いえいえ! ボクたちは全然迷惑だなんて……! ねぇ、ヤンキー君もそう……」

 慌てた様子で僕の方を向いた楓は面食らった表情で言葉を止めた。
 それの意味するところが何かを僕はすぐに理解し、楓から僕の顔が見えないように顔を横に背ける。

「もしかして、泣いてる?」

「は、はぁ? 泣いてませんけど?」

 楓の問いかけに反射的にそう返した僕の声は涙混じりだった。
 僕は急いで学ランの袖で自分の顔を拭う。
 自覚はあった。僕は涙脆い性分でちょっとした悲しいお話や、お涙頂戴ものの物語にはめっぽう弱い。多分、涙は出てはいなかったと思うけど半泣きに近い顔はしていたのだろう。

「その……僕も迷惑とは全然思っていませんので。きっとお孫さんもすごく喜ぶと思いますし、早く家に帰りましょう」

 二人の方を見ずに顔を背けたまま僕は言って、足を進めた。

「ありがとうございます。お二人が優しい人で本当に良かった」

 後ろから聞こえたお爺さんの声はとても穏やかだった。
 僕は後ろを振り返る。
 お爺さんは温かな表情で僕を見ていた。

「僕は――」

 優しくなんかない。
 優しい。その言葉を楓が言われ、あんな表情を向けられる筋合いがあっても、僕にはない。
 昼間の楓の時のように、お爺さんの言葉を咄嗟に否定してしまいそうになったが、今のこの和やかな雰囲気を壊さまいと、僕は続く言葉を飲み込んだ。

「すみません。なんでもないです」

 お爺さんにそう言って僕は再び前を向く。
 そして、足を進めようとした――その時だった。

「おじいちゃん!」

 目の前で大きな女性の声がした。
 声を発した女性は僕たち……いや、正確にいうとお爺さんに心配の表情を向けていた。
 つい先ほどまで走っていたのか、彼女は顔中に汗を滴らせながら肩で大きく息をしている。

「ハルミ……どうして……」

 お爺さんは驚いた顔をして言った。
 ハルミ。そう呼ばれた目の前にいる女性がお爺さんのお孫さんなのだろう。

「電話しても繋がらないし、中々帰ってこないから心配で……」

 ハルミさんはそこまで言ってお爺さんを挟んで立っている僕と楓に気付き、だいたいの経緯を察したのか、お爺さんの荷物を持っている僕の元にすぐに駆け寄った。
 
「おじいちゃんが御迷惑をおかけしてごめんなさい。君が持っているそれ、おじいちゃんの荷物だよね?」

 ハルミさんは僕から荷物を受け取ろうと両手を前に差し出した。

「ええっと……これは……」

 僕は言い淀みながら、お爺さんに視線を向ける。
 困った……。僕が手に持っている物はお爺さんからハルミさんへのせっかくのプレゼントだ。僕の手で渡すよりもお爺さんの手から渡してあげた方がいいに決まっている。だけど、わざわざここでお爺さんを通してハルミさんに荷物を渡すのもおかしなことである気がするし……。
 そんな事を考え、どうしようかと悩んでいる僕にお爺さんは軽い笑みを浮かべて小さく頷いた。
 それを僕は渡していいものと判断し、ハルミさんに荷物を渡す。

「嘘……もしかしてこれって……」

 僕から荷物を受け取った瞬間、ハルミさんは何かに気付いたようで、目を大きく開きバッと勢いよくお爺さんの方に顔を向けた。
 電子ピアノが好きで弾き続けてきた彼女だからこそ、渡した荷物の中身が電子ピアノだとすぐに気付いたのだろう。
 お爺さんはバツが悪そうにハルミさんから目を逸らし「電子ピアノ」とボソッと呟いた。
 驚きを顕にしたハルミさんは瞳に涙の膜を張り、そして、見開いていた目を細めて今にも泣き出してしまいそうな顔をした。

「バイトしたお金で買うからいいって言ったのに……」

 小さく震えた声でハルミさんはそう言った。しかし、彼女のその声には確かな嬉しさがあった。
 今日ハルミさんと初めて会った僕でさえ気付いたのだ。彼女と長年一緒にいたお爺さんがそれに気付かないはずがなかった。

「ずっと長い間考えてた。私はハルミに祖父としてではなく、一人の育ての親として何かをしてあげられたことがあったのだろうかと。ハルミは来年から遠くの街で一人暮らし。そのままそこで就職する可能性もあれば、また他のところで就職する可能性もある。そのどちらにせよ、今までみたいに二人で過ごしてきた時間も、名残惜しいが残り僅かだろう。それに私ももう歳だ。いつまで元気でいられるか分からない。だから、二人で一緒に祝うのが最後になるかもしれない今年の誕生日くらいは祖父としてではなく、一人の育ての親として、ハルミが本当に欲しいものを渡してあげたかったんだよ」

 そう言ってからお爺さんは嬉しそうに微笑み、優しい手つきでハルミさんの頭を撫でた。 
 とうとう堪えきることが出来なくなったハルミさんの瞳から、溜まっていた涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。 

「ありがとう……向こうに行っても、社会人になっても、この電子ピアノをずっとずっと大事にする。でもね……」

 ハルミさんは嗚咽混じりの声で途絶え途絶えに言ってから、そこで言葉を止めた。
 そして、お爺さんから一歩ほど距離をとり、塞がった両手のせいで拭けない潤んだ瞳をそのままにお爺さんを真っ直ぐに見据え、言葉を続けた。

「私にとっておじいちゃんはおじいちゃんだよ。祖父とか育ての親とかそんなもの関係ない。おじいちゃんは私をこれまで育ててくれた、私の1番大切な人。休みが出来たら絶対に帰ってくるから。だから……いつまで元気でいられるかとか、そんなこと言わないで。もっともっと頑張って長生きしてよ。私だってまだまだ子どもだし、頼れる人が居なくなっちゃうと困っちゃうからさ……」

 そう言い終えると、ハルミさんはせき止めていた涙を一粒、また一粒と流し、にっこりとお爺さんに微笑んだ。

「……うん。そうだなぁ。まだまだ頑張らないとなぁ」

 お爺さんもまた微笑みながら泣いていた。
 そんな泣きながら笑い合っている2人を見ていると、突然目の前の景色がピントの合っていないカメラみたいに滲んでボヤけた。
 あぁ、またか……。
 僕は涙脆い自分自身に内心呆れながら鼻をすすり、学ランの袖で目元を擦る。
 荷物を運び終わった今、僕たちはもう用済みだ。これ以上はお爺さんとハルミさんの邪魔になってしまうし、ここに突っ立っている意味もない。

「手伝いも終わったことだし、そろそろ行こっ……」

 楓の方を振り向き、僕は驚きのあまり言葉が飛んでいってしまった。
 泣くのを我慢しているかのような顔で楓が僕のことを見ていたからだ。
 楓がお爺さんたちにその顔を向けるのは分かる。だけど、今楓が見ているのはお爺さんでもハルミさんでもなく僕だ。なぜ楓が今にも泣きそうな顔で僕のことを見ているのか。いくら考えてみても僕にはそれがどうしても理解出来なかった。

「どうした? どっか具合でも悪いのか?」 

 僕にそう言われて、楓はハッと我に返ったような素振りを見せ、首を大袈裟に横に振った。

「ごめんごめん。なんでもないよ。行こう」

 なんでもないことはないだろ。僕がその一言目を発しようとした瞬間、楓が僕の手を引いて歩き出した為、意表を突かれた僕は2度と再現できないような変な声の悲鳴を上げてしまった。

「なになに今の声? 顔も赤いし、もしかして照れてる?」

「はぁ? さっきのはな……その……しゃっくりが出ただけだ。たかが手を繋がれたくらいで照れるわけなんかないだろ。顔が赤く見えるのも橙色の街灯のせいだ」

「え~。本当かな~」

「本当だって。まぁ、今はそんなことよりも、花火の時間に間に合わなくなるといけないからとにかく急ぐぞ」

 これ以上顔を見られないようにするために、僕は歩くスピードを上げて楓の斜め前を歩く。

「ふふっ。そんなに急がなくても花火の時間までまだ1時間以上もあるよ」

「うーるーさーい。ぎりぎりの時間で行動して、もし何か不測の事態が起きて間に合わなくなるのは嫌だろ。何事も余裕を持って行動することが大事なんだよ」

「むっ。それは確かに一理あるかも」

 楓は納得した顔でそう頷いていたが、すぐに表情を緩ませて「でも、やっぱり1時間は早過ぎると思うなぁ」とクスクスと笑った。
 これ以上の言い訳は無意味。というより、ボロを出して自分の首を締め付けることになりうる可能性があるため、僕はもう何も言わずに歩き続ける。
 泣くのを我慢するような顔で楓が僕のことを見ていたのをなんだか上手い具合に誤魔化された気もするが……今のいつも通りの楓を見ていると、あのことについてあれこれ掘り下げる必要は無いと思い、僕は何も聞かないことにした。

「君たち! ちょっと待って!」

 後方の離れた場所から聞こえたハルミさんの声。
 僕と楓は歩く足を止めて振り返る。
 ハルミさんは初めて会った時よりも息切れ切れの状態で人の波をよろよろと避けながら僕たちの前に来ると、下を向きながらストップと言わんばかりに右手を前に突き出した。
 ゼェゼェと苦しそうに呼吸をしている所を見るに、呼吸が整うまで待ってくれの意だろう。
 僕と楓は何も聞かずに、ハルミさんの言葉をただ待つ。
 しばらくするとハルミさんは「ふぅ……」と一息つき、顔を上げた。

「ごめんね、デートの時間を邪魔しちゃって。おじいちゃんの事で何かお礼をしなくちゃと思って呼び止めたんだけど……んー……そうだ! もし迷惑じゃなかったら一緒に夜ご飯でも食べない? この商店街の中に美味しい中華のお店があるの。もちろん、お金の方は私が払うからさ。ね、いいでしょ」

 キラキラとした表情でハルミさんは僕たちを見る。
 どうしてかハルミさんは妙に意気込んでいるようだ。
 そんなハルミさんに気圧され、僕は返答を出そうとしたり引っ込めたりを繰り返す。
 返そうと思っている応えは「すみません」というお断りの一言。
 しかし、未だに迷っている僕もいる。
 中華が苦手という訳ではない。むしろ大好きだ。それに、せっかくのお誘いを断るのは心苦しい。だけど、夕食の方はもう済ませてある。デザートぐらいなら入りそうな腹の具合だからどうしても行けないことは無いけど……それだと花火の時間に間に合うかどうか、本当に怪しいところになってしまう。やはりここは、断るのが正しい判断だ。
 
「すみません。お誘いは嬉しいのですが夜ご飯の方は――」

「ボクたちはそういう関係じゃないです!」

 楓は今まで繋いでいた手を勢い良く振り解き、僕の声を消してしまうくらいの大声で強く否定した。
 楓の言ったそういう関係とは、つまりは恋人関係のことだろう。
 僕はハルミさんのデートという言葉を、その次に出たお食事の誘いに気を取られて無意識的にスルーしていたが……楓にとってどうやらあれは聞き流すことの出来ない言葉だったらしい。
 あの否定の仕方と顔を真っ赤にして怒っているのを見るに、よっぽど僕と恋人関係だと思われるのが嫌だったということだ。
 少しばかり……いや、正直なところを言うと普通に傷ついた。
 別に楓に異性としての好意があるわけでは無い。
 ただ、今日1日の出来事を通して楓との心の距離感はだいぶ縮まり、普通の友人かそれ以上の関係を築けているものだと、僕はそう勝手に思い込んでいた。
 だけど現実はこれだ。
 あんなにも強く否定されるということは、それの理由たる決定的な何かが僕にあるということだ。
 なんだろう? 僕の性格が嫌いとか? ……いや、それは違うか。僕のことを良く理解している知人に対して恋人関係だと思われるのが嫌だというのなら内面的な問題だったかもしれないが、ほぼ赤の他人に等しいハルミさんに対してあの反応だったので、きっと僕の容姿に問題があるのだろう。身長や体型はいたって標準的なものだと思うけど……となれば、やっぱり顔か? 顔なのか? ……まぁ、そんなことよりも今は――

「まっ、そういうわけなんで。全然お気になさらずに。それでは」

 何がそういうわけなのか。自分でもそれを理解してないまま、驚いて呆気からんとしているハルミさんに手を振り、僕たちは逃げるように早足で商店街の南口を目指して足を進める。
 しばらく歩いた後に、後ろの様子を窺ってみたがハルミさんはもう追ってきてはいなかった。
 なんだか後味の悪い別れ方になってしまったけど、もう戻ることも出来なければどうすることも出来ない。
 僕はただ黙って足を前に進ませ続ける。

「さっきは……ごめん」

 唐突に楓は言った。

「いいよ。本当のことだし。全然気にしてないから」

 反射的に僕はそう返す。
 そしてまた2人の間に沈黙が訪れる。
 すれ違う人々の楽しげな話声や表情。そんな陽気な雰囲気をものともしない陰気な雰囲気が僕たちだけを包んでいる。
 さっきのは僕の返し方が悪かったのかもしれない。
 声の方もいつもより若干暗くて低かった気がする。
 僕はあの事に関して傷付きはしたが、怒っているわけでは無い。だけれど、あんな簡素でぶっきらぼうな返し方だと不機嫌だと思われるのも仕方のない話だろう。

「やっぱりさっきのは無し。本当のところを言うとかなり傷ついた。これでも中々にイケてる顔や身体つきをしていると、かなりの自信があったんだけどなぁ」

 自分の顎を手でさすり撫でながら、わざとらしく冗談めいた口調で僕は言った。
 もちろん先に言ったことは傷付いたということ以外は全て嘘だ。自分の顔に関しては中の下だと思っているし、身体つきも大したことのない平凡なものだと思っている。
 慣れないことを言った為か、顔が凄く熱い。
 自分が面白半分にふざけて話せば、楓も笑いながら冗談の一つや二つでも飛ばしてくると思ったのだが……楓は何も言ってくる気配がない。
 もしかして、さっきのが冗談だとは伝わらず「え? そんな容姿のくせに自分に自信があるの?」とドン引きしているとか?
 僕は恐る恐る横目でちらりと楓の様子を見る。
 僕の予想は外れていた。
 楓は何か想い詰まった、いうなればあの時と同じで泣くのを我慢している様な表情に近しい顔で僕の事を見ていた。
 やはりどうやらさっきの僕の言葉が冗談だとは伝わっていないらしい。しかも悪い方向で……だ。よりによって僕が傷ついたという部分を楓は真に受けてしまっている。
 確かにあの反応で傷ついたのは嘘ではないが、別に楓が気にするほどのことではない。それにあれは僕が勝手にショックを受けただけで、楓はありのままのことを言っただけで……まぁ、色々とゴチャゴチャ言いはしたが結論何が言いたいかというと、ようするに楓は何も悪くはない、ということだ。

「さっきのも無し! あー…………あれだ! 本当に気にしてなんかいないし、あと自分のことカッコいいとか全然思ってないから! ただ、楓が悪く思うことなんて何一つも無いってことを伝えようと思っただけで……だから――」

「君は自分のことを優しくないと言うけれどさ……やっぱり優しいよ」

 楓はボソッと呟く様な声で言った。
 その声は喋っている途中だった僕の耳にもはっきりと届いた。
 僕の足が止まる。
 昼の時と同じ様にあの言葉を否定しようと僕は体ごと楓の方に向けた……が、僕の否定の言葉よりも先に楓が口を開いた。

「先にお爺さんに気付いたのは君だったし、それに荷物だって結局は君が持ってたしさ」

 楓の言った通りお爺さんに先に気付いたのは僕だった。でも……ただそれだけだ。

「声を掛けたのは楓の方だろ。それに女の子が重たそうな荷物を運んでいるのに、僕一人だけが何もせずに後ろをついて歩いてたら周りの人たちは僕の事をどう思う? 答えは簡単だ。みんながみんな『あの男はどうして手伝ってやらない? 全く酷い奴だな』って思うだろうよ。僕が率先して荷物を持って歩いたのは世間体を気にしてだよ。だから、僕は優しくなんてない」 

 お爺さんの荷物を持ってあげたあの時に思っていた事をそのままに僕は言った。
 口に出して改めて思う。本当に酷い理由だ。

「朝の時に男の子達に囲まれていたボクに声を掛けてくれたのも、それが理由なの?」

 そう言った楓の声色が今までのものと少しばかり変わっていた。どこか弱気な震え声。
 そうであって欲しくない。その思いがありありと出ている顔で楓は僕を見ている。
 
「世間体を気にしていたから? 本当にそう?」

 何も言わない僕に追い討ちをかけるように楓は言葉を続けた。
 さっきの声とはうって変わって強気な声だった。そして、その声と同様、強い想いの込められた眼差しがずっと僕を捉え続けている。
 楓の瞳に映る僕の顔は「もう、やめてくれ。そんな目で僕を見るな」と言いたげな情けない顔をしていた。
 そんな自分自身と楓の眼差しにとうとう耐えきれなくなって、僕は楓から目を逸らして前を向く。

「……あぁ、そうだよ。周りにいいように見られたい。それが理由で僕はあの時、楓に声を掛けた」
 
 僕のその言葉を最後にそれ以上会話は続かなかった。
 楓は僕に何も言わず、再び歩き出す。
 僕も置いていかれまいと急いで歩き、楓の隣に並ぶ。
 楓と隣に並んだ時に一瞬だけ見た彼女の横顔。楓は目に見えて落ち込んでいた。 
 そんな楓の表情を見て、はっきりとした心の痛みを僕は感じている。
 自分にとって唯一の救いだったのは、楓が涙を流していなかったことだけ。
 もし彼女が泣いていたならば、痛みなんて言葉で表現出来ないくらいの傷を心に負っていたかもしれない。それこそ、嘘だろうとなんだろうとどんな手を使ってでも、必死になって先の言葉を取り消そうと躍起になっていただろう。
 自分であんな事を言っておいてそう思うのは、なんとも自分勝手なことだってことぐらい分かっている。初めっからあんな事を言わなければ良かった話だ。助けたいと思ったから。そう言うのが正解だったということなんて考えるまでもなく分かっていた。
 だけど――それは嘘だ。
 僕はあの時、本当は見て見ぬフリをするはずだった。
 白いワンピースを着た女の子に袖を引っ張られていなかったら、楓に気付くことさえなかったはずなんだ。
 ……僕が楓に言った周りに良いように見られたいという世間体なんてものも本当はこれっぽっちも頭になかったが……どちらにせよ嘘であることには変わりはない。なら、事実に近いのは僕が口に出した方だ。
 だから、僕は楓に言った言葉を取り消さない。
 きっと楓は僕に幻滅し、酷いやつだと思っているだろう。
 とうとう外見だけではなく、内面も嫌われてしまった。
 でも、それでいい。
 だって僕は楓が今思っている通りの、悪い人なのだから――

「ママ……」

 それはほんの一瞬の出来事だった。
 商店街の喧騒がピタリと鳴り止み、音が無くなった世界で幼い女の子のか細いかすれ声だけが僕の耳に入った。
 すぐにガヤガヤとした喧騒が戻ってきて、知っている元の世界に戻る。
 僕は足を止め、急いで振り返った。
 しかし、僕が今見えている範囲に幼い女の子はいない。

「どうしたの?」

 楓は急に足を止めた僕に対し、不思議そうな顔で尋ねる。
 どうやら先程僕が聞こえた声は楓には聞こえなかったらしい。

「いや……別に……」

 そうは言いながらも僕は周りを見渡す。
 さっき聞こえた声はこれだけの人がいる中で聞き取れるはずのない声だった。
 周りの人たちの声が入り乱れ、誰が何を言っているのか注意して聴こうとしていても何を言っているのか分からないこの状況。
 そんな中あらゆる音が消えてあの声だけが聞こえたというのは、全くもっておかしな話だ。
 幻聴や空耳の類。
 そうかもしれない。いや、絶対にそうだと思いながらも僕は周りを見渡す。
 そして僕は――見つけてしまった。
 膝を抱えて今にも泣いてしまいそうな顔をした小さな女の子を。

「何か探してる?」

「…………いや。知り合いに似ている人とすれ違ったから。でも気のせいだったみたいだ」

 僕はそう言って何も見なかったことにし、再び歩き始めた。
 この場から一刻も早く離れる為に足を止めることなく前に進ませ続ける。
 楓も周りも僕があの少女に気付いたことを知らない。僕だけが知っている。誰も僕を咎めることは出来ない。
 それに、困っている人を助けるのは妊婦さんの時で最後だと決めたのだ。お爺さんの時は楓が声を掛けてしまったので、成り行きで仕方なくだったけど……。
 思い出してみろ。今日学校をサボってここにいるのは何のためだ? 『誰かの為に生きる』だなんて自分が望んでいない生き方を捨て、本当に自分が望んでいる生き方を見つけるためだろ?
 それなのに僕は朝の白いワンピースの少女から始まり、楓、妊婦さん、お爺さんと困っている人と関わり、望んでもいない以前と同じ生き方を繰り返してきた。
 このままだといけない。このままでは何も変わらない。僕は自分がしたいと思っている生き方を知りたい。
 だからこそ僕はあの少女に声を掛けるわけにはいかなかった。

「…………」

 自分の行動を正当化するための言い訳は山ほど出るのに、それに反して次第に足はスムーズに前に進むことが出来なくなり……そして、とうとう止まった。

「どうしたの? さっきから様子がおかしいよ?」

 楓はとても心配そうな顔で僕を見る。
 なんでもない。そう言おうとした。でも言えなかった。
 何を迷っているのか自分でも分からない。
 もう僕は自分が望んでいない生き方をしないと決めたはずなのに。
 僕は迷いを断ち切る為、今まで困っている人たちを見かけた時と同じように、あの女の子を助けないための理由を探し始める。
 今にも泣いてしまいそうな顔で一人で膝を抱えて座り込んでいたところを見るに、あの女の子はきっと迷子だ。
 この土地勘のない知らない街で、これだけの人がいる大きな商店街の中で僕が親を見つけられる可能性は限りなく低い。
 それに、もしかしたらもう誰かが声を掛けてあの場所に女の子はいないかもしれない。だとしたら戻るだけ無駄だ。
 ………………でも、もし……まだ誰も声を掛けていなかったなら?
 あの女の子は今もあの場所で独り寂しい思いをしているかもしれない。
 幼稚園児か小学校低学年くらいのあの女の子にとってこんな場所で迷子になることがどれだけの不安と絶望なのか、僕の想像なんて軽く超えてしまうものだろう。
 きっとあの女の子は自分がどうすればいいか分からなくて、誰かに声をかけることをしないはずだ。
 自分から助けを求めることができなくて、誰かが手を差し伸べてくれるのをずっと待っている。
 それなのに僕は自分の為だと言って、見て見ぬフリをして助けないのか?
 それは……違うだろ。
 困っている人がいるのに、助ける理由なんてものはいらない。
 たとえ見つける事にどれだけの時間がかかったとしたとしても、誰かが側にいて一緒に探してくれるだけで、独りでいるよりも気持ちはずっと楽であるはずなんだ。
 ――あぁ、分かってた。もう認めたらどうだ? 本当は誰かの為になんて思ってないくせに、僕という人間はきっと後悔するんだ。
 あの時どうして声をかけなかったんだろうって。手を差し伸べることができるのに、どうしてしなかったんだろうって。
 今までずっと誰かの為に生きていたから、困っている人がいれば動くのが当たり前みたいになってしまっているんだ。つまり僕という人間は、本当はしたくもない『誰かの為に生きる』という生き方しか出来ないように、既に形作られている。
 あぁ、本当に僕はどうしようもないやつだ。

「ごめん。ちょっと戻る」

「え?」
 
 突然の意味不明な発言に呆気にとられている楓に構わず、僕はすぐに走る。
 あの場所に戻ると、女の子はまだ膝を抱えて座り込んでいたままだった。
 ここに戻ってくる最中、もう既に誰かに声を掛けてもらっていて、女の子がこの場所からいなくなっている事を僅かながらに期待していたのだが……でも、彼女を見て、戻ってきて良かったと、心のどこかで安心している僕がいた。
 僕は女の子に近付き声をかける。
 
「大丈夫か?」

「ひぅっ⁈ うっ……うぅ…………」

 女の子はなぜか、わっと声を上げて泣き出してしまった。
 周りの視線がこちらに一気に向けられる。

「わっ、ちょっ……だ、大丈夫だよ~。怖くないよ~」

 僕は慌てて女の子を宥める。
 しかし、女の子は泣きじゃくって僕の言葉を耳に入れようとはしない。
 参った……。どうすればいい? 頭か背中を撫でて落ち着かせたほうがいいのか? いや、もしかしたら余計に怖がらせてしまう可能性もあるし……。どうしよう……小さい子どもとの接し方が分からない。

「どうして泣いているのかなぁ? ボクにお話を聞かせてくれないかい?」

 それは某ネコ型ロボットの様なダミ声だった。
 横に誰が来たのかと思いながら隣を見ると、顔の前にウサギのぬいぐるみを構えてしゃがんでいる楓がいた。
 無理をしているのか、楓の顔が段々と下の方からカッーと赤くなっていく。
 女の子は泣くのをやめたが、ポカンとした顔で楓のことを見ている。

「なぁ、楓。頑張っているところこんなことを言うのもあれだけど……お人形さんごっこが通じる年齢は過ぎてるんじゃないか? それにそのぬいぐるみであの声はミスチョイスだと思うぞ」

「うっ……うるさいな! 泣き止んだんだから別にいいでしょ!」

 楓は赤い顔でコホンとわざとらしく咳き込み、再び女の子の方を向く。

「このウサギさんをぎゅーっと抱きしめてみて。ふわっふわで柔らかくて、とても安心するよ」
 
 楓は目線を女の子と同じ高さにして優しい声でそう語りかけると、手に持っていたぬいぐるみを女の子の前にへと差し出した。
 女の子は差し出された体の半分はある大きなぬいぐるみを受け取ると、楓に言われた通りギュッと抱きしめる。

「どう? 落ち着いた?」

 女の子は微かに微笑みながら無言で頷く。

「迷子かな? お父さんとお母さんとはぐれちゃった?」

「ママ……」

「そっか。ママとはぐれちゃったか……最後に行ったお店とか、どっちの方向から来たか分かるかな?」

「んー…………分からない……」

 やはり同じ性別の方が安心して話せるのか、楓の質問に女の子はとんとんと応えていく。
 どうやら楓は小さい子どもの扱いには慣れているみたいだし、もう僕は彼女に任せて見ているだけでいいかもしれない。
 そう思っていた矢先――

「そっか。でも、安心して。このお兄さんはこう見えて、困っている人を絶対に助けてくれるヒーローだから」

「はぁ⁈」

 楓は急にとんでもない事を言い出した。
 僕はすぐにそれを否定しようとするが、女の子のキラキラとした眼差しに言葉を飲み込む。

「本当? お兄ちゃんはヒーローなの?」

「っ……あぁ、本当だとも」

 自分が出せる最大限の渋い声に自分が思うヒーローっぽい口調で言いながら、両腕で力こぶを作るポーズをとってみる。
 女の子はぱぁっと花を咲かした様な笑顔を見せてくれたが、周りのクスクスとした笑い声や温かい目がとてつもなく痛い。
 穴があったらとかじゃなく、穴を自ら掘って入りたいくらいには恥ずかしい。
 僕をこんな目に合わせた張本人は口元を手で覆い、体をプルプルと震わせて笑っている。

「あー、もう行くぞ。動かない事には何も始まらないしな」

「そうだね。それじゃ、ママを探しに行こっか」

 僕と楓は女の子を挟むように横に並び、とりあえず歩き始める。

「商店街に迷子センターってあったっけ?」

「多分無いと思うよ。それにもしあったなら、この子の親が先に行って何かしらの放送が流れていると思うし……」

「だよな……やっぱり歩き回って探すしか他に方法はなさそうだな」

 そうは言いながらも他に何か良い方法がないかを僕は考える。
 しかし、あまりの情報の少なさに良い案が全然浮かばない。
 楓も僕と同じことを考えているのか険しい顔をしている。
 そんな僕たちの顔色を見て不安になったのか、女の子の表情が少し曇った。
 僕は女の子の不安を和らげる為に声をかけようとするが、それよりも先に「大丈夫だよ」と楓が女の子の頭を撫でてあげた。
 女の子の表情は和らぎ、こくんと頷く。
 もし僕が楓と同じことをしていたとしても、こうも安心させてあげられることは出来なかっただろう。
 最初に女の子を泣き止ました時といい今といい、楓がいてくれて助かった。

「……さっきはありがとう」

 僕のいきなりのお礼に楓は首を傾げる。

「さっき? えっと……何かしたっけ?」

「この子が泣いていた時、僕は何も出来なかったから……。もし楓がいなくて僕が一人だったなら、今でもあの場所で未だにあたふたとしていたかもしれないなぁ、なんて思ってさ」

「別にボクは大した事はしてないよ。ヤンキー君が取ってくれたぬいぐるみがあったから上手くいっただけで……だから、ボクの方こそありがとう」

 楓は屈託のない笑顔を僕にへと向けた。
 正直なところ、ぬいぐるみがあろうとなかろうと楓は上手く女の子をあやすことが出来たと思うが……彼女は僕が取ったぬいぐるみのおかげだと本気で思っているらしい。

「ぬいぐるみは関係ないだろ。楓のおかげだよ」

「関係あるよ。ヤンキー君のおかげだよ」

「いや、だから関係ないって」

「関係ある」

「ない」

「ある」

 なぜか楓は食い下がり、自分のおかげだと認めようとはしない。
 このまま言い合いを続けたところでお互いが譲らないことは目に見えている。
 きっとこの言い合いは徒労に終わるだろう。
 僕は先に折れることにし、話を逸らす事にした。

「そう言えばさ、この子と話していた時、目線を同じ高さに合わせてゆっくりと優しく語りかけるように喋っていただろ? 小さい子どもとの接し方が慣れてるようだったけど、もしかして歳の離れた妹とか弟でもいるのか?」

「ううん。ボクは一人っ子だよ。でも、そうだね……かなり昔の事だけど、ボクも迷子になったことがあってね。その時に優しいお姉さんたちがお父さんを探すのを手伝ってくれたんだ。その時のお姉さんたちがとても話しやすい優しい人だったから真似をしてみたんだけど、もしかしたらそれでかもね」

 昔の記憶を思い返しているのか楓は顔を少し上げ、話を続ける。

「それにその時にね、お姉さんたちは自分たちのことを魔法少女って言ったんだ。当時の幼かったボクが安心できるように、分かりやすいものを名乗ってくれたんだろうね。それが凄く印象に残ってる」

 楓の話を聞いてぶり返される記憶と恥ずかしさ。

「あれって別に僕じゃなくてもよかっただろ。楓がその時のお姉さんたちと同じ様に『私は魔法少女だから安心して』って言えば良かったんじゃないか?」

「ボクはそういうガラではないし……それに初っぱなの人形劇で恥ずかしさの限界値を越えちゃったから……。ヤンキー君は自分の事を不良少年なんて名乗っていたし、そういう痛々しいことには慣れっこなんだと思ったんだけど……嫌だった?」

 子ども相手ではなく、同年代相手に既に似たようなことを……いや、それよりも痛々しことをやっていたことを掘り返され「うっ」と変な声が喉の奥から漏れ出た。
 楓はしてやったりという顔で僕を見ている。
 女の子のことがあって頭からすっかりと抜け落ちていたが、僕は楓に酷い事を言った後だった。
 あのことを楓は根に持っているのかもしれない。
 そう思った僕は楓から目を逸らし、「別に……全然構わないけど」と不本意ながらもそう返した。


 

 女の子の母親を探し始めてからかれこれ30分が経過した。
 商店街を歩き回り、時には周りにも呼びかけてはいるものの、女の子の母親は未だ見つからない。

「ママ……」

 女の子はウサギのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめて心細そうに呟いた。

「大丈夫。絶対に兄ちゃんが見つけてみせるから」

 僕は楓の真似をし、優しい口調で女の子に言い聞かせながら彼女の頭を撫でる。
 悔しいけどこれが今の僕に出来る精一杯のこと。

「……ヤンキー君は本当に優しいね」

 楓は呟くように小さな声で言った。
 彼女のそれはきっと独り言だ。返す必要はない。
 そう思いながらも僕は楓の方を向いてしまった。
 そして、楓と目があった。

「別に……ただ、その…………あれだ。この子の母親を見つけたらお礼にお金とか貰えるかもしれないだろ? だからだよ」

 僕は咄嗟に焦りながら言い訳をする。

「お兄ちゃんママからお金取るの……?」

「え、あっ、嘘嘘嘘嘘嘘! 冗談だよ冗談!」

 今にも泣いてしまいそうな女の子に僕は更に焦って訂正をする。
 小さな子どもでもお金の大切さは分かる。自分のせいで母親に迷惑をかける罪悪感に駆られるのは当たりまえだ。
 あの言い訳は嘘でも口に出してはいけなかった。

「そんなになって焦って訂正するぐらいなら、初めっから正直な気持ちを言えばいいのに」

「うっ……」

 楓のごもっともな発言に言葉を詰まらせ目を泳がす。
 正直な気持ちを言うと……困っていた女の子を助けてあげたかったから、という他にない。
 でも、迷子の子がいたら探してあげようと思うのは誰だって思うことだ。
 そして、誰しもがやろうとする事を僕はやっただけ。
 それを優しいとは言わないだろう。

「あっ! ママッ!」

 女の子が突然声を上げて走り出す。
 その先にはおろおろとあたりを見回している1人の女性がいた。
 女性は自分の元に駆け寄って来ている女の子に気付くと、彼女もまた女の子の元に走り寄り、そして女の子を強く抱きしめた。

「どこに行ってたのっ⁈ 待ってなさいってちゃんと言ったのに……全く心配かけてこの子は……!」

「ごめんなさい……」

「本当に……でも、あなたが無事で良かった……」

「うん。お兄ちゃんとお姉ちゃんがね、ママを探すのを手伝ってくれたの」

 女の子は僕達の方を指差す。
 母親は僕達に気付き、女の子を連れて歩いてくる。

「すみません迷惑をお掛けして……」

 僕たちの目の前まで来ると母親はそう言って何度も頭を下げた。

「いえ。見つけることができて良かったです」

「ママ見て! これお姉ちゃんがくれたの!」 

 女の子は楓があげたぬいぐるみを笑顔で母親に掲げる。
 楓があげるつもりで渡したのかは知らないが、女の子の中では貰ったことになっているらしい。

「本当にすみません……せめてこのぬいぐるみの代金だけでも……」

「いやいやいや! 全然大丈夫です! 適当にやったクレーンゲームでたまたま一発で取れた物ですし!」

 楓は財布からお金を抜き取ろうとしている母親を急いで止めた。
 母親はお金を抜き取る手を止めて、そういう事でしたらそのご厚意に甘えさせてもらいます、と言いながらも申し訳なさそうな顔で渋々と財布をバックに戻した。

「楓……本当にいいのか?」

 僕は楓にだけ聞こえるぐらいの声の大きさでそっと耳打ちした。
 あのぬいぐるみは楓が欲しかったものだ。
 僕からぬいぐるみを貰った時の軽く跳ねていた楓の姿が思い出され、無粋だとは分かっていながらも聞かざるを得なかった。

「うん、いいんだ。あの子も随分あれが気に入っているみたいだしね」

 楓も僕にだけ聞こえるぐらいの声の大きさで返した。
 楓は微笑んではいたが、そこには僅かながらの寂しさがあった。
 あれは僕が取ったものだが楓にあげたもの。
 だから、楓が何を思っていようと彼女自身がそう決めたのなら、これ以上とやかく言う資格は僕にはない。
 僕は「そうか……」とだけ言って楓から少し離れる。

「すみませんが私たちはこれで。本当にありがとうございました」

「お兄ちゃん、お姉ちゃん、ありがとう! ばいばーい!」

 母親は頭を下げ、女の子は笑顔でこちらに手を振った。
 僕と楓もそれに対して手を振り返す。
 そして、手を繋いだ母娘は僕達から離れていき、2人の姿は人混みの中に紛れて見えなくなった。

「……良かった」

 その言葉は僕の口から出ていた。
 母親と女の子が再開した時の幸せそうな表情を思い出し、気が付いた時には声に出して呟いていた。
 僕は楓に今のを聞かれていないかと、確認の為に隣を向く。
 どうやらさっきの声は楓にも届いていたようで、彼女は優しい温かな微笑みを僕に向けていた。
 恥ずかしさに襲われ、顔に熱が灯るのを感じながら僕は急いで楓から顔を逸らす。

「な、なんだよ……」

「別にー」

 そう言った楓の声は、何故かやけに嬉しそうだった。
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