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8月編

74話 不具合

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 数歩先に海が広がっている。
 波が寄ったり引いたりしているのを僕はぼうっと眺めていた。
 つい数秒前のこと。海に入ろうとした瞬間に僕はある事にふと気付いて足を止めた。
 思えば海に入るのは生まれてこのかた、これが初めてだった。
 僕は小学6年生まで殆ど泳ぐ事の出来ない人間であり、そのことを当時の僕はとても気にしていた。
 同級生の7割方は25メートルを泳ぐことが出来、2割が25メートルを泳ぐことは出来ないがそれなりに綺麗に泳ぐ事が出来た。
 そして、僕を含む残りの1割がほとんど泳げない人。
 そりゃあ、僕以上に泳ぐ事が出来ない人も数少ないながらにもいたにはいたのだが、そんな泳げない人達よりも僕は周りから馬鹿にされていた。
 泳ぎ方があまりにも酷すぎたからだ。
 そんな泳ぎ方の酷い僕に付けられたアダ名は、溺れながら泳ぐ人。
 みんなからそうからかわれて、僕は気にしてないフリをしながらみんなと一緒に笑っていた。
 心の中では何も言い返せずにただ周りに合わせて笑う事しか出来ない惨めな自分に腹ただしさや恥ずかしさを感じながら……。
 そして、泳げないのを僕がとても気にしている事を僕の両親は分かっていた。
 そんな泳げない事を気にしている息子を連れて海に行こうと両親が思う訳もなく、僕自身が海に行きたいなんてこれっぽっちも思わなかったし、泳げるようになってからもその思いは変わらなかった為、生まれてこのかた16年目にして初めて海に入るなんて有様になっている。

「陸?」

 海へ先に入っていた楓に名前を呼ばれ僕はハッと我に帰る。

「急に立ち止まって……何かあったのかい?」

「いや、少し思うところがあってさ」

 僕はそう言ってから笑って誤魔化し、海に入った。
 初めて入った海は期待してたよりも冷たくはなく……はっきりと言ってしまえばぬるいと感じた。
 気温のせいなのもあるのか、5月に入った林間学校の川の方が断然冷たかった。

「わっ⁈」

 いきなり誰かから海水をかけられ僕は驚く。
 海水をかけてきた人物を見るために顔を手で拭い――

「つっ……おぉっ……⁈」

 目に突如走った刺激に僕は悶える。
 一瞬何が起きたのか分からなかったが、僕はすぐに理解した。
 そう、僕がかけられたのは海水。
 つまりは塩水だ。
 それが目に入れば痛いのは当然のこと。
 
「あははははははっ! り、陸さん……ふふっ……いい反応しますねぇ……」

 目が開けられない僕を見て大笑いをしている橘の声が聞こえる。
 いきなり海水をかけてきた犯人は間違いなくこいつだ。

「やってくれたなぁ……」

 目を開けると痛いので目を閉じたまま僕は橘の声がした方に向かって海水を思いっきり掬って飛ばした。

「ぎゃあああああぁぁぁぁぁっ⁈ 目があっ⁈ 目がああぁぁぁぁぁっ!」

 どうやらしっかりと命中したらしく橘の絶叫が聞こえる。
 目を開けて確認すると、どこぞの大佐を彷彿とさせるような痛がり方を橘はしていた。

「うぅ……酷いです……」

「先にやってきたのはそっちだろ。自業自得だ」

「私じゃないですよ」

 橘は片方の手で目をこすりながら、空いているもう片方の手である人物を指差した。
 その指差した先にはおろおろとしている瑞稀さんの姿が。

「ご、ごめんなさいっ。あのっ、海水の塩分濃度と涙の塩分濃度は一緒って聞いた事があったのと海水のペーハーと涙液のペーハーの違いで目にしみるかどうかが決まるというのも授業で聞いたことがあったからどっちが本当か分からなくて、私自身が海水を目に入れて試してみたんだけど、全然大丈夫だったのもあって、ええっと、ちょっと驚かそうと思っただけであっひぇ、そんなに痛がるなんて思ってなかっふぁのっ、本当にごめんにゃひゃいっ!」

 瑞稀さんはあたふたとしながらそんな長々とした言葉を一気に早口でまくしたてるように言った。
 慣れない早口やテンパっているせいもあってか後半に至ってはほとんど噛み噛みだったし、急に出てきた専門的な用語の事はさっぱり分からないが……反省の意を伝えようとしている事は充分すぎるほどに伝わった。

「わ、分かった! 分かったから一旦落ち着こう! 僕もオーバーリアクションをしてしまっただけで本当は全然大丈夫だからっ! ほら、深呼吸深呼吸……」

 息を切らして目をぐるぐると回している思考回路がショート寸前の瑞稀さんに僕はそう促す。
 瑞稀さんは僕に言われるまま2回3回と深呼吸をし、だんだんと落ち着きを取り戻していく。

「どう? 落ち着いた?」

「う、うん。りっくんも本当に大丈夫?」

「あぁ、大丈夫。その……なんだっけ? ペーハーっていうの? 海水がどうのこうのとか良く知ってるな」

 これ以上瑞稀さんから心配をされまいと、話を変えて誤魔化そうとしたのだが、何を話していたのか全然理解できていないのがバレバレなことを言ってしまう。

「私、理系教科は好きだから」

 しかし、瑞稀さんは僕の言葉を全く気にしていない様子で笑顔でそう答えた。
 確かみんなでテスト勉強をした時に見た瑞稀さんの評価表は化学と生物が学年一位だったっけ。そんな事を思い出しながら僕は目線下げて海水に目を向ける。
 なるほど……どうやら塩水だから痛かったというわけではないらしい。
 それに瑞稀さんは自分で試して痛くなかったと言っていたな……。
 
「よっ」

「きゃっ⁈」

 僕は海水を少し掬って瑞稀さんにへと飛ばした。
 コップ一杯分にも満たないであろう水の塊は綺麗に瑞稀さんの顔に向かって飛んでいき、それを防ぐ事が出来なかった彼女は海水をモロに顔へと浴び短い驚き声を上げた。

「うえぇ……しょっぱいよぉ……」

 やはり目に染みることはなかったみたいだが、どうやら海水が口に入ったらしく、瑞稀さんは舌を出しながら渋々しい表情を見せた。
 普段なら見る事のないその表情が可笑しくて僕はつい笑ってしまう。

「これでおあいこだな」

 そう言った僕を見て、瑞稀さんもまた微笑み返し、「うん。おあいこだね」と言った。
 好きな人との幸せな時間が流れる。
 この時間がずっと続けばいいのに、そう思ったのも束の間、その幸せな時間をぶち壊す雄叫びが砂浜の方から段々と近づいて来ている事に僕は気づいた。

「………………ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおっ!」

 声がする方に目をやると大袈裟に手足を動かしながらこちらに凄い勢いで迫ってくるはっちゃんの姿がそこにはあった。

「あっ、はっちゃ――」

 僕がはっちゃんの名を言い終わる直前、彼は波打ち際までくると、ぐっ、と力を抑えるようにしゃがみ込み、そして、僕の方に両の足の裏を向けて跳んだ。

「ダラッッッッシャアアァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッッッ!」

「んぐっ⁈」

 攻撃されるとはこれっぽっちも思ってなかった無防備な僕の腹にはっちゃんのドロップキックが直撃。
 そしてそのまま僕たちは2人とも激しい水飛沫を上げて海の中にへと飲み込まれる。

「ぷはあっ⁈ 急に何をしやがんだこの野郎っ!」

「ハッハァー! ザマーミロってんだ! 俺を差し置いて女の子達とイチャイチャしているからそうなるんだぜいっ!」

 ほぼ同時に海から起き上がり、僕達は互いに怒声を吐き合う。
 顔を拭い、しみる目をなんとか開かせてはっちゃんの方を確認すると、彼は僕を見下ろした状態で、その目から次々と新しい涙を流し海水で濡れた顔を更に一層濡らしていた。

 こいつ……ガチ泣きしてる……。

 はっちゃんの本気度合いに若干引きつつ、僕は彼に掛けるべき言葉をすぐに模索する。
 元はと言えばはっちゃんが海に行こうと言い出さなければ僕らは海に来ることはなかったのだ。
 もし、彼が海に行こうなんて言わなければ僕は海に1度も入らないまま死ぬ事になっていたかも知れないし、好きな人の水着姿を拝むこともなかったかもしれない。
 たとえ海に行こうと言ったそれが下心満載で自分の欲求を満たすためだけであり、周りの事など考えなしの発言だったとしても、僕ははっちゃんに感謝すれど、彼を貶めたり責めたりするのはもっての他なのだ。
 実際海に来てからというもの、僕だけがいい思いをして言い出しっぺのはっちゃんは散々な思いをしているというのに……あれ? なんだろう? 急に目頭が熱く……。
  
「なんか……ごめんな……」

「はあ⁈ やめろよっ⁈ 普通に謝るんじゃねぇ! 虚しくなるだろうがっ! いつもみたいに突っかかってこいよっ⁈」

 海面をバチャバチャと数回叩きながら駄々をこねる子どもの様にはっちゃんは騒いだ。
 その姿は見ていてとても痛々しく、謝っておきながらこんな事を思うなんてどうかと思うけど……正直言って、とてつもなく面倒くさい。

「おいおい、何か言ったらどうなんだ! 無言でじっと見つめやがってよぉ! そしてその、とてつもなく面倒くさい、っていう風な表情を今すぐやめやがれっ!」

「とてつもなく面倒くさい」

「とうとう声も出た⁈」

「いや、何か言えって言われたからさ……。それに突っかかってこいよと翔様は先程そう言われましたが、ドロップキックをする際に刺すような力の入れ方じゃなく、押すような力の入れ方をしてくれたことにより、一応ながら怪我をしないように加減をしてくれた優しさは充分に理解しておりますゆえ、貴方を責めることなんてそれはそれはとても恐れ多くて……」

「なっ、マジでやめろおっ⁈ 恥ずかしいからそういうことを口に出して解説するんじゃねぇ! それになんだその口調⁈ ムカっとするから普通に喋って下さいお願いしますっ!」

「いい加減うるさい」

「どむっ⁈」

 こっそりと背後から忍びよっていた晴矢のババチョップがはっちゃんの脳天に炸裂し、はっちゃんは文字通り海に沈んだ。

「あれ? 晴矢、荷物番の方はどうした?」

「聞くところによると海の家で荷物を預ける事が出来るみたいだったから貴重品の類いは全て預けてきた」

 晴矢はそう言いながら僕に近付き、あるものを差し出した。
 それは僕のビーチサンダルだった。
 今更ながらに僕は履いていたビーチサンダルが無くなっていて自分が裸足である事に気付く。
 きっとあのはっちゃんのドロップキックを受けた際に両方のサンダルが脱げてしまっていたのだ。
 僕は晴矢に礼を言いながらそれを受け取り履き直す。

「すまねぇな」

 サンダルを履き直している最中、晴矢は僕にだけ聞こえる大きさの声でそう言った。

「何が?」

 晴矢が何に対して謝っているのか分からなかった為、僕も彼にしか聞こえないであろう大きさの声で聞き返す。

「幸せな時間を壊してしまっただろ? 遠目から見てもいい感じの雰囲気になっているのは分かっていたんだが、翔のやつ戻って来るなりお前を見つけて猛ダッシュで走って行ったからな。止めようとはしたんだが余りにも足が速すぎて……」

「晴矢が謝る事ではないよ。それにはっちゃんの事も恨んではいない。逆に感謝しているぐらいだ。あいつがいなかったらこの日はなかったかもしれないしな」

 僕はそう言って楓と橘に腕を引っ張られて救助……もとい陸揚げをされて幸せそうな顔をしているはっちゃんに目を向ける。
 うん。感謝しているのがとても馬鹿らしく思えてしまうなんとも残念な光景だ。

「お前今、あんなのに感謝していたことをちょっとだけ後悔しただろ?」

「えっ……うん。ちょっとだけ。本当にちょっとだけな。……あれはきっと目が覚めてるよな」

「ああっ、間違いない。あれは絶対に目が覚めてる」

「なんで引き摺られているだけであんなにも幸福に満ちたような顔が出来るんだろうな」

「そんなこと俺が知るかよ。今までの待遇が悪過ぎたせいで幸せの感度にバグが生じてるんじゃないか? まぁ、他に害はなさそうだし今のところは放置しといてやろうぜ」

「そうだな」

 僕らは互いに呆れた顔を見合わせ、そして笑い合った。
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