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満月の日

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 重いまぶたをゆっくりと持ち上げる。
シトリニアの意識は深いところから浮上してきたらしい。昨日はアメジストとの口論に始まり、慣れない料理に叔母上とのお茶会と、思ってもみなかったことの連続だったからだろうか。儀式を前にした気持ちの高ぶりはあったが、夢を見ずに深く眠れたのでほっとした。

 焦点の定まらない瞳で何度かまばたきをするうちに、身体の感覚が徐々にはっきりとしてくる。身体は掛け布団の心地よい温もりに包まれているが、春の朝の空気に触れた頬はひんやりと冷たい。
 白を貴重とした室内はまだほんのりと青色に染まり、夜の気配が感じられる。ふわふわの枕の上で窓が見えるように頭を動かすと、まだ見えない太陽に彩色された雲で夜明けが近いことがわかった。
「おはよう」
 ささやくような声を聞いて隣のベッドに目をやれば、もうぱっちりと目覚めたアメジストが横になったままにこにこしている。
「おはよう。もう起きていたの?朝が得意なのね」
 ふわ、とあくびが出そうなのをこらえるシトリニアをよそに、アメジストはしゃきりと身体を起こした。
「だって早起きって気持ちがいいもの。ほら、起きましょう」
アメジストの動きにせかされるように、シトリニアは名残惜しいベッドの温もりを後にした。

 足音が響かないように、靴底の柔らかい靴を履く。寝巻きの上からは身体を冷やさないために厚手のガウンを羽織った。これだけのごく簡単な身支度を整えると、二人はうなずいた。
 扉を薄く開けて二人で外をうかがうが、廊下を歩く者の姿はない。
 耳を済ませば遠くでかすかな音が聞こえるが、きっと食事の用意や清掃をしている者たちだろう。このあたりはまだ建物自体が眠っているかのように静かだ。
「大丈夫そうね。行きましょう」
「ええ」
 扉をそっと押し開き、二人の姫君は部屋を出た。

 こんな早朝から起きたことをハンナやフィオナに知られたら、まだ眠っていなさいと部屋に追い返されるのは目に見えている。儀式が始まるのは夜だから、それまでむやみに動き回って怪我をしたり体調を崩したりしたら困るという彼女たちの気持ちも、もちろん理解できる。
 それにしても、とシトリニアは今歩いている廊下を改めて見回してみる。
 壁にかけられた風景画、床の絨毯、彫り物の施された扉。
 いつもと変わらない光景が、姫君たちが過ごす束の間の非日常を祝福するように、鮮やかさを増しているようにすら思えてくる。
――こっそり部屋を抜け出すのって、不思議なくらい心踊るのよね
 幼いころに城を抜け出す遊びをしてハンナにえらく怒られたことがある。城の中庭にあった通用口は、その遊びのせいで閉ざされてしまった訳だが……そのときに感じた興奮がよみがえる。
 しかも今回は、アメジストという共犯者がいる。そっと隣を見て目が合えば、白い歯を覗かせて笑いあう。

 二人は日ごろ身体に教え込まれた所作を遺憾なく発揮し、すいすいと泳ぐような静かさで廊下を進んだ。しとやかに足音を控えて歩くすべが、こんなところで役に立つとは思わなかった。
 夜明けが近いといっても明かりの消された城内はほの暗いが、歩き慣れているので別段迷うこともなかった。階段を下りて左手に折れると、右側には見馴れた屋根つきの渡り廊下が現れる。

 こうして誰に見つかることもなく、二人は無事に図書塔の扉にたどり着いた。夜明け前の冷たい空気の底で、石造りの塔はいつもより寒々として見える。
 シトリニアが扉の持ち手を握ると、その下にアメジストの手が添えられた。いつの間にか一人でこの扉を開くことに慣れていたシトリニアは、その白い手を見て感動する。
 おととい初めて図書塔に来たときアメジストは全然手伝ってくれなくて、一人で一生懸命開いた。
 昨日の朝は彼女を探すために一人で開いたけど、力の加減を想像できたので初日よりは手間取らなかった。
 その扉を、今日は初めて二人で開く。
「開けるわよ」
「ええ」

 覚悟していたほどの抵抗感もなく、いにしえの書物を守る扉はあっけなく開いた。
 二人ならばこんなにも簡単に開くとは思ってもみなかった。一人で開けたときの苦労を思い出して、シトリニアはぽかんとした。
「どうしたの?」
 涼しい顔で首をかしげられ、シトリニアは少し意地悪を言ってみたくなった。
「最初に二人でここに来たとき、全然手伝ってくれなかったでしょ?この扉を一人で開くの、すごく大変だったのよ」
 アメジストは小首を傾げて微笑み、視線をそらした。
「ごめんなさいね」
 何か気の効いた冗談でも返されると思っていたシトリニアは、異母妹の思いのほか素直な反応に面食らった。調子が狂い、あわてて胸の前で両手を振った。
「いいのよ。さあ中に入りましょう」

 螺旋階段で息を弾ませたまま扉を押し開くと、世界はまさに目覚めようとしていた。

 鈍色をした厚い雲の群れが、その裂け目のみを薄い黄金色に染め、青く重なった夜のとばりは半ば払われつつある。
 かき寄せたガウンの喉元を、さわさわと風がくすぐっていく。
「ね、早起きって気持ちがいいでしょう」
 アメジストの言葉に、シトリニアもうなずいた。
「本当ね」
 二人は手すりの方に歩むと、やや声量を抑えて『清流の調べ』を歌いだす。
 昨晩二人で交わした約束は、夜明けの図書塔で一緒に歌うというものだった。
 初めて二人で図書塔に来た日から、アメジストはここで歌いたがっていた。昨日の朝に迎えに来たときは一人で歌っていたが、『建国の物語』で虹色の竜が降りてくる場面の舞台はここかも知れないというシトリニアの言葉を周到して、ぜひ二人で歌ってみたかったらしい。
 
 最後の歌詞が、旋律に乗って吸い込まれるように空へと消えた。
「やはりここは特別な場所ね」
 アメジストが空に向かって感慨深そうにつぶやくのを聞きながら、シトリニアはまぶたを閉じた。この曇り空なのに、日差しに包まれたようにじんわりと温かいのはガウンだけのおかげだろうか。
「上手く言えないけど……歌っている間、誰かがずっと励ましてくれたような気がするわ」
「もしかしたら、カナリア様とナイチンゲール様かもね」

 目を開けば、不安な気持ちを代弁するかのように厚い雲が空を覆いつつある。雲の隙間は今やぴったりと閉じられ、黄金色の光はもうどこにも見当たらない。山々も、鈍色の雲を重たそうに戴いて座している。
――明日の今頃、私たちはどうしているかしら
 夜が明ければ儀式は終わっているはずだ。
 果たして笑っているのか、泣いているのか。
 いや……生きているのか、そうではないのか。それすら不透明な未来。

 シトリニアは胸元から金色のウロコのペンダントを引き出すと、両手でそれを包み込んで額に当てた。いつになく強い気持ちで祈りの言葉を口にする。
「どうか、お二人が見守ってくださいますように」
 アメジストも同じように、銀色のウロコに祈った。
 歌鳥の姉妹がささげる祈りを、石造りの塔だけが静かに聞いている。
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