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始まりの日
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新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込むと、生き返るような心地がした。
そよそよと風が吹き抜ける石造りの広いバルコニーで、歌鳥たちは束の間の休息を取っていた。眼下には城下町を行きかう人々を臨み、背筋を伸ばした視線の先には豊かな森をたたえた山の稜線がなめらかに続いている。
「きれいね」
シトリニアとアメジストは手すりの先に広がる景色を見つめた。
「『建国の物語』で、虹色の竜が降りてくる場面があるでしょう。ここは古い建物でバルコニーも広いし、もしかしたらお話の舞台はここかも知れないって思っているの」
アメジストは黒曜石のきらめきを放つ髪をさらりと耳にかけた。
「本当ね。ここなら遠くまで見渡せるし、竜の羽ばたきを妨げる物もありませんわ」
城下町の木々は花の盛りを終え、緑の息吹に枝を染めている。山々は萌黄色に色づき、豆の粉をまぶしたお菓子のように柔らかそうだ。
「何より、ここで歌うととても気持ちがよさそう」
日差しで暖められた石の温もりを背に感じながら、シトリニアは傍らの異母妹に思い切って尋ねてみた。
「あなたは素晴らしい歌い手と聞いているのだけど、その……いくつのときから歌っているの?」
アメジストは気持ちよさそうに目を細めていたが、少し考えた様子で桃色の唇を開いた。
「はっきりとは覚えていないわ。歌は遊びの一つで、特に意識したことなんてなかったもの」
「歌うのが嫌になったことはない?」
まるで独り言のようにつぶやいたシトリニアを振り返って、アメジストはきょとんとした。光を束ねたようにまぶしい金髪の異母妹に向き直ると、漆黒の巻き毛がその肩に柔らかく落ちた。
「どうして嫌になるの?歌うってとても楽しいじゃない」
「……そうね」
――あなたのように迷い無く、意のままに歌えたらどんなに楽しいかしら
そう口に出すほど愚かな娘にはなれなかった。
ここでアメジストの才能を羨んでも何も変らない。この国の姫として生まれた以上、竜神に歌を捧げる使命からは逃れられない。国を支える水の儀式を担う責任の重さは、シトリニア本人が一番よくわかっているつもりだった。
――覚悟を決めないと
シトリニアは苦いものをぐっと飲み込んだ。春の夕暮れを吹く風は、シトリニアの無防備な喉元をひんやりと冷やした。
道は一本しかない。それが例え、頭を砕かれ地に落ちる結果になったとしても。
「少し冷えてきたから、もう中に戻りましょうか」
「ええ」
二人は連れ立って、再び塔内へ降りていった。
大テーブルの前に戻ってくると、採光窓から落ちる光は琥珀を溶かし込んだようなとろみを帯びていた。
「二つほど候補を選んでみましたの。見てくださるかしら」
アメジストは紅色の表紙の本を手に取ると、橙色の光の下でぱらぱらとめくって見せた。
その白い指先が示すのは、複雑な和声が華やかな『四季の花』と、比較的シンプルで伸びやかな『清流の調べ』。
「こちらにしましょう」
シトリニアは一瞬の迷いも無く『清流の調べ』を選んだ。
「実は私、あまり歌が得意ではないの。和音が複雑な歌だと自分のパートを最後まで歌えないわ」
そう一気に続けて、シトリニアは肩を落とした。歌鳥の姉妹でありながらこんなことを告白するのはあまりに情けなく、ただ自分が悔しかった。馬鹿にされたとしても甘んじて受け入れる覚悟だった。
アメジストはシトリニアの沈痛な横顔を見つめていたが、深くうなずいた。
「『四季の花』も華やかで聞き応えがあると思いますが、『清流の調べ』は水に関する歌ですもの。こちらがいいわ。そういたしましょう」
アメジストはシトリニアの冷たい両手を取ると、力を分けるようにぎゅっと握った。驚いてアメジストを見ると、同じ空色の視線がまっすぐに合わさった。
――そうだ。覚悟を決めているのはアメジストも同じだ
ナイチンゲールを務めるアメジスト。
今まで歌が上手いという点のみに気をとられていたが、彼女とて自分と同い年の少女だ。たとえ稀代の歌姫と呼ばれていても、相手が竜神となると当然緊張しているだろう。命の水を請う儀式。彼女の細い肩にはその重圧の半分がかかっている。
――私は一人じゃない
アメジストの温かさがじんわりとしみ込んできて、思わず目頭が熱くなる。
「私、一生懸命教えますわ。あと三日あるんですもの。力を尽くして練習しましょう」
まさか絶世の歌姫が、音痴な異母妹を馬鹿にすることなく親身になって寄り添ってくれると思わなかったので、一方的に苦手意識を持っていた今までの自分が申し訳なかった。
「ありがとう。私、がんばります。どうぞビシビシ指導して下さいね」
「ふふ。手加減なしでいきますわ。覚悟なさって」
異母妹の不敵な笑みに、シトリニアは空が晴れたように明るい気持ちになって笑った。
――なんだか上手くいきそうな気がする
希望の光を感じてアメジストの両手を握り返すと、力強くうなずいた。
そよそよと風が吹き抜ける石造りの広いバルコニーで、歌鳥たちは束の間の休息を取っていた。眼下には城下町を行きかう人々を臨み、背筋を伸ばした視線の先には豊かな森をたたえた山の稜線がなめらかに続いている。
「きれいね」
シトリニアとアメジストは手すりの先に広がる景色を見つめた。
「『建国の物語』で、虹色の竜が降りてくる場面があるでしょう。ここは古い建物でバルコニーも広いし、もしかしたらお話の舞台はここかも知れないって思っているの」
アメジストは黒曜石のきらめきを放つ髪をさらりと耳にかけた。
「本当ね。ここなら遠くまで見渡せるし、竜の羽ばたきを妨げる物もありませんわ」
城下町の木々は花の盛りを終え、緑の息吹に枝を染めている。山々は萌黄色に色づき、豆の粉をまぶしたお菓子のように柔らかそうだ。
「何より、ここで歌うととても気持ちがよさそう」
日差しで暖められた石の温もりを背に感じながら、シトリニアは傍らの異母妹に思い切って尋ねてみた。
「あなたは素晴らしい歌い手と聞いているのだけど、その……いくつのときから歌っているの?」
アメジストは気持ちよさそうに目を細めていたが、少し考えた様子で桃色の唇を開いた。
「はっきりとは覚えていないわ。歌は遊びの一つで、特に意識したことなんてなかったもの」
「歌うのが嫌になったことはない?」
まるで独り言のようにつぶやいたシトリニアを振り返って、アメジストはきょとんとした。光を束ねたようにまぶしい金髪の異母妹に向き直ると、漆黒の巻き毛がその肩に柔らかく落ちた。
「どうして嫌になるの?歌うってとても楽しいじゃない」
「……そうね」
――あなたのように迷い無く、意のままに歌えたらどんなに楽しいかしら
そう口に出すほど愚かな娘にはなれなかった。
ここでアメジストの才能を羨んでも何も変らない。この国の姫として生まれた以上、竜神に歌を捧げる使命からは逃れられない。国を支える水の儀式を担う責任の重さは、シトリニア本人が一番よくわかっているつもりだった。
――覚悟を決めないと
シトリニアは苦いものをぐっと飲み込んだ。春の夕暮れを吹く風は、シトリニアの無防備な喉元をひんやりと冷やした。
道は一本しかない。それが例え、頭を砕かれ地に落ちる結果になったとしても。
「少し冷えてきたから、もう中に戻りましょうか」
「ええ」
二人は連れ立って、再び塔内へ降りていった。
大テーブルの前に戻ってくると、採光窓から落ちる光は琥珀を溶かし込んだようなとろみを帯びていた。
「二つほど候補を選んでみましたの。見てくださるかしら」
アメジストは紅色の表紙の本を手に取ると、橙色の光の下でぱらぱらとめくって見せた。
その白い指先が示すのは、複雑な和声が華やかな『四季の花』と、比較的シンプルで伸びやかな『清流の調べ』。
「こちらにしましょう」
シトリニアは一瞬の迷いも無く『清流の調べ』を選んだ。
「実は私、あまり歌が得意ではないの。和音が複雑な歌だと自分のパートを最後まで歌えないわ」
そう一気に続けて、シトリニアは肩を落とした。歌鳥の姉妹でありながらこんなことを告白するのはあまりに情けなく、ただ自分が悔しかった。馬鹿にされたとしても甘んじて受け入れる覚悟だった。
アメジストはシトリニアの沈痛な横顔を見つめていたが、深くうなずいた。
「『四季の花』も華やかで聞き応えがあると思いますが、『清流の調べ』は水に関する歌ですもの。こちらがいいわ。そういたしましょう」
アメジストはシトリニアの冷たい両手を取ると、力を分けるようにぎゅっと握った。驚いてアメジストを見ると、同じ空色の視線がまっすぐに合わさった。
――そうだ。覚悟を決めているのはアメジストも同じだ
ナイチンゲールを務めるアメジスト。
今まで歌が上手いという点のみに気をとられていたが、彼女とて自分と同い年の少女だ。たとえ稀代の歌姫と呼ばれていても、相手が竜神となると当然緊張しているだろう。命の水を請う儀式。彼女の細い肩にはその重圧の半分がかかっている。
――私は一人じゃない
アメジストの温かさがじんわりとしみ込んできて、思わず目頭が熱くなる。
「私、一生懸命教えますわ。あと三日あるんですもの。力を尽くして練習しましょう」
まさか絶世の歌姫が、音痴な異母妹を馬鹿にすることなく親身になって寄り添ってくれると思わなかったので、一方的に苦手意識を持っていた今までの自分が申し訳なかった。
「ありがとう。私、がんばります。どうぞビシビシ指導して下さいね」
「ふふ。手加減なしでいきますわ。覚悟なさって」
異母妹の不敵な笑みに、シトリニアは空が晴れたように明るい気持ちになって笑った。
――なんだか上手くいきそうな気がする
希望の光を感じてアメジストの両手を握り返すと、力強くうなずいた。
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