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第十一話:月曜日の方違さんは、一生許さない
11-3 僕は車窓に目をそらした
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「そこ、座ってもいいかしら?」
「え……あ、はい」
女の人は僕の斜め向かいに座ると、マフラーをほどき、トレンチコートの前を開いた。中はぴったりした黒いセーター。胸をかきみだすような甘い香りがふわっと来て、僕は車窓に目をそらした。
「おじゃまだった? 変に思わないでね」
僕は首を横に振って、もう一度その人を見た。
きれいにお化粧した、きれいな人。
女の人の歳ってよくわからないし、小柄で少し幼く見えるけど、近くで見るとお姉ちゃんよりずっと大人だ。
女の子じゃないし、おばさんでもない。そのくらいの感じだ。
「声が聞こえて、ちょっとお話したくなったの。ずっとひとりだったから」
僕はうなずく。どう答えればいいのか分からない。
「きっとわたし、ひとりで心細かったのね。こういうトラブルは久しぶりだったし。おかしいよね、大人なのに」
僕は横に首を振る。
けどその人の顔に、緊張とか不安の色は無い。ただ、じっと僕を見ているその瞳が、わずかに潤んでいるように見えた。
「きみは、高校生?」
「……はい」
「何年?」
「一年です」
「そっか。高一か」
女の人は、何かを思い出そうとするようにちょっと天井に目をやった。
「この歳になっても、ほんとは何も変わってないのかもしれない。ほんとのわたしは、きっと今でも、あのころみたいに何もかもが怖くて、いつもおびえてるのね。ただ、いろんなことにちょっとずつ慣れただけで」
答えようがなくて、僕は黙っていた。相手も何も言わず、遠いところを眺めるような目で僕を見つめていた。
こんなきれいな女の人は、他にひとりも見たことがない。
僕はほっぺたが熱くなって、目を合わせていられなかった。
「ひとつ質問してもいい?」
「……はい」
「わたしが、ちょうどきみの歳のとき、高校一年の二月、なにがいちばん怖かったか、わかる?」
「いいえ」
「言ってみて? 何でもいいから」
「……月曜日?」
「学生はみんな月曜日が怖いんじゃないかしら?」
彼女はなにかの合図みたいな、いたずらっぽい目でくすっと笑った。
「でもね、わたしがいちばん怖かったのは、ほんとは月曜日なんかじゃなかったの」
僕に向けられた濡れた瞳は、青みを帯びていて、光の加減によってはほとんどグレーに見えた。笑顔はもう消えていた。
「好きな人がいたの。優しくて、強くて、かっこいい男の子。初めてできた恋人。わたしに無いものをぜんぶ持ってるように見えた。わたしがいちばん怖かったのは、その彼だったの」
夜中の冷蔵庫みたいに、エンジンの響きが急に変わり、天井からの声が、視界が改善したのでまもなく運行を再開すると告げた。
「怖かった。大好きな彼に嫌われたり、怖がられたり、拒絶されたりするのが。彼が離れて行っちゃうのが。夜中にそんな夢を見て何度も跳び起きたわ。きみは、そんな経験ある?」
彼女の目に、涙がいっぱいにたまっていた。お化粧がだめになりはじめている。
「彼に伝えたいことがたくさんあったの。したいこと、してほしいこと、してあげたいこと、してほしくないこと、いっぱいあったの。なのに、怖くて、恥ずかしくて、なにも、なにも言えなかった」
ひとしずくが、長い下まつげをぽろっと越えて、彼女の膝に落ちた。
ずるい、と僕は思った。
そんなのずるい。
僕は子どもで、あなたは大人なのに。ずるいよ。
「方違さん」
僕がそう呼んだ瞬間、彼女の表情が苦しげにゆがんで、ぽろぽろと涙が落ちた。
「……なあに?」
「僕にそれを言うために、何十年もの時間を超えてきたの?」
「十五年だよ……」彼女は天井に顔を向けた。「……まもるくん、わたし、まだそんなおばさんじゃないよ」
◇
電車は徐行運転を始めていた。大人になった方違さんは、ずっとうつむいて泣いていた。
何度も手を伸ばしかけ、ためらった末に、僕は彼女の手を握った。
十六歳の今とくらべると、張りのあった甲の肉は薄くなって、肌はさらさらと乾いていたけれど、小さくて冷たいその両手は、確かに方違さんだった。
そろそろ乗換駅に近づくころ、彼女は突然くるっと立って向こうの車両に走って消え、お化粧を直して戻ってきて、赤い目で僕に笑った。
「ありがとう、まもるくん。会えてよかった。いつかまたこうやって会えるって思ってたよ」
乗換駅に着くと、そこにも雪が降っていた。ホームと駅舎以外のなにもかもが白くかすんで、まるでこの駅と僕たちしか世界に存在しないみたいだった。
「この駅も、なつかしい。この線はね、わたしたちが高校を卒業した次の年に廃止になるの。全部なくなっちゃうの。わたしたちが出会った駅も、何百回もいっしょに乗った電車も」
コートのボタンをとめ、マフラーを巻き直すと、大人の方違さんは僕に向き直った。
「じゃあね。わたしは行かなくちゃ。まもるくんは十六歳のわたしを迎えに行ってあげて。朝からずっと玄関で待ってたんだから。まもるくんに会いたくて、抱きしめてもらいたくて。今日こそキスしてくれるかな、って」
「はい……」
「最後に、ちょっとだけがまんしてね」
方違さんは二、三歩進んで、僕をふわっと抱いた。
大人の方違さんの頭は今より少し高い位置にあって、僕は彼女の髪の甘ったるい匂いに包まれた。
十六の方違さんとは全く違うその匂いは、僕の心と体をめちゃくちゃにかき乱した。彼女が腕に力を込めると、今の方違さんとはちがう豊かな柔らかさに、頭が変になりそうだった。
方違さんは目にいっぱい涙をためて僕を見上げた。
「まもるくん、今、わたしが何考えてるか分かる?」
僕はのどがつまって何も言えず、ぶるぶると首を横に振った。
つややかなピンクの唇で、彼女はほほ笑んだ。
「キスしたいけど、犯罪になっちゃうからやめとこ、ってこと」
◇
「これ、あげる。また会いましょう」
女の人は小さな、おしゃれな紙袋を差し出すと、逃げるように僕に背中を向け、そのまま振り返らずに、陸橋の階段を駆け上がっていった。
十五年後、僕らはどうなってるんですか?
って、最後まで聞けなかった。怖くて、どうしても。
渦巻くような心身を持てあましたまま、彼女のブーツの足音が消えてゆくのを目で追っていた僕は、線路の向こうのホームから、こっちをじっと見つめている視線に、はじめて気がついた。
それは、ダッフルコートにクリームイエローのマフラーを巻き、お団子の髪に青いキキョウのヘアクリップをつけた、十六歳の方違さんだった。
「え……あ、はい」
女の人は僕の斜め向かいに座ると、マフラーをほどき、トレンチコートの前を開いた。中はぴったりした黒いセーター。胸をかきみだすような甘い香りがふわっと来て、僕は車窓に目をそらした。
「おじゃまだった? 変に思わないでね」
僕は首を横に振って、もう一度その人を見た。
きれいにお化粧した、きれいな人。
女の人の歳ってよくわからないし、小柄で少し幼く見えるけど、近くで見るとお姉ちゃんよりずっと大人だ。
女の子じゃないし、おばさんでもない。そのくらいの感じだ。
「声が聞こえて、ちょっとお話したくなったの。ずっとひとりだったから」
僕はうなずく。どう答えればいいのか分からない。
「きっとわたし、ひとりで心細かったのね。こういうトラブルは久しぶりだったし。おかしいよね、大人なのに」
僕は横に首を振る。
けどその人の顔に、緊張とか不安の色は無い。ただ、じっと僕を見ているその瞳が、わずかに潤んでいるように見えた。
「きみは、高校生?」
「……はい」
「何年?」
「一年です」
「そっか。高一か」
女の人は、何かを思い出そうとするようにちょっと天井に目をやった。
「この歳になっても、ほんとは何も変わってないのかもしれない。ほんとのわたしは、きっと今でも、あのころみたいに何もかもが怖くて、いつもおびえてるのね。ただ、いろんなことにちょっとずつ慣れただけで」
答えようがなくて、僕は黙っていた。相手も何も言わず、遠いところを眺めるような目で僕を見つめていた。
こんなきれいな女の人は、他にひとりも見たことがない。
僕はほっぺたが熱くなって、目を合わせていられなかった。
「ひとつ質問してもいい?」
「……はい」
「わたしが、ちょうどきみの歳のとき、高校一年の二月、なにがいちばん怖かったか、わかる?」
「いいえ」
「言ってみて? 何でもいいから」
「……月曜日?」
「学生はみんな月曜日が怖いんじゃないかしら?」
彼女はなにかの合図みたいな、いたずらっぽい目でくすっと笑った。
「でもね、わたしがいちばん怖かったのは、ほんとは月曜日なんかじゃなかったの」
僕に向けられた濡れた瞳は、青みを帯びていて、光の加減によってはほとんどグレーに見えた。笑顔はもう消えていた。
「好きな人がいたの。優しくて、強くて、かっこいい男の子。初めてできた恋人。わたしに無いものをぜんぶ持ってるように見えた。わたしがいちばん怖かったのは、その彼だったの」
夜中の冷蔵庫みたいに、エンジンの響きが急に変わり、天井からの声が、視界が改善したのでまもなく運行を再開すると告げた。
「怖かった。大好きな彼に嫌われたり、怖がられたり、拒絶されたりするのが。彼が離れて行っちゃうのが。夜中にそんな夢を見て何度も跳び起きたわ。きみは、そんな経験ある?」
彼女の目に、涙がいっぱいにたまっていた。お化粧がだめになりはじめている。
「彼に伝えたいことがたくさんあったの。したいこと、してほしいこと、してあげたいこと、してほしくないこと、いっぱいあったの。なのに、怖くて、恥ずかしくて、なにも、なにも言えなかった」
ひとしずくが、長い下まつげをぽろっと越えて、彼女の膝に落ちた。
ずるい、と僕は思った。
そんなのずるい。
僕は子どもで、あなたは大人なのに。ずるいよ。
「方違さん」
僕がそう呼んだ瞬間、彼女の表情が苦しげにゆがんで、ぽろぽろと涙が落ちた。
「……なあに?」
「僕にそれを言うために、何十年もの時間を超えてきたの?」
「十五年だよ……」彼女は天井に顔を向けた。「……まもるくん、わたし、まだそんなおばさんじゃないよ」
◇
電車は徐行運転を始めていた。大人になった方違さんは、ずっとうつむいて泣いていた。
何度も手を伸ばしかけ、ためらった末に、僕は彼女の手を握った。
十六歳の今とくらべると、張りのあった甲の肉は薄くなって、肌はさらさらと乾いていたけれど、小さくて冷たいその両手は、確かに方違さんだった。
そろそろ乗換駅に近づくころ、彼女は突然くるっと立って向こうの車両に走って消え、お化粧を直して戻ってきて、赤い目で僕に笑った。
「ありがとう、まもるくん。会えてよかった。いつかまたこうやって会えるって思ってたよ」
乗換駅に着くと、そこにも雪が降っていた。ホームと駅舎以外のなにもかもが白くかすんで、まるでこの駅と僕たちしか世界に存在しないみたいだった。
「この駅も、なつかしい。この線はね、わたしたちが高校を卒業した次の年に廃止になるの。全部なくなっちゃうの。わたしたちが出会った駅も、何百回もいっしょに乗った電車も」
コートのボタンをとめ、マフラーを巻き直すと、大人の方違さんは僕に向き直った。
「じゃあね。わたしは行かなくちゃ。まもるくんは十六歳のわたしを迎えに行ってあげて。朝からずっと玄関で待ってたんだから。まもるくんに会いたくて、抱きしめてもらいたくて。今日こそキスしてくれるかな、って」
「はい……」
「最後に、ちょっとだけがまんしてね」
方違さんは二、三歩進んで、僕をふわっと抱いた。
大人の方違さんの頭は今より少し高い位置にあって、僕は彼女の髪の甘ったるい匂いに包まれた。
十六の方違さんとは全く違うその匂いは、僕の心と体をめちゃくちゃにかき乱した。彼女が腕に力を込めると、今の方違さんとはちがう豊かな柔らかさに、頭が変になりそうだった。
方違さんは目にいっぱい涙をためて僕を見上げた。
「まもるくん、今、わたしが何考えてるか分かる?」
僕はのどがつまって何も言えず、ぶるぶると首を横に振った。
つややかなピンクの唇で、彼女はほほ笑んだ。
「キスしたいけど、犯罪になっちゃうからやめとこ、ってこと」
◇
「これ、あげる。また会いましょう」
女の人は小さな、おしゃれな紙袋を差し出すと、逃げるように僕に背中を向け、そのまま振り返らずに、陸橋の階段を駆け上がっていった。
十五年後、僕らはどうなってるんですか?
って、最後まで聞けなかった。怖くて、どうしても。
渦巻くような心身を持てあましたまま、彼女のブーツの足音が消えてゆくのを目で追っていた僕は、線路の向こうのホームから、こっちをじっと見つめている視線に、はじめて気がついた。
それは、ダッフルコートにクリームイエローのマフラーを巻き、お団子の髪に青いキキョウのヘアクリップをつけた、十六歳の方違さんだった。
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