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第32章 小さな優しい声で「目が覚めた?」と言った。
32-1 水底
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旅は終わり、この深い海の底に戻って来た。
僕は、もういない。
かつて「ミナミ」を形作っていたものは、巨大な水槽に落とされた一滴のミルクみたいに、あるいは群衆に蹴散らされたひと握りの砂の山みたいに、輪郭を失い、散り散りになり、その存在の痕跡さえ消えようとしている。
でもそれでいい。肉と血でできたエンジンを何十年も回し続けて「生きる」というのは、不自然なことだ。
生きて何かを求めたり、誰かを愛したりしても、失うべきものを増やし、自分も他人も苦しめるだけだ。
それが、旅を通じて分かったことだった。
この長い物語は、いくつもの痛みと悲しみを生んだだけだった。
すべて、不必要だったのだ。
長い時間の果てに、かつて自分だった魂も体も、自分のものだった記憶や愛も、誰も触れない深い海の底で、徐々に崩れ、散らばり、薄まっていく。そして今ようやく、かつてミナミの意識だったものの、最後の一片が溶け消えようとしている。
これでいい。これでぜんぶ終わる。痛みも悲しみもみんな。
さようなら、もう顔も名も忘れてしまった、大切な人たち。
でも最後の扉が閉まりかけたとき、光が差して来る。
青白い光が、かすかだけれど、ねらいを定めたみたいに一直線に。
やめてくれ。光なんていらない。何も認識したくない。存在なんてしたくない。でも遠いその光が、僕にとっては無辺の青空と同じだけ暖かく、美しいのだ。
二つの眼がたちまちにして開き、僕は再び視覚を得た。
それに呼応して、僕の手が、あたかも海底の泥の滴が凝るように、混沌の中から現れ、再び人間の手の形をとりつつ、光の方へと伸びようとする。
そっちへ行っちゃいけない。もう終わったんだ。またあの悲しみの国に戻るつもりか?
でもそう思えば思うほど、思うからこそ、溶けていた心はふたたび凝集してゆく。
そうして僕は、静寂の世界から追われるように、ふたたび僕自身の形枠の中に追い込まれ、集まり始めた。
いやだ。行きたくないよ。生きたくないんだ。
だけど僕の眼はすでに、光の中にちらつく小さな影のようなものをとらえて、見つめずにはいられなくなっていた。
か細く、美しい影が、光の筋を導きにして、僕に向かって沈んでくる。
近づくにつれて、それはすらりと細い両手足を伸ばした人間のシルエットとなり、かすかな逆光の中に、その姿がはっきりと見分けられるようになった。
もう、どうしても目を離すことができなかった。
それが誰なのか、今は言葉にできなくても、僕には分かっていた。
あの子だ。
あの部屋で何年もいっしょに生きてきた、あの子。森や荒野をいっしょに旅した、あの子。夢で抱きしめたあの子。息が絶えるまで手を握ってくれていたあの子。
いつでも僕を信じてくれる、あの子。
「お兄ちゃん、わたしは、ここだよ」
無分別の泥濘の中で、僕の心臓がふたたび動き始める。
生きないわけにはいかない。彼女のために。僕が何よりも強く求めているもののために。人生のすべての苦しみや、世界の悲しみを目にすることと引き換えにしてでも。
シルエットは、次第に細部まで見えるようになってくる。裸足だ。バレエをしていたころみたいな、お団子ヘア。左手の指に、何かがきらりと光る。金色に、そして澄んだ緑色に。そのきらめきを目指して、僕は海底から精一杯手を伸ばした。
指先が彼女に届く。彼女は小さな手で、しっかりと力強く、僕の手を握った。
「一緒に帰りましょう、ミナミ。もう少し、あと何十年か、わたしのお兄さまでいてくれるわよね?」
彼女は両足で水を蹴り、一直線に水面に向かった。
僕はまるでひっこ抜かれたレンコンみたいに、不存在の温かい泥の中から、冷たく澄んだ水中へと、人間の形で引っぱり出された。
彼女に手を引かれて、僕は帰っていく。苦しみと、悲しみに満ちた世界へ。ほんの少しの間かもしれないけど、誰かと手を取り合うこともできる世界へ。
僕は、もういない。
かつて「ミナミ」を形作っていたものは、巨大な水槽に落とされた一滴のミルクみたいに、あるいは群衆に蹴散らされたひと握りの砂の山みたいに、輪郭を失い、散り散りになり、その存在の痕跡さえ消えようとしている。
でもそれでいい。肉と血でできたエンジンを何十年も回し続けて「生きる」というのは、不自然なことだ。
生きて何かを求めたり、誰かを愛したりしても、失うべきものを増やし、自分も他人も苦しめるだけだ。
それが、旅を通じて分かったことだった。
この長い物語は、いくつもの痛みと悲しみを生んだだけだった。
すべて、不必要だったのだ。
長い時間の果てに、かつて自分だった魂も体も、自分のものだった記憶や愛も、誰も触れない深い海の底で、徐々に崩れ、散らばり、薄まっていく。そして今ようやく、かつてミナミの意識だったものの、最後の一片が溶け消えようとしている。
これでいい。これでぜんぶ終わる。痛みも悲しみもみんな。
さようなら、もう顔も名も忘れてしまった、大切な人たち。
でも最後の扉が閉まりかけたとき、光が差して来る。
青白い光が、かすかだけれど、ねらいを定めたみたいに一直線に。
やめてくれ。光なんていらない。何も認識したくない。存在なんてしたくない。でも遠いその光が、僕にとっては無辺の青空と同じだけ暖かく、美しいのだ。
二つの眼がたちまちにして開き、僕は再び視覚を得た。
それに呼応して、僕の手が、あたかも海底の泥の滴が凝るように、混沌の中から現れ、再び人間の手の形をとりつつ、光の方へと伸びようとする。
そっちへ行っちゃいけない。もう終わったんだ。またあの悲しみの国に戻るつもりか?
でもそう思えば思うほど、思うからこそ、溶けていた心はふたたび凝集してゆく。
そうして僕は、静寂の世界から追われるように、ふたたび僕自身の形枠の中に追い込まれ、集まり始めた。
いやだ。行きたくないよ。生きたくないんだ。
だけど僕の眼はすでに、光の中にちらつく小さな影のようなものをとらえて、見つめずにはいられなくなっていた。
か細く、美しい影が、光の筋を導きにして、僕に向かって沈んでくる。
近づくにつれて、それはすらりと細い両手足を伸ばした人間のシルエットとなり、かすかな逆光の中に、その姿がはっきりと見分けられるようになった。
もう、どうしても目を離すことができなかった。
それが誰なのか、今は言葉にできなくても、僕には分かっていた。
あの子だ。
あの部屋で何年もいっしょに生きてきた、あの子。森や荒野をいっしょに旅した、あの子。夢で抱きしめたあの子。息が絶えるまで手を握ってくれていたあの子。
いつでも僕を信じてくれる、あの子。
「お兄ちゃん、わたしは、ここだよ」
無分別の泥濘の中で、僕の心臓がふたたび動き始める。
生きないわけにはいかない。彼女のために。僕が何よりも強く求めているもののために。人生のすべての苦しみや、世界の悲しみを目にすることと引き換えにしてでも。
シルエットは、次第に細部まで見えるようになってくる。裸足だ。バレエをしていたころみたいな、お団子ヘア。左手の指に、何かがきらりと光る。金色に、そして澄んだ緑色に。そのきらめきを目指して、僕は海底から精一杯手を伸ばした。
指先が彼女に届く。彼女は小さな手で、しっかりと力強く、僕の手を握った。
「一緒に帰りましょう、ミナミ。もう少し、あと何十年か、わたしのお兄さまでいてくれるわよね?」
彼女は両足で水を蹴り、一直線に水面に向かった。
僕はまるでひっこ抜かれたレンコンみたいに、不存在の温かい泥の中から、冷たく澄んだ水中へと、人間の形で引っぱり出された。
彼女に手を引かれて、僕は帰っていく。苦しみと、悲しみに満ちた世界へ。ほんの少しの間かもしれないけど、誰かと手を取り合うこともできる世界へ。
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