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第31章 ジャスミンのノート(その4)

31-5 髪は シニヨンに結っておく

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 髪は シニヨンに結っておく。
 脱ぎ着しやすいように スウェットのゆるいワンピース一枚だけを着て 素足にスニーカーをはく。
 エコバッグの中には 100均で買ったお茶わんとか ライターとか ペンライトとか ぜんぶそろっている。

 お兄ちゃんの手紙も もう一度読んだ。

 そして 左手の親指に エメラルドの指輪をはめた。
 手紙に入っていた あの指輪だ。
 わたしは手が小さいから 親指でもゆるゆるなのだけど お守りに持ってきた。

 わたしがインドネシアに来てることは 高石教授とリョウ君しか 知らない。
 リョウ君に「生きてるよ」って伝えたかったけど 木と竹でできた 古くて長いゲストハウスには WI-FIが無かった。

 午前2時。

 他の部屋の人を起こさないように 静かに部屋を出る。

 木でできた 長い 広い廊下は真っ暗だ。ペンライトで足もとを照らしながら歩く。
 ゆっくり そっと 歩いても スノコみたいな廊下はギシギシ鳴った。

 階段を下りて 外に出る。

 星も 月も無い。真っ暗闇の中で ペンライトだけをたよりに 草のしげった村の道を下りてゆく。

 いろんな生き物の声が 前からも 横からも 後ろからも聞こえる。
 鳥か 虫か カエルか トカゲか サルか なんだか分からない 日本できいたことない びっくりするほど大きな声だ。ときどき人の声みたいに聞こえて 背中がざわざわする。

 遺跡公園の門は 開いていた。アイシャさんが手を回してくれたのだ。

 丘の上の 神殿のシルエットが見える。
 その下が 聖なる泉。

 フェンスの外から ペンライトで水を照らしてみる。
 水面から数十センチくらいが 青く照らし出されたけど それより下には 透き通った真っ暗闇の厚い層が どこまでも 深く 続いているのがわかった。

 わたしは つけたままのペンライトをゴムでフェンスにくくりつけて 水面を照らすようにした。

 さあ 魔法少女まりちゃん(成人済み) 変身タイムよ。

 わたしは スウェットのワンピースを頭から脱いだ。
 下は水着だ。高3のときに いちどだけT君と海に行ったときの 黒のワンピースのやつ。

 エコバッグを肩にかけて 靴を脱いで フェンスをのぼる。
 てっぺんを乗り越えて 反対側に降りる。昔バレエをやってたから 脚はけっこう上がるのだ。

 石づくりの へりにすわって 水に足をつけてみる。
 ちょっと冷たいけど がまんできそう。

 100均のお茶碗を8つ エコバッグから出して 小さく切っておいたお香を 1つづつ入れる。お兄ちゃんの手紙に入ってた あのお香だ。
 ひとつひとつ 火をつけて そっと水に 浮かべた。
 煙がただよい始める。甘い 懐かしい 恐ろしい あの香り。
 わたしは泉に向かい 合わせた両手をひたいにつけて お祈りした。

 泉の神さま仏さま お母さん ……お父さん ついでにリョウ君 おねがい わたしを見守って。

 鼻の頭に 小さな 硬いものが 当たった。
 左手の親指の 指輪だった。

 自分でも なんでか分かんないけど 誰も見たことのない この儀式を始めるための まるで 定められたしきたりみたいに わたしは指輪に 軽くくちびるを当てた。

 恐くない。
 わたしはもう 恐くない。

 ──────────────

 お茶碗をひっくり返さないように ゆっくり水に入る。
 そして少しずつ 手足を伸ばして あおむけに 大の字になって浮かんだ。

 紫の煙の中を 線になって走る ペンライトの光。

 煙の層と 青く照らされた水の層。
 二つの間に わたしは ただよう。

 生き物の声も もう聞こえない。
 耳を洗うのは さざ波と 泡の音だけ。

 胸の奥まで深く 深く 煙をいっぱいに吸い込んで わたしは固く 目を閉じる。

 お兄ちゃん。
 わたしは ここだよ。

 深く暗い 海の底で 
 100年の夢の指先が わたしの手に触れた。
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