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第18章 その箪笥の前に、赤い着物を着て正座していた
18-3 朝日
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「おはようございます、王女」
ベランダの僕を見上げて、王女はちょっと口角を上げて微笑した。昨晩アディの母親に結ってもらった髪に、白いジャスミンの生花が飾ってあった。
「ミナミ、お香を焚《た》いた?」
「いいえ。僕は、王女が母屋で焚かれたのかと」
「じゃあ村人の誰かね。ここは内陸《ダラム》に近いから」
高いところから話すのは不敬にあたるだろうと思い、僕は階段を降りて、最下段に腰を掛けた。
「夢を見た?」
と王女が尋ねた。
「はい。……妹の夢を」
「わたしも、お兄さまの夢を見たわ。とてもきれいな金色のお召し物で、新しい宮殿の、黄金の玉座に座っていらしたの。でもわたしが声をお掛けしても、何か申し上げても、何もおっしゃらなくて。まるで何も聞こえていらっしゃらないみたいに。お兄さまは目がお見えにならないのに、その上、お耳まで……。ミナミ、これはただの夢なのかしら? それとも、わたしはもうお兄さまとお話しすることができないの?」
「夢は夢です、王女。疲れた御身体《おからだ》が、不安な御心《おこころ》に夢を見せただけです」
「そうよね」と言って、王女は腕で涙をぬぐった。「お兄さまのお言葉どおりにしていれば、間違いはないはずよね」
そして自分の膝頭に額を伏せて、しばらくの間静かにすすり泣いていた。
僕はハンカチもティッシュも持っていなかったし、妹と同じようなつもりで王女の頭や肩に触れたり撫でたりするわけにもいかなかった。
たまたまそこにアディが起きてきたら、問答無用で背中を刺されたって文句は言えない。
「きっとご無事です。殿下《ヤン・ムリア》を信じましょう」
そんなことを言うくらいしか、僕にはできなかった。
やがて王女は顔を上げ、巻衣の裾をつまみ上げて涙を拭った。
「ミナミはどうしてわたしたちと一緒に来てくれたの? 異人《フランキ》たちの船でお国へ帰ることもできたんじゃないかしら」
国王が僕に教えてくれた事情を、王女は何も知らないのだ。そのほうがいいと王は判断したのだろう。
「殿下が教えて下さったのです。ただ海を越えるのではなく、正しい方法《ウパヤ》によるのでなければ、僕のほんとうの祖国に帰ることはできないのだと」
王女はちょっと眉を寄せて何か考えながら、真っ直ぐに僕の目を見た。それで僕はまた少しどぎまぎしてしまった。
「だから……、だからそのために、僕はまず自分が正しいと思うことをしなければならないんです」
「それはどんなこと?」
「アディと、あなたと一緒に、三人で内陸《ダラム》へ行くことです」
「……どうして?」
「王女、あなたがおっしゃってくださったんじゃありませんか、内陸《ダラム》に行こうって。僕はあのとき、一緒に行くべきだったんです」
「だけど……」
そのまましばらく、王女は赤い目でじっと僕の顔を見ていた。
なだらかな東の稜線から朝日が差し、僕はまぶしさに目を細めた。橙《だいだい》色の光線が草葺《くさぶ》きの家並みに強い陰影を与えた。
王女は立ち上がり、巻衣の裾を直して僕の前にしゃがむと、小さな両手でそっと僕の右手を包むように握った。
剣術のせいだろう、高貴な身分の女性に似合わず豆だらけの硬い手だった。
「ミナミ」と言って、王女は白い茉莉花《ムラティ》が咲くみたいに微笑んだ。「どうもありがとう」
ベランダの僕を見上げて、王女はちょっと口角を上げて微笑した。昨晩アディの母親に結ってもらった髪に、白いジャスミンの生花が飾ってあった。
「ミナミ、お香を焚《た》いた?」
「いいえ。僕は、王女が母屋で焚かれたのかと」
「じゃあ村人の誰かね。ここは内陸《ダラム》に近いから」
高いところから話すのは不敬にあたるだろうと思い、僕は階段を降りて、最下段に腰を掛けた。
「夢を見た?」
と王女が尋ねた。
「はい。……妹の夢を」
「わたしも、お兄さまの夢を見たわ。とてもきれいな金色のお召し物で、新しい宮殿の、黄金の玉座に座っていらしたの。でもわたしが声をお掛けしても、何か申し上げても、何もおっしゃらなくて。まるで何も聞こえていらっしゃらないみたいに。お兄さまは目がお見えにならないのに、その上、お耳まで……。ミナミ、これはただの夢なのかしら? それとも、わたしはもうお兄さまとお話しすることができないの?」
「夢は夢です、王女。疲れた御身体《おからだ》が、不安な御心《おこころ》に夢を見せただけです」
「そうよね」と言って、王女は腕で涙をぬぐった。「お兄さまのお言葉どおりにしていれば、間違いはないはずよね」
そして自分の膝頭に額を伏せて、しばらくの間静かにすすり泣いていた。
僕はハンカチもティッシュも持っていなかったし、妹と同じようなつもりで王女の頭や肩に触れたり撫でたりするわけにもいかなかった。
たまたまそこにアディが起きてきたら、問答無用で背中を刺されたって文句は言えない。
「きっとご無事です。殿下《ヤン・ムリア》を信じましょう」
そんなことを言うくらいしか、僕にはできなかった。
やがて王女は顔を上げ、巻衣の裾をつまみ上げて涙を拭った。
「ミナミはどうしてわたしたちと一緒に来てくれたの? 異人《フランキ》たちの船でお国へ帰ることもできたんじゃないかしら」
国王が僕に教えてくれた事情を、王女は何も知らないのだ。そのほうがいいと王は判断したのだろう。
「殿下が教えて下さったのです。ただ海を越えるのではなく、正しい方法《ウパヤ》によるのでなければ、僕のほんとうの祖国に帰ることはできないのだと」
王女はちょっと眉を寄せて何か考えながら、真っ直ぐに僕の目を見た。それで僕はまた少しどぎまぎしてしまった。
「だから……、だからそのために、僕はまず自分が正しいと思うことをしなければならないんです」
「それはどんなこと?」
「アディと、あなたと一緒に、三人で内陸《ダラム》へ行くことです」
「……どうして?」
「王女、あなたがおっしゃってくださったんじゃありませんか、内陸《ダラム》に行こうって。僕はあのとき、一緒に行くべきだったんです」
「だけど……」
そのまましばらく、王女は赤い目でじっと僕の顔を見ていた。
なだらかな東の稜線から朝日が差し、僕はまぶしさに目を細めた。橙《だいだい》色の光線が草葺《くさぶ》きの家並みに強い陰影を与えた。
王女は立ち上がり、巻衣の裾を直して僕の前にしゃがむと、小さな両手でそっと僕の右手を包むように握った。
剣術のせいだろう、高貴な身分の女性に似合わず豆だらけの硬い手だった。
「ミナミ」と言って、王女は白い茉莉花《ムラティ》が咲くみたいに微笑んだ。「どうもありがとう」
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