南洋王国冒険綺譚・ジャスミンの島の物語

猫村まぬる

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第10章 何が起きたのか、その瞬間にはたぶん誰もわからなかった

10-4 夢(空港)

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 シンガポール国際空港の、カーペットが敷き込まれた広い通路。
 歩く人々の姿は無く、所々に並んだ椅子にも休んでいる人の影はなかった。
 どこまでも長く連なったムービングウォークも、全て静止していた。照明もほぼ落とされ、非常口の案内サインやゲート番号の表示などが周囲をほのかに照らしているだけだった。
 僕の近くにはフライト情報の液晶モニターがあったが、ただ”cancelled”という赤い文字だけが並んで点滅していた。

 通路はまっすぐに続き、遥か遠くで暗闇に消えていた。
 左を見ても、右を見ても、床から天井まで全面ガラス張りだったが、そのガラスの向こうは完全に真っ黒で、そこにあるのが滑走路なのか、トランジットラウンジなのか、虚空なのかさえ分からない。黒いガラスがはめ込まれているだけなのかも知れない。

 方向も分からないまま、僕は薄暗い通路を歩きつづけた。
 いくら歩いても通路の景色に変化はほとんど無かったが、次第に強く、はっきりと、あの白檀に似たお香の匂いが感じられるようになってきた。

 前の方に、カーペットがぼんやりと半円形に明るくなっているところが見える。
 香りはその辺りから来るように思われた。

 近づくにつれて、その光は通路の左側のガラスの向こうから来ていることが分かった。
 ガラスの向こうは暗闇だったが、その辺りだけが白っぽいLEDの明かりで照らし出されているのだ。

 だんだん見えてくる。淡いブルーの床。四つでひとつながりになった椅子。そこに誰か座っている。
 女性のようだ。
 その後ろ姿を目指して、僕は次第に早足になった。

 ガラス越しに見えたのは、白いスニーカーに黒のスキニー、グレーのパーカーを着た若い女性の姿だった。
 下を向いているので、長い髪に隠れて横顔は見えなかったが、その髪の色艶いろつやや、子供みたいな手や、華奢きゃしゃな割に少し上がった肩や、右足首を内側にひねる癖などから、ひと目で分かった。
 妹だ。

 茉莉、茉莉、こっちだよ!

 僕は大声で呼びながら、両手のひらでガラスを叩いた。
 お香の匂いはますます強くなってくる。
 泣いているのか、眠っているのか、分からないけど、膝の上で祈るように両手を組んでうつむいたまま、茉莉は動かない。

 茉莉、お兄ちゃんはここだ。
 茉莉、助けに来たよ。
 まりちゃん、こっちを見て。
 まりちゃん!

 ガラスを叩く手に、何か、さらっとしたものが触れた。

 僕は気づいてしまった。
 ああ、これは夢だ。
 またあの夢だ。嫌だ、怖い。

 見ると、思った通り、短冊くらいの大きさの黄ばんだ布がガラスに貼ってある。
 それも一枚じゃない。ここにも、そこにも、ガラス中いっぱいに。まりちゃんの姿ももう見えないくらいに。

 この布を剥がせば何が出てくるか、僕にはもう分かっていた。あのお仏壇の阿弥陀さまだ。ぼくはちいさい頃あのオブツダンがこわかった。おじいちゃんとおばあちゃんはオブツダンのなかにいるんだよっていってた、そのおとうさんとおかあさんも、おブツダンの中に入っちゃった。

 まりちゃん、お兄ちゃんはここだよ!
 たすけて、まりちゃん、ここはどこ? 

 ここは空港ではなかった。
 まりちゃん。
 ここはシンガポールでもなかった。なんにもみえない。まりちゃんもみえない。まっくらだよ。
 ここはどこ? いまぼくがいるのは――

「ぼくはおブツダンの中だよ」


   ◆ ◆ ◆


 目を覚ましてからも、僕は全身の汗をぬぐいもせずにベッドでぼんやりとしていた。
 空気が少し冷えていた。雨音が聞こえる。窓の鎧戸よろいどの隙間から入ってくる朝の光もブルーグレーの沈んだ色だった。

 せっかく夢に茉莉が出てきたのに、顔を見られなかったな。

 部屋にはまだあの香りが漂っていた。ベッド脇の机の上に小皿があり、その中に灰が残っている。
 僕はゆうべ、ムラティ王女からもらったあのお香を一センチほど切ってきながら寝たのだ。

 たしかに、王女が言った通り、このお香には会いたい人に会える効果があるようだ。しかし……。

 恐らく元の世界では、僕は飛行機事故で死んだのだ。さっきの夢がそう告げていたように思えた。
 そして僕は、家族を全て失ってしまった妹のことを思って泣いた。
 もっとそばにいてやりたかった。
 もっと話を聞いてやればよかった。
 もう大人になるんだからなんて思わずに、手をつないだり抱きしめたりすればよかった。

 朝食を持って来たファジャルの侍女がドアを開けるまで、僕はずっと声を出さずに泣き続けた。
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