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第8章 船が着いたとき港市の街はもう夕日に染まっていた
8-4 路地
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売り声の飛び交う魚市場の雑踏を通り抜けているときに、アディが寄ってきて耳打ちした。
「あの女、あんたに見せたくない場所があるんじゃないのか」
「そうかもな」
「撒いちまおうぜ」
待てよ、と止める隙さえ僕に与えず、アディは回れ右して侍女の正面に立った。
「姐さん、ミナミ様は小便がしたいそうです。たしかあっちに溝があった。俺も付き合うが、姐さん横で見張っててくれますか」
侍女は嫌な顔をしながらも、僕を引っ張って歩くアディの後についてきた。
魚市場を出て人気のない路地に入ると、家並みの間を流れる狭い水路があり、長い板を二枚渡しただけの橋がかかっていた。
「さあここがいいですよミナミ様。姐さんはちょっとあっち向いててもらえませんか。それともその目でしっかり確かめて、ファジャル様にご報告でもしますかね?」
侍女は冷たい目でアディをひと睨みしてから僕に一礼し、短剣の柄に手を掛けたままで僕らに背を向けた。その途端、アディは侍女の細い背中を両手でどんと押した。
「おっと姐さん失礼」
「きゃっ」
意外にか細い悲鳴を上げてよろけた侍女に目もくれず、アディは僕の腕をつかんで走り出した。
そして何度か路地を曲がって彼女が追って来ないのを確かめると、僕の肩を叩いて大笑いした。
「見たか、あれ。あの女のあのざま」
「アディ、頼むからさっきみたいなやり方はやめてくれ。王女の前でも同じこと言えるか?」
「バカ言え。あんなこと姫様のお耳に入れられるか」
「だったら、あのお姐さんの前でもやめてくれ。ファジャルさんのこともあんなふうに言うな」
「そうかい。あんたの前ではせいぜい気をつけるよ」
「だいたい、こんなことしたら港務長官に睨まれるぞ」
「夕方までにあの女と合流して一緒に邸に戻ればいいんだよ。きっと俺たちを探し回ってるはずだ。あの女だって自分の間抜けな不手際をファジャル様や港務長官殿に報告したくはないだろうからな」
「どうだろうな」
「で、これからどうする? さっき邪魔されて入れなかった路地に行ってみるか」
「道が分かるのか?」
「そりゃあもちろん……」
アディと僕はまわりをぐるりと見た。前にも後ろにも、二人の人間がやっと並んで歩けるくらいの幅の路地が湾曲しながら続き、その先は見えない。両側には隙間無く木造家屋が並び、「酒肆」とか「茶」「葯」などと書かれた看板は出ていたが、どれも板戸を閉ざしており、人の姿は全く無かった。
「……分からない。俺は王都の人間だぜ」
「なるほど」僕はうなずいた。「僕に考えがある」
「どうするんだ?」
「戻ってお姐さんを探そう」
「嘘だろ。勘弁してくれよ」
しかし僕らにはもう戻る道が分からなくなっていたし、侍女の姿はどこにも見つからなかった。
「あの女、あんたに見せたくない場所があるんじゃないのか」
「そうかもな」
「撒いちまおうぜ」
待てよ、と止める隙さえ僕に与えず、アディは回れ右して侍女の正面に立った。
「姐さん、ミナミ様は小便がしたいそうです。たしかあっちに溝があった。俺も付き合うが、姐さん横で見張っててくれますか」
侍女は嫌な顔をしながらも、僕を引っ張って歩くアディの後についてきた。
魚市場を出て人気のない路地に入ると、家並みの間を流れる狭い水路があり、長い板を二枚渡しただけの橋がかかっていた。
「さあここがいいですよミナミ様。姐さんはちょっとあっち向いててもらえませんか。それともその目でしっかり確かめて、ファジャル様にご報告でもしますかね?」
侍女は冷たい目でアディをひと睨みしてから僕に一礼し、短剣の柄に手を掛けたままで僕らに背を向けた。その途端、アディは侍女の細い背中を両手でどんと押した。
「おっと姐さん失礼」
「きゃっ」
意外にか細い悲鳴を上げてよろけた侍女に目もくれず、アディは僕の腕をつかんで走り出した。
そして何度か路地を曲がって彼女が追って来ないのを確かめると、僕の肩を叩いて大笑いした。
「見たか、あれ。あの女のあのざま」
「アディ、頼むからさっきみたいなやり方はやめてくれ。王女の前でも同じこと言えるか?」
「バカ言え。あんなこと姫様のお耳に入れられるか」
「だったら、あのお姐さんの前でもやめてくれ。ファジャルさんのこともあんなふうに言うな」
「そうかい。あんたの前ではせいぜい気をつけるよ」
「だいたい、こんなことしたら港務長官に睨まれるぞ」
「夕方までにあの女と合流して一緒に邸に戻ればいいんだよ。きっと俺たちを探し回ってるはずだ。あの女だって自分の間抜けな不手際をファジャル様や港務長官殿に報告したくはないだろうからな」
「どうだろうな」
「で、これからどうする? さっき邪魔されて入れなかった路地に行ってみるか」
「道が分かるのか?」
「そりゃあもちろん……」
アディと僕はまわりをぐるりと見た。前にも後ろにも、二人の人間がやっと並んで歩けるくらいの幅の路地が湾曲しながら続き、その先は見えない。両側には隙間無く木造家屋が並び、「酒肆」とか「茶」「葯」などと書かれた看板は出ていたが、どれも板戸を閉ざしており、人の姿は全く無かった。
「……分からない。俺は王都の人間だぜ」
「なるほど」僕はうなずいた。「僕に考えがある」
「どうするんだ?」
「戻ってお姐さんを探そう」
「嘘だろ。勘弁してくれよ」
しかし僕らにはもう戻る道が分からなくなっていたし、侍女の姿はどこにも見つからなかった。
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