19 / 140
第5章 見知らぬ大人たちの間を歩く子どもたちのように
5-3 夢(部屋)
しおりを挟む
茉莉の夢を見た。
気がついたとき、僕はベッドの上に横になっていた。部屋は暗かったが、ヘッドボードに埋め込まれたデジタル時計の光でぼんやりと様子が分かった。出張のときの定宿にしているシンガポールのホテルの部屋のようだった。
時計の数字は「7:76」を示していた。今に「7:77」になるだろうと思ってしばらく見つめていたが、変わらなかった。
サイドボードの上にあるスイッチを探り当てて明かりをつける。電圧が低いのか、ぼんやりと暗いオレンジ色の光に、白い壁に取り付けられたテレビと抽象画の額、書物机の上の鏡、黒いミニバーが浮かび上がった。
本当にここはシンガポールなのか。窓の外の景色を確かめようとベッドを降りて部屋を一周してみたが、右も左も白い壁で、窓は無かった。クローゼットとバスルームの間の通路の奥にあるのも、ドアではなかった。ドアがあるべき場所にドアは無く、大きな全身鏡がはめ込まれているだけだった。鏡に写った僕はバスローブを着ていて、顔には表情が無かった。
振り返ってヘッドボードの時計を見ると、表示された数字はまだ「7:76」のままだった。
書物机の上のリモコンを取り、テレビの電源スイッチを押してみる。ぷつんと音がして画面が少し明るくなったが、それだけだった。ベッドに腰掛けて目を凝らし耳を澄ませてみても、何も見えず、何も聞こえない。
何も入ってこない、何も出ていかない部屋。この部屋には、外側というものがないらしい。ここがシンガポールかどうかなんてことに、どうやら意味は無いようだった。
ベッドに腰掛けて目を閉じる。何も聞こえない。空調の音すら。自分の呼吸の音ばかりがやたらに大きく聞こえる。
でもしばらくそうしているうちに、目でもなく、耳でもなく、鼻から入ってくる情報の存在に気がついた。お香を焚くような匂いが、どこからか漂ってきていたのだ。
匂いのもとを嗅覚だけでたどるというのは、口で言うほど簡単ではない。気流にはむらがあり、匂いは強まったり弱まったり、ややもすれば全く消えてしまったり、身動き一つ、呼吸一つでめちゃくちゃにかき乱されてしまったりする。しかしこのあやふやな部屋の中で、この匂いだけは確かなもののように感じられた。
デジタル時計はまだ「7:76」を示している。
僕は時間をかけて、匂いが流れ出て来る源を探し出した。それはクローゼットだった。
合板の戸を開くと、匂いはさらにはっきりとする。東洋的な、あるいは日本的な、白檀のような香木の香りだった。
クローゼットの奥の壁の、木目調の化粧板には、ちょうど僕の目の高さに、短冊大の黄ばんだ縦長の布が貼られていた。
そして板の向こうから、何かが聞こえる気がした。
はっきりさせるためにテレビを消し、ハンガーをかき分けて壁板に耳を当ててみると、かすかに人の声のようなものが聞こえる。抑揚のついた声が、高くなったり低くなったりしながら続く。
板に貼られた黄ばんだ布には、うっすらと模様のようなものが見えた。縦長の、白っぽい人物像のようなものがあり、その頭部と思われるあたりから、放射状の線が出ている。何かの絵を裏側から見ているらしかった。
今度はその布に耳を当ててみる。すると声はさっきよりも明瞭に聞こえた。人の声、それも女性。何を言っているかまでは分からないけど、抑揚のパターンや母音の響きは日本語のもののように思えた。
「おいあん、いいえあええ、いええ、おえあえ、え」
そんなふうに聞こえる音の連なりの中に、耳が慣れるにつれて「…ても…」とか「…るから…」といった日本語の断片が聴き取れるようになった。
少女に近いような、若い女の声。
「まさか」と思うのと同時に、その声が「おにいちゃん」と言うのを聞いた。と、僕は思った。
「茉莉!」僕は夢中でその壁をどんどんと叩いた。「茉莉! ここだ! ここにいるよ! 茉莉! お兄ちゃんはここだ! 茉莉ちゃん!」
しかし茉莉は答えなかった。声は聞こえなくなった。僕は爪を立てて、壁にしっかりと貼られた布をばりばりと引き剥がした。
手のひらを開いてみて、僕は、その布が何だったかを知った。
それはわが家の仏壇に祀られている、小さな掛け軸の阿弥陀如来立像だった。
その瞬間、僕は体を引き裂くような理不尽で激しい恐怖に襲われ、自分の叫び声で目を覚ました。
気がついたとき、僕はベッドの上に横になっていた。部屋は暗かったが、ヘッドボードに埋め込まれたデジタル時計の光でぼんやりと様子が分かった。出張のときの定宿にしているシンガポールのホテルの部屋のようだった。
時計の数字は「7:76」を示していた。今に「7:77」になるだろうと思ってしばらく見つめていたが、変わらなかった。
サイドボードの上にあるスイッチを探り当てて明かりをつける。電圧が低いのか、ぼんやりと暗いオレンジ色の光に、白い壁に取り付けられたテレビと抽象画の額、書物机の上の鏡、黒いミニバーが浮かび上がった。
本当にここはシンガポールなのか。窓の外の景色を確かめようとベッドを降りて部屋を一周してみたが、右も左も白い壁で、窓は無かった。クローゼットとバスルームの間の通路の奥にあるのも、ドアではなかった。ドアがあるべき場所にドアは無く、大きな全身鏡がはめ込まれているだけだった。鏡に写った僕はバスローブを着ていて、顔には表情が無かった。
振り返ってヘッドボードの時計を見ると、表示された数字はまだ「7:76」のままだった。
書物机の上のリモコンを取り、テレビの電源スイッチを押してみる。ぷつんと音がして画面が少し明るくなったが、それだけだった。ベッドに腰掛けて目を凝らし耳を澄ませてみても、何も見えず、何も聞こえない。
何も入ってこない、何も出ていかない部屋。この部屋には、外側というものがないらしい。ここがシンガポールかどうかなんてことに、どうやら意味は無いようだった。
ベッドに腰掛けて目を閉じる。何も聞こえない。空調の音すら。自分の呼吸の音ばかりがやたらに大きく聞こえる。
でもしばらくそうしているうちに、目でもなく、耳でもなく、鼻から入ってくる情報の存在に気がついた。お香を焚くような匂いが、どこからか漂ってきていたのだ。
匂いのもとを嗅覚だけでたどるというのは、口で言うほど簡単ではない。気流にはむらがあり、匂いは強まったり弱まったり、ややもすれば全く消えてしまったり、身動き一つ、呼吸一つでめちゃくちゃにかき乱されてしまったりする。しかしこのあやふやな部屋の中で、この匂いだけは確かなもののように感じられた。
デジタル時計はまだ「7:76」を示している。
僕は時間をかけて、匂いが流れ出て来る源を探し出した。それはクローゼットだった。
合板の戸を開くと、匂いはさらにはっきりとする。東洋的な、あるいは日本的な、白檀のような香木の香りだった。
クローゼットの奥の壁の、木目調の化粧板には、ちょうど僕の目の高さに、短冊大の黄ばんだ縦長の布が貼られていた。
そして板の向こうから、何かが聞こえる気がした。
はっきりさせるためにテレビを消し、ハンガーをかき分けて壁板に耳を当ててみると、かすかに人の声のようなものが聞こえる。抑揚のついた声が、高くなったり低くなったりしながら続く。
板に貼られた黄ばんだ布には、うっすらと模様のようなものが見えた。縦長の、白っぽい人物像のようなものがあり、その頭部と思われるあたりから、放射状の線が出ている。何かの絵を裏側から見ているらしかった。
今度はその布に耳を当ててみる。すると声はさっきよりも明瞭に聞こえた。人の声、それも女性。何を言っているかまでは分からないけど、抑揚のパターンや母音の響きは日本語のもののように思えた。
「おいあん、いいえあええ、いええ、おえあえ、え」
そんなふうに聞こえる音の連なりの中に、耳が慣れるにつれて「…ても…」とか「…るから…」といった日本語の断片が聴き取れるようになった。
少女に近いような、若い女の声。
「まさか」と思うのと同時に、その声が「おにいちゃん」と言うのを聞いた。と、僕は思った。
「茉莉!」僕は夢中でその壁をどんどんと叩いた。「茉莉! ここだ! ここにいるよ! 茉莉! お兄ちゃんはここだ! 茉莉ちゃん!」
しかし茉莉は答えなかった。声は聞こえなくなった。僕は爪を立てて、壁にしっかりと貼られた布をばりばりと引き剥がした。
手のひらを開いてみて、僕は、その布が何だったかを知った。
それはわが家の仏壇に祀られている、小さな掛け軸の阿弥陀如来立像だった。
その瞬間、僕は体を引き裂くような理不尽で激しい恐怖に襲われ、自分の叫び声で目を覚ました。
0
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説


ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ドマゾネスの掟 ~ドMな褐色少女は僕に責められたがっている~
桂
ファンタジー
探検家の主人公は伝説の部族ドマゾネスを探すために密林の奥へ進むが道に迷ってしまう。
そんな彼をドマゾネスの少女カリナが発見してドマゾネスの村に連れていく。
そして、目覚めた彼はドマゾネスたちから歓迎され、子種を求められるのだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる