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第2章 時の流れは、僕をおそろしく奇妙な場所に
2-2 後悔
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今思えば不思議だけど、ちょうど今回の出張に発つ日の朝食のときに、茉莉が妙なことを言っていた。
話のきっかけは、仏壇の世話を忘れずにするようにと僕が茉莉に頼んだことだった。
僕としては、父親の命日が近いことを思い出して何気なく言っただけだったのだけど、茉莉は珍しくむきになって言い返してきた。
「どうして? わたし、お仏壇のことはちゃんとしてるよ」
「うん、それならいいんだよ。気にしないで」
「気にするよ。お兄ちゃんの留守中も、わたしちゃんと毎日お線香あげて、お水とご飯もあげてるのに。だって、お仏壇はわたしたちの……」
「分かってる。茉莉を信用してないわけじゃないよ」
「分かってない」
出勤前のスーツ姿の茉莉は、わざわざ立ち上がって仏壇のほうを向いた。
「わたし、毎朝ちゃんと三人に、みんなに一個ずつ、お水とご飯とあげてる。みんなに『おはよう』って言って、お花も古かったら取り換えて、それからお線香も三人に……」
僕は思わず、彼女の顔を見つめた。
三人?
確かに三人って言った。
茉莉が「はっ」と小さく息を呑むのが聞こえた。
うっかり口を滑らせたようだった。
「別に、隠してたとかじゃないんだけど……」
聞けば、要するに、僕が出張で留守の間、妹はいつも、両親の写真と並べて僕の写真も仏壇に置き、毎日必ず三人分の線香や食べ物を供えたりしているのだという。
まるで僕がもう、母や父と同じ、無限に遠い場所に行ってしまったみたいに。
「……ごめんなさい」
「謝ることないよ。僕は気にしないよ。茉莉の気が楽なようにすればいい」
「楽じゃないよ。楽なわけ無いじゃない、そんなこと、自分でも頭おかしいって、気持ち悪いって思ってる。でもやめられないの。怖いんだもの、ひとりで待ってるのが」
「分かるよ」
「分かんないでしょ」
妹の目に、みるみるうちに涙が溜まった。
「分かんないよ、お兄ちゃんには」
「そうだね、たしかに、全部は分かんないかもしれないけど」
「わたしは……」
「どちらにしても、茉莉は何も悪くないよ。とにかく今は、こんな話はやめよう。ね? 帰ってきたら、またゆっくり話そう」
茉莉はゆっくりと深呼吸をして震える息を整え、赤い鼻でうなずいた。涙の滴は頬に落ちずに下まつげにとどまっていた。
こんなことは久しぶりだった。スーツ姿でメイクをした妹が、まるで十三歳の子どもに戻ったように見えた。
抱きしめてやりたい、と僕は思った。一瞬だけでも。
だけどそれは、何年も前から僕が自分に禁じてきたことのひとつだった。
「ほら、お化粧が崩れるよ。今から仕事だろう?」
「……うん」
僕はいま、後悔している。
お化粧のことなんて、仕事のことなんて、口にするんじゃなかった。もっとちゃんと向き合うべきだった。あれが最後になってしまったかもしれないのに。あれは外の社会なんかとは関係ない、僕たちだけの問題だったのに。
茉莉はどうしてるだろう。不吉な話をしたって、気に病んでいなければいいけれど。
今ごろ、僕のために線香をあげてくれているのだろうか。
もしかすると、それにふさわしく、僕が留まっているこの奇妙な国は死後の世界なのかもしれない。
だけど僕は帰らなければならない。ここがどんな世界だろうが、必ず、生きて。茉莉のところに。
話のきっかけは、仏壇の世話を忘れずにするようにと僕が茉莉に頼んだことだった。
僕としては、父親の命日が近いことを思い出して何気なく言っただけだったのだけど、茉莉は珍しくむきになって言い返してきた。
「どうして? わたし、お仏壇のことはちゃんとしてるよ」
「うん、それならいいんだよ。気にしないで」
「気にするよ。お兄ちゃんの留守中も、わたしちゃんと毎日お線香あげて、お水とご飯もあげてるのに。だって、お仏壇はわたしたちの……」
「分かってる。茉莉を信用してないわけじゃないよ」
「分かってない」
出勤前のスーツ姿の茉莉は、わざわざ立ち上がって仏壇のほうを向いた。
「わたし、毎朝ちゃんと三人に、みんなに一個ずつ、お水とご飯とあげてる。みんなに『おはよう』って言って、お花も古かったら取り換えて、それからお線香も三人に……」
僕は思わず、彼女の顔を見つめた。
三人?
確かに三人って言った。
茉莉が「はっ」と小さく息を呑むのが聞こえた。
うっかり口を滑らせたようだった。
「別に、隠してたとかじゃないんだけど……」
聞けば、要するに、僕が出張で留守の間、妹はいつも、両親の写真と並べて僕の写真も仏壇に置き、毎日必ず三人分の線香や食べ物を供えたりしているのだという。
まるで僕がもう、母や父と同じ、無限に遠い場所に行ってしまったみたいに。
「……ごめんなさい」
「謝ることないよ。僕は気にしないよ。茉莉の気が楽なようにすればいい」
「楽じゃないよ。楽なわけ無いじゃない、そんなこと、自分でも頭おかしいって、気持ち悪いって思ってる。でもやめられないの。怖いんだもの、ひとりで待ってるのが」
「分かるよ」
「分かんないでしょ」
妹の目に、みるみるうちに涙が溜まった。
「分かんないよ、お兄ちゃんには」
「そうだね、たしかに、全部は分かんないかもしれないけど」
「わたしは……」
「どちらにしても、茉莉は何も悪くないよ。とにかく今は、こんな話はやめよう。ね? 帰ってきたら、またゆっくり話そう」
茉莉はゆっくりと深呼吸をして震える息を整え、赤い鼻でうなずいた。涙の滴は頬に落ちずに下まつげにとどまっていた。
こんなことは久しぶりだった。スーツ姿でメイクをした妹が、まるで十三歳の子どもに戻ったように見えた。
抱きしめてやりたい、と僕は思った。一瞬だけでも。
だけどそれは、何年も前から僕が自分に禁じてきたことのひとつだった。
「ほら、お化粧が崩れるよ。今から仕事だろう?」
「……うん」
僕はいま、後悔している。
お化粧のことなんて、仕事のことなんて、口にするんじゃなかった。もっとちゃんと向き合うべきだった。あれが最後になってしまったかもしれないのに。あれは外の社会なんかとは関係ない、僕たちだけの問題だったのに。
茉莉はどうしてるだろう。不吉な話をしたって、気に病んでいなければいいけれど。
今ごろ、僕のために線香をあげてくれているのだろうか。
もしかすると、それにふさわしく、僕が留まっているこの奇妙な国は死後の世界なのかもしれない。
だけど僕は帰らなければならない。ここがどんな世界だろうが、必ず、生きて。茉莉のところに。
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