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第B章:何故異世界飯はうまそうに見えるのか

正攻法とチート/3:綾崎シズクは何故ノーベル賞を諦めたのか

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 一見すると良い考えに見えるのに何故誰もそれを選ばないのか、というアイディアを思いつくことは生きていれば一度や二度ではないだろう。実際のところ、その良い考えというものはこれまでに何度も先人が思いついた平凡なものであり、そして挑んだ者が尽く失敗した故に選ばれなかったように見えるだけというのはある種のテンプレートである。特に、何かしらのカードゲームに対してある程度以上真剣に取り組んだものはおそらく首が福島会津の郷土玩具である赤ベコになるだろう。どんなゲームでも本気で勝ちたいならトップメタを愚直に選ぶべきであり、不人気な戦略もしくは完全なオリジナル戦略を選ぶのは、普通に戦って勝てるようになった後で愚直に勝利を目指す自身のあり方に対する気晴らしとして行うべきだ。奇抜な戦略は敗者が一発逆転で選ぶべきものではない。暇を持て余した圧倒的強者が取るべきものなのだ。

 評価ではなく消費数で勝利を狙う。それは確かに考え方としては悪くないように見えるが、過去の傾向を調べた中でこの方法で優勝した料理人は聞いたことがない。つまりそういうことだ。これは奇策ではなく愚策である。目の前に見える山頂へのルートには、絶望的な幅のクレバスが待ち構えている。

 しかしシズクがこの戦略を選んだ理由は、消費数で勝利を狙うためではなかった。それはこの戦略を取ったことによる副次効果でしかない。シズクの頭にあった最優先事項は、トマトジュースを提供することだった。ポップコーンはあくまで一応料理だと言い張るためのダミー看板であり、シズクはこの1ヶ月最高のトマトジュースを作るべき実験を繰り返していたのだ。では何故トマトジュースなのか。それは、シズクが元の世界に忘れ物として残していた科学実験を回収するためだった。

 真面目に論文にまで纏めれば毎年イグノーベル賞が受賞できると言われたシズクの力の源泉は、日々の不思議に対して見逃すことなく興味を抱き、それを豊富な知識から真剣に考察し、一般的な科学者と同様の手順を踏んで意味ある調査を進めてしまうという、真剣にバカをやれる精神にある。彼女はあの飛行機が無事成田についていたら、トマトジュースの研究を行うと決めていた。それは飛行機の中で飲んだトマトジュースの美味しさに起因している。

 トマトが不思議な野菜であることは既に語ったが、そんなトマトの不思議な点として、絞ったトマトジュースがうるさいところで飲むと何故か美味しく感じるという性質があった。元々トマトジュースが飛行機内で人気だったことは事実であり、同時に何故か飛行機で飲むトマトジュースは美味いと口コミが広がっていた。これに対する一般的な理由は飛行機が飛ぶ高度1万メートル以上の気圧の差による脳に運ばれる酸素量が減るせいだと言われていた。実際、トマトは抗酸化作用が高いことが知られている。これが脳内血管の酸素量を調整するためにトマトジュースが普段よりも美味しく感じるというのはとても納得がいく話であり、疑う理由を見つけにくい。

 実際、近年解明の兆しが見えているアイスクリームを食べた際に生じるアイスクリーム頭痛の原因に対する説としても体内温度を上げるために血液量を増加させることにより脳の血管に圧力がかかるためという説が有力であることからもわかるように、繊細な脳がストレスを受けることになる高度1万メートル以上の空間でトマトジュースがそのストレスを緩和し、結果的にトマトジュースをより欲する故に「美味しい」という感情が誘発されているというのはとても「らしい」話だ。

 しかし、コーネル大学の食品科学学部のチームは、この従来の説を否定せず、それとは別の理由があるのかもしれないとしてある事象に目をつけた。それが、飛行機内の騒音である。飛行機内の騒音は70~80デシベルとされている。人がストレスを感じることなく過ごせる音は40~50デシベルまでとされており、この飛行機内の騒音は日常空間で考えると地下鉄の車内、セミの鳴き声や電話の呼び出し音に匹敵するもので、長時間晒されることで重度のストレスを受ける騒音とされるレベルだ。この騒音が「旨味」を増幅させているのではないかというのがコーネル大学の仮説だった。

 そもそも「うま味」というのは近年ようやく理解されてきた美味しさの構成要素であり、現在は味を評する際に「甘味」「塩味」「酸味」「苦味」に「旨味」を加えて評価するのがようやく一般化されてきた。コーネル大学ではこの5種類の味覚を調整した液状食品をヘッドホンで騒音を与えつつ被検体に味合わせることによる脳の興奮度合いを調べた。この実験により、騒音と旨味の間に優位な相関を確認したのだ。

 この実験は、従来の理由である脳の酸素循環と抗酸化物質の需要増加説を否定するものではない。ただ少なくとも、飛行機内でのトマトジュースの美味しさの1つの側面にデータを持って証明したはじめてのケースとなった。

 シズクはこの実験を知らなかった。しかし、飛行機内でイヤホンをつけ外ししつつトマトジュースの味の差を感じたことで、仮説として音とトマトの相関は感じていた。もしもあの後で飛行機が無事に飛び続けていれば、彼女はまず真っ先に先行研究の有無を調べ、このコーネル大学の研究論文にも行き着いただろう。そしてその上で、そもそも何故騒音が旨味を増加させるのか、また、抗酸化物質説は本当に勘違いなのかというところまでを含めて飛行機内でのトマトジュースに関して真剣に調べ上げただろう。その研究は論文にまとめればイグノーベル賞を取れるレベルの検証を実現したのだろうが、彼女は論文を書くのをめんどくさがったし、何よりその頃には別の研究課題に興味が奪われていたことだろう。

 さておき、とにかくシズクはトマトジュースが騒音の中で美味しく感じることを知っていた。食神決戦は年に2回のお祭りであり、会場となるコロッセオが大いに盛り上がることは間違いない。そこでの騒音は確実に70デシベルを越える。そして、今日この日に関してはさらなる騒音が予定されていた。それが、自称アイドル、ミャスミャスによるコロッセオの隣でのゲリラライブだった。

「ぶぶぅ……毎回食神決戦の街は大盛りあがりだけど、今日は特にうるさいブー……」

 音を絶妙に外した甲高いアイドルソングを疎ましく思いつつも、ループはうまいうまいと連呼しながらテスタメントの作るカレーをその体内にあるオーク火力発電所の燃料として焚べ続ける。しかし、ループはまだ気付いていない。同時にその喉へ、大量のトマトジュースが流し込まれ続けていることに。

「やっぱテスタメントさんは天才料理人だ! このカレーとかいう食い物は本当に美味い! これさえあれば他の料理にいらんな! もう今年の優勝は決まりでいいだろ!」

 そんなループにつられてテスタメントのカレーのおかわりを連打し続ける観客達。もはや他の皿に手が伸びることはなく、ほとんどの選手達は戦意を喪失し調理の手を止めている。そんな中、シズク達だけが未だにポップコーンを作るために鍋を振り続け、その影でトマトジュースが無尽蔵に供給され続けている現状は、誰の意識にも登らない奇妙な1位への追従だった。しかし。

「……まずい」

 そんな目論見が完全成功している状況で、シズクは明確に焦りを感じていた。それは、このままでは勝てないからに他ならない。確かに料理の供給量は想定以上だが、テスタメントのカレーがその想定よりも遥かに多く供給されている。目算では現状こちらの供給量が上ではあるが、観客の様子を見ればそのリードは最終的な評価で逆転されることが確実だ。
 勝負事において絶対値には意味がない。参照されるのは常に相対値だ。2位の結果がそれまでの世界新記録を遥かに上回っていようが、その時の1位がそれを上回れば、世界は2位の名を記憶しない。いかにシズクの策で成功していようが、彼女の敵が圧倒敵で暴力的とも言えるほどの天才の頭脳なのだ。この状況に、シズクは強い既視感を覚えている。それは。

「史上最年少でのノーベル賞の受賞、おめでとうございます! 綾崎シズカさん!」

 絶対に越えることのできなかった姉の背中だった。
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