クレセントムーンの鼓動

吉高z

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クレセントムーンの鼓動

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夕べの雨は朝方までに大地を潤し太陽の出番を待った。薄青く透き通った空から注ぐ柔らかい光がガラス窓を通して航真の顔に当たる。航真は小さく瞬きを数回繰り返してゆっくりと瞼を開くと、それと同時に焼きたての香ばしいトーストの匂いがジワっと脳を刺激し一気に眠気を取り払った。
「ワンワンワン」
下階でルークが吠えている。ラブラドール特有の太い声だ。トースターがトンと跳ねたのに反応したのだ。木目の階段をゆっくりと踏みしめて降りる航真を見上げながら、ルークはバタバタと長い尻尾を振って迎えた。クラシックの音楽がレコード盤から響き、アナログならではのノイズが時折り心地良く混ざる。航真がルークの背中のフワフワを撫でると長い尻尾が一層左右に揺れた。
五感で感じる朝の風景。そして葵の笑顔がさらに視界を潤した。
「あら、航真、おはよう」
「おはよう、葵。いい匂いがして目が覚めたよ」
「少し早く起こしちゃったかしら」
「大丈夫。トーストの焼けた匂いとクラシックの音楽。それにルークの声で起きるなら文句ないさ」
葵はクスッと笑った。
「航真は朝が本当に苦手なのね」
ダイニングテーブルに置かれた淹れたてのコーヒーが部屋全体に香ばしい匂いを広げていた。
「朝ごはん食べたら散歩に行こうか」
葵に話しかけたつもりだったがルークの方が反応して辺りをウロウロし始めた。
「もう少し待ってな」
航真はルークにそう伝えるとパンの耳をちぎってそっと差し出した。
「ダメよ。パンなんてあげたら太っちゃうでしょ」
葵にバレないようにコッソリしたつもりだったがルークの喜ぶ反応で気づいたらしい。
「じゃ、このあとしっかり運動しような」
ルークは一旦座り直すと航真が食べ終えるのをおとなしく待った。
「このパンはいつもと違うね」
「あ、気づいた?美味しいでしょう。この間、航真の前の職場の後輩くんたちが持ってきてくれたのよ」
「あのときの手土産か。やっぱり都会のパンは違うねぇ」
「手作りのパンだから美味しいのね。私も頑張って焼いてみようかしら」
葵は袖をまくってやる気を見せた。
「それは楽しみだな。お願いするよ」
航真は食べ終わると立ち上がって大きく全身を伸ばした。
「ごちそうさま。じゃ、散歩行くか」
ハーネスはルークがすでに足元に置いて用意している。リードを取り付けるとルークが航真を玄関に導いた。
「私も行くわ。すぐ追いかけるわね」
葵が上着を取りに行っているうちにルークが鼻先で器用に玄関の扉を開けた。すると航真の目に一気に広大な草原の景色が飛び込んできた。その向こうにもさらに大海原が広がり、斜めから射す朝陽が濡れた地面に反射して煌めいている。吹き渡る風に木々と草花の匂いが運ばれてきた。そうだ。航真が開けたのはこの世界への扉だ。あの生活から飛び出したのは3年前だった。

横浜は都会の割りには比較的穏やかな街なので、ともすれば一生住み続けたかもしれなかった。港沿いの街並みもどこか高貴で、そこで暮らす自分までもがその中に溶け込んで誇らしげな気分になれた。そこから離れることになったきっかけはひとつではなかった。航真の勤めていた会社が早期退職を募集したタイミングと航真の田舎暮らしへの憧れが強まった時期が重なった。出版業界も不景気になると社員の雇用を支えきれず会社は早期退職での退職金の増額と継続的な自宅での仕事で月々小遣い程度の給与を保証した。航真は30代のうちに環境の転換を考えていたこともあり、ある日、葵に移住の計画を打ち明けた。葵もずっと航真と田舎で暮らすことを求めていたからすぐに賛同してくれた。
そしてその移住先として探し当てたのがここ千葉県にある小さな田舎町だった。農業が主流で田畑が広がり、近くには雄大な九十九里浜が穏やかな波がリズムよく浜辺に打ちつけている。特に何か縁があったわけでもないが、車で何度かこの辺りを通ったことがあり、海辺に広がる田園風景が航真の生活のイメージにしっくり来ていた。そしてまずはここで戸建て家を借りることに決めた。最初に見つけたのは築三十年の二階建ての小さな一軒家だったが一階のリビングに大きな窓があり、大型のペットが飼えること、そして小さいながらも庭があるのが気に入った。航真はいつか大型犬を飼いたいと思っていた。幼い頃から犬を飼ってきたが大型犬は飼ったことがなかったからだ。仮にその土地で新しく飼ったとしてもそのあとも都心に戻って飼い続けることができるのか、そんなことを考えながらも家探しのときには大型のペットが飼えることを条件に入れていた。とりあえずの三年。期間を決めた移住だった。

ルークとの出会いは航真がここにまずは先にひとりで暮らし始めて一週間が経ったある日のことだった。葵は横浜の家を片付けてから三日後に引っ越してくることになっていた。
その日、航真が朝の空気を入れ替えようと一階の大きな窓を開けようとしたとき、軽トラックが通り過ぎていくのが見えた。荷台に何か黒いものが載っている。ラブラドールだ。どこに行くんだろう。航真は思わず表に出て自転車にまたがり見失わないように車の後を追いかけた。すると、車は古びた建物の前で止まった。建物の周りを見ると柵のついた家畜用であろう広場が隣接していた。運転手がトラックから犬が降ろして小屋の中に連れていった。中からは数匹の犬が激しく吠えるのが聞こえた。しばらくすると運転手と別の男性が出てきた。男性はさっきのラブラドールを広場に放したが、犬はまったく走ることも逃げることもなくその場にしゃがみ込んだ。まるで怯えているようだった。
「ウチでしばらく面倒見よう」
男性はそう呟くとゆっくりと犬に近づいた。航真よりひと回りくらい年上か。ガタイが良く顔は彫りが深くて険しい。犬はおとなしく男性に頭を撫でられると擦り寄って鼻を鳴らした。男性はトラックの運転手に手を挙げて合図すると車はそのまま立ち去った。男性はその様子を陰で見ていた航真に目線を移すと不愛想に話しかけた。
「俺に興味あるのか?それとも犬の方か?」
とっさに質問がきたので航真は少し躊躇いながら慌てて答えを探して声に出した。
「すみません。こちらがどういう施設か、その犬がどういう犬か、あとは…」
「俺がどういう人間か」
図星で聞かれたので航真は頭を下げるしかなった。
「すみません」
「来いよ、教えてやる」
男性はぶっきらぼうの中にも不敵な笑みを見せて航真を小屋の前まで案内した。さっきのラブラドールは変わらず体を伏せながら通り過ぎる航真をじっと見つめていた。
「お前さん、今さら犬は苦手だとか言わないよな?」
男性が扉に手をかけたところで航真に聞いた。
「犬はそこらへんの人間よりずっと信頼できます」
「わかった」
男性はまた不敵な笑みを見せ、扉を開けた。すると一斉に犬たちが大声で吠えた。怒りの鳴き声というよりは親しい者に対して喜びを表すような甲高い声が響いた。中を見渡すと仔犬から成犬までざっと二十頭が柵の間から鼻先を出していた。
「おとなしくしろ」
低くてよく通る声に航真の心臓が浮き上がった。犬たちも吠えるのを止めた。
「よしっ、利口だ」
男性は小屋の隅にある保存用のクーラーボックスを開け、葉野菜と鶏肉を煮込んだような食糧をスコップでバケツと小さな容器に移した。航真はそれが犬たちの餌だとわかった。
「ちょっと手伝ってくれないか」
男性は航真にバケツとスコップを渡すと手本を見せた。航真はそれに倣って餌を振り分けた。
「なかなか手際がいいな。じゃ、質問に答えてやる」
航真はその前に自分から名乗らないと失礼だと思い、まずは自分の紹介をした。
「この町に暮らし始めてまだ二週間なんです。横浜から引っ越してきたんですが、ここの自然と環境がすっかり気に入って、ここから自転車で五分くらいのところに住んでいます。仕事は自宅でエッセイとコラムを書きながら、編集もやってます。それから…」
「大丈夫だ、怪しんでないから」
男性は航真の話を遮るとドスのきいた低い声で笑った。名前は憲造さんと言った。どこか関西の訛りがあるがそれほど強い方言ではない。標準語より少し柔らかく聞こえるが、憲造さんの低音でぶっきらぼうな話し方には威圧感があった。
「悪いが、表にいた黒い犬、ここに連れてきてくれないか」
「わかりました。少し怯えてるようでしたが、どこから連れて来られたんですか」
「そうだな。きっと誰かに飼われてたんだろう。でもかわいそうに、あちこちにアザがある。虐待でも受けてたのかもしれないな。ここはそういう犬ばかりさ。あ、上から近づくと怖がるから目線を低くして話しかけながら安心させてやってくれ。無理に引っ張ってこなくていい。お腹が空いたら匂いにつられて勝手に来るだろう」
航真が尋ねた質問の答えとしては不十分だったが、憲造さんの言われた通りにして、外のラブラドールを小屋の中に連れてきた。
「おお、もう連れてきたのか。大したもんだ。犬によっては二日かかっても中に入ろうとしないのもいたがな。お前さんはずいぶん犬からの信頼を受けてるんだな」
「犬がどこまで人を見極める能力があるかわかりませんが、僕が味方か敵かはわかったのかもしれませんね」
憲造さんが案内したスペースにラブラドールを導いた。犬はおとなしく入るとまずはエサの匂いを用心深く何度も嗅いでそのうちにペロペロと舐め始めた。
「もう大丈夫だ」
犬に話しかけたのか、独り言なのか、憲造さんの言葉は優しかった。
「犬に味方か敵か見分ける能力はある。お前さんの言う通りだ。ただそれがわかっても従うかどうかは犬はさらに慎重だ。犬は人間より利口だが、最後には自分の直感を信じる。見かけとかではなく、心で判断する。本当の嗅覚が鼻から心に繋がっているのさ。人間は見かけによって左右されやすく直感を見失う愚かな生き物だ」
憲造さんの分析にはなぜか重みがあった。どういう人生を歩んできたのか。犬とどんな関わりを持ってきたのか。知りたいことが山ほど出てきた。
「お前さん、その犬を飼ってみないか」
航真は自分の考えていることを悟られたのに驚き、言葉に詰まった。いつかこんな犬と暮らしてみたい。その願いが一瞬で現実になろうとしている。こんな簡単でいいんだろうか。
「大型犬は大変だが面倒の見甲斐があるぞ」
航真は戸惑いながら答えを探した。今は問題ないが三年後また都心に引越したとしたらどうしたらいいのだろうか。ほとんど飼うことが前提での迷いだった。
「飼う自信ないのか。だったら一時的に貸してやるよ。欲しいかどうかはそのあとで考えたらいい」
航真がさらに困った表情を浮かべたので、憲造さんが声を上げて笑った。
「今日連れて帰るか、明日連れて帰るかの違いだろう。たまには自分の直感を信じていいんじゃないか?」
航真は自分の慎重すぎる性格を指摘されたみたいでギクッとした。結局その日のうちに自転車を置いて犬を連れて帰ることになるなんて、今朝は想像すらしなかった。ただ「直感を信じろ」と言われ、まんまとその言葉に乗っかってしまったのだろう。しかし、それも悪くない、無理なら返せばいいんだ。それよりも憧れていた大型犬との生活、それが急に叶ったのだ。喜んで良いのだろう。
その夜、葵と連絡を取ったとき、どう説明するか迷ったが、やはり先に伝えておいた方がいいだろうと一部始終を話した。葵は笑いながら快く受け入れてくれた。
「写真見せてね。動画の方が嬉しいわ。それを見たら名前を考えるから」
「わかった。明日の朝散歩に連れてく時に動画を撮って送るよ」
そして翌朝、葵が動画を見て名前を決めた。
「ルークはどう?」
クンクンと匂いを嗅ぎながら歩く姿が探偵っぽいからだと言う。航真は、そんな探偵なんていたかなって思ったが、響きが良かったので賛同した。
そしてその二日後、葵がやってきてルークとの新しい暮らしが始まった。

葵の荷物をひと通り整理をしてからルークも連れて憲造さんのところに行った。夕方近くにはなっていたが憲造さんもまだ施設にいるだろうと思った。日は傾き始めていたが初夏を思わせる気持ちよい天気だった。ゆっくりと歩いておよそ二十分。葵は航真の少し前を歩いて周辺の景色と空を眺めていた。
「ねえ、空ってこんなに広かったんだ」
「うん。他には?」
「そうね、ええっと、風がまっすぐそよいでる。建物が邪魔しないもの。その風に自然の匂いが運ばれてくる。遠くの鳥の鳴き声が聞こえる。波の音も。日差しがキラキラ眩しい。それと。」
「それと?」
葵は一旦立ち止まって振り返った。
「あなたがいる。ルークも」
二人は見つめ合って笑った。
「望んでいたことが叶ったわ」
「僕もだよ」
まるで自分たちが理想で描いた絵画の中に飛び込んだ気分になりここでの生活の始まりを噛み締めた。
施設が近づくとルークがリードを強く引っ張り大きな声で吠えた。憲造さんを見つけたのだ。
「憲造さん、こんにちは」
憲造さんはちょうど小屋から出てきたところだった。
「お、彼女さんかい?」
葵の存在に気づき、そう尋ねた。
「今日からここで航真と一緒に暮らすことになります。よろしくお願いします」
葵が挨拶すると憲造さんは珍しくニコッと笑みを浮かべた。
「それで、何て名前を付けてもらったんだっけ、お前は」
憲造さんはルークに近づいて少ししゃがんで頭を撫でた。
「ルークですよ。もう三回目ですよ。覚えてやってくださいよ」
「まあ、そんなに怒らないでくれよ。おお、そうだったな。ルーク。外国っぽい名前は覚えられないんだ。横文字は苦手でな。なあ、ルーク」
憲造さんがルークを呼ぶとルークはワンと大きな声で返事をした。
「利口な犬だ。もうすっかり飼い犬になったな。十分立派な番犬になるぞ」
まさかあの日からすぐに飼うことになるとは思わなかったが、憲造さんが背中を押してくれて改めて良かったと思った。航真とルークの相性が良さそうだからルークも航真に飼われるのを望んでいたと言っていた。あの日の出会いにはきっと縁があったのだ。葵もそう言っていた。
「わざわざ俺に挨拶に来てくれたのかい」
「そうなんです。なんせルークの恩人ですから。ルークも憲造さんに会いたがっていましたし。あ、帰るところを引き留めてごめんなさい」
「いや、それがまだ帰れないんだ。今日も新しい犬が来たところなんだが。ちょっと見てくれるかい」
憲造さんはそう言って小屋の扉を静かに開けた。秋田犬のわりにはそれほど大きくはない白い犬が横たわっている。
「寝てるんですか。具合が悪いんでしょうか」
航真が様子を見ながら心配そうに呟いたが、葵がすぐに異変に気づいた。
「お腹に赤ちゃんがいるのね。今にも生まれそう」
そういえばお腹が膨らんでいる。犬は人目があると出産をためらう。だから憲造さんは小屋を離れてその犬を見守っていたのか。しかし犬はこちらの存在には気を留めず出産を試みようとしていた。
「この犬は相当体力が消耗している。もともと栄養失調だったのだろう。細い首輪の痕があるんだが、小さい頃に着けられた首輪のまま成長したんだろう。保護されてから首輪を切ってやったが首の周りに食い込んだ痕が残っている。誰かに飼われて迷子になったのかそれとも捨てられたのか。それでも今は頑張って子供を産もうとしている。出産に最期の力を振り絞っている。自分が死ぬかもしれないことを恐れずに」
手足は痩せ細っているのにお腹だけが大きく、尻尾から後ろ足あたりに出血が見られた。
「母犬も子供も両方救えないかしら」
葵が航真の腕に手を掴んでギュッと力を入れた。憲造さんは首を横に振ると葵をなだめるように言った。
「ここは人間の手を加えるべきではない域だ。母親が子供を産んで生命が受け継がれていく。自然界でこんな美しいことはない。使命を全うしようとする親の思いを尊重して無事に子供の誕生を祈ろう。せめて何匹産めるか見届けてやろう」
航真はその様子をただじっと見守っていた。葵も憲造さんの言ったことを理解して母犬を見届けていた。
仔犬のか細く発する声が聞こえてから母犬が息を引き取るまでにはそう長くはなかった。母犬は産まれた仔犬の顔を何度か舐めると乳に導いた。量はないのだろうが、仔犬は母親のすべての栄養を集めた母乳を残さず吸収するかのように飲み尽くした。そして母犬はそのまま眠るようにこの世を去った。お腹にはまだ数匹の命が宿っていたようだったが、残念ながら一匹しか産み出すことはできなかった。三人もただ尊い命の継承を見守るしかできなかった。
航真たちは海岸線が見える高台まで向かい、亡くなった母犬を埋葬した。静かに手を合わせ成仏を祈る中、仔犬が鼻を鳴らす声だけが響いていた。
「今や毎月に何匹もの新しい犬が運ばれてくる」
憲造さんがおもむろに呟いた。
「あの小屋の中には十八頭の成犬とさっき生まれた仔犬が一匹となった。正直あれ以上の収容は無理だ。スペースの問題、餌代、管理。頑張ってるつもりだが、ひとりでは限界があるし中途半端に面倒を見るわけにはいかない。世間に知ってもらうのも難しいし、成犬ともなればますます引き取っていく人たちはいない。施設内で交尾したりしてまた増やすわけにもいかないから獣医に虚勢手術をお願いするが、時々さっきの母犬のように妊娠した犬も運ばれてくる。今まで受け入れを断ってきたことはないが、なんとか引き取り先を探していかないといずれは断らないといけなくなる。他にどこかの施設が見つかればいいが、そうでなければその犬の運命はどうなるのかと思うと頑張って預かってやりたくなる。無責任な飼い主がいなくならない限りイタチごっこよ。それでも犬は自分で運命を決められるわけじゃない。ここに来るまでに自分の命は終わったと思ってる犬もいるんじゃないか。だから最期までしっかり面倒見てやりたいんだ。ここに来てもこの先の幸せを味わせてやりたい」
高台から見える夕焼けが綺麗だった。逆光で憲造さんの表情がわからなかったが、母犬が死んだ悲しみ以上の何かを背負っているような気がした。この人は本当に心優しい人なんだと思った。航真と葵は憲造さんに会釈をして家に戻った。

あまり食欲が湧かなかったが食べないわけにいかないと、昼間に煮込んでおいたシチューをあたためるとルークが鼻をヒクヒクと動かした。クラシックをかけて気分を入れ替え、二人の新たな生活の一歩に乾杯をした。もちろん犬たちの話題が多かったが、レコードを何度かひっくり返しているうちにワインも2本を軽く開けてしまった。床でとぐろを巻いていたルークもすっかり本格的に眠りこくっていた。
「軽く外の風に当たりに行こうか」
航真が葵に提案した。
「今から?」
「そう。夜の空気も知ってほしいからね。ここは夜は本当に真っ暗だよ」
「ルークも連れて行く?」
「ううん。今夜は二人で行きたい。それと、ちょっとこれを被ってくれるかな」
航真は葵に麦わら帽を差し出した。
「どうして?日差しもないのに」
「いいから、いいから」
強引に葵の頭に載せると航真はこう付け加えた。
「それから、もういいよって言うまで空を見上げないでくれる?」
葵は一瞬きょとんとしたがなんとなくその意味を勘づいていた。
「わかったわ。足元だけ気をつけて歩くわね。その代わりちゃんと引っ張ってね」
ルークの頭を撫でて留守番をするように告げると上着を羽織って外に出た。航真は葵が上を見ないように気をつけながらゆっくりと潮風の吹く方へ導いて十分程度歩いた。
「じゃ、そろそろ帽子を取るよ」
航真が葵の帽子をそっと取ると葵は髪をパサパサと振ってゆっくりと空を見上げた。葵は一瞬平衡感覚を失ってよろけそうになったのを航真が支えた。
「このまま座ろうか」
葵は足元を確かめてしゃがみ込むともう一度空見上げた。
「うわっ、すごいわ」
葵が見上げた頭上には無数の星たちが散らばっていた。広大な夜空というキャンパスに、赤、オレンジ、青、白、緑の大小の光が黒い隙間を埋め合っている。平面のキャンバスというより立体的な空間に七色の光が点在している。手を伸ばせば届きそうなところにも迫っている光もある。
「まばゆいってこういうことね。星ってこんなにいろんな色を持ってたんだ。無数にある。夜なのに空の奥行きまでわかるわ」
「もともと星座はあまり詳しくないけどこれだけ明るいんじゃどれとどれを結んだら星座になるのかわからない。あの川のように太く見えるラインが天の川かな」
航真が指さしながらそう話しているうちにキラリと光が流れた。ひとつではなく、またひとつ。そしてまたひとつ。
「葵、見えてるよね」
「ええ。見えてるわ」
ちょうどこの日は新月で星の光を邪魔する明かりがないのではっきりと見えた。
「昔、母が言ってた。亡くなった命は星になるんだって。高い空から生きてる人たちを見守る。そして、流れ星は新しい命になって地上で生まれ変わる。さっきの母犬は星になって輝きながら仔犬を見守っている」
航真の言葉を聞きながら葵はずっと空を見上げて命の儚さと尊さを感じていた。
「この星のどれかがあの母犬なのね。そして仔犬の光が流れた。あの母犬のこと忘れないわ。明日、あの仔犬に会いに行きたい」
航真は黙って頷いた。
「朝、憲造さんのところに行こう。僕らもあの仔犬をちゃんと見守っていこう」
葵は航真にもたれかかってまた星空を眺めた。
「そういえば今夜は月は出てないのかしら」
航真は葵の方を向いて空を指した。
「あの辺り、星が見えないのわかる?」
「あ、ぼんやりと丸いのがあるのがわかるわ」
「そう。ちょうど月に星が隠れてる」
キラキラと輝く星々の中に黒く浮かび上がる新月も美しかった。
「葵、新月の願い、覚えてる?」
「もちろんよ。満月には感謝を、新月には誓いを、その瞬間にずっと二人で伝え続けてきたわ」
航真は葵の手の上に自分の手を重ねると、今日は一緒に新たな誓いを伝えようと言った。
「新月って生まれたての月だからここから育ってやがて丸みを帯びて満月になる。その間、ずっと月は僕たちを見守り続けてくれる」
「新月はクレセントムーンね。そこからだんだんと成長して大きくなる。そのたびに私たちの願いも育ててくれたのね。私、航真とのこんな素敵な暮らしを夢見てきたわ。あの月が叶えてくれたのね」
二人は手を握り合って空を見上げてた。そして、目をつむって心の中で新たな誓いの言葉を唱えた。
「ここで二人で幸せに生きていく」
それからどれくらい経っただろう。しばらくの間、二人は宇宙の中のひとつの景色になっていた。どの星と比べてもそれより小さい二人の存在だが、確実に強く輝き始めていた。航真が葵の肩を抱き寄せると葵は首を傾けて航真に寄りかかった。葵の頬から航真の肩に涙が溢れ落ちた。葵の体温が残っていて温かかった。航真には葵の涙の意味が理解できた。単なる悲しみとか悩みとかではなく、もっと自然界にいる人間的なものから溢れだした感情なんだと思った。流れる星が何かに生まれ変わるように葵の涙からも新しい感情が生まれたのだろう。
帰り道も二人は時折空を見上げては流れる星を指さしていた。また生まれくる新しい命。そしてそれを見守る無数の星たち。航真も葵もここに来て、これまで見えなかった何かが初めて見えた気がした。この景色は二人が知らなかっただけでずっと昔からここにある。日常生活以外にも生きる希望と目的がここにはあるように思えた。
家に着いて玄関の扉を開けると目の前にルークがちょこんと座っていて尻尾を大きく揺らして出迎えた。葵は靴を脱ぎ捨てると吸い込まれるようにルークを抱きしめた。ルークはおとなしく気持ちよさそうにそれに応えていた。

真っ新な月生まれやがて光で満ちる
そして影で覆われ、また新しく生まれ変わる
その繰り返しの中で人は時間の流れという概念を作り死を未来のゴールにしてしまった
しかしその未来の先にもまたさらなる未来があり、生まれ変わる瞬間をゴールにすれば生と死を受け入れることができる
夢も希望も誰かの心の中で生死を繰り返しながらその光と影を演出し続ける
クレセントムーンがそう語っている


翌朝、航真は外の物音で目が覚めた。バシャバシャと屋根が叩かれるような強い音。雨だ。昨夜はあんなに晴れていたのに、ここに来て初めての雨だ。古い家だけに雨漏りが少し気になった。航真は一階に下りると葵が床を拭いていた。案の定だ。
「どこの屋根から漏れてる?」
葵は航真に聞かれてそのままの姿勢で答えた。
「おはよう。すごい雨ね。あ、これ、雨漏りとかじゃないわよ。ルークが水入れを蹴飛ばしたの。こらっ、ルーク、ダメでしょ」
葵は雑巾に戯れてくるルークを優しく叱ると手を洗って朝食の支度を始めた。航真はあんなに雨漏りしてたら大変だったなと思いながら辺りを見回した。今のところ大丈夫そうだった。ルークが濡れた床の上をバシャバシャ走り回ってたのか。体がビショ濡れになっていた。
「朝食まで時間があるならルークを洗ってやろうと思うんだけど」
「あら、お風呂入るの?」
「そうだね。風呂場で洗って乾かしてやりたい」
葵は卵を焼き始めようとしていたが一旦火を止めて航真とルークを待つことにした。
「いいわよ、お願いするわ。でも大丈夫かしら」
ルークは意味がわからず首を傾げていたが、お構いなしに航真は風呂場まで引っ張って行った。
「犬は水が好きだから大丈夫だよ」
航真の声の直後にシャワーの音が聞こえたかと思うと、ルークが驚いたように吠える声が続いた。ルークは水が嫌いなのかしら。葵はルークの生い立ちがどんなものだったのか想像していた。
「ルーク、体拭かなきゃダメだろ。こっちおいで」
葵がルーク専用のタオルだと大きめのバスタオルを下ろした。ブルブルとルークが水気を払う仕草に二人と顔を覆った。葵がルークをなだめながら背中あたりから拭いてやった。航真も葵もルークが立てる水飛沫でびしょ濡れになった。葵はその姿が滑稽だから写真を撮ろうとスマホを向けた。ルークもポーズらしい格好で一瞬止まったが写真を撮り終えると再び全身を振るって水気を払った。
「ねぇ。ルークって耳も少し欠けてるけど背中にわりと大きめな傷跡があるのね」
「そうなんだ。僕もさっき洗ってる時に気がついたんだけど、切られたみたいな痕だね」
葵がそのあたりに触れないように優しく今度は顔の周りを拭った。
「ルークってどこから来たのかしら。どんなふうに暮らしてたんだろう」
航真は自分の濡れた足をパタパタと拭き取りながら答えた。
「歯の具合から2歳くらいじゃないかって憲造さんが言ってた。それまでは市の保健所にいたらしい。住宅地を現れたりしてたのを保護されたみたいだよ。誰かに飼われててはぐれたのか、逃げ出したのか」
葵はたぶんそうなんだろうと思って納得した。ただそれ以上は詮索したくなかった。何か悲しい生い立ちがあるような気がしてならなかったからだ。
雨の音が小さくなったので外の様子を見ようと航真が玄関の扉を開けたとき、ドーンと大きな雷の音が響いた。どこか近くに落ちたのか。葵も驚いて耳を塞いだ。が、その瞬間、突然ルークが外に飛び出してしまった。
「ルーク!」
航真が大声を上げて呼び止めたがルークは勢いよく駆け出して一目散に海岸の方へ向かって走って行った。航真は自転車にまたがり急いでルークを追いかけた。ただでさえ歩きにくい草原は雨でぬかるんでいたので自転車でもうまく進めなかった。
「ルーク」
何度も呼んでみたが一向に戻ってくる気配はない。葵も航真の後を追いかけたがルークの姿はどこにも見当たらなかった。
「まずいことになった。犬は雷が嫌いで家から飛び出してしまう話はよく聞く。ルークが事故にでも巻き込まれなければいいが」
葵も心配しながらルークの名前を叫び続けた。
「もしかしたら、家に帰ってるかもしれないわ。今帰ってなくてもルークならちゃんと戻ってくるわよ」
ゴロゴロと雷はまだ鳴っていた。
「かわいそうに。怖がっているんだろうね」
「そうね。でも、あの子なら心配ないわ。ちゃんと無事に戻ってくる」
航真は自分の不注意を慰められている気がしたが、本当にルークのことが心配になった。そして家に戻ってもルークの姿はなかった。
「やっぱり戻ってないか」
航真は気を落としたがじっと待ってはおられず、もう一度探しに行くと葵に言った。その時、遠くの方からルークのような声が聞こえた。
「ワンワン」
航真は驚いて葵と目を合わせた。
「ルークだ」
「ルーク、ルーク」
叫びながらルークの方に駆け寄ると、ルークを連れてきてくれた女性が話しかけてきた。
「やっぱり、あなたたちの犬なんですね。ルークって言うんだ」
女性は二十歳くらいだろうか。時折り敬語を混ぜた口調で話を続けた。
「憲造さんと言ったらわかりますか。あそこに今日からお世話になってるというか、あそこを手伝うことになったんだけど、そしたらあの小屋に急にこの子が飛び込んできて。憲造さんがこの家の人が心配してるだろうから返してあげるように、と」
「そうだったんですね。ルーク、お前、憲造さんのところに行ってたのか」
航真はルークの頭を優しくポンポンと叩いて女性に御礼を伝えた。
「ありがとう。憲造さんに謝らないと」
女性はルークからリードとハーネスを外してルークを航真に受け継いだ。
「では私は戻るので」
「本当に助かりました。憲造さんにも宜しく伝えてください。気をつけますと。ところであなたは憲造さんのところでお手伝いをって言ってました?」
「そう。ある人から紹介されてあの施設で働くことになったの。あ、美晴と言います」
「美晴さん。僕は航真、こちらは葵です。また近くお会いできると思います。お気をつけて」
航真たちは美晴を見送ると美晴は軽く会釈をして去っていった。少し見えなくなる距離になった時、美晴はポケットからタバコを取り出して火をつけて吸い始めた。うっすらと煙が上がったのが見える。二口くらい口につけると反対側のポケットから吸い殻ケースを取り出してそこに入れた。航真はルークを中に入れてもう一度足を洗って拭いてやった。
「ごめんな、雷が怖かったんだろう。もう逃さないからな」
ルークも戻ってきてときには雷も雨も完全に止んでいた。不安が消えて気持ちも落ち着いたので、葵は昨日の仔犬を見たいと言った。そして午後から憲造さんのところに行くことにした。その前に少しだけ葵が作業をしたいと言ったので航真もやりかけの仕事をしながら葵を待った。ここにきてエッセイを書く航真の指がスラスラと滑る。
昼を食べてから出かけることにしようとパスタを茹でた。この辺りの野菜が美味しいのでパスタにもよく合う。その食事中に葵からある提案を受けた。憲造さんの役に立ちたいと思っていたから航真はそれは名案だと賛同した。後は憲造さんが了承してくれれば。食器を片付けて支度をしルークが勝手に外へ出ないようにしっかりと鍵をかけて出掛けた。
憲造さんは小屋のゴミを袋に移しているところだった。
「憲造さん。さっきはすみません。ルークが雷に驚いて飛び出してしまって」
「おお。犬は雷と地震を恐れて、一瞬、気が狂うというか興奮状態になる。そういう日は事故に巻き込まれることも多いから注意しないとな」
改めてお叱りを受けたように感じて航真は恥ずかしく思った。
「心配いらない。ルークなら大丈夫だ」
憲造さんがすかさずフォローしてくれた。
「葵もそう言ってくれました。でも今後は気をつけます。あ、そういえば、やっとルークの名前覚えてくれましたね」
憲造さんはふと笑って美晴を紹介した。
「今日からここで手伝ってもらう美晴だ。さっき会ったならもう紹介はいいか」
美晴はペコリと頭を下げて挨拶した。
「美晴さんはこういう仕事が好きなのかな。犬は好きそうだけど、トリマーとか飼育員とかを目指して?」
葵に聞かれて美晴が答えに戸惑っていると憲造さんはそれを遮るように、お茶でもどうだと聞いてきた。何か事情がありそうなのを葵も悟ったのかお茶は自分が入れると言って美晴を誘って炊事場に行った。そして四人がお茶を飲み始めると葵は例の提案をしてみることにした。
「あの。もしよければなんですけど」
葵はノートパソコンを取り出すと画面を開いて説明を始めた。
「本当に勝手に考えたことなので余計なことであれば却下してください。私、こういうの得意というか好きなので試しに作ってみたんです」
開いた画面はホームページのようなもので、そこには「ケンゾウケンネル」と書かれていた。いろいろな種類の犬のイラストの下には名前が書いていあり推定年齢や特徴も書かれていた。
「これはこの小屋にいる犬たちのことだな」
憲造さんは食い入るように画面を見て葵に尋ねた。
「そうなんです。本当であれば写真を撮らせてもらってここに掲載し、皆に名前もちゃんとつけてあげたいと思ってるんです。ホームページに憲造さんの連絡先を書いておけば見たいと思う人にはいつでもここに見に来てもらえるのではないかと思いまして」
「なるほど。これまでは業者が間に入って需要がありそうならその犬を持って行って、飼い主が見つからなかったらまた戻しにくるというやり方だった。でも、この方法なら引き取り手が見つかるのが少しでも早いかもしれない」
憲造さんは自分ではこんなことできるわけなかったがたった一日で葵がいとも簡単に作り上げて持ってきたことが信じられないと言って、驚いた顔をした。
「ではこれ完成させていいですよね」
葵が聞くと憲造さんは返事をする前にありがとうと言った。
「もちろん、相手と時間を合わせて動画で犬たちを見せることもできるし、飼い主が決まったらその後の様子をこちらにコメントも載せて届けてもらうこともできます。あの、美晴ちゃん、こういうのってできそう?もしできなくても、写真を撮ってそれぞれのワンちゃんたちに名前をつけてあげましょうよ」
美晴は機械は苦手なんだと伝えながらもどこか嬉しそうだった。自分の役割が増えたことも、ここの犬たちが表舞台に出られるような気持ちになれたことも素直に嬉しいと思った。
「ではお願いね」
葵は早速デジタルカメラを美晴に渡して一緒に写真を撮りに行こうと誘った。憲造さんは少し表情が緩んだように見えたが、それでもしばらくすると元の難しい顔に戻った。葵たちが写真を撮っている間、憲造さんは少し美晴の話をしてくれた。十九歳の美晴はある事件で逮捕されて今は執行猶予中だという。付き合ってた男性の腹をナイフで刺し怪我を負わせていた。男性と言ってもヒモみたいでろくでもない男だったらしいが。憲造さんは知人の刑事からここで美晴の面倒を見て欲しいと頼まれたという。もしかしたらそのヒモ男が美晴に仕返しに来るかもしれないと脅されながらも憲造さんは引き受けることにしたのだ。
「美晴はとても素直で犬の世話が大好きなんだ。一目見てわかった。刑事からは聞かされなかったがよほどの事情があっての事件だったんだろう」
憲造さんの直感が素性のわからない美晴の行動を許して受け入れている。
「そうだったんですね。そんなふうには見えないですし、僕も美晴さんは立ち直ると信じてます」
航真は自分らしくないことを言っていると思った。まだ数分しか会話もしていないのに自分がそんなことを言うなんて。でもそれは航真の直感だった。
「だといいがな」
憲造さんはそう言うと立ち上がった。航真が憲造さんの視線の先を見ると小さなトラックがやって来たのが見えた。届けられたのでは犬ではないく何か荷物のようだ。
「ご苦労さま。そっちへ運んでくれ」
布団や衣類のようだった。
「今日から美晴もここで寝泊まりすることにする」
憲造さんはそう呟いて美晴の方を見た。
「あの子をちゃんと更生させねば」
葵と美晴が紙を持ってきてこちらに示した。紙には犬の名前がズラリと書かれていて、デジカメの写真と照らし合わせた。
「生まれたばかりの白い仔犬はバニラ。この尻尾が丸々してるのはホルンね。それから小さくて茶色いのはコルネでしょ。黒くて上品な顔立ちのこの女の子はアゲハ。そしてこっちの耳がピンと立ってるのがリボンよ。それから…」
葵の説明が続く中、憲造さんも航真も名前をつける早さと的確さに驚いていた。
「美晴ちゃんも私もなかなかセンスあるでしょ」
美晴はそう言われてまんざらでもない顔をした。
「じゃ、あとはホームページのデザインも仕上げとくね。明日の朝には完成するから、一気に問い合わせが来るかもよ。憲造さんも美晴さんも覚悟しといてね」
さすがにそううまくはいかないだろうと憲造さんも思ったが、葵の気遣いとアイデアに感謝した。
「ありがとう。どんな飼い手が来るのか、ちゃんと見定めた上で引き渡したい」
憲造さんは厳しそうな顔をした。葵はパソコンを開いて美晴にホームページに作り方とそこに書くブログの編集の仕方を教えた。
「苦手意識を捨てることが大事。機械なんて指示通りに動くんだから人間の方がはるかに優れてるのよ。やってみる?」
美晴は戸惑いながらもキーボードに触れた。文字を打つ指はたどたどしかったがだんだんと慣れてきて要領を得ていった。
「イラストは無料のものがネットに上がってるからとりあえずそれを使いましょう。そうだ。ここのスタッフとして憲造さんと美晴さんの写真も載せましょう」
葵が美晴の写真を撮ろうとすると憲造さんが声を荒らげた。
「やめてくれ。いや、我々の写真はやめておこう」
航真はすぐにその意味がわかった。
「葵、そんなに急ぐ必要ないよ。とりあえず犬たちだけにして、あ、そうだ、ルークを管理人としておこう。ルークの写真ならそのカメラに入ってるだろ」
葵は憲造さんが止めた理由がわからなかったが航真の言う通りにした。
「あるわ。じゃ、これを入れておくわね。とりあえずこれでいいわ。あとはやっておくわね」
航真はこれで帰ろうと言った。二人に会釈をしてそこを離れた。
家に帰るとルークがよく眠っていたので航真は仕事の続きをした。葵はホームページを仕上げにかかった。一度同時に手を止めたとき、美晴の抱えている事情を航真が葵に伝えると葵は理解して自分の行動が軽率だったと反省した。
「気にすることはないよ。良かれと思ってやったことだし憲造さんも葵には感謝しているはずだよ。それにこれからもっと感謝することになるよ」
葵は頷いたが自分のしたことが余計なことだったのではないかと少し不安になった。それでも犬たちの飼い主が見つかることが皆にとって良いことだと思い直してまた作業を続けた。
そしてその日の間にホームページを完成させ、翌日の朝、二人に見せに行った。
「昨日はキツい言い方をしてすまなかったな」
憲造さんは葵に謝った。
「いえ、私の方こそ軽率ですみませんでした」
「ところで、できたのかい」
葵はうなづくとパソコンを開いて憲造さんに見せた。
「こいつはすごいな。美晴にも見せてやりたい」
「なぁに?」
美晴が寄ってきてパソコンを覗き込んだ。大きな目をさらに見開いてじっくりと隅々まで観察して、すごいと驚いた。
「このパソコン、ここに置いていくわ。このホームページの管理とブログの更新は美晴さんにお願いするわね。ブログのコメントはルークが話しているように見えるから安心してね。もう一度やり方を説明するわね。これ、ここで使って」
葵はパソコンを美晴に差し出した。
「いいのかい?」
憲造さんが聞いてきたのに対して航真が答えた。
「いいんです。パソコンは僕は会社から支給されているのを使ってますから葵は自宅のもう一台を使えます。それは是非使ってください。あの、それで、その代わりと言ったら何なのですが、お願いがあるんです」
「何だ。ここまでしてもらって、俺が聞けることならなんでもいいぞ」
航真は口角を吊り上げて目尻を下げた。
「この施設のこと、エッセイに書かせてください。もちろんこの通りではなく脚色はします。あくまでもここを舞台に書きたいんです」
憲造さんは珍しく笑顔を見せた。
「書いた文章を楽しみに読ませてもらうことにするよ」
航真はさらに口角を上げて大きくうなずいた。こうして航真の仕事の題材が決まった。

縦に細長く薄っすらと光る三日月
丸みを帯びたその明かりからは
ほんのりとした温かみが放たれる
生命が誕生したばかりのような小さな鼓動が聞こえるようだ
その微かな光は
悲しみと寂しさの中で寄り添い合い不安に怯える者たちの心を照らす
運命か死への絶望か
弱者たちの心に
せめてものの火を灯すことを祈る
どうかへすべての者を安堵と至福へと導いてくれ



ホームページを開設して一週間が経ったある日、ブログにコメントが届いた。
「私の五才の息子がバニラちゃんに興味を持ってます。見に行ってもいいですか」
やはりまずは仔犬に声が掛かった。「見に来るのは構わないが相手をしっかりと見極める」と憲造さんが言ったのを美晴が航真たちの家まで伝えに来た。母親とコメントのやりとりをして早速今日の午後にも見に来ることになったようだ。
「じゃ、その頃に僕らもそちらに行くね。ぜひ立ち会いたいので」
美晴を見送った後、昼食を済ませて出かける航真たちは支度をした。葵がルークの頭を撫でて「行ってくる」と告げるとルークはおとなしく体を伏せた。朝の散歩も終わってひとり静かに昼寝をするのも悪くないのだろう。
「どんな人が来るのかしらね。ドキドキするわ」
葵はまるで自分ごとのように、飼い主になる人が良い人だったらいいなと願っていた。
憲造さんのところに着くと小屋の入り口に表札のようなものがかかっていた。薄い板の上に黒の筆文字で「ケンゾウケンネル」と書かれていた。まるで格闘技の道場を思わせるその雰囲気に二人はクスッと笑ってしまったが葵は嬉しかった。
「ちょっと横文字も入ってるけど、ちゃんと名前使ってくれたのね」
バニラの新しい飼い主の候補者はまだ現れてなかった。「そろそろだと思う」と憲造さんが言ったとほぼ同時に車のエンジン音が近づいてきた。音の方に目をやると白色の外車っぽいセダンがこちらに向けて走ってくる。航真たちが立ち上がって注目していると車は小屋の前で荒々しく止まり後部座席から男の子と母親が降りてきた。
「こんにちは」
美晴が迎えると母親は被ってた帽子をさらに被り直して会釈した。男の子はまっすぐにドッグランの方に向かって走り出し、「犬だ、犬だ、いっぱいいるー」と無邪気に声を上げた。
「ワン、ワン、ワン」
ドッグランにいた犬たちが男の子に向かって一斉に吠え始めたため、驚いた男の子はお尻から地面に転んだ。大声で泣き始めたのですぐに母親が駆け寄って抱き上げてヨシヨシとなだめた。
「やれやれ。写真の仔犬はどれかしら」
辺りを見渡して探していると美晴がバニラを抱えて連れてきた。
「ああ、この仔ね。小さくていいわ。健康そうだしおとなしそうね」
美晴は「まだ生まれたばかりでとっても柔らかいんですよ」とバニラを母親に渡そうと持ち上げたとき、母親は拒絶するように避けた。
「ちょっと、服が汚れるじゃない。箱か何かないの?」
この言動に航真も葵もギョッと驚いた。美晴はあわや落としそうになったバニラをしっかりと抱え直した。
「ねぇ、箱とかないの?カゴでもいいわ。引き取りに来たのにそんなのも用意してないの?」
美晴は少し動揺しながらも周囲に何か入れるものはないか探した。
「時間もあまりなくてよ。早くしてよね。それから狂犬病の注射はしてあるわね?噛んで病気になったりしないわよね?ちょっと臭いがキツいのなんとかならないかしら」
母親はかなり苛立ちながら言ったが、美晴は言うことを聞こうとバニラを一旦地面に置いて濡れタオルで拭こうとしていた。
そのときだった。その様子を一部始終見ていた憲造さんが立ち上がって母親のそばに歩み寄ると無表情のまま低い声で言った。
「あんたはもういい。失格だ。帰ってくれ」
母親に背を向けると美晴に体を拭くのをやめさせた。
「この子にはまだ母犬の匂いが必要だ。拭き取っちゃいかん。それから狂犬病の注射なんてもっと成長しないと無理だ。どっちにしろ今日引き渡すなんて早すぎるし、今日のところは帰ってくれ」
何か揉め事が始まったのに気づいた父親が車から降りてきてこちらにやってきた。
「おい、何やってんだよ。犬一匹になんでこんなに時間をかけてるんだ。早く連れて帰るぞ」
父親が美晴からバニラを取り上げようとしたとき憲造さんが父親の腕を掴んで後ろ側に捻った。
「イテテ。何すんだよ」
憲造さんはさらに力を入れ直して低い声のボリュームを上げた。
「帰れと言ったんだ。あんたらにはあの子は渡さん」
父親が腕を振り払って痛みを堪えながら激しく吠えた。
「なんだよ。せっかく引き取ってやろうとわざわざ来たのにその態度か。もっとありがたいとかねぇのかよ」
怒鳴る父親の顔に憲造さんは自分の顔を近づけて最大級の音量で言い放った。
「子供と嫁さんのしつけもできないやつに犬を飼う資格はない。犬たちの方がよっぽど秩序をわきまえてる。なんならあんたらもここで躾けてやろうか。小屋の隅っこか外にしかスペースはないがな。それが嫌だったらもう二度と来るんじゃねぇ」
憲造さんのこんなに怖い顔は初めて見た。とんでもなく迫力があった。さすがに相手も怖気づいたのか慌ててその場から立ち去った。車はあっという間に小さくなって視界から消えていった。一瞬の出来事だった。
しばらく空気が凍ったが、沈黙をやぶるように憲造さんが呟いた。
「あんなやつらに渡してたまるか。この子らにだって幸せに生きる権利はある。それを邪魔するなら俺は鬼にでもなるさ」
美晴はバニラを抱えて優しく体を撫でた。葵は憲造さんの怖さではなく優しさに触れて笑みがこぼれた。航真は憲造さんの方に近づいて一度唾を飲み込んで口を開いた。
「大声を出したから喉が渇いたでしょう。軽く飲みませんか」
憲造さんは体から力を抜いて大きく息を吸い込むとため息のように一気に吐き出した。
「悪霊退散」
そしてようやく笑った。
「俺は酒は飲めんが、厄除けにはたまにはいいだろう」
美晴はまだ未成年だからダメだと言われたが多少は飲みたいと言ったので今日だけは許してもらった。訪問客の第一号はハズレだったが業者に任せていたら間違いなく今の家族のもとに渡っていただろう。そう思うと憲造さんも美晴も葵に感謝した。葵は複雑な思いから少し解き放たれた気がした。
「またお前の良い主人を見つけてやるからな」
憲造さんは美晴の腕に抱かれたバニラに話しかけた。皆が憲造さんの温かさを分かち合っていた。

しかし、その三日後、とんでもないことが起きた。ケンゾウケンネルのホームページへの書き込みが絶えなかったのだ。
“偽善者が暴言で優しい人の心を踏みにじった“
“こいつらには動物を飼う資格がない“
“凶暴な犬が子供を襲って大怪我をさせた“
「なんだこれ。誰が一体」
四人がパソコンの画面から顔を上げたとき同時に同じ顔ぶれが浮かんだ。あの家族か。それに加えてこの書き込みに面白がってコメントする者も後を絶たなかった。炎上している。
“こんな施設壊してしまえ“
“誰も犬を引き取りに行くな“
“哀れな犬たち。ここで最期“
「ひどすぎる。誤解なのに」
美晴はすぐにこのコメントに反論を書こうとした。葵は削除した方がいいのではと提案した。航真は反論や削除よりちゃんと説明が必要じゃないかと促した。
「放っておけ」
憲造さんが口を挟んだ。
「そうやって面白がって書き込むやつらはすぐに飽きる。削除したり反応すると付け上がってますます広がるだけだ」
三人ともそれもよくわかっていた。だが反論もしないことが悔しくて仕方なかった。これから優しい飼い主に出会うチャンスもあったかもしれない。その飼い主の候補がこのコメントを読んだらその機会さえ失ってしまう。
「悪いが俺が撒いた種だ。今回は俺に免じてしばらくこのままにしておいてもらえないか」
憲造さんがこう言ったらもう誰も何も言えなくなった。
「わかりました。ただしあまりにひどい書き込みがあったら私が許さないわ。大事なワンちゃんたちの運命がかかってるもの。ここを潰されるのを黙って見ているわけにはいかないから」
葵は本当に悔しそうだった。その気持ちは美晴も航真も、そして憲造さんも同じだった。
夕方に来る予定だった別の者からキャンセルの連絡があった。きっと書き込みを見て疑心暗鬼になったんだろう。それも仕方ない。葵はパソコンを閉じて空を見上げた。
「綺麗な空。こういう景色を見てると人間が小さく感じる。こんな素敵なところに来たのにネットの汚い世界を持ち込んだみたいで申し訳ないわ。うまくいくと思ったのに。本当にごめんなさい」
葵が涙を浮かべながら謝った。
「お前さんが悪いんじゃない。悪いのは誰だか明らかだろう。澄んだ心は汚されても染まることはない。心は清いままだ」
意味深い言葉に美晴が微笑んだ。
「そうやって私にもよく言ってくれたよね」
美晴はバニラを優しく撫でていた。バニラは気持ち良さそうに居眠りをしていた。美晴は葵にバニラを差し出した。葵はぐっすり寝ているバニラを起こさないようにそっと受け取った。
「犬は寝ている時も仕事をするのよ。人を癒すという仕事。体を撫でたり背中の匂いを嗅いだりすると人は癒されるでしょ。あったかくて柔らかくて。私も何度も救われてきたわ。だから私はその御礼としてたくさん世話をする。いつもありがとうって伝えるわ」
葵は「そうね」と言って美晴に尋ねた。
「美晴ちゃんはいつから犬を飼ってたの?」
「小学生の頃、学校の帰りに拾ってきた犬がいたの。ペロと名付けて、ひとりっ子だった私はペロを弟のように可愛がったわ。私、髪の色が生まれつき茶色いことでクラスの子たちからいじめられたの。よく泣いて帰ったらペロが慰めてくれたわ。背中を撫でてギュッと抱きしめて匂いをたくさん吸い込んだら一気に嫌なことを忘れられた。ペロからの愛情をいっぱいもらったみたいで私もたくさん返した。ありふがとうって言いながらご飯をあげたり散歩に行ったり。とっくに亡くなったけど今もここにいるの」
美晴は手を胸に当ててペロの存在を示した。葵も航真も幼い時から犬を飼っていて、亡くしたことを経験していたからその気持ちがよくわかった。今でも自分たちの胸の中に存在している。
「高校の頃、突然死んじゃったの。原因はわからないままだけど老衰にしては少し早かった。私が心臓の病気になってしばらく入院して家から離れてる間に。私は母を責めたけど本当に原因がわからなかった。ただ、ペロが亡くなって私の心臓は何事もなかったかのように元気になったの。一生病院で過ごさなければならなかったかもしれない重い心臓病がその翌日に急に治ったの。ペロが命と引き換えに助けてくれたと思ったわ」
美晴は優しい表情のまま話を続けた。
「私、高校にはほとんど行けなかったから友達もできなかったし勉強にもついていけなかった。それでちょっとグレちゃっていろいろと悪いことにも手を出してしまって」
ここまで話したところで、突然ガタンと音がしたかと思うと、憲造さんがふいに立ち上がったため椅子が倒れた。椅子を起こしながら憲造さんはその場を離れた。
「ちょっと客に会うこと予定があった。今やって来たようだ。すまんが俺は席を外すよ」
憲造さんは二人連れの男性に声をかけて施設の中に入って行った。どういう人たちなんだろう。残された三人は不思議そうに見ていたが想像してもわかるはずもなかった。
「美晴さん、僕たちは今日のところは引き上げるよ。また書き込みとか何か進展があったら教えてほしい。僕らは犬みたいに癒す事はできないけど幾分か力になれるとは思ってるから」
葵がバニラを美晴に渡し帰ることにした。美晴が中に入ろうとしたときちょうど二人の男性が出て行くところだった。
「お嬢ちゃん、今日はこれて失礼するよ。また来るからね」
ひとりの男がそう言うともうひとりは舌打ちをしながら車の方に向かった。
「まったく頑固な野郎だぜ」
そう言ったように聞こえた。美晴は誰だったのか憲造さんには聞かず黙って夕飯の支度を始めた。
夕飯のとき憲造さんはやはり難しい表情をしていた。あの男たちのことか、それともホームページへの書き込みか、あるいはこの施設の先行きか。それでも憲造は美味いと言って美晴の作ったシチューをおかわりした。美晴はまずいと思っていたから嬉しかった。

数日が経って状況が大きく変わった。
ある日、ケンネルに訪れた人はこんな三人ではないかとコメントに画像が添えられていたのだ。それに反応した別の保護犬施設からもコメントが入っていた。
“この三人ならウチの施設にも来ました。タダで仔犬をよこせと。そのうえで世話にかかる費用を要求してきたのでお断りして帰ってもらいました“
さらにまた別の施設からも。
“この三人は親子ではないようです。強引に犬を引き取ろうとしたのですが、子供が二人の大人をおじさん、おばさんと呼んでたので、お子様ではないのですか、と聞くとバツが悪そうに犬を置いて帰っていきました。親子を装って印象を良くしようとしてたのでしょうか“
そのコメントに外野が騒いでいた。
“偽装親子は犬以下“
“イチャモンをつけて施設を潰すのが狙い”
「施設を潰す…」
憲造さんはこの書き込みに反応した。昨日憲造さんが会った男たちはこの施設を買い取りたいと言って百万円の現金の束をチラつかせてきた。この親子を装った三人の狙いも犬ではなくトラブルだったのではないか。憲造さんは葵を呼んで別の施設からの書き込みからその施設を調べてほしいと頼んだ。アカウント名から簡単に判明したので連絡を取ると、案の定、そこにも同じように施設の買い取りの話が持ちかけられていた。
そして、その日のうちに憲造さんは施設を買い取りたがっている二人を呼びつけた。
「考えてくれましたか。いやぁ、この施設なら幸せになる犬たちは増えますよ。我々がしっかりと守ります。すべて改装して引き取り手が集まりそうな評判の良い店舗に変えましょう」
「店舗?」
憲造さんが反応するともうひとりが割って入った。
「いえいえ、あ、店舗ではありません。施設。立派は保護犬施設です」
憲造は立ち上がって二人を外に案内した。
「あんたらはもちろん犬が大好きなんだよな」
そう聞くと二人は、もちろんですよ、と即答した。
「ここで一番大変なのはドッグランでの犬の管理だ。こうしていろんな種類の犬がいて、時にはケンカを始めたり交尾をし始めたり、出産もすれば病気にもなる。自分が怪我をする覚悟で犬を連れ出すことも必要だ。興奮状態の犬に手足を噛まれたり襲われることもある」
そう言って二人をドッグランの中に入れて鍵をかけた。
「何をするんです?ちょっとここから出してくださいよ」
二人は焦ったように憲造さんにすがった。
「犬が好きなんだろう?だったら証明してくれ。犬に人を見抜く力があるのはわかってるだろう?あんたたちなら仲間になれるはずだ。運が良いことに今日はあんたらが来てるせいか皆機嫌が悪いんだ。うまくなだめられたら売却の件を考えてやってもいい」
そう言いながら憲造さんは外の椅子にドカッと座り込み美晴たちとその様子を見張った。
「ガルルル」
ホルンとコルネが男たちを見て唸った。追従するようにアゲハもその他の犬たちもこれに続いて一斉に吠え始めた。男たちはドッグランの中をグルグルと逃げ惑い憲造さんに助けを求めた。
「助けてくれ。正直、ちょっと犬は苦手なんだ」
「あれ、好きと言ってなかったかい?」
するともうひとりは立てかけてあった箒で犬たちを追い払おうとした。
「来るな、お前ら。一匹残らずブチのめしてやる」
美晴はハッとして一息を飲んだが犬たちの巧みな攻撃で心配は一瞬で安堵に変わった。
「頼むから噛まないでくれ。ここから出してくれ」
二人とも観念したらしく憲造さんが犬たちを抑えにかかった。
「わかった。もういい。おとなしくしなさい」
憲造さんの声に犬たちはピタリと動きを止めた。そして何事もなかったかのように男たちから離れた。
「こんなことして、一体何なんだよ」
怯えながらも強がりで向かってくる男たちに憲造さんはきっぱりと言い放った。
「犬は嘘を見極める。お前らが犬たちの敵であることは明らかだ」
そう言って写真を示した。
「この三人を知ってるな」
出したのはホームページに寄せられたあの偽装の親子の写真だった。
「子供まで使いやがって。さっきこの男に連絡取って追及したら全部吐いたぞ。あんたらに頼まれてやったと。初めから犬を引き取るつもりはなかったらしいな。この施設を廃業に追いやることに手を貸してくれと言われたと言っている。ここにその男の録音もある。もう逃げられないぞ。あんたらのやってることは詐欺に偽計業務妨害、名誉毀損、動物愛護管理法違反だ」
男たちの狙いは保護犬施設の認定資格だった。おそらく自力で取るのは難しいからこの施設をそのまま買い取ればその認定もついてくるのが狙いだった。男たちは完全に降参した表情でその場をトボトボと立ち去った。
二人が去ったあとの施設はまた静かさを取り戻していた。
こうして、この数日間、航真たちを悩ましていた問題は一気に消えたが、何か後味の悪い感触を残していた。誰もが穏やかで神聖な場所を汚された気がしていたからだ。
一方で誰もが穏やかさを早く取り戻そうとしていたが、その思いはすぐに叶うことになった。引き取りたいという希望者がたちまち増えたのだ。
「これだけ一気に来られては見極めるのを誤ってはならないな」
憲造さんが呟いた。美晴も憲造さんの隣でこっくりと頷いた。
月がちょうど半分になろうとしていた夜、航真と葵がルークを挟んで星空を見上げた。

悲しみ、怒り、安堵、喜び。
様々な感情が入り混じった日々
月はただ静かに繰り返されるその小さな波のうねりを見守っている
ちっぽけなのことか大きなことか
誰もがそのうねりが穏かに安定することを求めている
またまだ未熟な月の光もただ黙って照らし続け見守っている



次の日から施設はさらに慌ただしくなった。美晴さんが航真の家まで来て二人に手伝ってほしいと頼んだ。
「今日は六組の希望者が見に来るの。これでも絞った方なんだけど。憲造さんがあなた方に飼い主を見極めてもらいと。お願いします」
航真たちは喜んで引き受けると返事すると美晴は嬉しそうに施設に戻って行った。
「美晴さん、こういうとき、わざわざウチまで伝えに来るのね。電話でもいいのにね。律儀な人ね」
航真はやはり葵は気付いてないんだと思った。美晴がわざわざここにやってくるのには訳があった。タバコがやめられないからだ。おそらく憲造さんには吸ってることを内緒にしてるんだろう。来るときに一本、帰りに一本吸うためにケンネルを離れるのだ。以前、航真がルークと散歩に連れて海辺に行ったときも美晴は指にタバコを挟んで火をつけようとしていた。航真と目が合うと気まずそうに隠したが見つかったのがわかったのだろう、そのことを憲造さんには黙ってほしいと言った。憲造さんからやめるように言われたわけではないが、過去の自分にケジメをつけるために自分から辞めると伝えていたからだ。しかし長年の癖は治らず禁断症状のようにやはり手を伸ばしてしまうという。航真は特に何を言ったわけではない。航真も若いときにタバコを吸っていたが仕事が忙しくなってゆっくり吸う暇もなくなったのでいつの間にかやめた。だから若い美晴にかけるアドバイスもなかった。あまり大したことでもないので航真は葵には言っていなかった。
「そろそろ行こうか」
葵が急かしてきたので航真はバタバタと支度をした。ケンネルに向かうとすでに三組が列を作っていた。
「見るからに良さそうな人たちよ。憲造さん、犬たちを引き渡すかしら」
美晴が航真と葵を希望者に会わせた。コルネがその人の前で尻尾を振っていた。まるで飼い主が現れるのを待っていたかのようだった。
「どう思う?」
おもむろに憲造さんに聞かれたが航真はしっかりと見極めていた。
「憲造さんと同じ意見ですよ」
「私もよ」
葵も航真に続いた。飼い主はとんとん拍子に決まっていった。コルネ、ホルン、リボン、そしてバニラ。ホームページに上げていた犬たちがそれぞれ新しい飼い主の元へ決まっていった。コルネとホルンは介護施設のセラピー犬として。バニラに至っては警察犬として育てられないかと相談された。皆もちろんそれを快く受け入れた。しかし、すべての犬がそうして飼い主が見つかるわけではない。体に傷があったり病気がちな犬を誰も引き取ろうとはしない。逆にそうした犬はどの飼い主にも心を開かない。人間が怖いのだ。きっと何か恐ろしい経験をしてここに辿り着いたのだろう。だから憲造さんも無理に手放そうと思わなかった。アロマとアゲハは恐らくここにずっと残ることになる。いや、むしろそれが幸せなんだろう。憲造さんはそう思った。
「あのう」
不意に美晴が話しかけられた。
「はい、え?事前に連絡くれてましたか」
そういえばこの時間は予約は入っていないはずだ。しかもどうも飼い主になろうという人には見えない。どう見てもただの野暮ったい男だった。歳も美晴より少し上くらいだろうか。
「いや、あの、ここってアルバイトとかできませんか?」
美晴は首を傾げてチラッと憲造さんの方を見た。
「アルバイト?もしかしてここを手伝ってくれるということですか」
「あ、手伝うというか、できたら報酬は欲しいですけど。初めは見習いでもいいです」
どうなんだろう、憲造さんはどう思うか。自分以外に男手が必要かどうか。
「ちょっと待ってくださいね。あ、そこに座って待っていていください」
美晴は憲造さんに聞いてみることにした。ここで働きたいなんて求人情報も出してないのによほど犬が好きなのかしらと思った。憲造さんは男はどこだと聞いたので紹介しようとしたが元いた場所からいなくなっていた。
「あれ、どこに行ったのかしら」
見回してみると男はドッグランにいた。そこで後ろ足が不自由でうまく動けずにいるアロマを優しく撫でていた。アロマは抵抗することもなく気持ちよさそうにしていた。
「犬が好きなのか?」
憲造さんが話しかけると男は立ち上がり頭を下げて自己紹介をした。男は芳則と名乗った。今はフリーターで職を探していて、人を相手にするより犬を世話する仕事がしたいという。ケンネルでは今日のように早いペースで引き取り手が来たらその対応に追われて他の犬の面倒を見てくれる者も必要になる。アロマが落ち着いていたことを見るとこの男はよほど犬から好かれるのだろう。憲造さんはこう提案してみた。
「では明日から二日間試しでやってみるか。ただし報酬は出せん。メシは食わせる。どうだ?」
どうせろくなもの食ってないんだろう。憲造さんは芳則のやせ細った体つきを見てそう決めつけた。芳則はコクっと頷くと、実は今夜泊まる所すらないことを伝えた。
「それは無理だ」
憲造さんは美晴の方を見て言った。
「いずれにしても明日から二日間試してからだ」
そう言って、今日は一度帰って翌朝七時に来るように伝えた。

そしてその翌朝になると、芳則は約束の時間より早く着いてドッグランの中の掃除をしていた。
「おはようございます」
芳則は部屋から出てきた憲造さんに挨拶すると憲造さんは驚いたように周りを見渡した。すっかりきれいに片付いている。
「今朝は何時に起きたんだ?」
芳則は五時に起きてその十分後にはここに着いていたという。憲造さんはさらに聞いた。
「そんな早くどうやってここに来たんだ。車も自転車も見当たらないが」
芳則は照れ臭そうに答えた。
「実はやっぱり寝るところがなくて。あっちの浜辺の岩陰で夜が明けるのを待っていたんです。もちろん少しは寝ましたが、星が明るすぎて意外と眠れないものでした。こんな田舎だからてっきり真っ暗かと思ってましたが。朝も波の音で目覚めて眠れなくなって。なのでやることがなくて早く来ちゃったんです。ひょっとしたら犬たちに会えるかなと思って。でも夜の間は小屋に入れてるんですね。そりゃそうですよね」
芳則は頭を掻きながら笑った。美晴も起きて外に出てきた。芳則に軽く頭を下げて、もう来てるんだと思った。
「小屋にいる犬に朝飯を食わせてやってくれ。中に入るとクーラーボックスがあるのでバケツと容器に移し替えて順番にな。そのあと食べ終わった犬からドッグランの方に連れてきてくれ。食べた後はみんなよく出すぞ。処理も頼む」
憲造さんの指示したことは決して簡単にできることではない。憲造さんは芳則を試してみた。
「わかりました。やってみます」
芳則は犬に対しても糞の処理も抵抗感がなかったのでうまくやる自信があった。そしてその自信の通り、憲造さんの見ている前であっさりと見事にやってのけた。三十分もしないうちにすべての犬がドッグランに集合し、汚した部分もきれいに処理された。
「終わりました。みんなの名前もわかりますよ。この子はアロマ。ちょっと元気がないですね。すごく怯えてます。後ろ足をケガをしてるのはアゲハですね。とってもおとなしくてなかなか心を開いてくれなさそうですがなんとか外についてきてくれました。あとはワルツに、あの子はリンス。そしてピースですね」
芳則はすべての名前を覚えていた。きっとスマホか何かでホームページを見たんだろうが、特徴も含めて覚えていたことに感心した。そのあと順にドッグランを走らせたり、喧嘩しかけている犬たちをうまく引き離したり、絶えず糞の始末をしていた。
「もういいだろう。少し休憩して話そうか」
美晴が朝食にパンとコーヒーを持ってきた。芳則はいただきますと言って手を合わせるとすぐにバクバクと食べ始めた。
「そんなに腹が減ってたのか。もしかしたら今夜も食べる物も寝るところもないのか?」
憲造さんが聞くと芳則は頷いた。
「すみません。でも気にしないでください。実は家を追い出されたんです。働いていた工場からリストラされて新しい就職先も決まらないで家にいたら父親が近所の目があるから出て行けと。仕事もないしお金もないし行くところもなくて。気晴らしにネットで犬の動画とか見てたらここが目に入って。こういう仕事ができたらなと思って実際に見に来たんです」
そういうことかと憲造さんも美晴も納得した。
「憲造さん。なんとかしてあげられないかしら」
憲造さんは少し考えて、やれやれという表情で言った。
「それじゃあ、しばらくここで働いてみるか。食事と寝るところくらいはなんとかしてやるが給料は小遣い程度しか出せないぞ。」
芳則は真っ直ぐに憲造さんを見てにっこりと微笑んだ。美晴もその笑顔に釣られて笑みがこぼれた。
「ありがとうございます。お役に立てるように頑張ります」
タイミングよく、航真と葵がルークを連れてやってきた。葵が芳則の存在に気付いて話しかけた。
「おはようございます。あら、新しい飼い主さんかしら」
憲造さんが近寄ってきて事情を説明した。そういうことかと、二人とも状況を理解した。芳則は朝食を食べ終わると三人分の食器を運んで自分で洗いに行った。炊事場までは美晴が案内した。
「でもここに彼が寝る部屋はあるんですか」
航真が憲造さんに尋ねると憲造さんは軽く頷いて芳則と美晴の方を見た。
「ヤツが来てもまだ余裕はある。美晴に何かしようとする気配があればその前にぶっ飛ばして追い出すさ」
二人が戻ってきて改めて全員が挨拶を交わした。ケンネルがまた賑やかになった。

次の日も芳則はよく働いた。掃除も餌やりも糞の始末も嫌がらずに積極的にやった。犬たちも芳則に懐いて慕っていた。相変わらず引き取り手が見つからないアロマとアゲハも珍しく人間を信用していたように見えた。怯える様子も減っていてアロマに至っては食欲も出たせいか少しずつ体に肉がついてきた。
ケンネルは、憲造さん、美晴、芳則の三人がしっかりと守っているように見え、犬たちも安心しているようで航真も葵も時々手伝いに行っては徐々に安定しているように感じた。しかしそんな穏やかな日は続かなかった。
航真が寝室のカーテンを閉めようとした深夜、ケンネルの方から煙が上がっているのが見えた。
「大変だ、葵、起きて。ケンネルが火事だ」
先に休んでいた葵はベッドから飛び起きて急いで上着を羽織って航真と一緒に飛び出した。消防にも通報した。ケンネルに着くと憲造さんが犬たちがいる小屋にバケツで水をかけていた。その間に美晴は小屋から犬たちを外のドッグランの方に誘導していた。芳則はアロマとアゲハが心配で燃えている小屋から助け出そうとしていた。
「危ない、まだ燃えている」
航真が芳則を止めようとしたが芳則は構わず奥の方に入っていった。すると自力で出てきたアロマを航真が見つけ外に連れ出した。芳則はなかなか奥から出てこなかったがしばらくしてグッタリしたアゲハを抱えて出てきた。
「アゲハ、アゲハ」
美晴が大声で叫んだ。憲造さんはようやく火を消し止めるとそこでやっと消防車が到着し同時に警察もやってきた。
「僕らはアゲハを病院に連れて行きます。車お借りしますよ」
航真と葵はアゲハを乗せて町の病院に連れて行った。確か大きな駅の方に行けば動物病院がある。自営の病院なら自宅も一緒になっているはずだから獣医もそこで寝泊まりしているだろう。叩き起こしてでも治療してもらう。航真はアクセルを踏み込んだ。
ケンネルでは消防隊が後始末と現場検証をしている間、憲造さんは警察官に事情聴取をされていた。
「火の気なんてあるはずがない。野焼きの火が飛んできたか電気のショートか何かが原因だろ。今後は気を付けるからもう帰ってくれ」
憲造さんと警察官とは知り合いのようだった。火元を調べていた消防士と警察官の話ではどうやら火元は納屋の外側に置いてあったゴミ箱で、タバコの火が原因のようだった。その報告を美晴と芳則も近くで聞いていた。
三人はまだ興奮気味の犬たちをなだめながら航真たちがアゲハを連れ帰ってくるのを待った。その二時間ほどの間、憲造さんたちの三人の会話はなかった。航真たちが戻ってきてようやく沈黙が途絶えた。
「幸い火傷も軽症だということでしたが、少しショックを受けているようでしばらく安静にしてほしいと。今日は僕らが連れて帰ろうと思います。ここもこんな状態ですし。薬ももらって包帯を張り替えたりするので、憲造さんたちは後片付けもあるのでそちらに専念してください。また明日様子を知らせますね。詳しい話はまた」
航真はアゲハを抱えてゆっくりと自宅の方へ歩いていった。一体何が原因かわからないままだったが、憲造さんたちが不穏な雰囲気だったので何か重要なことが起こったのだと気づいた。それには触れず、夜も遅いのでひとまず憲造さんに任せることにしたのだった。
翌朝、ルークがアゲハに寄り添っていた。アゲハはまだ元気がなかったが、体に巻かれた包帯がが気になったのか自分でペロペロと舐めて解こうとしていた。
葵がアゲハのそばにいると言ってくれたので航真だけが憲造さんのところに行った。憲造さんは航真と二人で話がしたいと言ったのでケンネルと離れたところで話すことにした。
「警察の話では、どうやらタバコの不始末と言うんだ」
唐突に「タバコ」聞こえたので航真はビクッとした。
「知っての通り誰もタバコなど吸わん。芳則が吸っているのを見たことはないし、奴の持ってきた荷物にタバコなんぞ見当たらん。美晴は昔は吸っていたがもうやめているはずだ。だから何者かの放火ではないかと思う。またここの施設を狙う奴らだろうか」
航真は美晴がタバコをやめていないことを知っていたが憲造さんに話そうか迷っていた。奴らのせいにしたら憲造さんは警察に訴えたり奴らに何かするかもしれない。そうなるとまた大ごとになる。でももし美晴のことを伝えたらどうなるだろう。美晴は追い出されたりするんだろうか。
返事がない航真に憲造さんは何か航真が知っていると気づき、しばらくすると憲造さんは全てを悟ったようだった。
「まあいい。アゲハも助かったことだしまた小屋をきれいにして元の施設をやり直すさ」
憲造さんと航真がケンネルに戻ると犬たちがまた興奮しているように見えた。
「何かあったのか」
憲造さんはそこにいた芳則に聞くと芳則は慌てて答えた。
「美晴さんがいないんです」
三人が周辺を探したが見える範囲に美晴の姿はなかった。朝は憲造さんも芳則も美晴を見かけたが、芳則は憲造さんと航真が出かけている間に姿が見えなくなったと言う。
「焦ることはない。きっとすぐに帰ってくるだろう」
憲造さんも航真ももしかしたら美晴はどこかで反省して謝罪することを考えているのかもしれないと思っていた。しかし夜になっても美晴は戻ってこなかった。
「警察を呼びますか」
航真は憲造さんに聞いたが憲造さんは黙っていた。きっと美晴のことでいろんなことが発覚をするのを恐れたのだろう。葵が自転車の荷台にアゲハを乗せて連れてきた。
「アゲハがクンクン言って寂しがってるの。美晴ちゃんに会いたがってるのかなと思って連れてきたの。美晴ちゃんは?」
芳則はアゲハを抱えると涙を流した。
「アゲハ、ごめんな。こんなことになるなんて。美晴さんもごめん」
こんなこと?三人は目を合わせた。
芳則は痛々しいアゲハが美晴を恋しがってる様子に耐えられなかったのか、おいおいと泣き始めた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。全部、僕が悪いんです」
泣いて謝っている芳則に憲造さんが急に襲い掛かった。
「早く知ってることを言え。美晴はどこに行った」
憲造さんは芳則の胸ぐらを掴むと今にも殴りかかりそうな勢いだった。航真は止めに入ったが憲造さんは航真を跳ね飛ばし芳則の顔面を殴った。勢いで吹っ飛んだ芳則は地面に倒れ込んだが、這いつくばるように憲造さんの方に近寄ると泣きながら額を地面につけた。
「お願いです。美晴さんを助けてください。男たちに連れ去られたんです。あいつらに金を掴まされて僕が美晴さんの居場所を教えたんです。ちょっと前に家の近くの公園を僕がフラフラ歩いてるところに、二人の男が現れてこの女を探してくれと写真を見せられて。珍しい名前だからネットで検索するとこの施設のホームページのコメントのやりとりにそれらしい名前が書いていあったのを見つけて。ここを見に来たら写真の女性がいて、それが美晴さんだとわかりました。居場所が分かったことを彼らに伝えると次にまた指示があったんです。彼女がこの施設を追い出されるように仕向けろと。だから、僕が火事を仕組もうと納屋に火をつけて、美晴さんのタバコを火元に置いたんです。美晴さんがそれに責任を感じてここを出て行ったように見せれば憲造さんも後を追わないと思ったから。ところが納屋につけた火が思いのほか大きくなって小屋に燃え移ってしまって。まさかアゲハがこんなことになると思わなかったし、それに、それに、そのあと美晴さんが拉致されるなんて想像もしていなかったんです。黙っていればお前は痛い目に遭わさないと言われて脅されて。もしチクったら美晴さんも生きては返さないっと言われたんです。でも伝えないわけにはいかなかった。僕はどうなってもいい。お願いです、憲造さん、美晴さんを助けてください」
美晴が拉致されてから一時間が経過している。美晴の身が危ない。
「奴らって誰だ。どこにいる」
「奴らのうちのひとりは美晴さんの元カレのようでした。美晴さんとヨリを戻したいので協力してほしいと初めはそう言ってたんです。美晴さんもそう望んでいると言っていました。でも美晴さんにはサプライズなので言うなと言われてました。最初はお金も欲しかったのもあったけど、その後からはずっと脅されて。本当にごめんなさい」
憲造さんはますます低い声で泣いている芳則に詰め寄った。
「相手は二人だけか。場所の手がかりはないのか」
「他に男が一人いて、全部で三人で、たしか、この近くの空き家に連れて行こうとか聞こえました。そう言えば、車は駅と反対側の海辺のほうに向かいました」
憲造さんは航真の方を見て頼んだ。
「悪いが俺を車で海辺の方に乗せて行ってくれないか。車で移動してる間に俺はやることがある。あんたはそのまま戻ってくれていい。俺だけで奴らに会ってくる。警察も呼ばないでほしい。大勢で行くと美晴が危険な目に遭うかもしれない」
「でも空き家って何軒かありますよ。見つかりますか」
航真は車に乗り込む準備をしながら聞いた。憲造さんは葵の横にいるルークの方を見て呟いた。
「この子にならわかる」
航真が運転する助手席に芳則がルークを膝に抱えて乗った。芳則は窓を開けてルークに匂いを嗅がせた。憲造さんが言うにはラブラドールの嗅覚は犬の中でも極めて優れていて警察犬として活躍しているものも多いらしい。その特殊な嗅覚を信じて芳則はケンネルから持ってきたの美晴の上着の匂いを何度もルークに嗅がせ窓の外の匂いと比べさせた。ルークは凛々しい顔で鼻を微妙に動かし神経を研ぎ澄ませていた。ミラー越しの後部座席は暗くてよく見えなかったが、憲造さんは上の服を脱ぎ腹にサラシのような布を巻いていた。まるでヤクザが死闘に出掛けるかのようだった。その目には覚悟と殺気がよぎっていた。
「本当に警察には連絡しなくていいんですね」
憲造さんは美晴を助けたいのなら絶対に呼ばないでくれと念を押した。かなり丸みを帯びた月が三人の行く道を照らしているようだった。どうか見守ってくれ。航真はただそう祈っていた。そして視界の前方に空き家が眼に入ったとき、ルークが激しく興奮した。
「ここで間違いないだろう」
よく見ると中から薄っすらと明かりが漏れているのが見えた。航真は少し離れたところで車を止め、エンジンを切って憲造さんを降ろした。
「僕は一度芳則くんとルークをケンネルに送り返した後、またここに戻って憲造さんが戻るのを待ってます」
憲造さんは航真から視線を外すと空き家の方に目を向けて静かに足を進めた。航真たちはいったんそこを離れてケンネルに引き返した。その帰り道、芳則はルークを膝に乗せながらずっとシクシクと泣いていた。ルークが芳則の頬を舐めて慰めているように見えた。航真は葵に芳則とルークを預けて再び空き家の方に車を走らせた。
「なんとか二人とも無事でいてくれ」
まだ少し影に覆われている月が行く道を照らす中、航真はただ祈るしかなかった。そして美晴を命がけで守ろうとする憲造さんに美晴への特別な思いがあることを感じていた。
空き家の近くに戻ると、中の明かりが揺れているのがわかった。あそこに間違いなく美晴と憲造さんと三人の男がいる。待つ以外何もできない無力さを感じながらも、航真は再び二人の無事を祈った。少しでも早く出てきてほしい。場合によっては病院へ直行しなくてはならない。いろいろな悪い想像が頭を巡った。このまま出てこないこともあるだろうか。男たちが先に出てきたとしたら二人の命は相当危険な状況になっていると思わなくてはならない。
風も波の音も聞こえなくなった頃、空き家の方から突然ガタンと大きな物音が聞こえて扉が開いた。部屋の明かりが逃げゆく三人の男の影を映し出していた。三人は慌てふためいたように空き家の裏側に向かったかと思うと、そこに隠すように止めてあった車に乗り込んで猛スピードで空き家から離れて行った。
二人が危ない。航真は三人の乗った車が見えなくなるのを見計らって急いで空き家の前に車を乗りつけて中に入った。
「憲造さん!美晴さん!」
二人が床に倒れ込んでいるのがすぐに目に飛び込んできた。美晴の体はロープのようなもので縛られていて、憲造さんは顔から激しく血を流していた。
「今すぐ救急車を呼びますからね」
航真はスマホをポケットから取り出そうとした。いや、違う。ここまで救急車を呼んだところでいつ到着するかわからない。だったら自分が病院に運ぶしかない。男たちが戻ってくる前に。航真がまずは落ち着いて二人を車まで運ぼうとしていると、倒れている憲造さんの方から声が聞こえた。
「慌てなくて大丈夫だ。奴らはもうここには戻ってこない。まずは美晴を解いてやってくれ。彼女には怪我はない。ただショックを受けて気を失っているだけだ。大丈夫。車の荷台にナイフと水が積んであるからそれを取ってきてくれ」
航真はいったん外に出て、言われた通りに車からナイフと水を持ってきた。縄を解いて水を飲ませると美晴は意識を取り戻し、真っ先に憲造さんに飛びついた。
「痛い痛い」
憲造さんは美晴の腕が傷口に当たるのを痛がっていたが、美晴の意識が回復したのを喜んでいるようだった。憲造さんは美晴の背中をさすって美晴を安心させた。
「もう大丈夫だ。全部終わった」
航真は何が始まって何が終わったのかわからなかったが、それよりも二人の手当が先だと思って憲造さんを担ぎ出し、続いて美晴に肩を貸して車に乗せてそのまま一目散に病院を目指した。道中、葵に連絡してとりあえず二人の無事を知らせたとき、電話の向こうで芳則が泣き崩れる様子がわかった。後部座席で二人は何も語らず、ただ悪夢から逃げ切れたことに安堵感を巡らせていた。
病院に着いて一応の治療を受けたが、二人ともそのまましばらく入院することになった。夜遅いこともあって航真だけがケンネルに戻った。怪我の状態を葵と芳則に詳しく伝えた。とにかく命に別状はないこと、特に美晴は全くの無傷で済んだと聞いて二人とも胸を撫で下ろしていた。
航真も葵もそして芳則もこの夜はさすがになかなか寝付けなかった。何があったのかわからない謎と、興奮と安堵感が胸に渦巻いていた。

翌日、三人は病院に向かった。そして昨夜の出来事について聞いた。
「なんてことはない。美晴の元カレがストーカーのように美晴を追ってきた。芳則に金を握らせて美晴の行動を監視し俺がいなくなった隙を狙って美晴を拉致したんだ。美晴が暴力を受けようとしていたところにギリギリ間に合って助けた。その際に少し殴られて怪我をしただけさ」
憲造さんは笑い飛ばすように端的にそう説明した。
「明日には退院できるから心配せずに戻ってくれたらいい。犬たちも待ってるしまだまだこれからも飼い主たちとのアポも入ってるんだろ」
憲造さんが念のための精密検査に呼ばれ部屋を出た。ずっと黙っていた美晴がその隙を見計らうかのように、すべてを正直に話そうと、三人が帰ろうとしたのを止めた。
「憲造さんの話は本当よ。でもだいぶ省いているところがある。憲造さんがあの空き家に飛び込んできたとき、憲造さん、殺されそうになったの。私は元カレのところに戻るように脅されていただけだった。ただ元カレは憲造さんと私の仲を怪しんで気が狂うように暴れ始めたの。憲造さんは自分を殴ってもいいから彼女に手を出すなと言ってくれたわ。でもそれが彼をもっと逆上させたの。憲造さんは三人からの暴行にずっと耐えていた。もう意識もなくなるくらいに。そしたら元カレが憲造さんの服を脱がしてナイフを持って体中を傷だらけにしてやると言ったの。でも突然、怖気付いて腰を抜かしたわ。憲造さんの体には大きな刺青があったの。それは本物だった。憲造さん、いつも手袋をつけているでしょ。憲造さんの手袋を取ったら、小指がなかったのよ。それを見て三人とも大慌てで逃げるようにそこを去ったわ。さすがにヤクザは怖かったんでしょう。仕返しで殺されるかもしれないと思ったのよね」
話を聞きながら航真は憲造さんがどんな経緯でケンネルに来たのかを知らなかったし、生い立ちもどんなものだったか聞いたことがなかった。
「でもね。もっと本当のことを言うわ。実は憲造さんと私は私が高校生の頃からの知り合いなの。当時、あの人は刑事さんだったの。もともとは暴力団相手の潜入捜査をやっていたと聞いたわ。刺青はその時に入れたものだって。本当に仕事にすべてを懸けてたのね。さすがに本物のヤクザにそれがバレて小指を詰められたらしいの。そのあとは潜入捜査はできなくなったから少年課に移った。そして私みたいな不良を相手にする仕事に替わったの。私たちみたいなどうしようもない連中を捕まえては反省して立ち直るように言ってくれたわ。私は何度も捕まっても彼の言う通りにはしなかった。ずっと逆らってたんだけど、例の元カレを刺して、いよいよ実刑になりそうだったときはさすがに観念したわ。私は自分から彼を刺したんじゃなかったんだけど。彼は別れた後もしつこく私につきまとった。ヨリを戻さなければ私の人生を無茶苦茶にすると言ってきた。そしてナイフを取り出して私を刺すのかと思ったらそうじゃなくて私にそのナイフの柄を持たせて自分のお腹に刃を向けたの。そして私にお腹を刺させた。私の手をつかんでグイグイお腹の中にナイフを押し込んでいったわ。気が狂っていた。あいつは笑いながら血を流して倒れていった。私が救急車を呼んで、そのとき警察も来て私は逮捕された。そこには憲造さんが駆けつけてくれて、私がそんなことをするはずがないと一生懸命言ってくれた。でも周りは信じるはずもなく結局私は実刑になったの。彼が死ななかったから殺人未遂で済んだわ。懲役三年。それでも憲造さんは私の事件の捜査をやり直すように何度も上司に詰め寄ってくれたの。誰も信じるわけないのにね。そして、警察は間違ってる、本当の悪人かどうか見抜けない奴は警察である資格がないと言って組織を非難して、ついに辞表を出したのよ。そのあと、元カレの素行と私へのストーカー行為が明らかになって、五年の執行猶予がついたの。一方で憲造さんの方は、刑事を辞めた後、同僚だった人の紹介であのケンネルを任された。憲造さんはもともと人間より犬の方がよっぽど信用できると言ってたし、将来そんな仕事をやってみたいって私に話してくれたこともあったから、そこに向けて自分の人生の転換させたんだと思う。自分がそこに行ったあとも私にも何度も連絡をくれて、いろいろな状況が落ち着いたら私にも来ないかと勧めてくれた。私は迷ったけど、いい加減いつまでも不良みたいことやってるわけにもいかないし、執行猶予もついてるし、元カレが退院したらまたいつストーカーが復活するかわからなかったから、憲造さんのところでやり直したい、って伝えたの。元カレのことはそれでも怖かったけど憲造さんに守ってもらえる気がして。だから誰にも言わずに内緒でケンネルに来たの。ホームページに写真を出して欲しくなかったのもそのためよ」
航真の中ですべてが繋がった。憲造さんの指のことには気づいていたが、憲造さんは犬と山に出掛けたとき熊に襲われて指を喰われたと言っていた。いつも長袖を着ているのも古傷を見られたくないからだとも言っていた。体に刺青があったのか。よほど自分の過去のことを知られたくなかったのだろう。
「説明してくれてありがとう。憲造さんには僕らからこれ以上何も聞かないよ。これからも普通に接したいし」
そう言って航真たちは病院を後にした。三人ともそれぞれの心の中で憲造さんと美晴の深い絆を感じていた。
二人が退院するまで芳則は一層しっかりとケンネルの管理をし犬たちの世話をした。アゲハの火傷もずいぶん良くなった頃、憲造さんと葵は一緒に退院を迎えることになった。あの日から結局一週間が経っていた。
航真が車で二人を病院に向かいに行き、ケンネルまで送り届けた。芳則が迎えに出て足を引きずる憲造さんを支えた。美晴はしっかりと自分の足で歩けるようになっていた。
「ああ、久しぶりー」
美晴は犬たちを見てホッとした涙を流した。ルークが美晴の居場所を突き止めてくれた話を聞いて、ルークにも感謝を伝えた。
「ルーク、ありがとうね。あなたは本当に名探偵ね、
命の恩人よ。あ、恩人はおかしいわね。恩犬って言うのかしら?」
一同が笑った。そして、葵が抱いているアゲハを見つけると葵からそっと受け取り胸に抱いた。
「ああ、アゲハ、会いたかったわ。すぐに退院できると思ってたけど一週間も経っちゃったから久しぶりに感じるわ。でもアゲハもだいぶ具合良さそうね。よかったわ」
航真はドッグランの方を示しながらここの様子を報告した。
「美晴さん、アロマもすっかり他の犬たちに溶けこんで楽しそうにしてますよ。二人を待っている間、芳則くんがここをしっかり守ってくれたんです。掃除も犬たちの面倒もこれまで以上によく見てました。何人か引き取りに来たいという人たちもいましたが、厳しい面接官のチェックを受けないとダメだと断ってました。それでもその人たち必ずまた来ますって。また忙しくなりますよ」
「憲造さん、美晴さん、本当にごめんなさい。僕がやったことは絶対に許されることではないことはわかっています。憲造さんにはこんなに怪我をさせてしまって。美晴さんにはたくさん怖い目に遭わせてしまいました。僕はもうここに置いてもらう資格もありません。本当にお世話になったのにごめんなさい。お世話になりました」
憲造さんが眉をしかめて美晴と目を合わせた。美晴は笑いかけながら首をかしげた。
「芳則。お前のやったことはいけないことだ。簡単に許されることではない。美晴がどれほど危険だったか」
憲造さんは感情をコントロールしてるようにも見えたが話し方は穏やかだった。
「ただ、お前も聞いてるだろうが美晴はこんなことでビビるタマじゃない」
美晴は照れ臭そうに口角を上げて頷いた。
「昔は俺にも向かってきたもんだ。なかなかの肝っ玉の持ち主だ。それに、俺だってこんな経験は死ぬほど切り抜けてきた。俺はお前に殴られたわけじゃない。もっともお前なら簡単に捻りつぶしていただろうがな」
憲造さんは椅子から立ち上がり芳則に歩み寄った。
「芳則、ここから出ていくのか? それは俺は構わないが、まあ、こんな体じゃしばらく何も役に立たない。そんな俺を見捨てるような奴だったらどうぞ出て行ってくれ。美晴だってひとりじゃここを切り盛りできないし。あの犬たちはどうなる。アゲハもアロマもお前は見捨てるのか」
芳則は下を向いてどう答えるか考えているとそこに美晴が口を挟んだ。
「あのさぁ、ちょっと違うんじゃないかなぁ。あんたが許してほしいならここから出ていくんじゃなくて一生ここにいてケンネルに尽くすって誓うんじゃなくて?それとも逃げるの?私たちから、あの犬たちから、そして自分自身からも逃げるの?」
芳則の目からまた涙が溢れ出した。
「今度はあんたが私を守ってよね。あいつら、たぶんもう来ないと思うけど、あんただってあの犬たちと一緒に闘えばきっとあいつらに勝てるわよ」
美晴の口調は荒々しかったが優しかった。芳則はその場にしゃがみ込んで両手をつくと深く頭を下げた。
「僕はここが好きなんです。何でもしますからここに置いてください」
航真も葵も芳則をじっと見守っていた。
「なぁ、美晴よ。喉が渇かないか?美味いコーヒーが飲みてぇな」
「私は冷たいカフェオレが飲みたいわ。チーズトーストも。病院の食事は飽きちゃったしね。葵さんたちは何がいい?コーヒー?紅茶?」
芳則は立ち上がって涙を拭いて炊事場に向かった。水道の蛇口からヤカンに水を注ぎ込む音が聞こえた。
「さぁ、ドッグランに入ろう」
憲造さんと美晴は犬たちに囲まれながら幸せそうな顔をした。航真も葵もその光景を幸せそうに眺めていた。また平和な日々が続くように思えた。

航真と葵はルークを挟んで自宅のベランダから夜空を見上げていた。自分たちの生きてきた今までの人生と、必死で生きてきる憲造さんたちの人生を重ねていた。まったく違う道のりだったろうがそこには共に種類は違えど悩みや苦しみはあったはずだ。そして今日までのこともそれぞれ違う感じ方をしているはずだ。ただ犬が好きな人たちがたまたま出会った。思いは同じであればそこには幸せもある。
航真はそんなことを思いながら爽やかな風に揺れる星をぼんやりと見ていた。葵はそっと航真に寄りかかると流れる星を指差してルークも一緒に心地よい時間の流れを感じていた。

今夜の月はかなり丸みを帯びている
ふっくらといろんな人たちの喜怒哀楽を溜めて溢れそうになっている
まだまだだ
満ちるまでもっともっと幸せを蓄えよう
またたくさんの人たちに分け与えられるうに



それから数日が経って憲造さんの精密検査の結果が返ってきた。病気から送られてきた肺を撮影したレントゲン写真には黒い影が写っていた。憲造さんは美晴に結果がどうだっかを聞かれたが、特に問題はなかったと伝えた。美晴は安心して機嫌よく昼食を作りに厨房に入って行った。憲造さんは病院に電話して医師との面談の予約を取った。
ケンネルの犬たちは定期的に交代で介護施設を巡る仕事が回ってきていた。どんな高齢者も孤独のせいか犬を可愛がるようになる。怪我をしていたアゲハには身体の不自由さを共感するように労わる人たちが多かった。頭や背中を撫でてはアゲハから元気をもらっていた。そんな中、アゲハを特に可愛がっていたお婆さんの娘を名乗る中年の女性がケンネルを訪ねてきた。どうやらそのお婆さんが最近亡くなったという。生前の最期の方はアゲハに会って身体を撫でることが一番の幸せだと言っていたらしい。女性はお婆さんがアゲハの隣でニッコリ笑っている写真を見せてきた。
「介護施設に入ってから、いや、ここ何年も前から笑顔は消えていました。こんなふうに母が笑うなんて信じられないんです。施設の人がこの写真を撮ってくれて、この犬の居場所を聞いたらここだって教えてくれたんです」
美晴は驚いて、芳則にアゲハを連れてくるように言った。
「アゲハって言うんです。この施設に届けられときにはすでに怪我をしていて脚が不自由なんです。そのあと火事があったときに火傷しちゃって。でもとっても愛嬌があって優しいんですよ」
芳則が女性にアゲハを見せると女性はアゲハにそっと腕を伸ばして落とさないようにしっかりと抱いた。
「そうなんですね。この子、母にあの笑顔をプレゼントしてくれたんですね。ありがとう。ありがとうね」
女性はボロボロと涙を落として泣き出すとアゲハが顔をペロペロと舐めて涙を拭った」
「アゲハ、よかったわね。あなたの優しさがお婆さんを励ましたのよ。素晴らしいわ」
その様子をじっと聞いていた憲造さんが女性に尋ねた。
「お宅は犬は飼えないのかな。よかったらアゲハと暮らしてもらえないか」
これには美晴も芳則も驚いた。健康な犬でも嫌がる人が多い中、それは難しいだろうと誰もが思った。しかしその思い込みは一瞬で払拭された。
「もちろんあなた方とこの子がよろしければ是非お願いします。私、母には何もしてやれなかったんです。自分には構わなくていいから自分のことをしっかりやりなさいって言われて、母を放ったらかしにしてしまいました。きっと母は私に世話をされるのが嫌だったんだと思います。でもあの人にこんな笑顔が残っていたなんて。私が若い頃も母はこんなふうに優しく微笑んでくれました。そのワンちゃんといると母も近くで笑ってくれてるようで私まで励みになります。ありがとうございます。是非一緒にいさせてください」
航真と葵は美晴に呼ばれて、今日でアゲハとお別れだよと言われた。二人も別れの寂しさもあったが、アゲハが誰かにもらわれていくことを嬉しく思った。
「アゲハの様子、また写真でも撮って送ってください」
芳則が女性の車までアゲハを抱えながら付き添い、お別れを告げ目にいっぱいの涙を浮かべて手を振った。憲造さんも美晴も見送った。どうかあの子にたくさんの幸せが続きますように。美晴はそう祈っていた。
「アゲハ、いなくなっちゃったね」
葵が芳則にそう伝えたとき、すでに芳則はドッグランの掃除を始めていたかと思うと、黙々とアゲハがいつも座ってたあたりの雑草を重点的に抜いていた。
「ここ、アゲハがよく座ってたから雑草伸びるのが遅いんです。この小さなスペースを縄張りみたいにしてたから枯れてるとこもありますね。アゲハが気に入っていたからその雑草たちを抜かなかったんです。ほら、なんとなく凹んでるとこがアゲハの形をしてるでしょ。芳則が寂しそうにしゃがみこんでいると、そこにアロマがやってきた。アロマは芳則が触っている雑草の上に座って芳則を見上げた。芳則がギュッとアロマを抱きしめるとアロマは精一杯の癒しを芳則に与えるかのようにそれに応えていた。

航真がケンネルのことをよくエッセイに上げていたので、元の上司から出版してみないと誘われた。そして、早速、憲造さんに相談しようと思ってケンネルに向かった。しかし憲造さんは珍しく野暮用があってこれから街まで行かなければ、と言って出かけてしまったらしい。しかたなく今日のところは諦めて帰ろうとしたが、美晴にちょっと話がしたいと言われてドッグランの横にある椅子に腰をかけた。
「芳則にも聞いてほしいの。実は、今日、憲造さんが出かけた理由なんだけどね。それはね、あの人、癌の疑いがあるの。こないだの火事のあと精密検査をしたでしょ。そのときのレントゲンで見つかったようなの。肺に黒い影があるみたいで。最近、憲造さんの様子が少しおかしいと思ったからこっそり引き出しを開けてみたら写真と手紙が入ってたわ。少しでも早く再検査してください、場合によっては手術か抗癌剤治療の必要がありますって。あの人、昔はかなりのへビースモーカーだったの。だから私にタバコはやめとけってずっと言ってて。でも今になってあの人自身がそんな病気になるなんて」
そうだったのか、あんなに健康そうなのに。あの火事のせいで見つかるなんて皮肉だと思ったが、むしろあれがなれけば病院など行かない性格の人だ。早い発見であればいいが。航真は憲造さんが帰るまでケンネルで待つことにした。
待っている間、航真と葵は美晴と芳則から都会での暮らしはどうだったか聞かれた。二人ともずっと田舎育ちで都会には時々買い物や観光に出る程度で暮らしぶりそのものに興味を持っていた。航真たちが何故ここに来たのかとか、これから先どうしていくのか問われた。航真は過去の話はできたが、これから将来のことはうまく話せなかった。話し方の問題ではなく話す材料がないからだ。ここでどうやって生きていくのか、その先にはまた都会での生活を求めるのか、まったく展望がなかった。ただ一日ずつゆっくりと過ごしてみて将来を見据える。それしか言えなかった。
「でも素敵だわ。さぞいろんな刺激を受けてこられたんでしょ。よくラッシュのときの電車の映像とか見てると私は都会生活なんて無理だと思ってしまう。物価も高いだろうしお洒落なんてしたら何かしらお金もかかるイメージがあるわ。でも自分を高めるにはすごく良いと思う。あんなに人がいたんじゃ誰かと張り合ってる場合じゃない。自分のために無駄なく成長していくんだと思う。逆にここには何もないもの。誰かよりも一番になりたいからケンカもするし縄張り意識みたいなものも出てきてしまう。私もいつか東京とか横浜に住んで自分を試してみたいと思う」
美晴の純粋な気持ちに航真は救われた気がした。都会暮らしが飽きてまったく環境を変えてみたいと思ってた自分の漫然とした決意が甘かったとも思った。どこで生きるにも強い意志と目的がいる。たとえ果たせなかったとしてもその意味が大事なんだと改めて思った。
「美晴さんなら都会に行けば刺激をたくさん受けて今の何倍も成長すると思うよ」
航真は本心でそう答えた。
「ありがとう。そのためにもまずはここで一人前になって憲造さんに認めてもらって芳則に引き継がないとね」
「ちょっと、美晴、僕を置いていかないでよ。年上のわりに頼りないけどこれから成長するのしっかりと近くで見ててよ」
美晴が芳則の方を見ると芳則は頬を赤らめムキになった。葵も微笑ましく思い航真と目を合わせた。
「あ、憲造さん、帰ってきたわよ」
美晴が憲造さんの姿に気づき皆が振り返った。憲造さんはいつもより穏やかな表情を浮かべた。
「何だ、みんなそんな顔して。また何かトラブルか」
そう言って笑ってその場の空気を変えようとした。皆がそれに続いて笑い声を上げたが、どの声にも違和感があった。ましてや憲造さんの穏やかな表情が事態の厳しさを表している。誰もがそう思った。

美晴と芳則が片付けと犬たちの世話をしてる間、憲造さんは航真に話があると言って隣に座った。葵もその隣で聞いていた。
「肺の黒い影はどうやら腫瘍らしい」
やはりか。航真は目を伏せて憲造さんの方を見ることができなかった。葵は航真の腕に触れて動揺を抑えていた。
「と言っても治療すれば治る見込みはあるらしい。昔と違って今の医療では完治に近い人もいるみたいだ。俺の家庭は癌の家系だしいつかそうなるかと覚悟はしていた。あと五年早ければどうなってたかわからないがこの五年で驚くほど治癒率が上がってるようだ。
俺は運がいい。ただしばらく療養と治療が必要だそうだ。それなりの金もかかるみたいだ」
航真はただ黙って憲造さんの話を聞いていた。どれくらい症状が深刻なのかわからないが今できる最大限のことを見守るしかないと思った。
「そこで頼みがあるんだが。決して無理にとは言わない。俺が病院に入ったらその近くで同じように犬のための施設を作ろうと思う。俺も仕事を辞めるわけにはいかないし、生き甲斐さえなくなってしまうと治療する意味もない。この施設なんだが、お前さんたちにお願いするわけにはいかないだろうか」
航真はずっと下げていた視線を憲造に合わせてその真意を伺った。
「本当はここを芳則と美晴に任せたいところだが、この前の一件もあったし、そもそもあの二人はまだまだ半人前だ。精神的にも幼い面もあるし犬たちも不安がるだろう。その点、お前さんたちなら安心できる。
もちろん時々ここを見に来るし困ったことがあったら遠隔でもなんとか対処できる。ここの施設を閉鎖して救われない犬たちがいると思うと自分の病気を悔やんでも悔やみきれない。さっきも言ったが決して押し付けるわけではない。これまでみたいに手伝ってくれていただけでも十分だ。仮に他の誰かに任せるならそいつを引き続き手伝ってくれるだけでもありがたい。返事は急がないからゆっくり考えてくれたらいい。実際に入院するまで立て続けに検査があるだろうから数ヶ月先にはなるだろう」
答えを急かさなかった一方で、憲造さんは航真からの出版の打診を受け入れてくれた。こういう施設があって不幸な犬たちがその命さえ脅かされていることをむしろ伝えてほしいと言ってくれた。
その夜、航真と葵は星空を眺めながら憲造さんの話を思い返していた。憲造さんの病状、自分たちに任された選択、犬たちの未来。
時折流れる星ともう少しできれいな円形を完成させる満月からは躍動感が伝わってきた。憲造さんと犬たちの希望の芽を摘んではいけない。そう思いながらも、自分たちにとっての希望が何か航真には定かではなかった。

それから憲造さんは検査のたびに病院に通った。入院前のいくつもの検査を経て本格的な治療に向けた病院生活が始まるのだ。航真たちは憲造さんにまだ答えを返せないでいた。

航真が横浜に訪れたのは久しぶりだった。すっかり田舎暮らしに馴染んでしまったのか都会の人の歩くペースが早く感じた。誰もが忙しそうに汗を流しながら何かを目指してどこかに向かっている。疲れ切ったようにも見える必至の表情で一体どんな未来に向かっているのだろう。それは数か月前の航真にも当てはまったことだった。
元の職場のあるビルに入って、改めて人工の造形物の多さと複雑さを感じた。エレベータが縦に早く動くことでどれだけの人々を都会に密集させることになったのだろう。ほんのこの一世紀の間に人類が感じる幸せの種類が変わってしまったんじゃないだろうか。そんなことを考える時間の余裕さえなく目的のフロアに到着してしまった。
「お、来たな」
早速、かつての上司が会議室で迎えてくれた。事務員に機械から注がれたコーヒーを出されて口に含むと、航真は芳則が入れるちょうど良い濃さの味が恋しくなった。
「なかなか面白いじゃないか。我々からすればまったく知らない遠い世界の話だ。今やファッションのように連れられている犬たちとは対照的にそんな不幸な運命の犬たちもいるもんだな。それを世話する男と青年たちの話か。これはきっと読者も喜ぶだろう」
航真は元上司がただ「売れる」ということを目的に自分に執筆を頼んできていることがわかっていた。しかしその上で憲造さんにも了承をもらって書かせてもらっている。航真にとっても憲造さんにとってもどんな目的でも結果として多くの人の目に触れ、犬たちのことを少しでも考えてくれるような世の中になることを望んでいる。それで十分だった。
「ありがとうございます。引き続きよろしくお願いします」
原稿を机に置いて航真はすぐさま立ち去ろうとしたが、まだ話があると言われたので座り直した。
「あのな。君さえよければもう一度ここで働かないか。最近辞めていく社員も多くなってな。代わりに入ってくる中途社員も君ほど書ける者はいない。もし前の報酬に不満があるなら上に掛け合ってもいい。考えてみないか」
そもそも書く仕事には興味があってこの会社に入ったが、この職場が、この職場の人たちが好きかと聞かれたらそうでないと思っていた。価値観が違う。その違和感を感じながらも仕事だからと割り切っていた面も多い。そこにまた戻れるのか。そんな選択があるのか自問自答していた。
「まあ、まだまだその施設、何だっけ、ケンネルだっけか。そこの取材も続けてもらわないといけないからすぐに戻ってこいとは言わないさ。君も婚約者がいるんだろう。いつまでも現実から目を背けて田舎暮らしみたいな夢を見続けるわけにはいかないだろう。しっかり働いて安定した報酬を得ないとどんな将来になるか想像できるか」
言われるまでもなく航真はこの人の将来を想像していた。それは航真が望む未来像ではないことは明らかだった。とは言え、自分の生活が不安定であることも残念だが自覚しなければいけなかった。
「ではまたお伺いします。久しぶりに都会の空気を吸っていろいろと刺激にもなりました。そのあたりの感じ方の違いを色濃く描いてまたお送りします。仕事を頂けて感謝しています。先程の件も考えてみます」
航真は人生に保険をかけてしまったと自分の意思の弱さを認めざるを得なかったが、断ることはいつでもできるし、まずはあちらの生活をどうやっていくのか決めなければと思っていた。
職場から外へ出ると懐かしい横浜の風景を見て改めてここが好きだったと思った。でももうそれ以上に好きな風景があった。横浜駅に向かう途中、上品な服を着てリードに引かれている犬たちを見かけた。航真は微笑ましく思ったが、すぐにケンネルで待っているアロマたちのことを思い返した。都会の犬たちに罪はないし、本当に幸せなのかはわからないが、少なくとも大事にされているならそれでいい。ただ、寄り添う者が自分たちしかいないアロマたちを愛おしく思い早く会いたいと思った。

航真がケンネルに戻ったときにはすでに夕方になっていた。アロマに話し掛けながら体を撫でていると航真の方が癒された気分になっていた。美晴も言っていたが、人が犬を撫でる時、犬が喜ぶから撫でるのではない。犬の柔らかさと温かさに触れると自分癒されるのがわかるから人は犬に触れたくなる。犬も喜ぶがそれはお互い様だ。航真は癒してくれてありがとうと思いながら長い間アロマに触れていた。同時に”アロマ”と名付けた葵のことを感心していた。
「あのう、ここに美晴さんという女性はいますか」
不意に話かけられた声がして航真が後ろを振り返ると、スーツ姿の初老の男性が頭を下げて立っていた。
「すみません、どういうご用件でしょうか」
航真は軽はずみに応えてしまってはまた美晴の居場所がわかってしまうことに警戒し、相手の用件から尋ね返すことにした。
「失礼しました。私はこういう者です」
男性は名刺と運転免許証で身分を示した。航真は差し出された名刺と免許証をまじまじと確認した。
「これは東京の大きな病院の理事長さんの秘書兼運転手さんということでしょうか。その方が何故こちらに?」
男性は再び深々と頭を下げて説明を始めた。
「実は、話すと長くなるのですが。理事長が美晴さんを探してらっしゃいまして。美晴さんは理事長の娘さんです。話を聞いていらっしゃるかわかりませんが、美晴さんはお母様が7年前に亡くなられた後、行方不明になっていました。そのあと、美晴さんが警察に逮捕されたという話もあり理事長が保護するか迷っていらっしゃいましたが、その時にはすでに再婚されていまして小さいお子さんもいらっしゃいましたので、警察から連絡あった際には理事長は引き取るということはしませんでした。それからしばらくして当時の奥様はお子さんと一緒に出ていかれてしまいましたが。奥様は世間体を気になさる方だったのでその事件を知って随分理事長に強く当たられました。そんなこんなでお二人の関係が悪くなりまして、結局、理事長の方から追い出されました。そのあと離婚が成立して、しばらくして理事長は闘病生活に入られましたんです。2回の脳梗塞で左半身付随になられてしまって。今もご自身の病院で治療を受けているのですが、主治医は次に再発すると今度こそ危ないと言っています。そこで私が」
男性がそこまで説明したのを聞き、航真は憲造さんを呼ぶことにした。男性は航真が憲造さんを連れてくるまでその場で施設を見回しながら待っていた。しばらくして航真が憲造さんを連れてきたとき、男性はアロマを優しく可愛がっていた。
「これはご無沙汰しています」
憲造さんから男性の方に話しかけた。
「その節は大変ご無礼をいたしました」
航真はそのやり取りが理解できなかったが、その場で二人の話が進んでいくのを聞くことにした。
「そうですか。美晴のオヤジさん、そんな病気になったんですね」
男性は小さく頷くと憲造さんの目を見て熱く話し始めた。
「あの時は、小さい子供さんもいてとても美晴さんを家に連れ戻すことは考えていらっしゃいませんでした。でも理事長はずっと迷っておられました。私に何度も涙を浮かべながら美晴さんを思う気持ちを語っていらっしゃいました」
憲造さんは空を見上げていた。おそらくそこに憲造さんの頭の中の過去の記憶が映し出されていたんだろう。航真は黙って聞いていた。
「あのとき、美晴は父に捨てられた、と泣いていました。それは母が亡くなってから、いや、その前からずっとそうだったと悔しがっていました。母が亡くなったのも、父の仕事で忙しくて母の苦しみを見過ごしていたからで、そのあと自分がグレ始めたのも父に迷惑をかけて病院が潰れればいいと思っていた。逮捕されたときも迎えにも来ず、きっと自分のことを信じてもくれず完全に縁を切りたかったのだろうと言っていました。それなのに、今さらどうしたいと言うのですか」
男性は言葉を詰まらせたが、自分の役割を果たすために一生懸命に話し続けた。
「あのときの理事長のお考えには私もどう助言すべきかわかりませんでした。美晴さんを引き取るよう説得すべきだったかもしれません。しかし、病院にも多くの患者を抱えておられ、美晴さんのことが公になるとそのたちを救えなくなるかもしれない、そう助言してしまったのは私です。私が美晴さんを見捨てるよう仕向けてしまったのです。本当に申し訳ございません」
男性はボロボロと涙を流し、ハンカチで目頭を押さえている。
「今となっては私のことはもとより、理事長のことも許せないでしょう。どう償いをしても償い切れないかもしれません。あなたはもともと警察官としても美晴さんをお世話してくれて、そのあともこの施設でずっと大事にしてくれています。そんな方に私たちが何を言えるか、そんな資格なんてないと思っています。しかし、今の理事長を見ていますとそれはそれで辛くて」
ずっと歯を食いしばるかのような表情で拳を握りしめていた憲造さんは不意に立ち上がって部屋の中に入っていった。鼻から聞きたくもない話だったのか、相手にもしたくないのか。航真は美晴の過去の選択には納得できなかったが、今は病に倒れている血の繋がった肉親の状態を美晴は受け入れられるのか、それも相当な複雑な気持ちを乗り越える必要があると思った。すると中から美晴が憲造さんに連れられて出てきた。
「ああ、美晴さん」
男性は美晴の姿を見て一層泣き始めた。美晴はぐっと表情を固くして男性を睨みつけるようにして尋ねた。
「父は、あの人は今どんな様子ですか」
男性は美晴の父親の病状を事細かく説明した。美晴さんはまったく表情を変えずじっと聞いていた。
「ここにあなたが来たのは父の指示ですか」
美晴が聞くと男性は大きく首を振った。
「今日私は理事長には内緒でこちらに来ました。今は病床におられますが、理事長はずっと美晴さんのことを話しておられます。小さい頃の思い出。誰よりも自分のことが好きでいてくれて、周りへの自慢だったと。それが自分が忙しくなってきたせいでどんどん会える時間が減り、母親の病死の後、確執ができてしまってその後はうまくいかなかったこと。自分には支えてくれる人が欲しくて今の奥様と再婚してからは美晴さんはもう家に帰らなくなってしまった。それも全部自分のせいだと言って思い出しては泣いていらっしゃいます。私はダメもとでこちらを訪れて、美晴さんに一目理事長に会ってもらえないかと思ったのです。まったく年寄りの勝手な考えです。またしてもそちらのお気持ちも構わず申し訳ございません」
「なぜ私がここにいることがわかったのですか」
美晴は立て続けに聞いた。
「実は、理事長が美晴さんに渡しておられたクレジットカードなんですが。ほとんど使われなくなっていたようですが最近一度、この近くの駅前の売店でタバコを何箱か買われたときに使われましたよね。そのカードの明細からこのあたりに暮らしていることがわかったのです。そのあと、ここ周辺の情報をネットで調べてみるとこの施設のことがエッセイに書かれているのを理事長が見つけて。そこに描かれているある女性のことがもしかしたら美晴さんかもしれない、って言っていたんです。まさか、とは思いましたが、美晴さんは小さい時から犬が大好きで、その可能姓を調べてほしいとは言われていたので。もちろん理事長は私にここには近づかないように言っていました。エッセイを読んでいるといろんなことがあったにもかかわらずそれを乗り越えて美晴さんが笑顔で過ごしているのがわかったから、もうそれで十分だと。私が差し出がましく美晴さんに理事長に会ってほしいと思い、思わずそちらの男性に声を掛けてしまったんです」
男性は美晴の方をまっすぐに見つめまた深々と頭を下げてその場を去ろうとした。航真とはその様子を見ながら美晴はどうしたいのだろうと思っていた。そんな複雑な気持ちがすぐに整理がつくわけがないだろう、そう思った矢先に憲造さんが美晴に近づいて話しかけた。
「いいのか、これで」
美晴は大きくため息をついて憲造さんの方を見た。
「私、どうしたらいいのかわからない」
憲造さんは美晴を優しく抱き締めた。美晴は声を出して泣いた。美晴の声はケンネルに響いた。犬たちは動きを止めて二人を見守っているようだった。航真は静かに立ち上がって再びアロマを抱き上げた。アロマから鼓動と呼吸の音が伝わってくる。顔を近付けて身体の匂いを吸い込むと複雑だった頭の中が少しだけ軽くなった気がした。

この日は満月だった。航真は家に戻って葵とルークと夜空を見上げた。航真は葵にその日あったいろんなこと、そして感じた気持ちをすべて語った。葵は一つ一つを丁寧に聞いてくれて、航真は自分の気持ちがどこで落ち着くのか探っていた。結局その気持ちの行方はわからなかったが、わからないこと自分の気持ちを自然に受け止められて、今はそれでもいいんだと思った。

満月が揺れている
あまりに縁取りがくっきりしているせいで時間の流れとともに揺れて見えるのだ
一瞬完璧な球体を完成させたかと思うとそこからまた未完成へと姿を変える
時は移ろい留まることを止めようとしない
それは残酷でもありそれが希望でもある
無数の星を背に浮かぶ月はただ静かに呼吸を
していた



ケンネルを訪れた今日の客は航真が目当てだった。こんな日を迎えるのは航真と葵にとって残酷すぎる試練だった。

憲造さんから呼び出しがあり葵とルークと一緒に急いでケンネルに向かった。ルークの写真をホームページで見つけ、以前飼っていた犬と良く似ているいう人が会いに来たというのだ。航真と葵がケンネルに着くといきなり小学生くらいの女の子がルークに飛びついてきた。
「リキ、リキだ!リキー」
突然の女の子と叫びと抱擁にもルークは驚くことも避けることなくただ体を委ねた。そばには母親らしき女性がいた。女性は航真と葵の方に体を向けると深々と頭を下げた。そこから始まった女性の話は航真と葵を圧倒させるほど深いものがあった。途中まで聞いてルークの耳と背中にある傷の意味がわかった。母親と娘は普段から父親から暴力を受けていて、ある日ルークが二人を救ったときに怪我をしたのだという。ルークは二人を守るために父親に襲いかかり近所の人がその騒ぎで警察と保健所に連絡し、ルークはそのまま保健所に引き取られたのだ。父親から虐待を受け続けて孤独に生きてきた娘はさらにルークをふいに奪われてしまい完全に心を閉ざしてしまった。そしてとうとう口が聞けなくなってしまっていたのだ。父親は当時アル中で相当量の酒を飲んでいて、妻と子に暴力を振るい向かってくるルークをビール瓶で傷つけてしまった。ところが、ルークがいなくなった後、娘の様子がおかしくなったことから一気に改心して人が違ったように妻子の面倒をしっかり見るようになり、娘が再び心を開くようになるためにあらゆる努力をした。ルークをもう一度取り戻そうと努力したが、保健所に引き取られた犬はその後たらい回しでどこの施設に行ったかわからなかったようだ。他の犬を与えようとしたが娘はまったく笑顔を取り戻さなかった。娘は学校にも行かなくなり毎日部屋に引きこもる生活が続き、およそ半年が過ぎた頃、母親が偶然ネットでルークの写真を見つけた。それを女の子に見せると、久しぶりに「リキ、リキ」と声を上げたというのだ。女の子が感情を強く出したのもそれが久しぶりだったようだ。
「わがままを言っているのは百も承知です。それでもやはりお願いしないわけにはいかないのです。どうか、リキをあの子に返してやってもらえないでしょうか」
母親が唐突に言った。航真も葵もそう言われるのではないかと予想はしていた。しかし現実になると、はい、そうですか、というわけにはいかない。ルークは航真たちとおよそ1年間ここで一緒に暮らして家族同然になっている。ルークを失うことは二人から我が子を奪われるようなものだ。
「それはあんた都合良すぎやしないかい」
憲造さんが航真たちより先に口を開いた。母親は憲造さんをまっすぐに見つめると悲しげに目を伏せた。
「わかってます。わかってる上でお願いしに来たのです…」
母親が泣き崩れるようにそこにしゃがみ込んだので葵がそっと肩に触れて椅子に座るように誘導した。母親はハンカチを握りしめながら懸命に声を出した。
「あの子のため、というより私たち家族のためでもあるんです。夫も私もリキを失ってからリキの存在の大きさを知りました。もしかしたら保健所でそのまま殺処分されているかもしれないと悔やみました。娘は精神的なショックで入院しました。夫は警察で取調べを受けました。私たちは自分たちのことで精一杯でした。あのときリキが家にいたとしても誰も面倒を見られなかったかもしれません。その後、夫が帰ってきて娘と私に許してほしいと何度も謝罪しました。娘も私も拒絶反応というか簡単に許すことはできませんでした。夫はリキを連れ戻す約束をして必至に探し回ったんです。でも見つかりませんでした。夫の懸命な姿を見て私たちは夫を許そうと思ったのです。代わりにまた仔犬から育てようと行って三人でホームセンターやペットショップに行っては別の仔犬を触ったり抱いたりしました。だけど、だけど、やっぱり娘にとってはリキの代わりになる犬はいなくて…」
ここまで聞いてあまりの気持ちの複雑さに葵は動揺してしまい航真の手を握って黙ってうつむいた。航真は母親の話を聞けば聞くほどこの親子にとってルークの存在の必要さを感じずにいられなかったが、やはりすぐには納得できなかった。
「あの、お気持ちも事情もよくわかりました。娘さんの笑顔を見ていると我々もとても拒むことはできなくなりますが、今すぐに了承するにも心の整理がつかないというか、あなた方がそうだったように心にポッカリと穴が空いてしまいます。少し時間をいただけませんか。状況を受け入れるにもルークとお別れするにも時間が必要です。今日はお引き取りいただけないでしょうか」
航真はこう話すのが精一杯だった。時間を稼いだところでどうなるわけではない。この親子からルークを取り上げて誰が幸せになるのか。そんなことはわかっていた。ただただルークとの絆が今すぐに奪われてしまうことが辛かった。葵だって同じ気持ちのはずだ。こんなに辛い日が来るなんて思いもしなかった。
母親が口を開いた。
「わかりました。もちろん理解しております。この子にもそのあたりはちゃんと納得させます。また出直します。今日はありがとうございました。そして、私たちのような者が現れてしまってごめんなさい。本当にごめんなさい」
母親の目にまた涙が浮かんでいた。娘の手を引いてルークと引き離すとこちらにさよならをするように伝えていた。女の子は無邪気に手を振りルークにも笑顔でお別れを言った。
「リキ、バイバーイ。また来るからね」
親子はそのままそこから立ち去ったが、なぜ今日ルークを連れて帰れないのか尋ねる娘に母親が言い聞かせているのが聞こえた。
航真が葵の方を見ると、葵はすぐさまルークに抱きつき涙を流していた。ルークはどう思ってるんだろう。無表情で遠くを見つめる目の奥に複雑な思いを巡らせているように見えた。

家までの帰り道、航真と葵はルークを連れて少し遠回りをした。街と海を見下ろせる高台にある石の上に腰掛けた。二人ともしばらく何も言葉を発さず波が一定のリズムで打ち寄せる海岸に目をやっていた。ルークはいつもとは違う少し大人びたようなキリッとした顔で同じところに目線を向けている。
「葵」
ふいに航真が呼びかけると葵は口元をギュッと固めて答えた。
「わかってるわ」
航真が何を言ったわけでもない。ただ気持ちを確認したかったのと二つの選択肢の先にそれぞれどんな未来があるのか、それを二人で語りたかった。
「わかってる。ルークは私たちのものではないわ。あの家族からほんの少しの間預かっていただけなの。私たちがルークからたくさん幸せを与えてくれたように、あの子やあの家族ともたくさんの時間を共有して思い出もいっぱいあって、そしてやっと再会してまた一緒に暮らしたがってる。ルークに気持ちなんて聞けない。ルークだって困るだろうしどちらかを選ばせるわけにもいかないわ」
葵は瞬きもしないのに大粒の涙がその重さに耐えきれず自然に落ちて弾けた。
「残酷なのか幸せなのか良かったのか悪かったのかさっぱりわからない。ただ、ただルークはこんなに多くの人を幸せにしたんだね。それがわかって嬉しいよ。もう父親は改心したのであればルークはきっと可愛がってもらえる。僕らに邪魔する権利なんてないんだろうね」
夕日が逆光となって照らす葵が影になっていたが小さく頷くのがわかった。葵はルークの頭を優しく撫でながら、「ありがとうね、ルーク」と言って涙を拭っていた。航真と葵は夕日が完全に落ちて星の出番が来るまでそこを離れなかった。
今日の月は新月から一日経ったばかりの綺麗な金色の縁取りを光らせていた。航真が一番好きな月の形だったがこの日だけはその丸みの縁取りが葵の瞳から溢れた涙と重なって見えた。その右下のところに光が集まってやがて雫となってこぼれ落ちるんじゃないかと思った。その日はルークと一緒に寝ることにした。ルークの柔らかい毛並み、太陽のようなあったかい匂い、時々舐めてくるざらついた舌が愛しかった。葵も耳や尻尾を撫でながらルークの感触を五感に埋め込んでいた。何より心に焼き込んでいるように見えた。ルークも心地よさそうに触られながらゆっくりとリズミカルに寝息を立てていた。触られる喜びと触らせる役割を味わいながら二人に囲まれた空間を優しい空気で包んでいた。

窓から入る日差しが翌朝を伝えた。航真は葵とルークの寝顔を瞼に焼き込んでいた。ルークがこのままお別れの朝が来たことに気づかなければいいと思った。航真の視線に反応したのか葵が薄らと目を開けた。航真が優しく微笑むと葵も航真に笑顔を返した。二人は子供みたいにまだよく眠っているルークを起こさないようにそっと見つめていた。いつもと変わらない穏やかな朝を迎えることでルークから安心をプレゼントされてるように思えた。
航真たちはあの家族に連絡して決心を打ち明けた。母親が電話の向こうで涙ながらに感謝を伝えていた。三人で迎えに行きます、と言ってくれたので航真はこれでよかったんだと自分に言い聞かすことができた気がした。
ルークを家族に返す前に綺麗にしておきたいと葵が言うので航真がシャワーを浴びさせた。初めてルークの体を洗った日はシャワーの音を怖がってルークが吠えたり暴れたりしたがこの日はおとなしくお湯をかけられていた。気持ちよさそうにも見えたが何か儀式を受けているようにも見える。いつもと違う空気を悟っているのかそれともルークなりの緊張感なのか。葵をルークの体を拭きながらそう語っていた。そして体を拭き終わるとルークの少し大きくなった体を抱きしめて「できたわよ、これでいいわ」と呟いた。
約束の時間より早めにルークを連れてケンネルに向かった。帰りにはいないんだ。そんな寂しい文字の羅列が心から上ってきたのを飲み込んで言葉にさせなかった。最後の最後までルークとの楽しい時間を大事にしたかった。

ケンネルでは憲造さんと美晴と芳則が早くから待ってくれていた。
「ルーク。あなたを必要としてる人がたくさんいるわ。私たちのことも忘れないでね。また困ったことがあったらひとりで帰ってきてもいいのよ。そしたら今度はもう返さないからね」
芳則も続く。
「ルーク、俺たちいつまでも友だちだからな。ここを忘れるなよ。幸せになれよ」
かすれる声で最後の方は言葉になっていなかった。それでもルークには伝わったのか、芳則の顔をペロリと舐めて鼻を擦り寄せた。
憲造さんが芳則の背中をポンポンと叩いて慰めた。そしてルークに近づくと何も語らずじっとルークの目を見つめていた。何を伝えていたんだろう。感謝なのか、何かの約束か。航真たちは憲造さんが見つめているその間にそれぞれのルークへの想いを巡らせていた。憲造さんが大きな手のひらでルークの頭を撫でるとルークは耳を後ろに倒して、ありがとうと言っているような表情を見せた。
車が着いて女の子がルークに向かって走ってくる。その後に母親、そして父親も続いて現れ憲造さんたち頭を下げた。
「これ、リキに新しい首輪買ってきたんだよ。赤いのカッコいいでしょ。リキ、似合うよ。これ着けて一緒に散歩行こうね」
無邪気な女の子の声にルークが圧倒されワンと吠えた。女の子にはそれが返事のように聞こえ、「嬉しいんだね」と言って笑った。
「ご主人、これまでリキをありがとうございました。これからは大事にします。家族のように迎えます」
父親が母親と一緒に深々と頭を下げた。そして航真と葵の方にも近づくと同じように深く一礼して感謝を伝えた。
「自分たちが勝手なことを言ってることはわかっています。本当に申し訳ない。ただ、もし良ければここにもこれから頻繁に連れてきたいと思っています。ここはリキにとって第二の故郷。いや、第一かもしれない。あなたたちからすべてを奪うようなこともしたくたい。リキだって寂しがるでしょう。だからせいぜい会ってやってほしい。これっきりになんてさせたくないですから」
父親のこの言葉は航真たちにとってせめてもの救いだった。葵も航真と一緒に笑顔を浮かべて逆に御礼を伝えた。
「私たちの気持ちも理解してくださりありがとうございます。是非連れてきていただきこの大自然を走り回らせてやってください。お待ちしていますね」
新しい赤い首輪にリードをつけられて車に乗せられるルークの後ろ姿を見るのは寂しかったが、ルークが一度も振り向かずにいてくれたことはルークの優しさだったかのかもしれない。寂しそうな顔を見せたら誰かが飛び出して追いかけたかもしれない。別れは意外にあっけなかった。最後のルークの後ろ姿が航真たちの心に残像として刻まれた。そうしてルークはケンネルからも、航真と葵のもとからも離れてしまった。
「なに、死んだわけじゃないさ。また会える。あいつの今後の活躍を祈ろう」
憲造さんはそう呟いたがやはり物悲しそうだった。もう何頭とも別れを告げて来た憲造さんであってもルークは何か特別だったのかもしれない。航真との出逢いのきっかけにもなっていたのだから。

「ルークも新しい道を歩み始めたところで、美晴、お前も覚悟を決めたらどうだ?」
ふいに美晴の話になって一同が美晴の方を見つめた。
「何を言い出すの?」
美晴が聞き返すと憲造さんは淡々と話し始めた。
「お前さんはしばらく実家に帰った方がいい。病気の親父も待ってる。お前さんが側にいてやった方が元気になるたろう。ルークもそうだが、お前さんも自分に与えられた役割を演じるべきだ。人も犬もその宿命を背負って生きなければならない。ルークはあの子と家族のため、お前さんは親父さんのため。そうせねばならないときがある。それが宿命というものだ。また都会で生きて自分が何をしたいかじっくり考えるといい。何もここでの生活だけがお前さんの人生ではない」
美晴は俯いて父親のことを考えていた。これまでの確執はもちろんあるが今病床で弱ってる父を見殺しにしてしまっていいんだろうか。自分に何ができるわけではないが、成長した姿を見せて笑ってるだけでも父親を元気づけられるかもしれない。憲造さんが言う宿命がそれにあたるならそれを今は背負うべきなんだろうか。
「親父さんはお前さんのカードの契約をずっと解約しなかった。きっとお前さんの生活を見守りたいという理由もあるだろうが、本当の理由はお前さんの行動、少しでも把握できるからだったのだろう。監視ではない。元気で生きているか確かめたかったのだろうと思う。お前さんだってタバコを買うくらいならわざわざカードを使わなかっただろう。きっと親父さんに自分の居場所を伝えたかったからじゃないのか」
図星だった。美晴にとって親のカードを頼るほど生活に困っていたわけではない。憲造さんから少なからず生活費になる給料ももらっていたし何か贅沢をしていたわけでもない。そのカードがまだ使えるのか、使えるのであればまだ父親が自分の行動を気にしてくれているかを確かめていたのだ。
「でも、私、ここを離れるなんて嫌よ」
美晴の目には光るものがあった。憲造さんは優しく微笑んで美晴にまっすぐに向き合った。
「ルークの気持ちがわかるか」
ここでもう一度ルークの名前が登場したことに航真も葵も驚いた。
「ルークだってここを離れるのは辛かったはずだ。だが犬は自分の役割を知っている。自分が何をすべきかを。ルークの選んだ道は女の子の側にいることだった。自分が守ってくれる人に甘えるのではなく自分が誰を守るべきか悟ったんだ。だから強い気持ちでここを去った。皆に寂しい気持ちを抱かせないように振り返らずに自分の宿命に従った。そんな弱いんじゃルークに笑われるぞ。今すべきことは何だ?甘えることか強くなって誰かを助けるべきじゃないのか」
美晴は瞳に溜まりきった涙を一旦落として瞼を拭った。そして憲造さんに抱きついてま今度は大声で泣いた。芳則もそのすぐ近くで同じように泣いていた。航真はルークの気持ちを思い返しながら誇らしく思っていた。葵は航真の手を取り溜まっていた悲しみを一気に飲みこんで美晴に語った。
「美晴さん、もう迷わないで。あなたの気持ちは皆が理解してる。その上であなたを応援してるのよ。お父さまが待ってるわ。私たちにとってそれは羨ましいこと。そしてあなたを誇りに思うわ」
美晴は今度は葵に抱きついて泣いた。泣きながら美晴がありがとうと言っているのを皆が聞いていた。
「俺のことは心配するな。親父さんより元気さ。ここは犬たちのためにもちゃんと守る。ああ見えて芳則も頼りになる。何も心配するな」
芳則はずっと鼻をすすって必至に涙を堪えていたが、憲造さんの言葉で一気に泣き始めた。
「俺が憲造さんを支えるから」
声になってはいなかったが言葉に力はあった。美晴は芳則に近づくと慰めるかのように優しく抱きしめた。
「頼りないけど任せるからね」
憲造さんはそれを聞いて大笑いし始めたが、芳則はそれに応えるように美晴を強く抱きしめた。美晴は芳則の背中をポンポンと叩いてさらに慰めた。

ルークと美晴さんがケンネルからいなくなって三ヶ月が過ぎた。航真と葵は相変わらずケンネルを手伝ってその間にも何匹もの犬たちがここに来ては去って行った。その度に出会いと別れを繰り返し犬たちの運命に触れてきた。命を見守る仕事。航真も葵もはっきりこの仕事を誇らしく思えてきた。芳則は相変わらずよく働いていた。憲造さんの体に気遣いながら体力を使う仕事は率先して行った。
「美晴からメールが来てるぞ」
憲造さんに呼ばれ三人が美晴のメールを覗き込んだ。
(憲造さん、航真さん、葵さん、それから芳則さん、ご無沙汰しています。お変わりなくお元気ですか。そこにいるワンコたちも幸せな毎日を送っていることだと思います。私はあれから父との暮らしを楽しんでいます。昔はこんなふうに打ち解けることはなかったですが、お互いが経験してきたことを笑い話のように語り合っています。よくケンネルの話もします。そこに連れて来られる犬たちの生い立ち、出会いと別れ、そして運命みたいなことも話します。父は他人のことなど気にせずに生きてきた人ですが、病気のせいか、私だけではなく、病院の人、患者さんにも気にかけ、さらにはケンネルの犬のことにも関心を持ってくれます。もちろん皆さんにもたくさん感謝していつか元気になったら御礼に行きたいと言っています。もう少し暖かくなったら皆さんにも是非父に会ってほしいと思っています。私は学校に通い始めました。ドッグトレーナーとトリミング、そして獣医の資格も取ろうと思っています。一度には難しいですが、医師の父の遺伝子が受け継いでいるのであれば持ち前の根性で乗り切れると思っています。憲造さんがそこで教えてくれた強い意志、航真さんに教わった冷静さ、葵さんに教わった心遣い、芳則さんに教わった動物愛。そして何よりも犬たちに教わった宿命を生きる強さ。私が人として生まれてきた意味はまだわかりませんが、誰かの役に立ちたい、ということ。人が生きる上で何が大切か一緒に考えてくれる人たちを増やしたい。それは犬を通じて私が学んだように、私が犬を守る上で誰かに伝えたい。そう思っています。またホームページで皆さんの活動を遠くから見守っています。皆さま、犬たちに幸多かれ)
ほぼ同時にメールを読み終わって皆が安心した表情を浮かべた。

遠くでゴロゴロと雷が鳴り始めた。雨が近づいている匂いがした。洗濯物を干しっぱなしにしているからと葵と航真は家に向かった。芳則は小屋に犬たちを導いた。憲造さんは空を見上げて一歩ずつ成長している美晴のことを想った。芳則は雨が降る前にと憲造さんを建物の中に連れて入った。
思ったより雨は強く長く降り続いた。時おり稲光に雷が混ざった。航真は音楽を選び、葵は夕食の支度を始めた。美晴が強くなったことを感じながら、「自分たちも目標を持たなくちゃいけないね」と葵が言ったのに航真は小さく頷いた。目標って何だろう。航真は思いを巡らせた。
夕食を食べている時も雨の勢いは止まらなかった。というよりむしろ勢いは増していた。雷も遠くだったのが少し近づいたようにも聞こえた。風が強いと相変わらず窓がガタガタと鳴り雷が地面を通じて床に響いた。レコードの針が飛んで音楽が戻ったり進んだりしていて落ち着かなかった。
「明日には止むかしら。またお庭の片付けもしないとね」
葵は食器を台所に下げながら窓から外の様子を伺っていた。航真はケンネルの犬たちが雷に怯えてないか心配だった。仲間がいるから大丈夫だろう。きっと慣れるだろうし。そう思って立ち上がりレコードを消してラジオに変えた。ラジオは県内全域に大雨警報と雷注意報が出ていることを伝えていた。二階の窓がしっかり閉まっているから確認しようと階段に足をかけたとき、玄関の扉からコトコトと音が聞こえた。風で飛ばされた空き缶が当たってるのだろうか。また明日片付けが増えるなと思った瞬間、さらにガリガリと引っ掻くような音に変わった。何だろう。何かいるのか。航真は玄関に近づき聞き耳を立てた。するとしばらくしてまたカリカリと引っ掻く音が聞こえた。航真は風で重くなった玄関の扉を少しずつ開けた。誰かが立っている感じではなかったが、足元に何かの気配を感じた。黒く濡れた塊がそこにあった。
「ルーク?ルークなのか」
扉をさらに開けると全身がびっしょりと濡れた犬が航真を見上げていた。フサフサした感じはまったくなかったが、確かにその犬はルークだった。
「葵、葵、ルークだ、ルークが来た」
思わず大声で葵を呼ぶと葵は航真の体越しに玄関の外を覗いた。
「ルーク、ルークなの?どうして?」
航真はルークを中に入れてバスタオルで体を拭いてやった。ルークは寒いからなのか少し震えていたが一気に体をブルブルと振るわせると航真と葵に水飛沫が飛んだ。驚きもあったがルークのその仕草に航真も葵も思わず笑ってしまった。
「なんだよ、ルーク、いきなりそれが挨拶かい」
ドライヤーで乾かすとあのフワフワが戻ってきた。そして精悍な顔つきに変わって元のルークに戻った。
「おい、どうしたんだ、ルーク。もしかして雷が怖くて逃げてきたのか」
「ルークは雷が苦手だもんね。前にも逃げ出したことがあったわよね。でも無事でよかったわ」
二人とも勝手に逃げ出したことに怒るというより嬉しかった。
「よくここまで来れたな。ルーク、覚えてたんだな。久しぶりに会えて嬉しいよ」
航真はあらためてルークを抱きしめた。それに葵も続いて航真の上からルークを抱きしめた。
「おかえり、ルーク」
またこうしてルークを迎えて一緒に暮らせたら、そこまで思ったとき、あの女の子の家族が心配してる姿が頭をよぎった。
「連絡してあげないとダメだよな。きっと探してるだろう。まさかここに来てるとは思ってないだろうし」
葵がスマホを取りに行って航真に渡した。航真は受け取ると、仕方ないかという表情で電話を掛けた。
「はい、そうなんです。わかりました。明日ではなく明後日ですね。お待ちしていますね」
電話を切って航真は寂しそうにスマホを葵に返しながら伝えた。
「明日には雨が上がるだろうけど平日なので父親が仕事で遅くなるから明後日の土曜にここに迎えに来るって」
「そう、わかったわ。でも明後日でよかったわね。明日一日ルークと一緒にいられるわね。散歩行ってケンネルにも寄ったら憲造さんも芳則くんもビックリするだろうね」
「そうだな」
航真はまだ寂しさを隠せないながらも葵の言う通り一日ルークとの時間をもらったみたいでよかったと思った。あとはその時間をルークと楽しく過ごそうと思い直した。
「ルーク、おいで。この家、懐かしいだろう。お前がよく座ってた窓際の床、敷物どけたら引っ掻き傷みたいなのがたくさんあったぞ。穴掘ってたんだろ。それから棚の下からルークのお気に入りのおもちゃが出てきたぞ。大事にしてたから隠したんだろうけど持ってくの忘れたな。ルーク、お腹空いてるか。何か食べるか。お前の好きなジャーキーまだ残ってるぞ。それからルーク…。ルーク」
航真は何度も呼びかけたあとルークを抱きしめた。ルークはおとなしくその愛情を受け取っていた。ルークも航真の感触を忘れておらず懐かしく思っていたはずだ。
その夜、航真と葵はまたルークを挟んで川の字で寝た。神様が与えてくれた時間。葵はそうとさえ思って幸せを噛み締めて眠った。
翌朝に雨は上がっていた。光が濡れた大地を照らし一面がキラキラと反射する水面のようだった。ルークを連れて懐かしい散歩コースを辿った。
「ルークはこの時間をどう受け止めてるんだろう」
葵が言った。
「僕も同じこと考えてた。ルークは今の暮らしから逃げたくてここに来たんじゃないんだろうね。あれだけずぶ濡れだったけど毛並みはちゃんとしてたし石鹸の匂いがしたんだ。昨日お風呂に入れたとき首輪を外したら首輪の裏にアドレスタグが付いてた。迷子になったら連絡をもらうためのタグだよね。それに表情が柔らかいままだった。初めて出会ったときは目も鋭かったし人への警戒も多少あった。でも今は穏やかなままだ。きっと幸せに生きてる。雷が怖かっただけなんだよ。明日家族が迎えに来るから雰囲気も確かめられるね。だからルークはちょっとだけ僕らを懐かしかったんだろう。それでも喜んでくれてるさ。な、ルーク」
航真はルークの背中を撫でて顔を覗き込んだ。ルークは航真の鼻先をペロッと舐めて返事をした。風が秋の匂いを運んでルークの尻尾を揺らした。
「そうだ、葵。大事なことを伝え忘れてた。ごめん、気が動転しててすっかり忘れてたよ」
「どうしたの?ルークのこと?」
葵が目を見開いて航真を見た。良い話か悪い話か検討もつかないときの不安な眼差しだ。
「僕も今思い出したんだけど、昨日あの家族との電話で聞いたんだけど、ルークに、ルークに子どもができたらしいんだ。近所の犬と仲良くなってその犬が妊娠したことがわかったって。ルークの子どもだって。それで産まれたら是非見に来てほしいって。僕らにもらってほしいって」
「そうなんだね。やるなぁ、ルーク」
葵は笑顔を浮かべて人差し指でルークをつついた。ルークは振り返って舌を出したのが照れ臭そうにしているかに見えた。
「それで、どうしようかと」
航真は少し真剣な顔をして葵を見つめた。
「そうね。航真はどうしたい?」
航真は自分はどうしたいんだろうと問いただした。ここでルークの子を引き取って育てるとなると都心へ戻るのは難しくなる。もちろん犬が飼える家を探せばいいがそれ以外にも考えて結論を出さなければいけないことがある。ケンネルだ。憲造さんが病気を克服するまでの間、どれくらいかかるだろうか。その間、ケンネルを自分が守っていけるのか。そう決めてしまっていいのか。出版社へ戻る話も来ている。自分が都心へ帰れば誰がここを守るのだろう。憲造さんの代わりの人が来てその人に任せていいのだろうか。葵とここでの生活をまたしばらく続けたとして葵はどうなんだろうか。航真が下を向いて考え込んでいたとき葵の声が聞こえた。
「問題が投げかけられていてこんなに答えに導いてくれるヒントがあって、答えないのはいけないわ」
航真は葵の方を見た。
「航真はいつも周りを考えすぎる癖がある。周りと調和しようとする性格なのね。私はそういうところ好きよ。優しくて責任感があるもの。でもね。航真自身がどうしたいか教えて。私は航真についていく。航真がどういう道を選んでも理解して尊重してついていくから」
ありがとう、と声にならない言葉を囁いて葵を抱きしめた。
「僕はここにいたい。ここにいて葵と一緒にケンネルであの犬たちの命を守りたい。子供っぼいかもしれないけど、自己満足かもしれないけど、それが僕のしたいことだ」
葵は航真の背中に巻きつけた手に力を入れて航真の背中を優しく叩いて頷いた。ルークは相変わらず舌を出しながら長細く光る月を眺めていた。月も航真たちをジッと見返していた。

星の数からの偶然の出会い。奇跡だった。航真と葵はその奇跡に感謝した。
「明日、ルークとさよならする前に憲造さんのところへ行こう。そして、ちゃんと意志を伝える」
航真は葵の手を掴んだ。葵も握り返した。
「ねえ、犬といるとどうして癒されるのかしら」
葵はこの質問が好きだった。航真はもう何度答えたことか、でも答えるのも好きだった。
「愛情を溜め込んでいるから。ルークには僕らの愛情がたっぷりと入っている。それにルークからの愛情を混ぜて返してくれる。よく眠るのも体が温かいのもそのエネルギーを溜めてるから。愛すれば愛するほど返ってくる」
葵はいつもの答えに新鮮さを感じて微笑んだ。
「僕らだってそうだろ」
今度は航真が微笑んだ。
「私も癒すわよ。愛情を注いでくれたらね」
僕もそう言おうと思ってた、航真はそう言おうと思ったが葵の微笑みが嬉しくて言葉にならなかった。

満天の星空の下
新月から生まれたばかりの光の鼓動で星がひとつ流れ、また新しい始まりを告げた
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