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将門の過去
クタシ
しおりを挟む獣の咆哮が、けたたましく山野に木霊する。――咆哮の源。それは体高四尺、全長は六尺を超える、血走った目をした大猪であった。
大猪は鼻息荒く、片足で土を掻き、その大きな身体を震わせながら、酷く興奮していた。
大猪の興奮の原因は明らかであった。
自らのように牙を持ち、四足で地を踏み締め、砕いていくモノではなく。――矮小な体躯で牙も持たない、二足で立つ存在が、行く手を阻むように立ち塞がったのが原因である。
立ち塞がる男は短い刀を口に咥え、肩幅より少し足を開け、膝を少しだけ曲げ、両手を胸の前で隙なく構えていた。
上半身を惜しみなく開け晒し、鍛えられた筋肉と日に焼けた肌に、木漏れ日が斑点を作る。
――大猪は駆ける。
その二本の牙を柔らかい肉に突き立て、ただの肉塊にせんと男に迫る大猪。
男は冷たい汗をかきながらも、一歩も引かずに刮目して対峙する。
山野に響く衝突音。
その音の元から逃げるように鳥が羽根を残し、飛び立つ。
男は肉塊とならずに、二本の牙を押さえ、大猪の突進を押しとどめていた。
「ぐふー!」
男は口に咥えていた短刀を砕かんばかりに噛み締める。
大猪はさらに四足で地を蹴り続け、男を押しつぶさんとする。
しかし、一瞬きの間に男の筋肉が隆々とし。
ゆっくりとであるが確実に、大猪の身体が持ち上がり始める。
――四足が空回りを始め。ただ空を蹴るのみとなる。
男は、そのまま大猪を真上に持ち上げながら口角を上げる。……持ち上げた大猪を地面に鍬を落とすように、力の限り叩きつける。軽い地響きと轟音が立つ。
一度ではなく、二度、三度、四度と。
大猪の四足は折れ曲がり、内臓が損傷したのか、口から血泡を噴き出している。
「今、楽にしてやる」
男は口の短刀を持ちながら手を合わせ。
動けなくなった大猪の首元を短刀で斬り裂く。
「うむ。……今日も夕餉にありつけた」
汗を拭い、快活に笑う。
その声は山野に良く響いていた。
男の名は平貞盛。
父親である、平國香が没し。一年の喪が明けてからも未だに都に戻らず。……粗末な、あばら家で、やもめとなった母親を養いながら、燃えてしまった田畑や家屋を再建しようと尽力していた。
「しかし。……でかいね」
あばら家の外で、貞盛が鼻歌交じりで大猪の皮を剥ぐところを見ながら、母親である、稲はポツリとこぼす。
「おお! 大きいでしょう。この辺りの主でしょうな」
振り向かずに大猪の解体を続ける貞盛の背を、稲は軽く叩く。
「なまっちょろかった、貞盛がこの一年でデカくなったもんだって言ってんだ」
山野を駆け回り、獣を狩り、そして食していた貞盛の身体は、将門の隣に並んでも見劣りしない程に鍛えられていた。
「ところで、貞盛。……都には帰らないのかい? 皆に都に帰って、出世の道を歩めと言われてるだろ」
貞盛は頭を掻く。
「……良兼叔父上が兵を集っていると風の噂で聞きました。それに良正叔父上から参戦して欲しいとも言われました」
流々と語るが、大猪を解体する手を止めない。
「将門とは。……心苦しいですが、一戦交える事になると思います」
皮を剥ぎ終わり、赤い肉が見える四足を丁寧に身体から取り外していく。
「都に帰らず。此方に残って、一族が争わずに済むように……説得して」
そこまで言いかけたところで、稲は強く貞盛の背を叩く。
「好きにしなさい」
その一言と貞盛の背に真っ赤な、季節外れの紅葉を残し、あばら家の中に入る稲。
貞盛は頬を掻き、溜息を吐きながら、大猪の解体を進める。
承平六年(九三六)――六月。
一族の長となった、平良兼が平良正の要請に応じ、動き始める。
上総国や下総国の国庁からは、これ以上の私闘や争いを看過することは出来ずに禁遏を加えていた。
しかし、良兼の声に呼応した兵達は禁遏を物ともせず、各地の関所で制止されても口を揃えて。
「親戚に会いに来た。後生だ、通してくれ」
と、宣いながらも、武装したまま押し通っていく。
勇敢な関所の番人が押し留めようとするが、兵達の異様ともいえる気迫に気圧され押し黙り、頭を垂れてしまう。
誰もが、また戦さが始まる事を悟った。
上総国武射郡――良兼の本拠。
集まった兵の前で良兼は神妙な面持ちで立つ。
「よくぞ! 禁遏が下っている中、集まってくれた!」
声が遠くまで響く。
「これより我らは弟である、平良正の元へ、常陸国へと向かう」
集まった兵は皆、平良兼が鎮守府将軍として、任官する前からの付き合いの者たちばかりであった。
「此度は。……表の戦さと裏の戦さとなろう。皆、今一度、儂に力を貸してくれ!」
良兼の言葉に応じ、腕を上げ、雄叫びを上げる兵達。
「では、出陣!」
平良兼は一騎当千の兵を率い、隊列を組み、常陸国の平良正の拠点である、水守営所を目指し進軍する。
卯の花腐しは去り、行軍にはもってこいの日和であった。
平良兼の軍勢は北へと向かい、下総国香取郡神崎へと移動し、利根川を渡り、常陸国信太郡へと辿り着く。
道中、予想された国庁による妨害も無く。
順調に進み、明朝には軍勢は水守営所へと到着した。
良兼は水守営所へと着くなり、外で野営の準備をするように軍勢に沙汰を下していた。
「良兼兄上! 御無沙汰しております!」
慌てた様子で営所内から飛び出してくる平良正。
「よい。……良正、此方は戦さの支度は出来ている。……そちらの支度はどうだ?」
平良正は、死ぬる前に会った平國香と同じように、顔色があまり良くない。
「はっ! もう一月の間に支度が整います」
報告を聞き、一先ず頷く良兼。
「あいわかった。……では、それまで我らは水守営所の外で待とう。兵糧は頼んだぞ、此方の者にも運び出すのを手伝わせよう」
良正は勢いよく返事をし、水守営所へと戻って行く。
良正を見送った後に、良兼は信頼の置ける、四人の兵を呼ぶ。
「お前たち、兵糧を運ぶ手伝いの最中に抜け出し、中の様子を探ってこい。裏だ」
良兼の、ひそりと呟くような声。
四人は「裏」という、単語に僅かに反応し、しっかりと頷き、人足を集めるために散り散りになる。
「さて、これで痕跡の一つでも見つかれば良いが。……厳しいじゃろうな」
すでに過ぎ去りし事ではあるが……
恥じる事に良兼は平國香と直接に顔を合わしていても、化生の気配も痕跡も見抜けなかった。
もしかすれば、違和感を感じれなくするように、知らずのうちに術を掛けられていたのやも。と……独白しながら、水守営所を睨みつける。
「婿殿よ、将門よ。……やはり、都に助力を求めねばならんかもしれんぞ」
湿気た生温い風が吹き、良兼に纏わりつく。
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