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19 調律はこまめに
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「わわっ! もうこんな時間!?」
翌日、昼前に目を覚ましたライザは、ベッドから飛び降りていそいそと身支度を調え始めた。
「ふぁ……悪い……今日早いってわかってたのになぁ」
「べ、別にクロードが悪いわけじゃないだろ? そのことはあたしだってわかってたわけだし……」
まだ寝ぼけた様子の蔵人に、すっかり目が覚めてしまったライザは、少し照れながら答えた。
「クロードはまだ寝てていいからね? 朝ご飯……もうお昼か。とにかくご飯はたぶんフィルが来てると思うから、起きたあと言えば何か作ってくれるよ。じゃっ!」
服を着終えたライザはそう言って慌ただしく部屋を出ようとしたが、ふとなにかを思い出したように立ち止まり、ベッドのほうへと戻ってきた。
「ん……」
そして、まだ寝ぼけ眼の蔵人に顔を近づけ、優しく唇を重ねる。
「ふふ……じゃ、いってくるね」
そして今度こそ部屋を出て行ったが、その足取りは慌ただしいと言うより軽やかといった様子だった。
「……目ぇ覚めちまったじゃないか」
唇に残る柔らかな余韻に少し浸ったあと、蔵人は大きく伸びをしてベッドから下りた。
「俺だってゆっくり寝てるわけにもいかないからな」
そうひとりごちながら、蔵人もまた手早く身支度を済ませてホールに下りた。
「んもうっ! なんで起こしてくんないのさっ!」
「だぁってぇ、この時間まで寝てるってことは、そういうことでしょう?」
「うっ……」
「そんなシアワセな時間を台無しになんでできるわけないじゃなぁい」
「むぅ、でも……」
「心配しなくても、お昼過ぎたらさすがに起こすつもりだったわよ。その前に起きたんだからいいじゃない。まだ大丈夫でしょ?」
「ん……まぁ、ね……」
2階に移動させていたバッグを担いでホールに下りた蔵人は、厨房から漏れ出たライザとフィルのやりとりを耳にしながら、ピアノの前に立った。
「あらクロード、もう起きたの? ご飯にする?」
そしてバッグを床に降ろしたところで、厨房から出てきたライザに声をかけられた。
「いや、あとでいい。ライザもやることあるだろ?」
「まぁ、一応……。ってかなにするの? 今夜の練習とか?」
「いや、調律」
蔵人の答えに、ライザはコテンと首を傾げた。
「なんで? 昨日やったじゃない?」
「それはそうなんだが、長いこと放置されてたからな。1日2日じゃ安定はしないよ」
「……そうなんだ、ごめん」
「謝るなよ。あれだけ弾いたらどうあっても狂ってただろうし、ほかにも昨日調整できなかった部分も少し見るつもりだし」
ピアノの調律はちょっとしたことで狂う。
それこそ少し移動させただけでも。
とくにこの店のピアノは長く放置されていたうえに、チューニングピンが純正ではないようなので、より狂いやすくなっているのだろう。
調律はできるならこまめに行なったほうがいいのだが、それほど安いものでもないので、どうしてもある程度の期間を空けられてしまうのも仕方がない。
普通のライブハウスやバーなどで月に1~2回程度だろうか。
これがそれなりの規模のコンサートホールになると、公演ごとに調律が行なわれる。
多くの場合はピアニストが会場入りする前に調律を終え、リハーサル終了後にも再度行なう事が多い。
そういった場合は、大抵ピアニストの要望を聞きながら微調整する。
ライブハウスなどでもアーティストの要望があれば、別途調律を行なうが、その場合は大抵調律代は出演者側が持つことになる。
まぁ、会場と仲良くしておくと、定期の調律を公演に合わせてくることもあるが。
「じゃあ俺はいまから作業に入るから、ライザも自分の仕事やってくれよ」
「うん。でも、業者が来るまで時間あるから見ててもいい?」
「もちろん」
「やった! ちょっと待ってて……あ、いや作業は始めてくれていいよ」
「ん? わかった」
蔵人は少し首を傾げながらも、カウンターに向かったライザを見送り、ピアノの横に立って大屋根を開けた。
(ペダルのかかり方だけ見とくか)
続けて鍵盤蓋などを取ろうとしたところで、ライザがこちらにやってきて、手にした水差しとグラスを、近くのテーブルに置いた。
「水、よかったら飲んで。あとなにかつまめるもの、フィルに頼んどいたから」
「ああ、悪い。じゃあいただくよ」
「うん、どうぞ」
ライザが水を注いでくれたので、一度手を止めてグラスををあおり、一気に飲み干した。
「ふぅ……」
「どしたの?」
グラスを空にした蔵人が一瞬顔をしかめたので、ライザは少し不安げに問いかけた。
「いや、この歳になると朝イチに冷たい水はきついかなって」
言いながら、蔵人は氷の入った水差しを見て苦笑を漏らす。
「ご、ごめん! 冷たいほうがいいかなって……。すぐに取り替え――」
「――ああ、いやいいよ。もう大丈夫だから」
「ごめんね、気が利かなくて……」
「いやいや、気を使って冷たいの用意してくれたんだろ? だったら嬉しいさ」
「うん……。じゃあ明日から氷はナシにしとくね」
「おう、助かる」
そんなちょっとした行き違いもどこか楽しく思いながら、蔵人は再びピアノに戻った。
**********
ピアノは鍵盤を押しているあいだは音が鳴り、鍵盤から手を離すと音が止まる。
「……当たり前じゃない?」
「そ、当たり前だ。でもこの“当たり前”を実現するのが実は凄く大変なんだよ」
鍵盤を押せばハンマーが起き上がり、そのハンマーが弦を叩いて音を出す。
叩かれた弦が振動することで、音が鳴り、振動が止まれば音は止む。
「じゃあ弦の振動を止めなければどうなる?」
そう言ったあと、蔵人はピアノの前に座り、ピアノを弾き始めた。
短音や和音を織り交ぜながら弾いていくのだが、鍵盤から指が離れても音は鳴り続け、やがて和音として成立しない音が重なり合って不協和音が響き始める。
そうやってしばらく弾いたあと、ピタリと音が止んだ。
「なんか、ウワンウワン鳴って気持ち悪かった……。でも、ピタッと止んだね」
「ああ、止めたからな。で、この弦の振動を止める機構を『ダンパー』というんだ」
翌日、昼前に目を覚ましたライザは、ベッドから飛び降りていそいそと身支度を調え始めた。
「ふぁ……悪い……今日早いってわかってたのになぁ」
「べ、別にクロードが悪いわけじゃないだろ? そのことはあたしだってわかってたわけだし……」
まだ寝ぼけた様子の蔵人に、すっかり目が覚めてしまったライザは、少し照れながら答えた。
「クロードはまだ寝てていいからね? 朝ご飯……もうお昼か。とにかくご飯はたぶんフィルが来てると思うから、起きたあと言えば何か作ってくれるよ。じゃっ!」
服を着終えたライザはそう言って慌ただしく部屋を出ようとしたが、ふとなにかを思い出したように立ち止まり、ベッドのほうへと戻ってきた。
「ん……」
そして、まだ寝ぼけ眼の蔵人に顔を近づけ、優しく唇を重ねる。
「ふふ……じゃ、いってくるね」
そして今度こそ部屋を出て行ったが、その足取りは慌ただしいと言うより軽やかといった様子だった。
「……目ぇ覚めちまったじゃないか」
唇に残る柔らかな余韻に少し浸ったあと、蔵人は大きく伸びをしてベッドから下りた。
「俺だってゆっくり寝てるわけにもいかないからな」
そうひとりごちながら、蔵人もまた手早く身支度を済ませてホールに下りた。
「んもうっ! なんで起こしてくんないのさっ!」
「だぁってぇ、この時間まで寝てるってことは、そういうことでしょう?」
「うっ……」
「そんなシアワセな時間を台無しになんでできるわけないじゃなぁい」
「むぅ、でも……」
「心配しなくても、お昼過ぎたらさすがに起こすつもりだったわよ。その前に起きたんだからいいじゃない。まだ大丈夫でしょ?」
「ん……まぁ、ね……」
2階に移動させていたバッグを担いでホールに下りた蔵人は、厨房から漏れ出たライザとフィルのやりとりを耳にしながら、ピアノの前に立った。
「あらクロード、もう起きたの? ご飯にする?」
そしてバッグを床に降ろしたところで、厨房から出てきたライザに声をかけられた。
「いや、あとでいい。ライザもやることあるだろ?」
「まぁ、一応……。ってかなにするの? 今夜の練習とか?」
「いや、調律」
蔵人の答えに、ライザはコテンと首を傾げた。
「なんで? 昨日やったじゃない?」
「それはそうなんだが、長いこと放置されてたからな。1日2日じゃ安定はしないよ」
「……そうなんだ、ごめん」
「謝るなよ。あれだけ弾いたらどうあっても狂ってただろうし、ほかにも昨日調整できなかった部分も少し見るつもりだし」
ピアノの調律はちょっとしたことで狂う。
それこそ少し移動させただけでも。
とくにこの店のピアノは長く放置されていたうえに、チューニングピンが純正ではないようなので、より狂いやすくなっているのだろう。
調律はできるならこまめに行なったほうがいいのだが、それほど安いものでもないので、どうしてもある程度の期間を空けられてしまうのも仕方がない。
普通のライブハウスやバーなどで月に1~2回程度だろうか。
これがそれなりの規模のコンサートホールになると、公演ごとに調律が行なわれる。
多くの場合はピアニストが会場入りする前に調律を終え、リハーサル終了後にも再度行なう事が多い。
そういった場合は、大抵ピアニストの要望を聞きながら微調整する。
ライブハウスなどでもアーティストの要望があれば、別途調律を行なうが、その場合は大抵調律代は出演者側が持つことになる。
まぁ、会場と仲良くしておくと、定期の調律を公演に合わせてくることもあるが。
「じゃあ俺はいまから作業に入るから、ライザも自分の仕事やってくれよ」
「うん。でも、業者が来るまで時間あるから見ててもいい?」
「もちろん」
「やった! ちょっと待ってて……あ、いや作業は始めてくれていいよ」
「ん? わかった」
蔵人は少し首を傾げながらも、カウンターに向かったライザを見送り、ピアノの横に立って大屋根を開けた。
(ペダルのかかり方だけ見とくか)
続けて鍵盤蓋などを取ろうとしたところで、ライザがこちらにやってきて、手にした水差しとグラスを、近くのテーブルに置いた。
「水、よかったら飲んで。あとなにかつまめるもの、フィルに頼んどいたから」
「ああ、悪い。じゃあいただくよ」
「うん、どうぞ」
ライザが水を注いでくれたので、一度手を止めてグラスををあおり、一気に飲み干した。
「ふぅ……」
「どしたの?」
グラスを空にした蔵人が一瞬顔をしかめたので、ライザは少し不安げに問いかけた。
「いや、この歳になると朝イチに冷たい水はきついかなって」
言いながら、蔵人は氷の入った水差しを見て苦笑を漏らす。
「ご、ごめん! 冷たいほうがいいかなって……。すぐに取り替え――」
「――ああ、いやいいよ。もう大丈夫だから」
「ごめんね、気が利かなくて……」
「いやいや、気を使って冷たいの用意してくれたんだろ? だったら嬉しいさ」
「うん……。じゃあ明日から氷はナシにしとくね」
「おう、助かる」
そんなちょっとした行き違いもどこか楽しく思いながら、蔵人は再びピアノに戻った。
**********
ピアノは鍵盤を押しているあいだは音が鳴り、鍵盤から手を離すと音が止まる。
「……当たり前じゃない?」
「そ、当たり前だ。でもこの“当たり前”を実現するのが実は凄く大変なんだよ」
鍵盤を押せばハンマーが起き上がり、そのハンマーが弦を叩いて音を出す。
叩かれた弦が振動することで、音が鳴り、振動が止まれば音は止む。
「じゃあ弦の振動を止めなければどうなる?」
そう言ったあと、蔵人はピアノの前に座り、ピアノを弾き始めた。
短音や和音を織り交ぜながら弾いていくのだが、鍵盤から指が離れても音は鳴り続け、やがて和音として成立しない音が重なり合って不協和音が響き始める。
そうやってしばらく弾いたあと、ピタリと音が止んだ。
「なんか、ウワンウワン鳴って気持ち悪かった……。でも、ピタッと止んだね」
「ああ、止めたからな。で、この弦の振動を止める機構を『ダンパー』というんだ」
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