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8 休憩
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調整に使った道具類をバッグに収め、続けて調律道具を出そうとしたところで、蔵人はトントンと肩を叩かれた。
「ん?」
振り返ると、少し心配そうな顔をしたライザがいた。
「ねぇ、1回休憩しとかない? オープンまではまだ余裕があるからさ」
「ああ……」
言われてみれば2時間以上作業を続けていることに思い至る。
「そうだな。あまり無理をしてもな」
まだそれほど疲れを感じてはいないが、このまま作業を進めれば途中で集中力が切れる可能性は高い。
適度な休憩は、作業のパフォーマンスを維持するうえで非常に重要なものだ。
テーブルで待っていると、コーヒーカップ2脚を手にしたライザが戻ってきた。
ソーサーなどは用意せず、テーブルに直接カップを置く。
「あ、勝手にコーヒー持って来ちゃったけど、違うのがよかった?」
「いや、いいよ。ありがとう」
長時間、かなりの集中を強いられる作業を続けていたせいか、甘い物が欲しくなったので、正直に言えば果実ジュースなどのほうがありがたい。
しかしせっかくライザが用意してくれたものにケチをつけたくはないので、とくに文句をいうつもりはなかった。
元々蔵人はコーヒーが好きだし、ライザが淹れてくれるものはかなり美味しいので、文句はないのだが、欲を言えばお茶請けが欲しいところだ。
「んー、ちょっと甘い物が欲しいね……なんかあったかな?」
どうやらライザも同じようなことを考えていたらしく、蔵人は思わず笑みを漏らした。
蔵人の作業ををハラハラとしながら見ていたので、気疲れしたのだろう。
それに、多少なりとはいえ彼女も作業を手伝ったのだ。
そして彼女が厨房の方を振り返ろうとしたところで、テーブルにコトリと小皿が置かれた。
「ミルクトーストでよければどうぞ」
よく通る、低い男性の声だった。
そちらに目を向けると、長い金髪を後ろでまとめた、美青年の笑顔があった。
「あ、フィル! 来てたの?」
「ええ、30分位前にね」
「30分……?」
フィルと呼ばれた青年の答えを聞いた蔵人が、少し考え込むような表情を浮かべたのだが、ライザとフィルはそのことに気付かなかった。
「なんだかお取り込み中みたいだったから、声をかけづらくてね」
「そっか。あ、クロード、紹介しとくね。この子はフィルっていってウチの料理担当なんだ」
「うふふ、どうも、フィルです」
艶やかな笑顔の美青年が手を差し出したので、蔵人はその手を握り返しながら立ち上がった。
「ああ、どうも、蔵人です」
「あらやだ。そんなにかしこまらないで結構よ?」
「え? あ、ああ、うん。わかった」
このフィルという青年、どうやらそういうキャラクターらしい。
「昨日は素敵な演奏をありがとうね、クロードちゃん」
「ちゃん……? あ、ああいや、喜んでくれたのならよかったよ」
「それから、挨拶もせずに帰っちゃってごめんなさいね。なぁんか、ワタシったらお邪魔っぽかったから」
そう言ってフィルはライザを見た。
「あ……いや……あたしらは、べつに、その……」
突然フィルに視線をぶつけられたライザは、思わず目を逸らし、顔を赤らめながらなにやら言い訳じみたことを呟いた。
「あらぁ?」
そんなライザの様子にフィルはニタリと笑みを浮かべ、蔵人の手を離し、女主人に顔を近づけていく。
「あららららぁ? そうなの? ほんとにぃ?」
「あぅ……」
嬉しそうにライザを覗き込んでいたフィルだが、彼女が縮こまるや今度は蔵人に目を向けた。
ニンマリと口角を上げた美青年に興味津々な視線を向けられた蔵人は、すべてを見透かされたようで思わずたじろいでしまう。
まぁ、ライザの態度を見れば、大抵の者はいろいろと察することはできるのだろうが。
「うふふ、素敵なピアノだったものね」
再びライザに視線を戻したフィルは、かがめていた身体を起こして彼女から離れた。
「じゃ、今夜の仕込みもあるしお邪魔虫は退散するわね」
くるりと踵を返したフィルは、少し歩いたところですぐに振り返る。
「それ、残り物のバゲットだけど、一晩アパレイユに漬けておいたから美味しいわよ」
それだけを言い残して、フィルは厨房へと姿を消した。
「えっと……フィルのミルクトースト、美味しいから食べなよ……」
「お、おう。いただきます」
フィルの登場で少しばかり微妙な雰囲気になってしまった場の空気を払拭するように、蔵人はライザの勧めに従ってミルクトーストを一切れ掴み、口に運んだ。
絶妙な焼き目のついた表面の、カリッとした食感のあとに、じゅわりと甘い液が染み出て口の中に広がっていく。
(……なるほど、フレンチトーストか)
ミルクトーストという名前にあまりなじみはなかったが、食べてみればそれはフレンチトーストそのままの味であり、そうと知れば見た目も元の世界のそれと同じ物だった。
(この世界にはフランスがないから、名前が違うのかな?)
と蔵人は思ったが、そもそもフレンチトーストという名称はニューヨークのとある酒場の店主、ジョーゼフ・フレンチに由来していると云われているので、フランスという国の有無はまったく関係がない。
なによりロードストーンのピアノが存在する世界である。
ピアノ以外にも地球由来の物があってもおかしくはないのだが、蔵人はそのことに思い至らなかったようだ。
そんなことよりも、蔵人には気になることがあった。
(30分、といったな、フィルは)
この世界の住人から初めて聞いた時間の単位に、蔵人の思考は深く囚われるのだった。
「ん?」
振り返ると、少し心配そうな顔をしたライザがいた。
「ねぇ、1回休憩しとかない? オープンまではまだ余裕があるからさ」
「ああ……」
言われてみれば2時間以上作業を続けていることに思い至る。
「そうだな。あまり無理をしてもな」
まだそれほど疲れを感じてはいないが、このまま作業を進めれば途中で集中力が切れる可能性は高い。
適度な休憩は、作業のパフォーマンスを維持するうえで非常に重要なものだ。
テーブルで待っていると、コーヒーカップ2脚を手にしたライザが戻ってきた。
ソーサーなどは用意せず、テーブルに直接カップを置く。
「あ、勝手にコーヒー持って来ちゃったけど、違うのがよかった?」
「いや、いいよ。ありがとう」
長時間、かなりの集中を強いられる作業を続けていたせいか、甘い物が欲しくなったので、正直に言えば果実ジュースなどのほうがありがたい。
しかしせっかくライザが用意してくれたものにケチをつけたくはないので、とくに文句をいうつもりはなかった。
元々蔵人はコーヒーが好きだし、ライザが淹れてくれるものはかなり美味しいので、文句はないのだが、欲を言えばお茶請けが欲しいところだ。
「んー、ちょっと甘い物が欲しいね……なんかあったかな?」
どうやらライザも同じようなことを考えていたらしく、蔵人は思わず笑みを漏らした。
蔵人の作業ををハラハラとしながら見ていたので、気疲れしたのだろう。
それに、多少なりとはいえ彼女も作業を手伝ったのだ。
そして彼女が厨房の方を振り返ろうとしたところで、テーブルにコトリと小皿が置かれた。
「ミルクトーストでよければどうぞ」
よく通る、低い男性の声だった。
そちらに目を向けると、長い金髪を後ろでまとめた、美青年の笑顔があった。
「あ、フィル! 来てたの?」
「ええ、30分位前にね」
「30分……?」
フィルと呼ばれた青年の答えを聞いた蔵人が、少し考え込むような表情を浮かべたのだが、ライザとフィルはそのことに気付かなかった。
「なんだかお取り込み中みたいだったから、声をかけづらくてね」
「そっか。あ、クロード、紹介しとくね。この子はフィルっていってウチの料理担当なんだ」
「うふふ、どうも、フィルです」
艶やかな笑顔の美青年が手を差し出したので、蔵人はその手を握り返しながら立ち上がった。
「ああ、どうも、蔵人です」
「あらやだ。そんなにかしこまらないで結構よ?」
「え? あ、ああ、うん。わかった」
このフィルという青年、どうやらそういうキャラクターらしい。
「昨日は素敵な演奏をありがとうね、クロードちゃん」
「ちゃん……? あ、ああいや、喜んでくれたのならよかったよ」
「それから、挨拶もせずに帰っちゃってごめんなさいね。なぁんか、ワタシったらお邪魔っぽかったから」
そう言ってフィルはライザを見た。
「あ……いや……あたしらは、べつに、その……」
突然フィルに視線をぶつけられたライザは、思わず目を逸らし、顔を赤らめながらなにやら言い訳じみたことを呟いた。
「あらぁ?」
そんなライザの様子にフィルはニタリと笑みを浮かべ、蔵人の手を離し、女主人に顔を近づけていく。
「あららららぁ? そうなの? ほんとにぃ?」
「あぅ……」
嬉しそうにライザを覗き込んでいたフィルだが、彼女が縮こまるや今度は蔵人に目を向けた。
ニンマリと口角を上げた美青年に興味津々な視線を向けられた蔵人は、すべてを見透かされたようで思わずたじろいでしまう。
まぁ、ライザの態度を見れば、大抵の者はいろいろと察することはできるのだろうが。
「うふふ、素敵なピアノだったものね」
再びライザに視線を戻したフィルは、かがめていた身体を起こして彼女から離れた。
「じゃ、今夜の仕込みもあるしお邪魔虫は退散するわね」
くるりと踵を返したフィルは、少し歩いたところですぐに振り返る。
「それ、残り物のバゲットだけど、一晩アパレイユに漬けておいたから美味しいわよ」
それだけを言い残して、フィルは厨房へと姿を消した。
「えっと……フィルのミルクトースト、美味しいから食べなよ……」
「お、おう。いただきます」
フィルの登場で少しばかり微妙な雰囲気になってしまった場の空気を払拭するように、蔵人はライザの勧めに従ってミルクトーストを一切れ掴み、口に運んだ。
絶妙な焼き目のついた表面の、カリッとした食感のあとに、じゅわりと甘い液が染み出て口の中に広がっていく。
(……なるほど、フレンチトーストか)
ミルクトーストという名前にあまりなじみはなかったが、食べてみればそれはフレンチトーストそのままの味であり、そうと知れば見た目も元の世界のそれと同じ物だった。
(この世界にはフランスがないから、名前が違うのかな?)
と蔵人は思ったが、そもそもフレンチトーストという名称はニューヨークのとある酒場の店主、ジョーゼフ・フレンチに由来していると云われているので、フランスという国の有無はまったく関係がない。
なによりロードストーンのピアノが存在する世界である。
ピアノ以外にも地球由来の物があってもおかしくはないのだが、蔵人はそのことに思い至らなかったようだ。
そんなことよりも、蔵人には気になることがあった。
(30分、といったな、フィルは)
この世界の住人から初めて聞いた時間の単位に、蔵人の思考は深く囚われるのだった。
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