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今は、まだ。
しおりを挟む「さぁ、ベル。そろそろ支度をしないと」
いつの間にか馬車が速度を上げていた。
ふわふわと甘い霧の中をさまよっていた意識が現実へと引きもどされる。
ガラガラと回る車輪。その轍は、まっすぐに湖へと向かっている。
「……ええ、わかっているわ」
頷きながら、近付く別れを拒む気持ちと生への未練が交差して、動けなくなる。
「手伝うよ」
ヘンリーの指がボディスの紐にかかり、ほどいて、チューリップの花びらをひらいてむしるように、はだけたドレスをひきさげる。
「ほら、お尻あげて」
「ええ」
ばさりと足元に布の塊がおちて、シュミーズとペティコート、マントが残る。
「ペティコートは――」
「いいわ。大丈夫」
「でも、脱いだ方が泳ぎやすいだろう?」
「……大丈夫よ」
「ベル」
「大丈夫だったら!」
何の未練もなさそうにテキパキと私を帰す準備をする彼が恨めしくて、つい声を荒げてしまう。
「……ベル」
しんと落ちた沈黙を静かな声が破る。
「僕は君を永遠に愛しているけれど、今すぐ連れていきたいわけではないんだ」
そういってペティコートの紐をほどく彼の指を見つめながら、私は吐息と共に問いかけた。
「どうして……?」
「ルーカスには、まだ君が必要だ」
「……わかっているわ。ごめんなさい」
私は、恥じるように頷いた。
ヘンリーが湖に沈み、領主は、嘆き、憤りながらも、最後は血統を絶やさぬ道を選んだ。
春の夜明けに生まれた息子はルーカスと名付けられ、書類上、領主と二番目の妻となった貴族の養女――私の間に産まれた子として記されている。
名目上の養父母とは、一度も顔を合わせたことはない。
適当な貴族の婦人を娶り、ふたりの間の子とすることもできただろうに、わざわざ私を妻とした理由を領主は私への慈悲だといった。
嘘か本当かわからないが、子供のそばにいられるのならば、本当の理由が何でもかまわなかった。
「ベル、自分を愛してくれる母がそばにいるという幸福を、あの子から奪いたくない。今はまだ、あの子のそばにいてやってくれ」
「今は、まだ?」
「うん。たとえば、あの子が恋をして、世界で一番大切な女性の座を君から誰かに譲りわたす日が来たのなら、そのときは、君を僕に返してもらうよ」
「そのころには私、きっと大年増ね」
「大丈夫。たとえ、おばあちゃんになっても、ベルは可愛いよ」
「ありがとう」
笑みを交わして、ふと私は声をひそめた。
「……そうしたら、ずっと一緒にいられる?」
「ああ。そうして、一年に一度、あの子が会いに来るのを一緒に待とう。……楽しみだな」
彼は、いまだ息子の声を知らない。目にした姿も絵に描かれたものだけだ。
がたんと馬車が揺れて、振りまわされるような感覚によろける。
道を外れ、湖に向かって進路を変えたのだ。
後は、まっすぐに樹々の間を抜け、切りたった小さな崖から湖面へと落ちていくだけ。
車体に触れた木の枝が、ぽきぽきと音を立て、窓を叩く。
「ハリー」
ぐらぐらと揺れる視界で、必死に彼の腕をつかむ。
しゅるりとペティコートを足元に落として、ヘンリーは私の頬を撫でた。
「それまでは、ひとりで待つよ」
「……わかったわ。あなたの孤独が少しでも和らぎますように」
ルーカスと私、二人の細密肖像画を収めたコンパクトをマントの内から取りだし、ヘンリーの手に押しこんで、馬車の扉に手をかけた。
別れ際、最後に振り向き、見えたヘンリーは青白い顔に美しい笑みを浮かべていた。
「ごめんね、ベル」
いつも彼は、別れの間際、そう口にする。
「いいえ、愛しているわ」
ガクン、と車輪が跳ね、次の瞬間、ふわりと身体が浮いて――水しぶきと衝撃と共に暗緑の闇へと落ちた。
ひらいた扉から濁流のように流れこむ水に足元をすくわれる。
倒れこんだ私の手を冷たい手がつかんで、ひきおこし、扉の外へと強く押しだした。
ふりかえりはしなかった。
沈みゆく馬車と浮かぼうとする身体が、ひとかきごとに離れていく。
まとわりつく水温は、先ほど私の背を押したヘンリーの手を思いださせた。
たとえ、ヘンリーが私と同じくらい泳ぎが得意だったとしても、生前の彼の心臓は、この冷たさに耐えられはしなかっただろう。
苦しむことなく、一瞬の驚きで最期をむかえたことを願わずにはいられない。
濡れたシュミーズが脚にまとわりつくのを引きはがして、必死に手を動かし、水を蹴る。
「はぁっ、……はぁ、はぁ」
水面に顔をだし、大きく息をすいこんだ。
――今はまだ、一緒にはいけない。
それが、彼の願いだから。
今はまだ、生きるのだ。
ぐるりと見渡して、馬車に乗りこむ前、這いあがる目印にと置いておいたランプの灯りを探す。
「……あった」
いつの間にか、霧は晴れていた。
暗闇に浮かぶ炎は、命そのもののようにまばゆい。
灯台をめざす船のように、私は湖岸へと向かい、力強く泳ぎはじめた。
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