闇に沈む馬車

犬咲

文字の大きさ
上 下
3 / 4

今は、まだ。

しおりを挟む
 
 
「さぁ、ベル。そろそろ支度をしないと」

 いつの間にか馬車が速度を上げていた。
 ふわふわと甘い霧の中をさまよっていた意識が現実へと引きもどされる。
 ガラガラと回る車輪。その轍は、まっすぐに湖へと向かっている。

「……ええ、わかっているわ」

 頷きながら、近付く別れを拒む気持ちと生への未練が交差して、動けなくなる。

「手伝うよ」

 ヘンリーの指がボディスの紐にかかり、ほどいて、チューリップの花びらをひらいてむしるように、はだけたドレスをひきさげる。

「ほら、お尻あげて」
「ええ」

 ばさりと足元に布の塊がおちて、シュミーズとペティコート、マントが残る。

「ペティコートは――」
「いいわ。大丈夫」
「でも、脱いだ方が泳ぎやすいだろう?」
「……大丈夫よ」
「ベル」
「大丈夫だったら!」

 何の未練もなさそうにテキパキと私を帰す準備をする彼が恨めしくて、つい声を荒げてしまう。

「……ベル」

 しんと落ちた沈黙を静かな声が破る。

「僕は君を永遠に愛しているけれど、今すぐ連れていきたいわけではないんだ」

 そういってペティコートの紐をほどく彼の指を見つめながら、私は吐息と共に問いかけた。

「どうして……?」
「ルーカスには、まだ君が必要だ」
「……わかっているわ。ごめんなさい」

 私は、恥じるように頷いた。

 ヘンリーが湖に沈み、領主は、嘆き、憤りながらも、最後は血統を絶やさぬ道を選んだ。
 春の夜明けに生まれた息子はルーカスと名付けられ、書類上、領主と二番目の妻となった貴族の養女――私の間に産まれた子として記されている。
 名目上の養父母とは、一度も顔を合わせたことはない。
 適当な貴族の婦人を娶り、ふたりの間の子とすることもできただろうに、わざわざ私を妻とした理由を領主は私への慈悲だといった。
 嘘か本当かわからないが、子供のそばにいられるのならば、本当の理由が何でもかまわなかった。

「ベル、自分を愛してくれる母がそばにいるという幸福を、あの子から奪いたくない。今はまだ、あの子のそばにいてやってくれ」
「今は、まだ?」
「うん。たとえば、あの子が恋をして、世界で一番大切な女性の座を君から誰かに譲りわたす日が来たのなら、そのときは、君を僕に返してもらうよ」
「そのころには私、きっと大年増ね」
「大丈夫。たとえ、おばあちゃんになっても、ベルは可愛いよ」
「ありがとう」

 笑みを交わして、ふと私は声をひそめた。

「……そうしたら、ずっと一緒にいられる?」
「ああ。そうして、一年に一度、あの子が会いに来るのを一緒に待とう。……楽しみだな」

 彼は、いまだ息子の声を知らない。目にした姿も絵に描かれたものだけだ。
 がたんと馬車が揺れて、振りまわされるような感覚によろける。
 道を外れ、湖に向かって進路を変えたのだ。
 後は、まっすぐに樹々の間を抜け、切りたった小さな崖から湖面へと落ちていくだけ。
 車体に触れた木の枝が、ぽきぽきと音を立て、窓を叩く。

「ハリー」

 ぐらぐらと揺れる視界で、必死に彼の腕をつかむ。
 しゅるりとペティコートを足元に落として、ヘンリーは私の頬を撫でた。

「それまでは、ひとりで待つよ」
「……わかったわ。あなたの孤独が少しでも和らぎますように」

 ルーカスと私、二人の細密肖像画を収めたコンパクトをマントの内から取りだし、ヘンリーの手に押しこんで、馬車の扉に手をかけた。
 別れ際、最後に振り向き、見えたヘンリーは青白い顔に美しい笑みを浮かべていた。

「ごめんね、ベル」

 いつも彼は、別れの間際、そう口にする。

「いいえ、愛しているわ」

 ガクン、と車輪が跳ね、次の瞬間、ふわりと身体が浮いて――水しぶきと衝撃と共に暗緑の闇へと落ちた。
 


 ひらいた扉から濁流のように流れこむ水に足元をすくわれる。
 倒れこんだ私の手を冷たい手がつかんで、ひきおこし、扉の外へと強く押しだした。
 ふりかえりはしなかった。
 沈みゆく馬車と浮かぼうとする身体が、ひとかきごとに離れていく。
 まとわりつく水温は、先ほど私の背を押したヘンリーの手を思いださせた。
 たとえ、ヘンリーが私と同じくらい泳ぎが得意だったとしても、生前の彼の心臓は、この冷たさに耐えられはしなかっただろう。
 苦しむことなく、一瞬の驚きで最期をむかえたことを願わずにはいられない。
 濡れたシュミーズが脚にまとわりつくのを引きはがして、必死に手を動かし、水を蹴る。

「はぁっ、……はぁ、はぁ」

 水面に顔をだし、大きく息をすいこんだ。

 ――今はまだ、一緒にはいけない。

 それが、彼の願いだから。
 今はまだ、生きるのだ。
 ぐるりと見渡して、馬車に乗りこむ前、這いあがる目印にと置いておいたランプの灯りを探す。

「……あった」

 いつの間にか、霧は晴れていた。
 暗闇に浮かぶ炎は、命そのもののようにまばゆい。
 灯台をめざす船のように、私は湖岸へと向かい、力強く泳ぎはじめた。
 
 
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

ヤンデレ騎士の執着愛に捕らわれそうです

犬咲
恋愛
旧題:猫に食われた修道女  人間を憎んでいる猫耳美少年奴隷がゴッツイ美青年騎士に進化して、自分を守ってくれたお人好しでビビリな名目上の姉をペロペロ美味しくいただく話。(R18)  一話が一番シリアスで、後はピュアヤンデレに育った弟(偽)に、ヒロインが泣きながら堕とされてイチャエロするだけです。  書籍化に伴い、番外編のみ公開中。  キーワードに苦手なものがある方は、ご注意ください。

マフィアな彼から逃げた結果

下菊みこと
恋愛
マフィアな彼から逃げたら、ヤンデレ化して追いかけて来たってお話。 彼にとってはハッピーエンド。 えっちは後半がっつりと。 主人公が自業自得だけど可哀想。 ムーンライトノベルズ様でも投稿しています。

睡姦しまくって無意識のうちに落とすお話

下菊みこと
恋愛
ヤンデレな若旦那様を振ったら、睡姦されて落とされたお話。 安定のヤンデレですがヤンデレ要素は薄いかも。 ムーンライトノベルズ様でも投稿しています。

【R18】助けてもらった虎獣人にマーキングされちゃう話

象の居る
恋愛
異世界転移したとたん、魔獣に狙われたユキを助けてくれたムキムキ虎獣人のアラン。襲われた恐怖でアランに縋り、家においてもらったあともズルズル関係している。このまま一緒にいたいけどアランはどう思ってる? セフレなのか悩みつつも関係が壊れるのが怖くて聞けない。飽きられたときのために一人暮らしの住宅事情を調べてたらアランの様子がおかしくなって……。 ベッドの上ではちょっと意地悪なのに肝心なとこはヘタレな虎獣人と、普段はハッキリ言うのに怖がりな人間がお互いの気持ちを確かめ合って結ばれる話です。 ムーンライトノベルズさんにも掲載しています。

【R18】騎士たちの監視対象になりました

ぴぃ
恋愛
異世界トリップしたヒロインが騎士や執事や貴族に愛されるお話。 *R18は告知無しです。 *複数プレイ有り。 *逆ハー *倫理感緩めです。 *作者の都合の良いように作っています。

ヤンデレ義父に執着されている娘の話

アオ
恋愛
美少女に転生した主人公が義父に執着、溺愛されつつ執着させていることに気が付かない話。 色々拗らせてます。 前世の2人という話はメリバ。 バッドエンド苦手な方は閲覧注意です。

R18、アブナイ異世界ライフ

くるくる
恋愛
 気が付けば異世界。しかもそこはハードな18禁乙女ゲームソックリなのだ。獣人と魔人ばかりの異世界にハーフとして転生した主人公。覚悟を決め、ここで幸せになってやる!と意気込む。そんな彼女の異世界ライフ。  主人公ご都合主義。主人公は誰にでも優しいイイ子ちゃんではありません。前向きだが少々気が強く、ドライな所もある女です。  もう1つの作品にちょいと行き詰まり、気の向くまま書いているのでおかしな箇所があるかと思いますがご容赦ください。  ※複数プレイ、過激な性描写あり、注意されたし。

【完結】令嬢が壁穴にハマったら、見習い騎士達に見つかっていいようにされてしまいました

雑煮
恋愛
おマヌケご令嬢が壁穴にハマったら、騎士たちにパンパンされました

処理中です...