闇に沈む馬車

犬咲

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なまぬるい初夏の夜

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 ほう、と吐いた息が夜にとける。
 なまぬるい初夏の夜だった。
 どしゃぶりの雨は去り、代わって、濃ゆい霧が立ちこめている。
 足もとや首もとから入りこんでくる湿った夜気が、じんわりと滲む汗とまじりあう。
 いやだわ、と小さく呟いて首筋を拭うと、私はマントの前を掻きあわせ、肩をすぼめた。
 村はずれの湖のほとり、他には誰もいない。
 後ろに広がるのは深く広い森。
 ひとりきり、霧に包まれながら、私は愛しい人をまっていた。



 はなから身分違いの恋だった。

 私は牧師の娘で、五つ年上の彼――ヘンリーは領主の一人息子。
 領主は血統にこだわる男で、息子の結婚相手にはしかるべき血筋の娘をと願っていた。

「父さんは、本当は血族結婚をさせたかったんだよ。もっと血を濃くしたかったんだ。馬鹿げているよな。これ以上、生きるのに向いていない子供を増やしてどうしようって言うんだ」

 いつだったか、ヘンリーは美しく整ってはいるが血の気の薄い顔を歪めて、そう吐きすてた。

 昔から、ヘンリーは病気がちな少年だった。
 伏せる彼のため、父は何度となく領主に呼ばれて神に祈り、それが縁となり私は彼と親しくなった。
 父は身分違いの恋に眉をひそめながらも、しいて反対はしなかった。
 聖職者である父は、領主を嫌悪していた。
 
 領主は、自身の姪を妻にした。近親婚だ。
 わずか十五で嫁いできた奥方は領主とヘンリーと同じ、淡いプラチナの髪に透きとおるような青い瞳をもった、繊細な硝子細工のような美しい少女だったという。
 嫁いだ年から次々と孕み、六人の子をもうけたが、まともに育ったのは最後に産まれたヘンリーただ一人。
 二十三という若さで産褥熱で儚くなった彼女の人生を思うと、やるせないような気持ちになる。
 部屋にとじこもり――とじこめられていたのかもしれない――大きなお腹を抱え、本ばかり読んでいたという彼女は、果たして幸せだったのだろうか。

 代を重ねるごとに犠牲を増やし、業の深まった血族は、その多くが十年前の流行り病を乗りこえられず、残ったのは領主とヘンリー、ただふたり。
 領主がヘンリーにかける期待が並々ならぬものとなるのも無理はなかった。



 けれど、許されないとなれば、ますます燃えあがるのが恋というもので……。
 悪い虫がついて大事な苗木が枯れぬように目を光らせる領主の目を盗んで、私達は愛しあった。

 人目を忍ぶにも野外で会うには彼の身体に障るため、逢瀬は、たいてい馬車の中だった。
 月に二、三度、何らかの名目をつくって彼が馬車を出し、村はずれの湖のほとりで停まり、私が乗りこむ。
 繊細な彼が長時間乗っても疲れないよう、領主の家の馬車は贅沢な造りになっていて、たっぷりの羽毛をつめこんだクッションの上で、私達は愛を語らい、確かめあった。

 もちろん、そんな幸福な日々は長くは続かなかった。
 彼には時間がなかったから。
 早々に妻を迎え、正統な跡継ぎを残さなくてはならなかった。

 だから、四年前の春、いつものように馬車に乗りこみ、彼の前に腰をおろしたとき、ゾッとするほど暗い彼の表情を目にして私は悟った。
 ああ、時間切れなのね――と。
 きっとどこかの御令嬢との婚約が調ったのだろうと。
 けれど、わかっていたことだ。
 私は、彼の手を握り、精一杯の笑みを浮かべて問いかけた。

「……ハリー、何かあったの?」
 
 私の問いに、ヘンリーは俯き、長く答えなかった。
 ガタゴトと揺れる車内、屋根にとまった小鳥の囀りが朗らかに響いていた。
 やがて震えるような吐息と共に、ゆっくりと顔を上げたヘンリーの瞳は奇妙な輝きを帯びていた。

「……ねぇ、ベル。僕のことを愛している?」

 問われ、戸惑いながらも頷いた。

「もちろんよ」
「ありがとう。僕もだ。君を愛している。誰よりも、何よりも。命をかけてもいいほどに。……まぁ、僕の命なんて、あってないようなものだけれど。ほとんど死体のようなものだから」

 目をふせ微笑んだ彼の頬は、窓から差しこむ春の陽ざしを浴びて尚、青ざめてみえた。

「まぁ、ハリーったら!」
「ねぇ、ベル。僕の子どもを産んでくれるかい」

 きゅっと手を取られ、息をのむ。
 彼とは何度か身体を重ねていたが、彼が私の中で果てたことはなかった。
 それは許されないことだと言葉に出さずとも互いに理解していたつもりだった。けれど。

「産みたいわ」

 許されるのならば。いや、誰に許されなくとも、彼が望んでくれるのならば。

「産ませて」

 迷惑はかけない。一人でどこにでも行って、育ててみせる。
 決意を瞳にこめて頷けば、「おいで」と微笑んだ彼が私を引きよせて……。



 ふたつきの後、私は、彼の子を身ごもっていた。

 妊娠を告げると、ヘンリーは春の空を思わせる澄んだ瞳を潤ませ、ありがとう、と私の指に口付けた。

「……ねぇ、ベル。たとえ、この先、年に一度しか会えなくなったとしても、僕を愛してくれるかい?」

 不思議な問いにも、私は怯みはしなかった。
 年に一度の愛人になれというのなら、それで構わない。
 ふたつとない宝を、この身に宿してくれたのだから。
 育つ子をあやしながらの一年は、あっという間に過ぎるだろう。

「ええ、もちろんよ!」

 笑って頷いた私を、彼は、やさしく、しっかりと抱きしめて。

「ありがとう、ベル。愛しているよ。永遠に」

 囁いた、その夜。
 どしゃぶりの雨のなか、ひとり馬車を走らせ、彼は湖に消えた。
 哀れな二頭の白馬と、思い出の馬車を道連れに。



 霧の奥から響く車輪の音、蹄の音に顔を上げた。
 ぼんやりと霞み、揺れるランタンの灯り。
 近付くにつれ見えてくる、二頭の白馬に曳かれた懐かしい車体。
 ぶわりと霧を裂き、蹄の音も高らかに目の前に滑りこんできて、がたんと停まる。
 ぽくぽくと足踏みし、ぶるんと首を振る馬のいななきは聞こえない。
 それもそのはず。二頭の馬には頭がなかった。
 しなやかに伸びた首、その上にあるはずの頭はなく、ただ闇だけが広がっていた。

「……っ」

 がたり、と客室の扉が開いて、ぽっかりと開いた闇の奥から上等な青い上着をまとった白い手が差しだされる。
 この瞬間、もう三回目だというのに、いまだ足がすくむ。
 御者台に座る黒ずくめの男が身じろぎし、こちらへ視線を向けるのを感じて、慌てて手を伸ばす。
 愛した男の手に手を重ね、冷たさに息をのむと同時に、強い力で引きあげられた。
 
「やぁ、ベル」

 どさりとクッションに背が沈み、バタンと閉まるドア。
 覆いかぶさってくる気配に喉が鳴る。
 身がすくむような怖れと、震えるような喜びに。
 三年前の今日、彼の死を悼み、あの湖のほとりで待っていたとき。
 近付く車輪の音に振りかえり、首なしの馬と御者を目にしたときもそうだった。
 連れていかれる――という恐怖と。
 迎えにきてくれた――という喜び。
 いつも最後に勝るのは、愚かなまでの恋心。

「会いたかったよ」

 冷たい口付けに、私は熱い吐息で答えた。

「ええ、私も会いたかったわ。ハリー」と。
 
 
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