おかえりなさい。

犬咲

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みぎのて

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 気がつけば、濡れ縁に腰かけて海を見ていた。
 居酒屋で意識が途絶え、自宅の布団で目が覚めたという人の話を聞いたことがある。母の体験だ。
 「誰にも送ってもらってないのに、いつものように帰ってたみたいで、人間ってスゴイな~って感心しちゃった」と笑っていた。
 きっと私も、そんな風にして戻ってきたのだろう。
 握りしめていた右手を開けば、しなびた黒い和紙――形代の名残りが貼りついていた。
 酒の瓶も盥も見当たらなかった。きっと、海神の祠に置いてきたのだろう。

 ――あとで、取りにいかなきゃ。

 思ったそばから嫌になる。

 ――でも、もう、いらないし、いきたくない。

 占いたいことも、届けたい言葉も、もうない。
 身体が怠くて、何もしたくない。
 座っているのも億劫で、夜露にかまわず、こてりと濡れ縁に横たわる。
 ひんやりとした湿気が白いワンピースの布地を通して肌に伝わる。
 ぞくり、と反射のように震える身体に、溜め息がこぼれる。
 何もかもどうでもいいと頭では思っているのに、身体は不快さに反応している。生きている実感が今は煩わしかった。

 ――このまま、しんじゃえばいいのに。

 子どもじみた願いが頭をよぎる。
 もっとも、今の季節では戸外で夜を明かしたとしても凍死するのは難しいだろうけれど。
 いつも毎年この時期は、濡れ縁に面した掃きだし窓を開け放し、吹きこむ夜風を汐と楽しんでいた。
 もう少し夏が育ったら、蚊帳を吊る。そして、二人で閉じこもる。
 去年は、蚊帳を新しくした。
 霧のような白から、畳のような緑の真四角に。
 蚊帳の天井をつつきながら「虫かごの虫になったみたい」と笑う私の腰に「でも、虫はオスが鳴くんだよ」と囁く汐の手が回されて「なら、たまには、汐さんが鳴いてみて」と足を絡めて、布団に押し倒した。
 結局、鳴いたのは主に私のほうだった。

 ――ちょっと、くやしかったなぁ。楽しかったけど。

 自然と唇に笑みが浮かび、じわりと目蓋が熱くなる。

 ――お母さん、楽になんてならないよ。

 記憶の母に嘆く。
 どんな形でも諦めをつけて前に進めれば楽になる――母は、そう言っていた。
 けれど、今さらに気がつく。
 諦めをつけて楽になれるのは、他に生きるよりどころのある人間だけだ。
 仕事でも家族でも友人でもいい。
 未練という荷物を捨てて、他に手にしたいもの、向き合いたいものがある人だけだ。
 私には、ない。
 今さら母を探しだして親子の愛で胸の空洞を埋められるとも思えない。
 知らなければよかった。占わなければよかった。
 そうすれば、いつか帰ってくると願っているうちに、月が昇って沈んで、いつのまにか百年が過ぎてくれたかもしれないのに。

 ――浦島太郎が羨ましい。

 箱を開けて一瞬で年を取り、儚くなれたらどんなにか楽だろう。
 そんなことを思いながら、ぼんやりと海をながめて、ウミガメでもいないかと探してみる。
 きらり、きらりと波間に時折光るのは甲羅ではなく、ただの月明かりの反射か海に映った星だろう。

 ――流れ星でも落ちないかなぁ。

 そんなことも思った。
 夜空に散らばる無数の星は、地上から天に昇った人々の魂で、ときどき流れ星になって落ちてくる。
 その中で、地上に落ちた星は赤ん坊になって、海に落ちた星はヒトデになるのだと語ってくれたのは汐だった。

 ――ヒトデになっても、愛せるかしら。

 ヒトデになった汐と、どうやって暮らせばいいだろう。そんなことを考えてもみる。
 頭の中身が、すっかり子どもに戻ったようだった。
 頭の片隅では、わかっていた。こんなのは、ただの逃避だと。
 そうやって、ひとつ、ふたつと、波間にきらめく光を数えるうちに、いつの間にか眠りに落ちていた。



 ひたりひたりと右の足首に何かが触れている。
 目蓋を開けぬまま、意識を向ける。
 熱くもなく、冷たくもなく、肌となじむような温度で巻きつくそれは、時折、じゃり、と砂のような感触が混じりながらも滑らかで、意志を持って動いているようだった。

 ――いやだ、蛇かな。

 ならば、驚かせない方がいいだろう。
 ここらに毒のある蛇はいないが、蛇は好きではない。魚もそうだが、鱗があるものは苦手だ。ジッと見ていると不安になる。
 陸にいる限り襲われる心配がないだけ、魚の方がまだマシかもしれない。
 気付かぬふりで、ことさらゆっくりと身を起こし、うーんと伸びをしてみるが、それは逃げてはいかなかった。
 そっとつまさきの位置を変えても同じ。
 諦めて目蓋を開けた。
 そろりと視線だけ動かしてみれば、ぼんやりと白いものが視界に入る。
 ここらに白い蛇なんていただろうか。
 今度は頭を動かして、まっすぐそれに目を向けて――悲鳴と共に右足を振り上げていた。

「やっ! やだ! なに!?」

 それは、腕だった。人間の。肘から先だけ。その手が私の足首をつかんでいた。
 メチャクチャに上下左右に足を振りまわしてに、足首にかかる力が増すばかりで、それは変わらずそこにあった。
 振り回される腕の先で、ぎざぎざ、ひらひらと千切れた皮膚が鳥皮のように揺れていた。

「はなして! はなしてって――あ、」

 息をのみ、動きをとめる。

「~~っ、うそ、なんで、いまっ」

 ふくらはぎが攣った。
 体質なのか運動不足なのか、それとも水分かカリウムか何かが不足しているのかは知らないが、私は足が攣りやすい。
 暑さが不安定なこの時期は、きちんと毛布をかけずに脚を冷やすと、夜中にビクッとみじろいだ拍子に攣ることが、ままあるのだ。
 吹きさらしの濡れ縁で寝こんだことで、足が攣るための条件はそろっていたとはいえ、何も今でなくてもという思いで身もだえる。
 中途半端に浮かせた脚を曲げることも伸ばすこともできず、ひたすら痛みに耐えていると、もぞりと私をつかむ手がうごめいた。

「……え? だめ、ダメダメダメ! 上がってきちゃダメ!」

 ぶるぶると震える脚を五本の指が這いずり、のぼってくる。 
 くるぶしからふくらはぎを過ぎて、膝裏へと指の先が届き、ぴたりと止まる。
 息を殺して見つめていると、手はクルリと向きを変えた。ちらりと目に入った断面に反射のように目を閉じる。
 このまま下りて去っていってほしい。
 願いながらジッと待っていると、ふくらはぎを過ぎ去ろうとした手が、また立ち止まった。
 
「……ぇ」

 やさしい感触に目を開く。幸い、ダラリと下がった腕の断面は地面の方を向いていた。
 さわりさわり、と動く手に、ぱちり、と瞬き、目をこらす。 
 手のひらの温度を移すように、そうっと肌を撫でる動きには、覚えがあった。
 夜中に足が攣る度に、いつも夢うつつに寝ぼけながらも、こうして撫でてくれた、あの手の感触。

「……うしお、さん?」
 
 呼びかけた途端、手は止まる。

「汐さんなの?」

 もう一度その名を口にして、ふっと恐れがぼやけてかすむ。
 攣った部分を動かさないよう膝から先は上げたまま、膝裏に手をかけ、グッと胸へと引き寄せる。
 ワンピースのすそが下がって、太ももが露わになる。
 はしたない格好だが、誰が見ているわけでもないと気にしなかった。
 室内から届く明かりが近付いた手――千切れた右手を照らしだす。
 落ち着いて、よくよく観察してみれば、もう間違いようがなかった。
 一瞬死骸と見まごう色の白さも、ニシンの円鱗えんりんのようなツルリと丸みを帯びた爪も――そっと左の手を重ね、確かめてみた大きさも、勝手知ったるように指を絡める仕草まで、何もかも。

「……汐さんだぁ」

 ふふ、と笑いがこみ上げる。

「あぁ、そうだよね。名前、剥がれなかったもんね」

 形代は千切れたが、書かれた汐の名は剥がれなかった。沈みもせずに私の手に帰ってきた。
 占いは当たっていたのだ。

「なぁんだ、そっかぁ」

 落ちこんでいたのが馬鹿みたいだ。
 絡めた指に力をこめ、引き寄せて。すとん、と足を下ろして、汐の右手を胸に抱く。
 猫の喉をくすぐるように、ちょいちょいと右手で彼の指先をくすぐれば、きゅっと捕まえられた。

「……汐さん、遅いよ。どこまで泳ぎに行ってたの? ずっと、待ってたんだよ?」

 さわりと指を撫でられる。あやすように。

「ふふ、耳もないのに聞こえるんだ」

 とんとん、と。そうだよ、と頷くように汐の指先がタップする。

「……おかえり、汐さん」

 なめらかな手の甲を撫でると、じゃり、と乾いた塩のような砂のような何かがこすれた。

「やだ、汐さんってば、砂まみれなの? それとも天日塩?」

 くすくすと笑いながら汐の指先を鼻に近付けると、深い海の匂いがした。
 ちろりと薬指の先を舐めれば、びくり、と揺れる。

「ふふ、しょっぱい。ん、でも、やっぱり、砂も混じってるかも……」

 眉をひそめて、また微笑む。

「洗ってあげるね、汐さん。つかれたでしょう?」

 汐が珍しく外出して疲れて帰ってきたときや、何だか何もしたくない気分だと甘える日には、背中を流して髪を洗い、さっぱりとタオルで拭いて乾かしてやった。
 逆に私が何もしたくない気分の日には、汐が私に、そうしてくれた。
 まだ子どものいない私たちは、時々、そんな風に甘えあって楽しんでいた。

「いつもみたいに、流してあげる……いこう、汐さん」

 猫の子にでもするように、やさしく両手で汐を抱き上げて、私は浮き立つ足取りで風呂場へと向かった。
 
 
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