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おりしま
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6月6日「ほんわかの日」「恐怖の日」記念。
深夜一時二十二分。
ひとけのない海岸を、ひとり私は歩いていた。
月が欠けて、砕けちったような星空。
ふりそそぐ光が、胸に抱えた清酒の瓶に反射する。
鼓膜をゆらす潮騒。黒髪が風に流れる。
さくさくと足を踏みだすたび、白いワンピースのすそがすねをたたいて、同色のサンダルがうずもれる。
さらさらとこぼれる砂が、夫の汐が刷いてくれた珊瑚色のペディキュアを飾りつけた。
美しく、さみしい沖の檻。
観光地でもない過疎の島の丑の刻には、警戒すべき人間さえいなかった。
私の暮らす小里島は、かつて檻島と記されていた。
昔々、都から流された人々が住んでいたという。
外周8キロ、人口300人足らず。そのうちの半数が還暦をこえている。
週に2回の貨客船。簡易郵便局が開くのも週に2回で、診療所に看護師はいるが医者は月に数度巡りくるだけ。
娯楽的な施設もスーパーマーケットもなく、あるのは、コンビニエンスストアとは、とてもいえない雑貨店が一軒。
雑貨店は宿も兼ねているが、旅館とはいえない。ただ、空いている部屋を貸し、風呂や食事を提供するだけの民宿だ。
小里島には、なにもない。
都会にある便利な店や品も、観光の目玉となるような特別な何かも、村興しをしようという気概あるひらけた若者も。
どこかの島のようにオリーブや椿の木、樹齢千年をこす巨木があるわけでもなく、あるのは桑の木だけ。
6月の桑は実が華やかだが、わずかな時期を過ぎれば、ただの蚕の餌になる。
わざわざ桑の実を摘むために海を渡る人間は、そういない。
年中通しての見どころといえば、海と空と砂浜くらい。
空をさえぎるものも、水と土を汚すものもここにはない。
やわらかな夜の砂浜は、海からきたる生き物のためにある。
――そういえば、今年は、まだだ……。
毎年4月を過ぎると琥珀色のウミガメが卵を埋めにくるのだが、今年は目にしていなかった。
それでも、それとなく足元に注意をはらって進みながら、ふと、おととしの5月を思い出す。
――あの学生さん、また来るって言ってたけど……。
どこで耳にしたのか、ウミガメの産卵目当てにカメラ片手に訪れた男子学生がいた。
都心の大学に通っているという青年は、あまり軍資金がないようで、十日間後には本土への船に乗らなくてはならないのだと言っていた。
到着から一週間。
連日、夜を徹して粘っても望みのときは訪れず、民宿で出される煮こみうどんと焼き魚定食にも飽き飽きしていた彼は「早く撮って帰りたい」と夜更けの砂浜で嘆いていた。
――手ぶらで帰るんじゃ可哀想だからって、汐さんが教えてあげたんだっけ。
海神をまつる祠に詣でてみてはどうかと。
タイムリミットが近い学生は、迷信でも何にでも、すがってみる気になったのだろう。汐に同行し、祠に願掛けをした。
そうして次の日、明日には島を離れるという最後の夜に、学生の願いは海神に届いた。
ウミガメを見送り、快哉を上げて砂浜に倒れた青年は汐に言っていた。
すげえ! この島には、本当にいるんですね、神様!――と。
この島って、不思議ですよね。なんか、竜宮城みたいで――とも。
絵にも書けない美しさ、という意味ではない。本土とは時間の流れが違うみたいだ、と彼は言いたかったのだと思う。
同じ国でありながら、この島の外と内では時間の速度が違う。
この島の十年は都会の一年にも満たない。
いや、もっと遅いだろうか。
この島で一年を過ごして都会へ戻れば、浦島太郎の気分が味わえるはずだ。
もっとも、この島で都会の人間が一年、耐えられるとも思えないが。
この島の人間は閉鎖的で排他的で異物を嫌う。まるで、一つの人体のように、よそから来たものを拒む。
旅人が温かく受け入れられたように見えても、それは表面的なもので、時を重ねようとも異物は異物。よそものはよそものなのだ。
数日の観光ならば、島民の拒絶に気付かずに済む。
だが、この島に移り住もうとすれば、その人は時を重ねるほど、目に見えない、厳然と存在する壁を感じるだろう。
島民が拒絶反応を示すのは外から入るものだけではない。
内側で生まれた突然変異の細胞、村の空気になじまぬ異端者も同じように距離を取られ、はじかれる。
――汐さんと私みたいに。
汐のことを思うと、胸が締め付けられる。
この島で、たった一人の私の味方。私の友だち。私の伴侶。誰よりも大切な存在。
彼さえいてくれれば、この島は閉ざされた楽園だった。
「汐さん、会いたいよ。早く、帰って来て……」
夜風に囁き、俯けば、いつのまにか砂浜は終わろうとしていた。
深夜一時二十二分。
ひとけのない海岸を、ひとり私は歩いていた。
月が欠けて、砕けちったような星空。
ふりそそぐ光が、胸に抱えた清酒の瓶に反射する。
鼓膜をゆらす潮騒。黒髪が風に流れる。
さくさくと足を踏みだすたび、白いワンピースのすそがすねをたたいて、同色のサンダルがうずもれる。
さらさらとこぼれる砂が、夫の汐が刷いてくれた珊瑚色のペディキュアを飾りつけた。
美しく、さみしい沖の檻。
観光地でもない過疎の島の丑の刻には、警戒すべき人間さえいなかった。
私の暮らす小里島は、かつて檻島と記されていた。
昔々、都から流された人々が住んでいたという。
外周8キロ、人口300人足らず。そのうちの半数が還暦をこえている。
週に2回の貨客船。簡易郵便局が開くのも週に2回で、診療所に看護師はいるが医者は月に数度巡りくるだけ。
娯楽的な施設もスーパーマーケットもなく、あるのは、コンビニエンスストアとは、とてもいえない雑貨店が一軒。
雑貨店は宿も兼ねているが、旅館とはいえない。ただ、空いている部屋を貸し、風呂や食事を提供するだけの民宿だ。
小里島には、なにもない。
都会にある便利な店や品も、観光の目玉となるような特別な何かも、村興しをしようという気概あるひらけた若者も。
どこかの島のようにオリーブや椿の木、樹齢千年をこす巨木があるわけでもなく、あるのは桑の木だけ。
6月の桑は実が華やかだが、わずかな時期を過ぎれば、ただの蚕の餌になる。
わざわざ桑の実を摘むために海を渡る人間は、そういない。
年中通しての見どころといえば、海と空と砂浜くらい。
空をさえぎるものも、水と土を汚すものもここにはない。
やわらかな夜の砂浜は、海からきたる生き物のためにある。
――そういえば、今年は、まだだ……。
毎年4月を過ぎると琥珀色のウミガメが卵を埋めにくるのだが、今年は目にしていなかった。
それでも、それとなく足元に注意をはらって進みながら、ふと、おととしの5月を思い出す。
――あの学生さん、また来るって言ってたけど……。
どこで耳にしたのか、ウミガメの産卵目当てにカメラ片手に訪れた男子学生がいた。
都心の大学に通っているという青年は、あまり軍資金がないようで、十日間後には本土への船に乗らなくてはならないのだと言っていた。
到着から一週間。
連日、夜を徹して粘っても望みのときは訪れず、民宿で出される煮こみうどんと焼き魚定食にも飽き飽きしていた彼は「早く撮って帰りたい」と夜更けの砂浜で嘆いていた。
――手ぶらで帰るんじゃ可哀想だからって、汐さんが教えてあげたんだっけ。
海神をまつる祠に詣でてみてはどうかと。
タイムリミットが近い学生は、迷信でも何にでも、すがってみる気になったのだろう。汐に同行し、祠に願掛けをした。
そうして次の日、明日には島を離れるという最後の夜に、学生の願いは海神に届いた。
ウミガメを見送り、快哉を上げて砂浜に倒れた青年は汐に言っていた。
すげえ! この島には、本当にいるんですね、神様!――と。
この島って、不思議ですよね。なんか、竜宮城みたいで――とも。
絵にも書けない美しさ、という意味ではない。本土とは時間の流れが違うみたいだ、と彼は言いたかったのだと思う。
同じ国でありながら、この島の外と内では時間の速度が違う。
この島の十年は都会の一年にも満たない。
いや、もっと遅いだろうか。
この島で一年を過ごして都会へ戻れば、浦島太郎の気分が味わえるはずだ。
もっとも、この島で都会の人間が一年、耐えられるとも思えないが。
この島の人間は閉鎖的で排他的で異物を嫌う。まるで、一つの人体のように、よそから来たものを拒む。
旅人が温かく受け入れられたように見えても、それは表面的なもので、時を重ねようとも異物は異物。よそものはよそものなのだ。
数日の観光ならば、島民の拒絶に気付かずに済む。
だが、この島に移り住もうとすれば、その人は時を重ねるほど、目に見えない、厳然と存在する壁を感じるだろう。
島民が拒絶反応を示すのは外から入るものだけではない。
内側で生まれた突然変異の細胞、村の空気になじまぬ異端者も同じように距離を取られ、はじかれる。
――汐さんと私みたいに。
汐のことを思うと、胸が締め付けられる。
この島で、たった一人の私の味方。私の友だち。私の伴侶。誰よりも大切な存在。
彼さえいてくれれば、この島は閉ざされた楽園だった。
「汐さん、会いたいよ。早く、帰って来て……」
夜風に囁き、俯けば、いつのまにか砂浜は終わろうとしていた。
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