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短慮な当て馬が暴走する前に。

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「……御自分を罵らせて気がすみましたか、ジェラルド様」

 マリステラの部屋から内扉を通って自室に戻り、闇の中からかけられた声に、ジェラルドは驚く様子もなく頷いた。

「ああ。だいぶ、罪悪感が和らいだよ」

 恥じらうことなく、いっそ清々しいほどの笑みを浮かべて答えれば、すらりと背の高い老紳士然とした男が闇から抜けでるように現れた。
 白い髪に灰色の瞳の地味な顔立ち。
 ロバートとニコラスが「フィード」と呼んでいる商人は、白い覆いがかけられた銀のトレーを手にして、安楽椅子に腰を下ろしたジェラルドの前まで来ると「それは、よろしゅうございました」と穏やかに微笑んだ。

「留守の間、御苦労だったな。フィデリタス」
「いいえ。ルナマリアの王家にお仕えすることが、我が一族の誇りですから」
「そうか。それで、私は君の主の審査に合格できたのかな?」
「はい。あなたがマリステラ様の不貞をなじるようなことを口にすれば、あなたを短剣で刺し、姫様を国に連れ帰るように命じられておりました。そうはならずに幸いです」
「そうか。それはよかった。これで真実、ステラの夫として認めてもらえると嬉しいのだがね」

 やれやれ、と肩をすくめるジェラルドに、凪いだ瞳でフィードは頷いた。

「大丈夫でしょう。あなたはルナマリアの習わし通り、第一の夫の責務を果たされました」

 第二、第三の夫を選び、妻と娶わせる責務を。

「マレクラブラ様も『しかと見届けた。中身はともかく、どちらも良い顔をしている。懐妊の知らせが楽しみだ』とおっしゃっておりました」
「それは光栄だ。私の子を抱いていただくのが楽しみだよ」

 ジェラルドの瞳に揺らぐ怒りに気付かぬふりで、フィードは静かに微笑んだ。

「ナイトキャップは何になさいますか? ワインを?」
「ウイスキーを」
「そうおっしゃると思っておりました」

 さっと白い覆いがどけられて、カラメル色の角瓶が現れる。
 とくとくと注がれた琥珀色の液体が揺れるグラスをさしだされたジェラルドは「はは、敵わないな。ありがとう」と受けとって、ゆったりと唇へ運んだのだった。



 二年と八カ月と六日前。
 ルナマリアの女王は、ジェラルドに命じた。
 「第一の夫となったからには責務を果たせ」と。
 そうして、王家の秘密を告げられた。

 ルナマリアの王女は――マリステラは人間ではないと。

 マリステラは、大切なことをジェラルドに隠していた。
 真実を知ったジェラルドは、戸惑い、憤りもしたが、それはマリステラに対してではなく、もっと根源的な生物の仕組みに対してだ。
 彼女への愛情は微塵も揺らがなかった。「ずるい女も可愛いものだ」とさえ思った。
 どうしようもなく、愛していたから。



 女神の血を引くルナマリアの王女たちは、皆、美しく、すぐれた再生力と、ある特殊な繁殖条件を持つ。
 だからこそ、ルナマリアの王女は外には出せないとされている。

 すぐれた再生力によって、裂かれた純潔の証も、腫れあがるほど叩かれた尻も、血がしたたるほどの切り傷も、たちまちのうちに治ってしまう。
 どれだけ痛めつけても死なない、美しき乙女。
 ある種の残酷な嗜癖を抱える者にとって、それは最高に魅力的な玩具となる。
 そのような歪んだ欲望を持つ悪魔の手におちることがないよう、彼女たちはルナマリアで大切に大切に秘せられ、海と民に守られ生きている。

 その安住の地より連れだすのならば、命に代えても守れ――と言われ、ジェラルドはためらわず頷いた。

 それだけならば、何ということはなかった。
 問題は、もうひとつの方。
 マリステラが子を孕むための条件にあった。

 ルナマリア王国では王女が離宮をかまえて婿をとる。
 女王蜂のように、一人の妻が多くの夫を取るのがルナマリアの習わしだ。
 ジェラルドは最初、それは単に多くの種と結びつくことで、多様な子をなすためだと思っていたが、そうではなかった。

 ルナマリア王家の祖先とされる海の女神は、よくある人型ではなく、透明な身体に虹色の輝きを宿した不可思議な存在で、それは、ある種の人魚とクラゲのあいの子めいた姿をしていたと伝わっている。
 女の上半身から、ふわりとドレスのように広がった傘の下、無数の触手をのばした透明な身体は虹色の輝きを宿していたと。
 その存在は、ある種のクラゲのように、交わった複数の雄の精を内に貯え、吟味し、もっとも相性が良く、優秀な一つを選んで、孕み、子をなしたという。
 産みおとし、種を集めなおして、また選ぶ。
 そうして、海の女神は地上の男達との間に三人の娘をもうけ、ただひとり、人間の足を持って生まれた三番目の娘が地上に残ってルナマリア王家の始祖となった。
 その血を引く王女達も、また、そうでなくては孕むことができなかった。



「……子をなすための第一の夫の責務だ。他の夫を選び、マリステラと娶わせよ」

 真実を告げられ、命じられ、ジェラルドは吠えた。

「嫌です! 孕まぬかどうか、やってみなくては、わからないでしょう!」と。

 ルナマリアの女王は静かに首を振った。

「無駄だ。一人では孕まぬ」と。
「今まで試した者がいなかったと思うか?」と。
「無駄なのだ。夫が一人では、孕めぬ」と。

 相手が一人だけでは、どれほど数を重ねようが孕まない。
 比べる相手がいなくては価値がわからない。価値がわからなければ選べない。選べなければ孕めない。だから。

「ルナマリアの王女は、誰か一人だけのものには、なれぬのだ」と。

 少しの憂いを虹色の瞳に湛えながら。
 黙りこんだジェラルドに女王は微笑んだ。

「案ずるな。マリステラには、お前が一番ふさわしい」と。

 ジェラルドは、それでもマリステラを他の誰かと共有などしたくなかった。
 今までが駄目だったからといって、自分とマリステラの間に奇跡が起きないとは限らない。
 それこそ、おとぎ話のように。
 そもそもの出会いが、おとぎ話そのものだったのだから。



 三年と三ケ月前、ジェラルドを乗せた船が難破し、陸地を目指して泳ぎだしたものの、後少しというところでジェラルドは力尽きた。

 ――こんなところでは死ねない。

 あがく気持ちは、やがて絶望へと変わって。

 ――こんなところで死ぬのか。

 波に呑まれ、遠ざかる月を見上げながら水底へ沈もうとしたとき、ざぶんと水面を砕いて――月が落ちてきたと思った。
 銀色の泡をまとった白く輝く月が、まっすぐにジェラルドに向かって。
 しなやかな腕がジェラルドの首に絡みつき、そっと唇が重ねられる。
 吹きこまれた命の息吹に満たされ、仄暗い水底、虹色に輝く瞳に見つめられたあの瞬間、ジェラルドは恋に落ちた。

 冷たい腕に身をゆだね、目を閉じ、次に目覚めた時にはルナマリアの宮殿で、見知らぬ寝台で身を起こしたジェラルドの傍らには、マリステラがいた。
 助けられた礼を口にすると彼女は柔らかく微笑み、ジェラルドの体調を気遣った後、ほんのりと頬を染めて囁いた。

「……まるで、海に沈んだ太陽を見つけたのかと思いましたわ」と。

 それが二人の恋のはじまりだった。
 
 

 ジェラルドは空にかかる月を皆でながめるように、誰かとマリステラの美しさをわかちあいたいとは思わなかった。
 自分だけの月にしておきたかった。

 子供さえできればいいのだ。それで女王を納得させられる。
 マリステラと肌を重ね、何十何百と交わって、一年が過ぎても懐妊の兆しすら訪れず――ジェラルドは女王から最後通告を受けた。

 これ以上、無駄なあがきを重ね、マリステラを苦しめるつもりならば、あの子には他の夫を宛がう。お前とは、二度と会わせない――と。

 ジェラルドにマリステラを諦めるという選択肢はなかった。
 だから、選んだ。ルナマリアの習わしのとおりに。
 第二、第三の夫として、ロバートとニコラスを。
 半分は自分と同じ血が流れた、自分によく似た色彩をもつ、マリステラが愛しそうにもない、身勝手で最低で馬鹿な男を。
 ジェラルドと同じように、身勝手で最低で馬鹿な男を。
 マリステラの愛をひとりじめしながら、彼女に自分の子を産ませるために。



 ことん、と空になったグラスを置き、ジェラルドは傍らに立つ老紳士に微笑みかけた。
 
「……それで、フィデリタス。マリステラが私にいわなかったことで、私が聞いておくべきことはあるか」
「はい。上の弟君がマリステラ様の頬を打ちました」

 フィードの言葉に、ジェラルドは眉をひそめた。

「ロビンがマリステラの頬を?」
「はい。二度目の種付けを拒まれた際に、カッとなったのでしょう」
「そうか」

 静かに頷くジェラルドの青い瞳には、熾火のような怒りが燃えていた。

「……他には?」
「お二人ともですが、媚薬の効き目が悪いからと規定量を遥かに超えて投与されました。一昨日、もう三日前ですが、既に淫具の潤滑剤として三本使用していたのにも関わらず、膣に直接、一本まるごと注ぎいれてらっしゃいました」
「金色を?」
「桃色の方をです」
「……そうか」

 甘く舌がただれる桃色の小瓶は、ほんのりと興奮させるだけならばティースプーン一杯で充分。
 並みの女性ならば、半瓶も飲ませれば腰が抜ける。
 丸ごと一瓶、粘膜に直接流しこむなど、心臓が弱いものは死に至るおそれがある危険な行為だ。

「……マリステラ様ならば問題ございませんから、とめに入りはしませんでしたが……正式な夫ではなく当て馬として扱うのであっても、今後もマリステラ様に関わらせるのならば、一層、しっかりと彼らを管理していただかないと困ります」

 咎めるような視線にジェラルドは溜め息をついた。
 規定量以上を彼らに売ったのはフィードだというのに。

「わかっている。他に気になることは?」
「マリステラ様が指にお怪我をされました」
「……彼らのせいで?」
「林檎を剥かれる際、手を滑らせられたのです」
「そうか」
「お二人が手当てをされたのですが……後ほど、巻いた布がほどけ、傷が消えたところを見られたかもしれません」
「……確かか?」
「確かとは申せませんが、可能性は充分ございます」

 小さな傷は、無意識に治してしまうことがある。
 それを見られたというのならば、マリステラの秘密に気付かれた可能性があるということだ。

「……そうか。では、すぐにでも手を打とう」

 女に飢えていたところに極上の餌を与えられ、すっかり味を覚えたところで、ジェラルドが帰ってきて取りあげられてしまった。
 今後、マリステラを手に入れるため、従わせるために彼らが何をしでかすかわからない。
 今のところ、ロバート達が助力を求めるとすればフィードにだろうが、他の誰かを巻きこんで、マリステラの秘密が漏れては困る。
 短慮な当て馬が暴走する前に、どこかへ閉じこめ、管理しなくては。

「幸い、繋養先には困らないからな」

 牢でも塔でも、収容場所はいくらでもある。
 彼らの処遇について、今夜、じっくりと考えることにしよう。
 ジェラルドがグラスに視線を向けると、フィードは心得たようにカラメル色の瓶をもちあげ、とくりと傾けた。
 
 
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