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1巻
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そして、翌日の夕暮れ。
いつものように帰ってきたリンクスは、後ろにお供を連れていた。
組みたて式の大きな寝台を重そうに持った、家具屋を四名。
「ただいま姉さん! 新しい寝台、買ってきたよ!」
リンクスは糸のように目を細め、ぽかんとしているクロエに告げたのだった。
それから一時間後。クロエが慣れ親しんだ小さな寝台は来客用にと仕舞われ、寝室の中央にどんと置かれた寝台が爽やかな木の香りを放っていた。
新しい寝台はシンプルなデザインながら、リンクスが伸び伸びと手足を伸ばせそうなほどに大きく、造りもしっかりとして頑丈そうだ。
「どう、姉さん? いい感じじゃない?」
リンクスが腰に手を当てて、褒められるのを待つ子供のように騎士服の胸を張る。その拍子に漆黒の布地にあしらわれた金の刺繍と二列の金ボタンがランプの灯りにきらめいた。
「これなら二人で寝ても安心だよね。ねえ、姉さん?」
甘えるようにクロエに呼びかける声は低く、ぐるぐると喉を鳴らす響きは威嚇めいている。
「……ええそうね。ありがとう、リンクス」
一緒に寝ること自体が問題なのだ、と言いたかったが「あなたを異性として意識してしまっているのです」などとは、とても言えない。
――どうしましょう。
うう、とクロエは瞳を潤ませた。
きっと今夜も眠れない。
* * *
「頼む! 斬るな! 金ならやる! 何でもするから、殺さないでくれ!」
「陳腐すぎるだろ。もっと個性のある命乞いしろよ」
リンクスは、足元に這いつくばって懇願する男を見下ろしてつまらなそうに吐きすてると、男の背後に視線を向けた。
目の前で平伏する男――グランプラ伯爵家当主が、代々その身を休めてきた豪奢な四柱式寝台。真っ白で手触りの良さそうな敷き布の片隅で、小さな少女が膝を抱えて震えていた。
でっぷりと栄養をたくわえた男に対して、うっすらとあばらが透けて見えるほどに少女は痩せこけている。
――ウサギか。
少女の瞳はイチゴジャムのように赤い。その耳は白い被毛に覆われて、人間のそれよりも頭頂に近い位置から長々と伸びている。
ウサギの亜人は早熟だと言われているが、それでも少女は繁殖のできる年齢には見えなかった。生まれて十年も経っていないだろう。
調査によればグランプラ伯爵は亜人の奴隷商の上得意らしく、扱いやすい種類の雌の幼体を買いつけて遊び、飽きたら売るという行為を繰りかえしていた。
おそらくこの少女も交配相手ではなく、遊び道具として亜人の奴隷商から買いとり、三時のおやつがわりに楽しむつもりだったのだろう。
亜人の奴隷は人間よりも安く、壊れにくい。
人間であれば命を落とすような行為でも、亜人であれば耐えられる。
――気色の悪い、屑野郎が。
リンクスは心の中で吐きすてた。
亜人の成体は雄であれ雌であれ、幼体に発情することはまずない。まだ早いと本能がとめるのだ。
――それなのに、人間は本能の壊れた欠陥品ばかりだ。
かつての自分に向けられた香水屋夫婦の粘りつくような視線を思い出し、リンクスの心に黒い炎が噴きあがる。
――こいつも、あの下衆共と同類だ。
目の前の肥え太った肉塊。その上にのった金髪頭を見下ろし、リンクスは右手に下げた剣を握りなおした。斬ってしまえと心が囁く。
抵抗したのでやむなく――と報告すれば、サンティエ侯爵は咎めない。
彼は最愛の妻にして女王、フェドフルラージュに関すること以外、ほとんど興味がないのだ。
女王に仇なすものが消えさえすれば、それで彼は満足する。
――どうせ反逆罪で、何日後かには断頭台送りだ。
どのみち頭と身体が分かれるのなら、今、リンクスがそうしても許されるだろう。
安っぽい命乞いを繰りかえす男を見下ろしながら、ゆるゆるとリンクスの瞳孔がひらきはじめたところで、凛とした声が響いた。
「リンクス、お待ちなさい。殺してはなりません」
「……はい、ビジュー伯爵」
リンクスは渋々と振りむいた。
寝室の入り口に立っていたのは、明るい青緑色のサテンのドレスをまとった長身の女。
白い頭巾ですっぽりと髪を隠して、小さな顔は華やかに整っている……いささか整いすぎなほどに。
這いつくばる男に視線を落とせば、グランプラ伯爵はぽかんと口をあけ、ビジュー伯爵の美貌に見とれていた。
――知らないってことは、幸せなことだな。
リンクスは、唇の端を歪める。
「いけませんよ、リンクス。それはあなたの獲物ではありません」
「……わかっていますよ」
「これだから肉食獣は……まったくもって短慮で暴力的で困りますわ。ねぇ、グランプラ伯爵」
「えっ、……あ、ああ、まったくだ!」
真っ黒な目を細めた彼女に笑いかけられて、グランプラ伯爵はたるんだ頬をゆるめた。
「……ああ、あなたは人語が通じる御方のようだ。私はただ、国のためを思って、良かれと――」
こつりこつりと高い踵を鳴らして近付いてくる女が、自分の味方になってくれそうだと思ったのだろう。
勢いよく弁明を始めようとした男の唇に、ビジュー伯爵はほっそりと白く長い指を押しあて「しっ、お聞きになって」と制した。
「グランプラ伯爵。女王陛下に献上する茶葉に毒草を仕込むなど、ずいぶんと愚かなことをなさいましたね」
ふふ、とくびれた腰をくねらせてビジュー伯爵は笑う。リンクスもつられて唇の端を歪めた。
――だよな。馬鹿すぎる。
毒の名を持つ王配――サンティエ侯爵は毒蜘蛛の亜人。毒の識別ならばお手の物だ。
どうしてサンティエ侯爵の目をかいくぐれると思ったのだろう。
「今まではその方法で上手くいっていたのですか? 少しずつ体調を崩し、心の臓が弱り、やがては……ああ、怖い!」
わざとらしく身を震わせたと思うと一転、ビジュー伯爵は高らかに笑いはじめた。
「あはは、ああ、おかしい! あの男が気付かないはずないでしょうが! 女王陛下のためならば彼女の使う化粧水はおろか、旅先で浴びる湯船の湯すら飲んで確かめる、あの粘着質な毒蜘蛛が!」
「ビジュー伯爵、さすがに不敬だと思いますよ」
おざなりに窘めたリンクスに、ビジュー伯爵は細い肩をすくめてみせた。
「事実ですもの。それに、あの御方は怒りはしませんよ。自分がどう言われようと興味がないでしょうから。大事なもの以外には無関心。私と一緒です。あなたとは違う。虫は獣よりもシンプルで純粋なのです」
「お、おまえは……いったい……何なんだ」
戸惑うグランプラ伯爵に向きなおり、ビジュー伯爵は細く長い指で白い頭巾を取りさった。
さらりとこぼれでた髪は、ドレスと同じ鮮やかな青緑色。ふるりと頭を振れば、窓からさしこむ陽ざしに金属めいた光沢がきらめいた。
みるみるうちにグランプラ伯爵の顔がこわばる。どうやら亜人通の彼は知っていたようだ。
その髪色を持つ種族の存在を。
「……エ、エメラルド、ゴキブ――」
「宝石蜂です」
グランプラ伯爵の言葉を遮り、ビジュー伯爵は真っ白な歯を見せ捕食者の笑みで彼に告げた。
「サンティエ侯爵に許可をいただきました。あなたを私の繁殖相手に使っていいと」
一瞬の沈黙。
直後、寝室に恐怖の叫びがこだました。
「ひっ、ひいっ、いやだあっ、ゴキブリの苗床になんてなりたくな――ぎゃぁあっ!」
「……良い子が産まれるといいですね。じゃあ、行こうか、ウサギちゃん」
這いずり逃げようとする男の背中にビジュー伯爵が太い針を突きたてるのを見届けて、リンクスは寝台の少女を抱きあげ、部屋を後にした。
少女は抵抗しなかった。小さくても亜人の雌だ。自分にふれている雄が自分に欲情しているかどうか、敵意を抱いているかどうか感じとれるのだろう。
リンクスは点々と転がっている肉塊を跨ぎながら、長い廊下を、ゆっくりと進んでいく。
「……あの、お兄さん」
「どうかした?」
「エメラルド……いえ、宝石蜂って何ですか?」
「南のほうの暑いところに住んでる虫の亜人。好きな人は好きで、ある意味有名な種族」
「あの御方が、そうなんですか?」
「ああ。六年前に噂を聞いてこの国にやってきて、女王の敵を黙らせるためにずいぶんと活躍したとかで、四年前に領地をもらって伯爵になったんだ」
「……怖い人ですか?」
「雌にはやさしい。繁殖相手でない雄にも」
「……繁殖相手の雄には」
「宝石蜂は、繁殖相手の身体に卵を産みつける。そして――」
「あ、もういいです!」
慌てたように言いながら少女はぺたんと耳を垂らし、ぷるぷると震えはじめた。その先を想像してしまったのだろう。
――エグイよな。
宝石蜂は神経毒を持っている。相手の動きをとめる毒、それから、頭が蕩けるような幸福感をもたらす毒を。
刺された雄は逃げることができず、トロトロと恍惚に耽りながら、孵化した幼体に生きたまま貪り食われるのだ。
それでも、リンクスはグランプラ伯爵に対して同情など覚えなかった。
これまで生きたままの幼体を好き勝手に貪ってきた屑には、相応しい末路だ。
上等な物をたらふく食べてふくれた身体はいささか脂肪分が多めだが、栄養たっぷりの良い餌となるだろう。
「……あんなに綺麗な人なのに」
「はは、綺麗だから怖いんだよ」
虫の亜人は獣の亜人よりも顔の造形が整っている者が多い。
獣よりも鳥、鳥よりも魚、魚より虫――人間から遠い血を引くものほど美しく、心や生態も人間離れしていくのだ。
「……大丈夫だよ。あの人はあれで母性の塊なんだ。幼体にはやさしいから、きっと君が安心して暮らせる場所を見つけてくれる」
「……なら、パパとママも見つけてくれますか?」
リンクスは、ぱちりとまばたきをして、くしゃりと少女の頭を撫でた。
「……頼んでみるといい」
見つけてくれるよ、とは言わなかった。
ウサギの亜人は雌雄ともに性奴隷として人気が高い。ウサギの奴隷は返品ゼロの優良品、それが奴隷商の売り文句である。
けれどウサギの亜人は、ひどくもろい。心や身体が大きく傷つけられると、たやすく心の臓がとまってしまう。
一度売られてしまえば、それが最後。ウサギの奴隷は返品ゼロの使い捨て。それが実状だった。
「はい! 頼んでみます!」
顔を輝かせる少女から、リンクスは、そっと視線をそらした。
「……そういえば、腹減ってない? 昼ごはん、食べた?」
「……いえ。その……上手に御奉仕できたら、餌をやるって言われて……」
「……救いようのない屑だな」
リンクスは舌打ちを一つして足をとめる。それから、少女を片手で抱えなおすと、逆の手を騎士服の上着のポケットにつっこんだ。
ごそごそと探り、目当ての物をつかんで引きだした拍子に、ひらりと白い物体がこぼれでる。
「あ。何か落ちましたよ。……手紙?」
「え?」
「百合の匂いですね」
そう言って、少女が小さな鼻を蠢かすのに、リンクスは視線を床に落とした。
「……ああ」
黒く変色しはじめた飛沫が散る床の上。ぽつんと落ちた白い封筒を一瞥したリンクスは「大丈夫。もう読んだから、後で拾うよ」と答えて、握った物を少女の手のひらに押しつけた。
「これ、オレンジと蜂蜜の飴。ないよりましだろ?」
「え? いいんですか?」
「いいよ。もう一つあるから」
「わぁ、ありがとうございます!」
小さなガラス瓶に入った橙色の飴に少女は瞳を輝かせると「いただきます!」と蓋をひねって、一粒、いや、二粒取りだし、口に放りこんだ。
「ん! おいひいです!」
両の頬に入れて、カロカロと鳴らして目を細める姿に、リンクスも思わず頬をゆるめる。
「よし、じゃあ、行こうか」
両手で少女を抱えなおして、歩きはじめる。
廊下に散らばるガラスの破片をひょいと跨いだところで、割れた窓から入ってきた春の香りがリンクスの鼻をくすぐった。ひだまりの花と土と芝生の匂いだ。
少女を見れば、小さな鼻をひくひくと蠢かせている。
「……この屋敷、当主は屑でも庭はいいよな」
リンクスが微笑むと、少女はしょんぼりと眉尻を下げた。
「そうなんですか? 夜に連れてこられたので、見れてないんです。……というか、奴隷商にいたころからもう何日も、おひさま見てないです」
「……日当たりがよくて、昼寝に最高って感じの庭だったよ」
「私、おひるね好きです」
「そうか。俺も好きだよ。お昼寝もおひさまも、とくにおひさまが好きだ」
明るく言いながら、ふとリンクスは、今朝、見送ってくれたクロエの顔を思いだして、へらりと頬をゆるめた。
――姉さん、びっくりしてたなぁ。
どうか気をつけて、と振る手に思わずじゃれつき齧りついたら、こぼれ落ちんばかりに目を見ひらいて、それから真っ赤になっていた。
――無垢でやさしい、俺のおひさま。
叱ることなく「他の人にしてはいけませんよ」と、やさしく窘めてきたクロエの笑みを思いうかべ、キュッと目を細める。
「……あの、お兄さん?」
腕の中で、もぞりと少女が身じろいで、不審げにリンクスを見上げてきた。
――さすがはウサギ。匂いに敏感だな。
くすくすと笑いながら、リンクスは悪びれずに告げた。
「君のことじゃないよ。家で待っててくれる、大好きな人のことを考えていたんだ」
その言葉に、ホッと少女の身体から力が抜ける。
「……そうですか。本当に、その人のこと大好きなんですね」
「そうだよ。あー、ここの庭もらえないかな? 二人で転げまわったら、絶対に楽しいと思うんだよな」
「ふふ、その人、そんなにおてんばなんですか?」
「ううん。おしとやかな人だよ。抱きついてゴロゴロ転がったら楽しいかなーって。ふふ、落ち葉まみれになった姉さん、かわいいだろうなぁ!」
「……姉さん? その人、あなたのお姉さんなんですか?」
パチリと目をみはり訝しそうに問う少女に、リンクスは一瞬の間を置いてから頷いた。
「うん。血は繋がってないけどね。この世で一番大切な人だよ!」
そう言って、いまだに首を傾げている少女の頭を撫でて、笑いかける。
「君も、そういう人に出会えるといいね」
「……ええ、まあ、そうですね」
「うん。まぁ、まずはおひさま浴びようか。それでちょっと昼寝して暖まったら、お父さんとお母さん、探す手続きしような?」
「っ、はい!」
元気よく答えた少女を抱えなおすと、リンクスは弾む足取りで廊下を進んでいった。
* * *
「あぁ、そういえば姉さん。俺、爵位もらったよ。昨日から男爵」
ぺかりとゆで卵の殻を剥きながら「コイン拾ったよ」と言うように朝食の席でサラリと告げられ、向かいの席でそら豆とベーコンのスープを口に運んでいたクロエはゲホリと噎せた。
「うわ、姉さん、大丈夫!?」
卵を手にしたまま立ちあがったリンクスが、テーブルを回ってクロエに駆けよる。
「っ、えほ、っ、だ、大丈夫、ですっ」
大きな手に背中をさすられながら、クロエはグラスを取って水を口に運び、コクリと喉を鳴らした。
「……ふぅ」
「姉さん、ゆっくり噛んで食べないと。消化によくないよ」
誰のせいだと思っているのか。思わずクロエはリンクスを恨めしげに見つめるが「はい、ゆで卵」とニコニコ顔で差しだされて、怒るに怒れなくなってしまう。
「……ありがとう。……それから、おめでとう」
「ありがとう」
「お仕事、頑張っているものね。あなたの努力が報われて、私も嬉しく思います」
クロエはリンクスを労うように微笑んでから、卵を口にする。
「……姉さんに褒められるのが、一番の御褒美だよ」
リンクスは照れくさそうに目を細め、手にしたオレンジをぐにぐにと揉みはじめた。
「ほらこの間さ、女王陛下に毒を盛った貴族を捕らえに行って、そこでウサギの子を助けたって話をしただろう? そいつとつるんでいたやつらがイモみたいにゴロゴロ出てきて潰されて、かなりの土地が陛下のものになったから、俺と、一緒に仕事した何人かに下げ渡してくれたんだ」
「……ん。それは、ありがたいことですね」
卵を飲みこみ、クロエは頷いた。
「そうだね。収入も上がるから、楽しみにしてて。はい、オレンジ」
ほどよく揉んで皮を剥いたオレンジを差しだされ、礼を言って受けとりながら、クロエはふと疑問を抱いた。
「……ねえ、リンクス。男爵になったということは、領地をいただいたのよね?」
「うん。まだ見てないけど、日向ぼっこができて花のきれいな野原がある良い土地だって!」
「そう、素敵ね」
クロエはニコリと微笑み、頷いてから問いを重ねる。
「……ということは、あなたは、その土地の御領主になるということよね?」
男爵になった、ということは、一代限りで領地をもたない一介の騎士とは事情が違ってくる。
近いうちに、リンクスは領地で暮らすことになるだろう。
この教会堂を離れてクロエの知らぬ場所で屋敷の当主となり、多くの使用人に傅かれ、そして――いずれは相応しい妻を娶って、跡継ぎをもうけるのだ。
「……いつごろ、領地へ移るつもりですか?」
クロエは静かに問いかけた。
いずれ別れの日が来ると覚悟していた。そして、それはさほど遠くない日に訪れるだろうと。
彼の男としての成長を感じるにつれより強く、そう思うようになっていた。
少年だったリンクスも、今では逞しい青年となった。いまだに恋人を連れてきたことはないが、彼に想いを寄せる女性は、きっとクロエの想像よりもたくさんいるはずだ。
――この間の手紙の送り主も、その一人かもしれない……
リンクスがウサギの子を救ってきた日。
「はい、姉さん! 今日のお土産!」
そう言って彼が上着のポケットに手を入れ、橙の飴玉の入った小瓶を取りだしたときに、はらりと一枚の手紙がポケットからこぼれ落ちた。
「リンクス、落ちましたよ」
何の気なしに拾いあげて、ふわりと鼻に届いたのは甘い百合の香り。
ひらりと裏返して見えたのは、薄っすらと何かをこぼしたような赤黒い染みと、愛らしい筆跡で書かれた「あなたのA」というサインだった。
「あっ、姉さん、だめだよ!」
慌てたような声を上げ、リンクスはクロエの手から手紙を取りあげた。
そうして、ポケットに捻じこむと、パチリと目をみはる姉に向かって取り繕うように微笑んだ。
「ごめん。でも、ちょっと返り血がついちゃってて……姉さんの手が汚れるから……」
「そうだったの。ありがとう」と微笑みを返しながらも、クロエは、本当にそれだけの理由だったのだろうかと妙に心が騒いだものだ。
――私に見せられない、教えたくないような相手からの手紙だったのかしら……?
リンクスも、もう十九歳。
男の結婚適齢期には少し早いが、恋の一つや二つ、始めてもおかしくない年齢だろう。
恋をして結ばれて、子を成し、あたたかで幸せな家庭を築く。それは生涯の純潔を誓ったクロエには、決して与えてあげられない幸福だ。
だから、いずれ番を求めて巣立つ彼を、この場所から笑って送りださなくてはいけない。
そう心に決めてはいたのだが……
――まさかこんな理由で、これほど突然に別れの日が来るとは思わなかったわ……!
降って湧いた別れの予感に、目の奥がつんと熱くなる。
「……姉さん」
新たなゆで卵を手に取ったリンクスは、まっすぐにクロエを見つめ、表情を引きしめた。
クロエはきゅっと唇を結んで、こぼれそうになる涙をこらえながら見つめかえす。
やがて、彼は卵の殻をパキリと割ると、フフッと噴きだした。
「まったく姉さんは早とちりだなぁ。何言いだすかと思えば……俺、どこにも行かないよ? だって、姉さんがここにいるのに」
「……えっ」
ふす、と鼻から息を吐いて、リンクスは肩をすくめた。
「ここから通うんだよ。そのための馬ももらって辻馬車屋に預けてあるんだから。これまでと一緒! 姉さんと一緒に朝ごはんを食べて、お馬に揺られて仕事に行って、カラスが鳴いたら帰ってくるよ」
「……で、でも、いつまでもそうするわけにもいかないでしょう?」
王都のタウンハウスと領地のカントリーハウスを行き来する領主は珍しくないが、結婚して子供が生まれれば、この教会をタウンハウス代わりにするのも無理が出てくるだろう。
「いや、ずっとそうするつもりだけど? だって、姉さんがいるここが俺の家だし、姉さんがいないと眠れないから」
「つまり……これからもずっと、夜は私と一緒に眠るつもりなの?」
「そうだよ。これからもずっと姉さんのこと、抱っこしたりされたりして寝るつもりだけど?」
当然のことのようにリンクスが答える。
「ずっと、抱っこしたりされたり、だなんて……」
何一つ間違っていないが、あらためて口にされると何とも気恥ずかしい。
ほんの一時間ほど前、彼女の胸にぐりぐりと額を押しつけながら、「おはよ、姉さん」と甘えた声をかけてきたリンクスの姿を思いだして、クロエは、ポッと頬が熱くなった。
「……で、でも、結婚は? どうするのですか?」
赤らむ頬を手のひらで隠して、ごまかすように尋ねる。
「結婚? できたらいいなぁと思っているけど、今のところは難しいよね?」
逞しい首を傾げ、ふにゃりとリンクスが笑う。
「難しいよね、って……」
どうして疑問形なのだろう。クロエは眉を顰めて、新たな問いをかけた。
「では、子供は? 領主となるならば、いつかは考えなくてはいけないでしょう?」
「そうかな? できたらいいなぁと思っているけど、今のところは考えられないよね?」
またしても疑問形だ。まるで姉に答えを委ねるような、あまりにふわふわとした返答に、もどかしくなったクロエは思わず「いけません!」と声を上げてしまった。
「きちんと考えなさい! そのような半端な心構えでは、立派な夫や父親にはなれませんよ!」
「えっ!?」
リンクスが目をみはり、シュンッと三角耳を後ろに倒す。
それを見て、ハッとクロエは我に返った。
「……ごめんなさい、リンクス。急に大きな声を出したりして……」
虐げられていた彼は怒鳴られることが苦手だと知っていたのに、酷いことをしてしまった。
「……いや、気にしないで。確かに俺も今の状態は中途半端というか、このままじゃ嫌だな、とは考えているから」
苦笑を浮かべるリンクスに、クロエは眉尻を下げる。
いつものように帰ってきたリンクスは、後ろにお供を連れていた。
組みたて式の大きな寝台を重そうに持った、家具屋を四名。
「ただいま姉さん! 新しい寝台、買ってきたよ!」
リンクスは糸のように目を細め、ぽかんとしているクロエに告げたのだった。
それから一時間後。クロエが慣れ親しんだ小さな寝台は来客用にと仕舞われ、寝室の中央にどんと置かれた寝台が爽やかな木の香りを放っていた。
新しい寝台はシンプルなデザインながら、リンクスが伸び伸びと手足を伸ばせそうなほどに大きく、造りもしっかりとして頑丈そうだ。
「どう、姉さん? いい感じじゃない?」
リンクスが腰に手を当てて、褒められるのを待つ子供のように騎士服の胸を張る。その拍子に漆黒の布地にあしらわれた金の刺繍と二列の金ボタンがランプの灯りにきらめいた。
「これなら二人で寝ても安心だよね。ねえ、姉さん?」
甘えるようにクロエに呼びかける声は低く、ぐるぐると喉を鳴らす響きは威嚇めいている。
「……ええそうね。ありがとう、リンクス」
一緒に寝ること自体が問題なのだ、と言いたかったが「あなたを異性として意識してしまっているのです」などとは、とても言えない。
――どうしましょう。
うう、とクロエは瞳を潤ませた。
きっと今夜も眠れない。
* * *
「頼む! 斬るな! 金ならやる! 何でもするから、殺さないでくれ!」
「陳腐すぎるだろ。もっと個性のある命乞いしろよ」
リンクスは、足元に這いつくばって懇願する男を見下ろしてつまらなそうに吐きすてると、男の背後に視線を向けた。
目の前で平伏する男――グランプラ伯爵家当主が、代々その身を休めてきた豪奢な四柱式寝台。真っ白で手触りの良さそうな敷き布の片隅で、小さな少女が膝を抱えて震えていた。
でっぷりと栄養をたくわえた男に対して、うっすらとあばらが透けて見えるほどに少女は痩せこけている。
――ウサギか。
少女の瞳はイチゴジャムのように赤い。その耳は白い被毛に覆われて、人間のそれよりも頭頂に近い位置から長々と伸びている。
ウサギの亜人は早熟だと言われているが、それでも少女は繁殖のできる年齢には見えなかった。生まれて十年も経っていないだろう。
調査によればグランプラ伯爵は亜人の奴隷商の上得意らしく、扱いやすい種類の雌の幼体を買いつけて遊び、飽きたら売るという行為を繰りかえしていた。
おそらくこの少女も交配相手ではなく、遊び道具として亜人の奴隷商から買いとり、三時のおやつがわりに楽しむつもりだったのだろう。
亜人の奴隷は人間よりも安く、壊れにくい。
人間であれば命を落とすような行為でも、亜人であれば耐えられる。
――気色の悪い、屑野郎が。
リンクスは心の中で吐きすてた。
亜人の成体は雄であれ雌であれ、幼体に発情することはまずない。まだ早いと本能がとめるのだ。
――それなのに、人間は本能の壊れた欠陥品ばかりだ。
かつての自分に向けられた香水屋夫婦の粘りつくような視線を思い出し、リンクスの心に黒い炎が噴きあがる。
――こいつも、あの下衆共と同類だ。
目の前の肥え太った肉塊。その上にのった金髪頭を見下ろし、リンクスは右手に下げた剣を握りなおした。斬ってしまえと心が囁く。
抵抗したのでやむなく――と報告すれば、サンティエ侯爵は咎めない。
彼は最愛の妻にして女王、フェドフルラージュに関すること以外、ほとんど興味がないのだ。
女王に仇なすものが消えさえすれば、それで彼は満足する。
――どうせ反逆罪で、何日後かには断頭台送りだ。
どのみち頭と身体が分かれるのなら、今、リンクスがそうしても許されるだろう。
安っぽい命乞いを繰りかえす男を見下ろしながら、ゆるゆるとリンクスの瞳孔がひらきはじめたところで、凛とした声が響いた。
「リンクス、お待ちなさい。殺してはなりません」
「……はい、ビジュー伯爵」
リンクスは渋々と振りむいた。
寝室の入り口に立っていたのは、明るい青緑色のサテンのドレスをまとった長身の女。
白い頭巾ですっぽりと髪を隠して、小さな顔は華やかに整っている……いささか整いすぎなほどに。
這いつくばる男に視線を落とせば、グランプラ伯爵はぽかんと口をあけ、ビジュー伯爵の美貌に見とれていた。
――知らないってことは、幸せなことだな。
リンクスは、唇の端を歪める。
「いけませんよ、リンクス。それはあなたの獲物ではありません」
「……わかっていますよ」
「これだから肉食獣は……まったくもって短慮で暴力的で困りますわ。ねぇ、グランプラ伯爵」
「えっ、……あ、ああ、まったくだ!」
真っ黒な目を細めた彼女に笑いかけられて、グランプラ伯爵はたるんだ頬をゆるめた。
「……ああ、あなたは人語が通じる御方のようだ。私はただ、国のためを思って、良かれと――」
こつりこつりと高い踵を鳴らして近付いてくる女が、自分の味方になってくれそうだと思ったのだろう。
勢いよく弁明を始めようとした男の唇に、ビジュー伯爵はほっそりと白く長い指を押しあて「しっ、お聞きになって」と制した。
「グランプラ伯爵。女王陛下に献上する茶葉に毒草を仕込むなど、ずいぶんと愚かなことをなさいましたね」
ふふ、とくびれた腰をくねらせてビジュー伯爵は笑う。リンクスもつられて唇の端を歪めた。
――だよな。馬鹿すぎる。
毒の名を持つ王配――サンティエ侯爵は毒蜘蛛の亜人。毒の識別ならばお手の物だ。
どうしてサンティエ侯爵の目をかいくぐれると思ったのだろう。
「今まではその方法で上手くいっていたのですか? 少しずつ体調を崩し、心の臓が弱り、やがては……ああ、怖い!」
わざとらしく身を震わせたと思うと一転、ビジュー伯爵は高らかに笑いはじめた。
「あはは、ああ、おかしい! あの男が気付かないはずないでしょうが! 女王陛下のためならば彼女の使う化粧水はおろか、旅先で浴びる湯船の湯すら飲んで確かめる、あの粘着質な毒蜘蛛が!」
「ビジュー伯爵、さすがに不敬だと思いますよ」
おざなりに窘めたリンクスに、ビジュー伯爵は細い肩をすくめてみせた。
「事実ですもの。それに、あの御方は怒りはしませんよ。自分がどう言われようと興味がないでしょうから。大事なもの以外には無関心。私と一緒です。あなたとは違う。虫は獣よりもシンプルで純粋なのです」
「お、おまえは……いったい……何なんだ」
戸惑うグランプラ伯爵に向きなおり、ビジュー伯爵は細く長い指で白い頭巾を取りさった。
さらりとこぼれでた髪は、ドレスと同じ鮮やかな青緑色。ふるりと頭を振れば、窓からさしこむ陽ざしに金属めいた光沢がきらめいた。
みるみるうちにグランプラ伯爵の顔がこわばる。どうやら亜人通の彼は知っていたようだ。
その髪色を持つ種族の存在を。
「……エ、エメラルド、ゴキブ――」
「宝石蜂です」
グランプラ伯爵の言葉を遮り、ビジュー伯爵は真っ白な歯を見せ捕食者の笑みで彼に告げた。
「サンティエ侯爵に許可をいただきました。あなたを私の繁殖相手に使っていいと」
一瞬の沈黙。
直後、寝室に恐怖の叫びがこだました。
「ひっ、ひいっ、いやだあっ、ゴキブリの苗床になんてなりたくな――ぎゃぁあっ!」
「……良い子が産まれるといいですね。じゃあ、行こうか、ウサギちゃん」
這いずり逃げようとする男の背中にビジュー伯爵が太い針を突きたてるのを見届けて、リンクスは寝台の少女を抱きあげ、部屋を後にした。
少女は抵抗しなかった。小さくても亜人の雌だ。自分にふれている雄が自分に欲情しているかどうか、敵意を抱いているかどうか感じとれるのだろう。
リンクスは点々と転がっている肉塊を跨ぎながら、長い廊下を、ゆっくりと進んでいく。
「……あの、お兄さん」
「どうかした?」
「エメラルド……いえ、宝石蜂って何ですか?」
「南のほうの暑いところに住んでる虫の亜人。好きな人は好きで、ある意味有名な種族」
「あの御方が、そうなんですか?」
「ああ。六年前に噂を聞いてこの国にやってきて、女王の敵を黙らせるためにずいぶんと活躍したとかで、四年前に領地をもらって伯爵になったんだ」
「……怖い人ですか?」
「雌にはやさしい。繁殖相手でない雄にも」
「……繁殖相手の雄には」
「宝石蜂は、繁殖相手の身体に卵を産みつける。そして――」
「あ、もういいです!」
慌てたように言いながら少女はぺたんと耳を垂らし、ぷるぷると震えはじめた。その先を想像してしまったのだろう。
――エグイよな。
宝石蜂は神経毒を持っている。相手の動きをとめる毒、それから、頭が蕩けるような幸福感をもたらす毒を。
刺された雄は逃げることができず、トロトロと恍惚に耽りながら、孵化した幼体に生きたまま貪り食われるのだ。
それでも、リンクスはグランプラ伯爵に対して同情など覚えなかった。
これまで生きたままの幼体を好き勝手に貪ってきた屑には、相応しい末路だ。
上等な物をたらふく食べてふくれた身体はいささか脂肪分が多めだが、栄養たっぷりの良い餌となるだろう。
「……あんなに綺麗な人なのに」
「はは、綺麗だから怖いんだよ」
虫の亜人は獣の亜人よりも顔の造形が整っている者が多い。
獣よりも鳥、鳥よりも魚、魚より虫――人間から遠い血を引くものほど美しく、心や生態も人間離れしていくのだ。
「……大丈夫だよ。あの人はあれで母性の塊なんだ。幼体にはやさしいから、きっと君が安心して暮らせる場所を見つけてくれる」
「……なら、パパとママも見つけてくれますか?」
リンクスは、ぱちりとまばたきをして、くしゃりと少女の頭を撫でた。
「……頼んでみるといい」
見つけてくれるよ、とは言わなかった。
ウサギの亜人は雌雄ともに性奴隷として人気が高い。ウサギの奴隷は返品ゼロの優良品、それが奴隷商の売り文句である。
けれどウサギの亜人は、ひどくもろい。心や身体が大きく傷つけられると、たやすく心の臓がとまってしまう。
一度売られてしまえば、それが最後。ウサギの奴隷は返品ゼロの使い捨て。それが実状だった。
「はい! 頼んでみます!」
顔を輝かせる少女から、リンクスは、そっと視線をそらした。
「……そういえば、腹減ってない? 昼ごはん、食べた?」
「……いえ。その……上手に御奉仕できたら、餌をやるって言われて……」
「……救いようのない屑だな」
リンクスは舌打ちを一つして足をとめる。それから、少女を片手で抱えなおすと、逆の手を騎士服の上着のポケットにつっこんだ。
ごそごそと探り、目当ての物をつかんで引きだした拍子に、ひらりと白い物体がこぼれでる。
「あ。何か落ちましたよ。……手紙?」
「え?」
「百合の匂いですね」
そう言って、少女が小さな鼻を蠢かすのに、リンクスは視線を床に落とした。
「……ああ」
黒く変色しはじめた飛沫が散る床の上。ぽつんと落ちた白い封筒を一瞥したリンクスは「大丈夫。もう読んだから、後で拾うよ」と答えて、握った物を少女の手のひらに押しつけた。
「これ、オレンジと蜂蜜の飴。ないよりましだろ?」
「え? いいんですか?」
「いいよ。もう一つあるから」
「わぁ、ありがとうございます!」
小さなガラス瓶に入った橙色の飴に少女は瞳を輝かせると「いただきます!」と蓋をひねって、一粒、いや、二粒取りだし、口に放りこんだ。
「ん! おいひいです!」
両の頬に入れて、カロカロと鳴らして目を細める姿に、リンクスも思わず頬をゆるめる。
「よし、じゃあ、行こうか」
両手で少女を抱えなおして、歩きはじめる。
廊下に散らばるガラスの破片をひょいと跨いだところで、割れた窓から入ってきた春の香りがリンクスの鼻をくすぐった。ひだまりの花と土と芝生の匂いだ。
少女を見れば、小さな鼻をひくひくと蠢かせている。
「……この屋敷、当主は屑でも庭はいいよな」
リンクスが微笑むと、少女はしょんぼりと眉尻を下げた。
「そうなんですか? 夜に連れてこられたので、見れてないんです。……というか、奴隷商にいたころからもう何日も、おひさま見てないです」
「……日当たりがよくて、昼寝に最高って感じの庭だったよ」
「私、おひるね好きです」
「そうか。俺も好きだよ。お昼寝もおひさまも、とくにおひさまが好きだ」
明るく言いながら、ふとリンクスは、今朝、見送ってくれたクロエの顔を思いだして、へらりと頬をゆるめた。
――姉さん、びっくりしてたなぁ。
どうか気をつけて、と振る手に思わずじゃれつき齧りついたら、こぼれ落ちんばかりに目を見ひらいて、それから真っ赤になっていた。
――無垢でやさしい、俺のおひさま。
叱ることなく「他の人にしてはいけませんよ」と、やさしく窘めてきたクロエの笑みを思いうかべ、キュッと目を細める。
「……あの、お兄さん?」
腕の中で、もぞりと少女が身じろいで、不審げにリンクスを見上げてきた。
――さすがはウサギ。匂いに敏感だな。
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「君のことじゃないよ。家で待っててくれる、大好きな人のことを考えていたんだ」
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「……そうですか。本当に、その人のこと大好きなんですね」
「そうだよ。あー、ここの庭もらえないかな? 二人で転げまわったら、絶対に楽しいと思うんだよな」
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そう言って、いまだに首を傾げている少女の頭を撫でて、笑いかける。
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「……ええ、まあ、そうですね」
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元気よく答えた少女を抱えなおすと、リンクスは弾む足取りで廊下を進んでいった。
* * *
「あぁ、そういえば姉さん。俺、爵位もらったよ。昨日から男爵」
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「……ありがとう。……それから、おめでとう」
「ありがとう」
「お仕事、頑張っているものね。あなたの努力が報われて、私も嬉しく思います」
クロエはリンクスを労うように微笑んでから、卵を口にする。
「……姉さんに褒められるのが、一番の御褒美だよ」
リンクスは照れくさそうに目を細め、手にしたオレンジをぐにぐにと揉みはじめた。
「ほらこの間さ、女王陛下に毒を盛った貴族を捕らえに行って、そこでウサギの子を助けたって話をしただろう? そいつとつるんでいたやつらがイモみたいにゴロゴロ出てきて潰されて、かなりの土地が陛下のものになったから、俺と、一緒に仕事した何人かに下げ渡してくれたんだ」
「……ん。それは、ありがたいことですね」
卵を飲みこみ、クロエは頷いた。
「そうだね。収入も上がるから、楽しみにしてて。はい、オレンジ」
ほどよく揉んで皮を剥いたオレンジを差しだされ、礼を言って受けとりながら、クロエはふと疑問を抱いた。
「……ねえ、リンクス。男爵になったということは、領地をいただいたのよね?」
「うん。まだ見てないけど、日向ぼっこができて花のきれいな野原がある良い土地だって!」
「そう、素敵ね」
クロエはニコリと微笑み、頷いてから問いを重ねる。
「……ということは、あなたは、その土地の御領主になるということよね?」
男爵になった、ということは、一代限りで領地をもたない一介の騎士とは事情が違ってくる。
近いうちに、リンクスは領地で暮らすことになるだろう。
この教会堂を離れてクロエの知らぬ場所で屋敷の当主となり、多くの使用人に傅かれ、そして――いずれは相応しい妻を娶って、跡継ぎをもうけるのだ。
「……いつごろ、領地へ移るつもりですか?」
クロエは静かに問いかけた。
いずれ別れの日が来ると覚悟していた。そして、それはさほど遠くない日に訪れるだろうと。
彼の男としての成長を感じるにつれより強く、そう思うようになっていた。
少年だったリンクスも、今では逞しい青年となった。いまだに恋人を連れてきたことはないが、彼に想いを寄せる女性は、きっとクロエの想像よりもたくさんいるはずだ。
――この間の手紙の送り主も、その一人かもしれない……
リンクスがウサギの子を救ってきた日。
「はい、姉さん! 今日のお土産!」
そう言って彼が上着のポケットに手を入れ、橙の飴玉の入った小瓶を取りだしたときに、はらりと一枚の手紙がポケットからこぼれ落ちた。
「リンクス、落ちましたよ」
何の気なしに拾いあげて、ふわりと鼻に届いたのは甘い百合の香り。
ひらりと裏返して見えたのは、薄っすらと何かをこぼしたような赤黒い染みと、愛らしい筆跡で書かれた「あなたのA」というサインだった。
「あっ、姉さん、だめだよ!」
慌てたような声を上げ、リンクスはクロエの手から手紙を取りあげた。
そうして、ポケットに捻じこむと、パチリと目をみはる姉に向かって取り繕うように微笑んだ。
「ごめん。でも、ちょっと返り血がついちゃってて……姉さんの手が汚れるから……」
「そうだったの。ありがとう」と微笑みを返しながらも、クロエは、本当にそれだけの理由だったのだろうかと妙に心が騒いだものだ。
――私に見せられない、教えたくないような相手からの手紙だったのかしら……?
リンクスも、もう十九歳。
男の結婚適齢期には少し早いが、恋の一つや二つ、始めてもおかしくない年齢だろう。
恋をして結ばれて、子を成し、あたたかで幸せな家庭を築く。それは生涯の純潔を誓ったクロエには、決して与えてあげられない幸福だ。
だから、いずれ番を求めて巣立つ彼を、この場所から笑って送りださなくてはいけない。
そう心に決めてはいたのだが……
――まさかこんな理由で、これほど突然に別れの日が来るとは思わなかったわ……!
降って湧いた別れの予感に、目の奥がつんと熱くなる。
「……姉さん」
新たなゆで卵を手に取ったリンクスは、まっすぐにクロエを見つめ、表情を引きしめた。
クロエはきゅっと唇を結んで、こぼれそうになる涙をこらえながら見つめかえす。
やがて、彼は卵の殻をパキリと割ると、フフッと噴きだした。
「まったく姉さんは早とちりだなぁ。何言いだすかと思えば……俺、どこにも行かないよ? だって、姉さんがここにいるのに」
「……えっ」
ふす、と鼻から息を吐いて、リンクスは肩をすくめた。
「ここから通うんだよ。そのための馬ももらって辻馬車屋に預けてあるんだから。これまでと一緒! 姉さんと一緒に朝ごはんを食べて、お馬に揺られて仕事に行って、カラスが鳴いたら帰ってくるよ」
「……で、でも、いつまでもそうするわけにもいかないでしょう?」
王都のタウンハウスと領地のカントリーハウスを行き来する領主は珍しくないが、結婚して子供が生まれれば、この教会をタウンハウス代わりにするのも無理が出てくるだろう。
「いや、ずっとそうするつもりだけど? だって、姉さんがいるここが俺の家だし、姉さんがいないと眠れないから」
「つまり……これからもずっと、夜は私と一緒に眠るつもりなの?」
「そうだよ。これからもずっと姉さんのこと、抱っこしたりされたりして寝るつもりだけど?」
当然のことのようにリンクスが答える。
「ずっと、抱っこしたりされたり、だなんて……」
何一つ間違っていないが、あらためて口にされると何とも気恥ずかしい。
ほんの一時間ほど前、彼女の胸にぐりぐりと額を押しつけながら、「おはよ、姉さん」と甘えた声をかけてきたリンクスの姿を思いだして、クロエは、ポッと頬が熱くなった。
「……で、でも、結婚は? どうするのですか?」
赤らむ頬を手のひらで隠して、ごまかすように尋ねる。
「結婚? できたらいいなぁと思っているけど、今のところは難しいよね?」
逞しい首を傾げ、ふにゃりとリンクスが笑う。
「難しいよね、って……」
どうして疑問形なのだろう。クロエは眉を顰めて、新たな問いをかけた。
「では、子供は? 領主となるならば、いつかは考えなくてはいけないでしょう?」
「そうかな? できたらいいなぁと思っているけど、今のところは考えられないよね?」
またしても疑問形だ。まるで姉に答えを委ねるような、あまりにふわふわとした返答に、もどかしくなったクロエは思わず「いけません!」と声を上げてしまった。
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「えっ!?」
リンクスが目をみはり、シュンッと三角耳を後ろに倒す。
それを見て、ハッとクロエは我に返った。
「……ごめんなさい、リンクス。急に大きな声を出したりして……」
虐げられていた彼は怒鳴られることが苦手だと知っていたのに、酷いことをしてしまった。
「……いや、気にしないで。確かに俺も今の状態は中途半端というか、このままじゃ嫌だな、とは考えているから」
苦笑を浮かべるリンクスに、クロエは眉尻を下げる。
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