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1巻
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プロローグ 怯える子猫とニセモノ姉弟のはじまり
崩れた商家の柱に挟まれたその子を見つけたとき、クロエが迷わなかったと言えば嘘になる。
城下町の方々では火の手があがり、逃げまどう人々の悲鳴と怒号が遠く聞こえていた。
おだやかな春の宵、クロエが十八年間生まれ育ったアンソレイユ王国は滅亡の危機に瀕していた。
偉大なる創造主をたたえる創世教会の修道女であり、王都の南通りに建つ、今にも崩れおちそうな小さな教会で暮らすクロエにとって、王侯貴族というものは遥か遠くの存在であった。だが、どれだけ彼らとの関係が遠かろうと、彼らがしでかした行いの報いは容赦なくその国の民へと降りかかってくる。
噂によれば少し前、王太子オスカーが北に位置するシエルカルム王国へ外遊に行った際、シエルカルムの姫君に仕える侍女の一人を口説いて結ばれ、あろうことか帰国の際に捨ててしまったという。
娘を弄ばれたことに憤慨して、侍女の母であるサンティエ侯爵夫人は王太子の謝罪を求めたが、アンソレイユ王家は拒んだ。
件の侍女が亜人の血の入った「歪な混ざりもの」だから――という理由で。
サンティエ侯爵夫人は純粋な人間だが、その夫である侯爵は人間ではない。蜘蛛の亜人だ。
侍女は人間だけでなく亜人の血を引いていたのだ。
亜人とは、この世界に人間が生まれたときに、手違いで鳥獣や虫の血が混じって生じた『人間の亜種』だと言われている。
純粋な人間に比べて数が少なく、鳥獣や虫の形質を持ちながらも野生では生きられない。それゆえ人間社会に寄生して生きる他ない一段劣った存在として、彼らは長く虐げられ、蔑まれてきた。
現在も多くの国で、亜人に対する蔑視や嫌悪の感情が根強く残っているという。
アンソレイユもまた、そういった国の一つだった。
その上、アンソレイユの王族は気位が高く、自国に住む人間ですら、ときに虫けらのように扱うほど傲慢なことで知られていた。
サンティエ侯爵夫人からの書状を受けとった彼らは、王家の総意として、「虫けら以下の存在である亜人に下げる頭などない」と返事をしたのだ。
謝るどころか「人間に似ているだけの醜く歪な存在である亜人風情が、我ら高貴なる者の一時の慰めになれただけでもありがたく思え」と冷たく突き放した。
娘を侮辱されたサンティエ侯爵夫妻の怒りと嘆きは如何ほどのものだったか。
話を伝え聞いたクロエですら憤りを覚えたのだ。実の親ともなれば尚更だろう。
そして、王家の書状が出された、わずか三日後のことだった。
サンティエ侯爵率いる異形の兵団が、日没後の宵闇に包まれたアンソレイユ王国を襲ったのは。
かねてより噂はあった。
シエルカルムには、亜人のみで構成された異形の軍隊があるらしい――と。
アンソレイユと異なり、シエルカルムでは十年ほど前から亜人の市民権が認められている。ゆえにシエルカルムだけでなく他国で迫害された亜人たちが、尊厳を求めてシエルカルムへと集まっているという。
その亜人の中から戦闘に優れた者が選りすぐられて、表には出せない暗部の仕事を担っているのだと、まことしやかに囁かれていた。
アンソレイユの民は、その噂の真偽を身をもって知ることとなった。
彼らは足音を立てず、松明さえ灯さず、王都を囲む石壁を軽々と乗りこえて城下町の石畳を進み、王城へと潜りこんだという。そして彼らの侵入を許して半時も経たぬうちに、事の発端となった王太子オスカーただ一人を除いて、アンソレイユ王家は根絶やしにされた。
使用人や城を警護する兵士は、悪夢の舞台と化した城を捨てて町へなだれこんだ。誰かが松明を倒したか、それとも騒ぎに乗じて逃げようと故意に火をつけたか。
方々に火の手があがりはじめれば、町はもう、狂乱の地獄だった。
「亜人が来る! 殺される!」
「逃げろ! 生きたまま食われるぞ!」
飛び交う悲鳴に混じって、教会堂の前で立ちすくむクロエの耳に恐ろしい警告が届く。
次々に人々が目の前を通りすぎていき、慌てながらも彼女に気付いた何人かの信徒が、一緒に逃げようと声をかけてきた。
けれど、クロエは「このような足手まといがいては、御迷惑になります」と首を横に振った。
クロエの右足は幼いころの怪我がもとで上手く動かない。歩くだけならば問題はないが、走ることはできない。
逃げきれず一人で死ぬのならまだしも、自分のせいで誰かを危険に晒すようなことはしたくなかった。
声をかけられるたびに、彼女は恐怖で震えそうになる手をギュッと組んで「主の御加護がありますように」と祈り、微笑んでみせた。
「どうか御無事で」と涙ぐむ人々を見送って、やがて人影が途絶えたところでようやく、クロエは歩きはじめた。
おそらく逃げきれないだろうと、覚悟はしていた。
けれど、もしかすると、運がよければ、偉大なる主の御加護があれば。
ひとすじの望みに縋るように歩きつづけて、しばらくしたころ、ふとクロエの耳に誰かがすすり泣く声が届いた。
いったいどこから、と足をとめて振りむき、目にした光景にクロエは天を仰いだ。
――主よ、どこまで私をお試しになるのですか……!
崩れかけた一軒の商家。
細く立ちのぼる黒い煙に、むせかえるような香水の匂い、地面にはキラキラと輝く無数のガラス片。
何よりクロエの目を引いたのは、柱と地面に挟まれ、はらはらと涙をこぼす十歳ほどの少年。
少年の耳は三角に尖り、やわらかそうなビスケット色の被毛に覆われていた。
耳の先には、ちょこんと黒い房毛が伸びて、少年のすすり泣きに合わせて震えている。
――噂は本当だったのね。
かねてから、その店では香水の調合に亜人の奴隷を使っているという噂があった。
――こんな小さな子供だったなんて。
店を営んでいた夫婦は襲来した亜人の追跡を恐れ、少年を置いて逃げたのだろう。
クロエの匂いに気が付いたのか、ふと泣き声がとぎれ、少年が顔を上げた。
――綺麗な色。
ぱっちりと大きな瞳は搾りたてのオリーブ油か金緑石めいた、澄んだ黄緑色をしていた。
クロエの紅茶色の瞳と、少年の瞳がカチリと見つめあい、彼の瞳に過る怯えと――背すじが冷えるような憎悪に息を呑む。
「……あっち、いけよ」
少年の血の気のない唇が微かに動き、ひどく掠れた声がこぼれる。
大きな声を出せないように処置したのか、それとも成長によってそうなったのか、少年の首にはめられた鉄の枷は、その細い首に食いこんでいた。
美しい少年だけに、いっそう哀れだった。
クロエは皆が逃げていった方向に目をやり、少年へと戻し、香水に混じって鼻に届く焦げくささに小さく息をついた。
――だめよ、行けない。
火にまかれかけている子供を見捨ててしまったら、この先どんな顔をして人々に愛を説けばいいのだろう。
たとえ彼が人間ではなくても、人間と同じように言葉を話し、考え、痛みを感じる存在なのだ。
震える足を一歩、少年のほうへと踏み出せば、彼の瞳に恐怖の色が広がった。
「くるな……こないで……やだっ」
カラスに威嚇された子猫のように、奥へとひっこもうともがく少年を見て、クロエは一度立ちどまる。
「……大丈夫、いじめたりなんてしません……助けたいだけ」
ふうふうと唸り上目遣いに睨みつける少年に、できうる限りやさしく言い聞かせ、また足を前に出す。
一歩また一歩と近付くにつれ、少年の視線がクロエの右足へと向かい、唸り声が静まった。
「……ケガ、してるのか?」
「え? ……ああ、これは昔からです。小さいころに骨を折ってそのまま放っておいたら、上手く歩けなくなってしまったんです」
足が折れたのは酔った母が赤ん坊のクロエの足を踏みつけたからだ。泣きわめくクロエにパニックになった母は周囲からの叱責を恐れ、娘を地下に閉じこめて医者にも診せなかったため、こうなってしまった。
そのことを恨んでなどいない。アンソレイユは弱い者に冷たい国だ。女手一つで子供を育てるのは楽ではなかっただろう。主の御許へ送られなかっただけありがたい。
「……よいしょ、と」
のろのろと少年のもとへとたどりつき、クロエは膝をついた。
少年の肩にのしかかる柱に手をかけ、大きく息を吸いこんで、グッと力をこめる。
もちろん、びくともしなかった。
――だめね。わかっていたけれど。
残る方法は一つしかない。
一つ溜め息をついて、クロエは親指と人差し指で輪をつくり、唇に近付けた。
そっと息を吸って、ゆっくりと指笛を吹く。
指が震えて、最初は上手く音が出なかったが、何回目かでやっと、ぴゅーぃ、と高く強い音が伸びる。
少年が眉を顰め、三角の耳をぺたりと伏せた。
きっと、クロエが何をしようとしているのか彼にもわかっただろう。
そっと目をつむり、もう一度。大きく息を吸いこむと、高く長く伸びる音が炎に照らされた夜空に響く。
息が途切れて、吸って、鳴らして。
もう一度、と息を吸いこもうとして、ひたりと膝にかかる指の感触にクロエは目蓋をひらいた。
「どうしました?」
「……もういい」
少年の瞳に、先ほどまでの憎悪の色はなかった。
「あいつらがくる前に、にげて」
「……ありがとう」
でも、もう無理ですよ――とは口に出さなかった。
亜人の中には走る馬にさえ追いつける者もいると聞く。結局、はなから希望などなかったのだ。
――せめて、この子の前では殺さないでとお願いしなくては。
そう思いながらクロエは笑みを作って、不安そうに見上げる少年の髪を撫でる。
「きっと大丈夫ですよ」
細い毛は土にまみれ、ろくに手入れもされていないのか、すぐに指がひっかかった。
絡まる髪をやさしくほぐしながら、クロエは穏やかに語りつづける。
「あなたも彼らと同じ亜人なのですから……きっと助けてもらえます。これからは人間に怯えることなく、心穏やかに暮らしていけるはずです」
「そうですね」
突然響いた低い男の声に、クロエは心臓がとまりそうになった。
音も気配もなく、それはクロエの背後に立っていた。
じわりと汗が滲みはじめた手のひらを少年の髪から離し、両の手を合わせて指を組む。
ガクガクと身体に震えが走る。舌がこわばり、喉が干からびたようで、先ほど浮かべた願いを口にすることなど、とてもではないができなかった。
――どうか、せめて一思いに。
浅ましく祈りながら、クロエは目を閉じる。
背後に立つ何かが彼女の横を通りすぎ、ギシリ、ガラガラと何か重たいものが持ちあがる音がしたかと思うと「え? うわっ!?」と少年の声が聞こえた。
ハッと目をあけたところで、ずしん、と少年が挟まれていた柱が落ち、舞いあがる土埃がクロエの視界を奪った。
「っ、けほ、っ、ぅ……っ」
ぽろぽろとこぼれる涙が目を洗い、やがて見えたのは土と煤に汚れた小さな背中。クロエを守るように少年が立っていた。
そして、そのシャツの肩越し、蜂蜜色の満ちた月を背に立つ、黒い影が見えた。
奇妙なほどに背の高い男。夕陽に伸びる影のようだ、とクロエは思った。
漆黒のフードとマントに隠され、顔も何もわからなかったが、あの柱を一人で除けたのだ。亜人に違いない。きらりと月光に輝いたのは、男が手に携える槍の穂先だろうか。
「……亜人の子、名前は?」
奇妙なほど平坦な声で問われ、少年が答えた。
「リンクス、です」
「そうですか。それで、そちらは」
男の口調は丁寧だったが、そこに敬意や温もりなどは感じられなかった。人間であるクロエへの怒りや憎しみさえも。
――まるで、虫のようだわ。
フードの奥から注がれる視線の無機質さに、クロエは目をつむり身を震わせる。
指の関節が白くなるほど強く、祈りの形に握りしめたクロエの手に、痩せた指が重なった。
「……ぁ」
目をひらけば、金緑石の瞳がクロエを見つめていた。
大丈夫、というように、一つ頷いて、リンクスは男へと向き直った。
「……おれの姉です」
「え?」
疑問の声を上げたのはクロエだった。影男が首を傾げる。
「姉ですか」
「はい。はらちがいの姉です。ひとに見えますが、父はあじんです」
拙い嘘をつく少年に何を思ったのか、それとも特に何も思わなかったのか。
「そうですか」
影男は無造作に頷き、ちゃり、と槍を反対の手に持ちかえると、リンクスの首根っこに手を伸ばした。
「ぅわっ」
猫の子を摘まむようにひょいと少年を持ちあげ、次いでクロエの修道衣の腰紐も同じように摘まみあげる。そうなってやっと、クロエは気が付いた。男の腕が六本あることに。
――蜘蛛だわ。
そうして、影男の正体に思い当たった。
――サンティエ侯爵。
その名を口にするより早く、ちくり、と首に痛みが走り、身体から力が抜ける。
「っ、おい、このひとにっ――姉さんになにをした!?」
「……叫ばれると面倒なので、しばらく眠っていてください」
「えっ、ちょ――」
小さな悲鳴を遠くに聞きながら、クロエの意識は闇へと落ちた。
それが、クロエとリンクスの出会い、ニセモノ姉弟のはじまりだった。
第一章 こんなに大きくなるなんて!
家々の屋根に積もった雪も融け、春の足音を感じる夜。
教会堂の裏手に建つ小さな家の寝室で、クロエはそっと目をひらき、薄闇の中で吐息をこぼした。
――眠れない。
今夜も。昨夜も。その前から。
ここしばらく、クロエの眠りは安らかとは言い難い状態だった。
彼女の腰に腕を回し、胸に顔をうずめて、すやすやと健やかな寝息を立てる存在――名目上の弟であるリンクスのせいで。
――もう、限界だわ。
また一つ溜め息をこぼすと、もぞりとクロエの胸元でビスケット色の頭が揺れた。
「……姉さん、どうしたの?」
とろりと眠たげな低い声が胸に響いて、クロエは、うう、と唇を引きむすんだ。
「怖い夢でも見ちゃった? 大丈夫、俺がいるよ」
気遣う言葉と共に、クロエの背をやさしくさする手のひらは大きく、ゴツゴツとした剣だこの存在を感じる。
「……そうじゃないの」
クロエは心を決め、かねてからの悩みを口にした。
「……あのね、あなたも大きくなったし……」
クロエの腰に回された腕は太く、そこから続く肩は分厚い。丸めた広い背中には野生の獣めいたしなやかな筋肉が、薄い寝衣越しに浮きあがっている。
「……この寝台、二人で寝るには、狭いんじゃないかと思うの」
線の細い、痩せた少年だったリンクスは、いまや逞しい青年へと成長をとげ、夜ごとクロエの心をかき乱していた。
アンソレイユ襲撃から九年、国の名は残ったが統治者は王から女王へと変わった。
女王の名はフェドフルラージュ。かつての王太子オスカーが弄んで捨てた侍女の母だ。
簒奪者であるサンティエ侯爵は、自分ではなく、最愛の妻の頭に宝冠を載せたのだ。
九年の間にいくつかの法が定められ、しだいに城下町で亜人の姿を見かけることも増えてきた。
クロエはといえば、相も変わらず今までと同じ小さな教会――リンクスのおかげで補修がすすみ、住み心地は断然よくなった――で修道女として暮らし、人々に主への信仰と愛を説いている。
日の出と共に起きリンクスと朝食をとって、彼を送りだしてから裏手にある菜園とハーブ園の手入れをして、教会堂の内外を清め、訪れる人々を待つ。
そうして、空が茜色に染まり、夜が落ちてくるころ、帰ってきたリンクスと夕食をとって身を清め、床に就く。日々の暮らしは、その繰りかえしだ。
だが、クロエはその暮らしを退屈だとは思っていない。
クロエの生活は変わらずとも、宮廷に出仕するリンクスが外の世界のお土産を持ってきてくれる。
飴玉やドラジェといった、コロンと丸く可愛いお菓子。
春になればタンポポの綿毛、夏にはオレンジ、秋には艶々のリンゴ、冬のある日には、溶けないように大急ぎで走ってきたと笑いながら、小さな雪だるまを見せてくれた。
ときには褒美でもらったという水晶や真珠などの高価な品や、ダンゴムシ、冬眠中のヤマネをポケットに入れて帰ってきたこともある。
リンクスが毎日のように持って帰ってくるお土産を、二人で食べたり吹いたり磨いたり、世話の仕方を知っている者の心当たりを話しあったりしながら、温かなミルクを片手に暖炉の前で過ごす家族の時間。
そのひとときを、クロエは何よりも愛しく思っていた。
『騎士見習い』から見習いが取れてリンクスが一人前の騎士になってからも、その気持ちは変わらない。
あの夜、リンクスがクロエを姉と呼んだ日から、クロエはリンクスを本当の弟と思って大切にしてきたつもりだ。
――そのつもり、だったのだけれど……どうしてこうなったのかしら。
騎士となったリンクスに、クロエの心の平穏は少しずつ乱されつつある。
出会ったころは痩せて小さく、小柄なクロエの肩ほどしかなかったリンクスの背は、パンと野菜スープがメインの質素な食生活にもかかわらずグングンと伸び、二年目にはクロエと並んだ。
騎士見習いとなった三年目からは伸びがゆるやかになり、出会って六年目、十六歳になったリンクスは同年代の人間の青年と変わらない背格好になった。
肩のあたりにまだ遊びがあった騎士見習いのお仕着せがしっくり決まるようになり、クロエも「よくぞここまで大きくなって」と微笑ましく思ったものだ。
だがクロエは知らなかった。亜人には、種族の特性が強まる第三の成長期があることを。
さらにどうやら、リンクスはただのイエネコではなく、より大型のヤマネコの血が混じっていたらしい。
彼の第三の成長期が始まってから、朝起きて隣に並ぶたびに違和感を覚えるほど、日ごとに彼の身体は大きくなっていった。
クロエの目線の高さにあった彼の肩はいつの間にか見上げる場所にあり、ゆったりとしていたシャツの背や二の腕から皺が消え、そのうちにボタンが閉まらなくなった。
シャツを仕立てなおしたころ、リンクスは女王から正式に騎士に叙された。
真新しい騎士服に袖を通してすぐ、国境の紛争を鎮めるために、彼はクロエのもとを離れることになって――一ケ月ほどして戻ってきたときには、完全に亜人の雄の成体へと変わっていた。
ネコ科らしいしなやかな印象を残しながらも、並みの人間の青年より頭一つ分ほど高くなった背に、ひどく驚いたことを覚えている。
今ではクロエの頭はリンクスの胸にも届かない。
昔は腕の中にすっぽりと抱きしめて眠れていたのに、今の彼はクロエの腕からも寝台からもはみだし気味だった。
「……そう? 狭いかな……」
もぞりと身じろいだリンクスが顔を上げる。その拍子に形の良い鼻先が胸をかすめて、クロエは小さく息を呑んだ。
「俺は別に気にならないけど……」
「っ、リンクス……っ」
眠そうに呟きながら、かり、と鎖骨に歯を立てられて、妙な吐息がこぼれそうになる。
――本当に、こんなに大きくなるなんて!
愛情表現は昔のまま、身体だけ当時の倍近くに育った大きな弟をクロエは悩ましげに見つめた。
まったくもって修道女にあるまじきことだが、クロエはリンクスを、愛しい弟を、一人の男として意識してしまっていた。
――あぁ、主よ。浅ましき女をお許しください!
クロエは主に祈った。
リンクスに胸の高鳴りをおぼえるたびに、彼女はいつも主に祈り、心の中でリンクスに詫びる。
――私は、姉さんなのに。
姉ぶって接しておきながら、彼が魅力的な青年になった途端に不埒な想いを抱くなど、まるで孤児の少女を親切ぶって引きとり、年頃になったところで手を出す悪党のようではないか。
うう、とクロエがこぼした呻きをどう受けとったのか、するりとリンクスは身を起こし、ほう、と溜め息をついた。
「……わかった。ごめん、姉さん。いつも無駄にデカい図体が寝台の真ん中を陣取って、寝にくかったよな。今日から俺、長椅子で寝るよ」
「えっ」
ぺしゃりと三角の耳を下げ、ぎしりと寝台から足を下ろしたリンクスの腕に、クロエは慌てて手をかけた。
「だめよ、あんな狭いところ! 身体を傷めてしまうわ。私があちらで寝ます!」
「だめだよ。こんなやわふわな姉さんをあんな硬いところで寝かせて、俺だけ寝台で寝られるわけないだろう!」
「でもっ」
「……絶対に嫌だ。どうしても姉さんが長椅子に寝るって言うのなら、俺は床に寝るからな」
澄んだ金緑石の瞳の奥、縦長の瞳孔がスッと細まる。クロエは彼の決意を感じ、うう、と肩を落とした。
「……わかったわ。やっぱり一緒に寝ましょう」
それ以外、何と言えるだろう。「狭くてごめんなさいね」と謝るクロエに、リンクスはキュッと目をつむり、ひらいて、ニッと微笑んだ。
「ぜんぜん! 俺、狭いの大好きだよ。姉さんとくっついて寝ると、すごく温かくて幸せな気分になる……もう、ずっと寝てたいくらい」
ふあ、と欠伸をしながらリンクスは寝台に横たわり、クロエの腕をグイと引く。
きゃっ、と声を上げて寝台に沈みこんだクロエは「もう、リンクスったら」と窘めつつ、思わず顔をほころばせた。まったく、いつまで経っても子供のようだ。
「私も温かくて幸せよ。でも、いつまでもこのままというわけにもいかないし……どうするか考えましょうね」
「うん、わかった。考えておく。……ああそうだ。このあいだ女王陛下に献上した姉さんのハーブティー、お気に召していただけたみたいだよ」
「まぁ、本当に? それは光栄だわ――っ」
言葉を交わしながらリンクスに引きよせられ、分厚い胸にドンと頬がぶつかる。
「ご褒美もらえたら、姉さんにあげるね……おやすみ」
ぐるぐると喉を鳴らしながら、ぬいぐるみを抱えるようにギュッと抱きしめられる。
子供っぽい仕草と高い体温、寝衣越しに伝わる逞しい身体の感触に、ほのぼのとした気持ちと高鳴る鼓動が入りまじり、クロエは「ああ、本当に、きちんと考えなくては!」とあらためて思ったのだった。
崩れた商家の柱に挟まれたその子を見つけたとき、クロエが迷わなかったと言えば嘘になる。
城下町の方々では火の手があがり、逃げまどう人々の悲鳴と怒号が遠く聞こえていた。
おだやかな春の宵、クロエが十八年間生まれ育ったアンソレイユ王国は滅亡の危機に瀕していた。
偉大なる創造主をたたえる創世教会の修道女であり、王都の南通りに建つ、今にも崩れおちそうな小さな教会で暮らすクロエにとって、王侯貴族というものは遥か遠くの存在であった。だが、どれだけ彼らとの関係が遠かろうと、彼らがしでかした行いの報いは容赦なくその国の民へと降りかかってくる。
噂によれば少し前、王太子オスカーが北に位置するシエルカルム王国へ外遊に行った際、シエルカルムの姫君に仕える侍女の一人を口説いて結ばれ、あろうことか帰国の際に捨ててしまったという。
娘を弄ばれたことに憤慨して、侍女の母であるサンティエ侯爵夫人は王太子の謝罪を求めたが、アンソレイユ王家は拒んだ。
件の侍女が亜人の血の入った「歪な混ざりもの」だから――という理由で。
サンティエ侯爵夫人は純粋な人間だが、その夫である侯爵は人間ではない。蜘蛛の亜人だ。
侍女は人間だけでなく亜人の血を引いていたのだ。
亜人とは、この世界に人間が生まれたときに、手違いで鳥獣や虫の血が混じって生じた『人間の亜種』だと言われている。
純粋な人間に比べて数が少なく、鳥獣や虫の形質を持ちながらも野生では生きられない。それゆえ人間社会に寄生して生きる他ない一段劣った存在として、彼らは長く虐げられ、蔑まれてきた。
現在も多くの国で、亜人に対する蔑視や嫌悪の感情が根強く残っているという。
アンソレイユもまた、そういった国の一つだった。
その上、アンソレイユの王族は気位が高く、自国に住む人間ですら、ときに虫けらのように扱うほど傲慢なことで知られていた。
サンティエ侯爵夫人からの書状を受けとった彼らは、王家の総意として、「虫けら以下の存在である亜人に下げる頭などない」と返事をしたのだ。
謝るどころか「人間に似ているだけの醜く歪な存在である亜人風情が、我ら高貴なる者の一時の慰めになれただけでもありがたく思え」と冷たく突き放した。
娘を侮辱されたサンティエ侯爵夫妻の怒りと嘆きは如何ほどのものだったか。
話を伝え聞いたクロエですら憤りを覚えたのだ。実の親ともなれば尚更だろう。
そして、王家の書状が出された、わずか三日後のことだった。
サンティエ侯爵率いる異形の兵団が、日没後の宵闇に包まれたアンソレイユ王国を襲ったのは。
かねてより噂はあった。
シエルカルムには、亜人のみで構成された異形の軍隊があるらしい――と。
アンソレイユと異なり、シエルカルムでは十年ほど前から亜人の市民権が認められている。ゆえにシエルカルムだけでなく他国で迫害された亜人たちが、尊厳を求めてシエルカルムへと集まっているという。
その亜人の中から戦闘に優れた者が選りすぐられて、表には出せない暗部の仕事を担っているのだと、まことしやかに囁かれていた。
アンソレイユの民は、その噂の真偽を身をもって知ることとなった。
彼らは足音を立てず、松明さえ灯さず、王都を囲む石壁を軽々と乗りこえて城下町の石畳を進み、王城へと潜りこんだという。そして彼らの侵入を許して半時も経たぬうちに、事の発端となった王太子オスカーただ一人を除いて、アンソレイユ王家は根絶やしにされた。
使用人や城を警護する兵士は、悪夢の舞台と化した城を捨てて町へなだれこんだ。誰かが松明を倒したか、それとも騒ぎに乗じて逃げようと故意に火をつけたか。
方々に火の手があがりはじめれば、町はもう、狂乱の地獄だった。
「亜人が来る! 殺される!」
「逃げろ! 生きたまま食われるぞ!」
飛び交う悲鳴に混じって、教会堂の前で立ちすくむクロエの耳に恐ろしい警告が届く。
次々に人々が目の前を通りすぎていき、慌てながらも彼女に気付いた何人かの信徒が、一緒に逃げようと声をかけてきた。
けれど、クロエは「このような足手まといがいては、御迷惑になります」と首を横に振った。
クロエの右足は幼いころの怪我がもとで上手く動かない。歩くだけならば問題はないが、走ることはできない。
逃げきれず一人で死ぬのならまだしも、自分のせいで誰かを危険に晒すようなことはしたくなかった。
声をかけられるたびに、彼女は恐怖で震えそうになる手をギュッと組んで「主の御加護がありますように」と祈り、微笑んでみせた。
「どうか御無事で」と涙ぐむ人々を見送って、やがて人影が途絶えたところでようやく、クロエは歩きはじめた。
おそらく逃げきれないだろうと、覚悟はしていた。
けれど、もしかすると、運がよければ、偉大なる主の御加護があれば。
ひとすじの望みに縋るように歩きつづけて、しばらくしたころ、ふとクロエの耳に誰かがすすり泣く声が届いた。
いったいどこから、と足をとめて振りむき、目にした光景にクロエは天を仰いだ。
――主よ、どこまで私をお試しになるのですか……!
崩れかけた一軒の商家。
細く立ちのぼる黒い煙に、むせかえるような香水の匂い、地面にはキラキラと輝く無数のガラス片。
何よりクロエの目を引いたのは、柱と地面に挟まれ、はらはらと涙をこぼす十歳ほどの少年。
少年の耳は三角に尖り、やわらかそうなビスケット色の被毛に覆われていた。
耳の先には、ちょこんと黒い房毛が伸びて、少年のすすり泣きに合わせて震えている。
――噂は本当だったのね。
かねてから、その店では香水の調合に亜人の奴隷を使っているという噂があった。
――こんな小さな子供だったなんて。
店を営んでいた夫婦は襲来した亜人の追跡を恐れ、少年を置いて逃げたのだろう。
クロエの匂いに気が付いたのか、ふと泣き声がとぎれ、少年が顔を上げた。
――綺麗な色。
ぱっちりと大きな瞳は搾りたてのオリーブ油か金緑石めいた、澄んだ黄緑色をしていた。
クロエの紅茶色の瞳と、少年の瞳がカチリと見つめあい、彼の瞳に過る怯えと――背すじが冷えるような憎悪に息を呑む。
「……あっち、いけよ」
少年の血の気のない唇が微かに動き、ひどく掠れた声がこぼれる。
大きな声を出せないように処置したのか、それとも成長によってそうなったのか、少年の首にはめられた鉄の枷は、その細い首に食いこんでいた。
美しい少年だけに、いっそう哀れだった。
クロエは皆が逃げていった方向に目をやり、少年へと戻し、香水に混じって鼻に届く焦げくささに小さく息をついた。
――だめよ、行けない。
火にまかれかけている子供を見捨ててしまったら、この先どんな顔をして人々に愛を説けばいいのだろう。
たとえ彼が人間ではなくても、人間と同じように言葉を話し、考え、痛みを感じる存在なのだ。
震える足を一歩、少年のほうへと踏み出せば、彼の瞳に恐怖の色が広がった。
「くるな……こないで……やだっ」
カラスに威嚇された子猫のように、奥へとひっこもうともがく少年を見て、クロエは一度立ちどまる。
「……大丈夫、いじめたりなんてしません……助けたいだけ」
ふうふうと唸り上目遣いに睨みつける少年に、できうる限りやさしく言い聞かせ、また足を前に出す。
一歩また一歩と近付くにつれ、少年の視線がクロエの右足へと向かい、唸り声が静まった。
「……ケガ、してるのか?」
「え? ……ああ、これは昔からです。小さいころに骨を折ってそのまま放っておいたら、上手く歩けなくなってしまったんです」
足が折れたのは酔った母が赤ん坊のクロエの足を踏みつけたからだ。泣きわめくクロエにパニックになった母は周囲からの叱責を恐れ、娘を地下に閉じこめて医者にも診せなかったため、こうなってしまった。
そのことを恨んでなどいない。アンソレイユは弱い者に冷たい国だ。女手一つで子供を育てるのは楽ではなかっただろう。主の御許へ送られなかっただけありがたい。
「……よいしょ、と」
のろのろと少年のもとへとたどりつき、クロエは膝をついた。
少年の肩にのしかかる柱に手をかけ、大きく息を吸いこんで、グッと力をこめる。
もちろん、びくともしなかった。
――だめね。わかっていたけれど。
残る方法は一つしかない。
一つ溜め息をついて、クロエは親指と人差し指で輪をつくり、唇に近付けた。
そっと息を吸って、ゆっくりと指笛を吹く。
指が震えて、最初は上手く音が出なかったが、何回目かでやっと、ぴゅーぃ、と高く強い音が伸びる。
少年が眉を顰め、三角の耳をぺたりと伏せた。
きっと、クロエが何をしようとしているのか彼にもわかっただろう。
そっと目をつむり、もう一度。大きく息を吸いこむと、高く長く伸びる音が炎に照らされた夜空に響く。
息が途切れて、吸って、鳴らして。
もう一度、と息を吸いこもうとして、ひたりと膝にかかる指の感触にクロエは目蓋をひらいた。
「どうしました?」
「……もういい」
少年の瞳に、先ほどまでの憎悪の色はなかった。
「あいつらがくる前に、にげて」
「……ありがとう」
でも、もう無理ですよ――とは口に出さなかった。
亜人の中には走る馬にさえ追いつける者もいると聞く。結局、はなから希望などなかったのだ。
――せめて、この子の前では殺さないでとお願いしなくては。
そう思いながらクロエは笑みを作って、不安そうに見上げる少年の髪を撫でる。
「きっと大丈夫ですよ」
細い毛は土にまみれ、ろくに手入れもされていないのか、すぐに指がひっかかった。
絡まる髪をやさしくほぐしながら、クロエは穏やかに語りつづける。
「あなたも彼らと同じ亜人なのですから……きっと助けてもらえます。これからは人間に怯えることなく、心穏やかに暮らしていけるはずです」
「そうですね」
突然響いた低い男の声に、クロエは心臓がとまりそうになった。
音も気配もなく、それはクロエの背後に立っていた。
じわりと汗が滲みはじめた手のひらを少年の髪から離し、両の手を合わせて指を組む。
ガクガクと身体に震えが走る。舌がこわばり、喉が干からびたようで、先ほど浮かべた願いを口にすることなど、とてもではないができなかった。
――どうか、せめて一思いに。
浅ましく祈りながら、クロエは目を閉じる。
背後に立つ何かが彼女の横を通りすぎ、ギシリ、ガラガラと何か重たいものが持ちあがる音がしたかと思うと「え? うわっ!?」と少年の声が聞こえた。
ハッと目をあけたところで、ずしん、と少年が挟まれていた柱が落ち、舞いあがる土埃がクロエの視界を奪った。
「っ、けほ、っ、ぅ……っ」
ぽろぽろとこぼれる涙が目を洗い、やがて見えたのは土と煤に汚れた小さな背中。クロエを守るように少年が立っていた。
そして、そのシャツの肩越し、蜂蜜色の満ちた月を背に立つ、黒い影が見えた。
奇妙なほどに背の高い男。夕陽に伸びる影のようだ、とクロエは思った。
漆黒のフードとマントに隠され、顔も何もわからなかったが、あの柱を一人で除けたのだ。亜人に違いない。きらりと月光に輝いたのは、男が手に携える槍の穂先だろうか。
「……亜人の子、名前は?」
奇妙なほど平坦な声で問われ、少年が答えた。
「リンクス、です」
「そうですか。それで、そちらは」
男の口調は丁寧だったが、そこに敬意や温もりなどは感じられなかった。人間であるクロエへの怒りや憎しみさえも。
――まるで、虫のようだわ。
フードの奥から注がれる視線の無機質さに、クロエは目をつむり身を震わせる。
指の関節が白くなるほど強く、祈りの形に握りしめたクロエの手に、痩せた指が重なった。
「……ぁ」
目をひらけば、金緑石の瞳がクロエを見つめていた。
大丈夫、というように、一つ頷いて、リンクスは男へと向き直った。
「……おれの姉です」
「え?」
疑問の声を上げたのはクロエだった。影男が首を傾げる。
「姉ですか」
「はい。はらちがいの姉です。ひとに見えますが、父はあじんです」
拙い嘘をつく少年に何を思ったのか、それとも特に何も思わなかったのか。
「そうですか」
影男は無造作に頷き、ちゃり、と槍を反対の手に持ちかえると、リンクスの首根っこに手を伸ばした。
「ぅわっ」
猫の子を摘まむようにひょいと少年を持ちあげ、次いでクロエの修道衣の腰紐も同じように摘まみあげる。そうなってやっと、クロエは気が付いた。男の腕が六本あることに。
――蜘蛛だわ。
そうして、影男の正体に思い当たった。
――サンティエ侯爵。
その名を口にするより早く、ちくり、と首に痛みが走り、身体から力が抜ける。
「っ、おい、このひとにっ――姉さんになにをした!?」
「……叫ばれると面倒なので、しばらく眠っていてください」
「えっ、ちょ――」
小さな悲鳴を遠くに聞きながら、クロエの意識は闇へと落ちた。
それが、クロエとリンクスの出会い、ニセモノ姉弟のはじまりだった。
第一章 こんなに大きくなるなんて!
家々の屋根に積もった雪も融け、春の足音を感じる夜。
教会堂の裏手に建つ小さな家の寝室で、クロエはそっと目をひらき、薄闇の中で吐息をこぼした。
――眠れない。
今夜も。昨夜も。その前から。
ここしばらく、クロエの眠りは安らかとは言い難い状態だった。
彼女の腰に腕を回し、胸に顔をうずめて、すやすやと健やかな寝息を立てる存在――名目上の弟であるリンクスのせいで。
――もう、限界だわ。
また一つ溜め息をこぼすと、もぞりとクロエの胸元でビスケット色の頭が揺れた。
「……姉さん、どうしたの?」
とろりと眠たげな低い声が胸に響いて、クロエは、うう、と唇を引きむすんだ。
「怖い夢でも見ちゃった? 大丈夫、俺がいるよ」
気遣う言葉と共に、クロエの背をやさしくさする手のひらは大きく、ゴツゴツとした剣だこの存在を感じる。
「……そうじゃないの」
クロエは心を決め、かねてからの悩みを口にした。
「……あのね、あなたも大きくなったし……」
クロエの腰に回された腕は太く、そこから続く肩は分厚い。丸めた広い背中には野生の獣めいたしなやかな筋肉が、薄い寝衣越しに浮きあがっている。
「……この寝台、二人で寝るには、狭いんじゃないかと思うの」
線の細い、痩せた少年だったリンクスは、いまや逞しい青年へと成長をとげ、夜ごとクロエの心をかき乱していた。
アンソレイユ襲撃から九年、国の名は残ったが統治者は王から女王へと変わった。
女王の名はフェドフルラージュ。かつての王太子オスカーが弄んで捨てた侍女の母だ。
簒奪者であるサンティエ侯爵は、自分ではなく、最愛の妻の頭に宝冠を載せたのだ。
九年の間にいくつかの法が定められ、しだいに城下町で亜人の姿を見かけることも増えてきた。
クロエはといえば、相も変わらず今までと同じ小さな教会――リンクスのおかげで補修がすすみ、住み心地は断然よくなった――で修道女として暮らし、人々に主への信仰と愛を説いている。
日の出と共に起きリンクスと朝食をとって、彼を送りだしてから裏手にある菜園とハーブ園の手入れをして、教会堂の内外を清め、訪れる人々を待つ。
そうして、空が茜色に染まり、夜が落ちてくるころ、帰ってきたリンクスと夕食をとって身を清め、床に就く。日々の暮らしは、その繰りかえしだ。
だが、クロエはその暮らしを退屈だとは思っていない。
クロエの生活は変わらずとも、宮廷に出仕するリンクスが外の世界のお土産を持ってきてくれる。
飴玉やドラジェといった、コロンと丸く可愛いお菓子。
春になればタンポポの綿毛、夏にはオレンジ、秋には艶々のリンゴ、冬のある日には、溶けないように大急ぎで走ってきたと笑いながら、小さな雪だるまを見せてくれた。
ときには褒美でもらったという水晶や真珠などの高価な品や、ダンゴムシ、冬眠中のヤマネをポケットに入れて帰ってきたこともある。
リンクスが毎日のように持って帰ってくるお土産を、二人で食べたり吹いたり磨いたり、世話の仕方を知っている者の心当たりを話しあったりしながら、温かなミルクを片手に暖炉の前で過ごす家族の時間。
そのひとときを、クロエは何よりも愛しく思っていた。
『騎士見習い』から見習いが取れてリンクスが一人前の騎士になってからも、その気持ちは変わらない。
あの夜、リンクスがクロエを姉と呼んだ日から、クロエはリンクスを本当の弟と思って大切にしてきたつもりだ。
――そのつもり、だったのだけれど……どうしてこうなったのかしら。
騎士となったリンクスに、クロエの心の平穏は少しずつ乱されつつある。
出会ったころは痩せて小さく、小柄なクロエの肩ほどしかなかったリンクスの背は、パンと野菜スープがメインの質素な食生活にもかかわらずグングンと伸び、二年目にはクロエと並んだ。
騎士見習いとなった三年目からは伸びがゆるやかになり、出会って六年目、十六歳になったリンクスは同年代の人間の青年と変わらない背格好になった。
肩のあたりにまだ遊びがあった騎士見習いのお仕着せがしっくり決まるようになり、クロエも「よくぞここまで大きくなって」と微笑ましく思ったものだ。
だがクロエは知らなかった。亜人には、種族の特性が強まる第三の成長期があることを。
さらにどうやら、リンクスはただのイエネコではなく、より大型のヤマネコの血が混じっていたらしい。
彼の第三の成長期が始まってから、朝起きて隣に並ぶたびに違和感を覚えるほど、日ごとに彼の身体は大きくなっていった。
クロエの目線の高さにあった彼の肩はいつの間にか見上げる場所にあり、ゆったりとしていたシャツの背や二の腕から皺が消え、そのうちにボタンが閉まらなくなった。
シャツを仕立てなおしたころ、リンクスは女王から正式に騎士に叙された。
真新しい騎士服に袖を通してすぐ、国境の紛争を鎮めるために、彼はクロエのもとを離れることになって――一ケ月ほどして戻ってきたときには、完全に亜人の雄の成体へと変わっていた。
ネコ科らしいしなやかな印象を残しながらも、並みの人間の青年より頭一つ分ほど高くなった背に、ひどく驚いたことを覚えている。
今ではクロエの頭はリンクスの胸にも届かない。
昔は腕の中にすっぽりと抱きしめて眠れていたのに、今の彼はクロエの腕からも寝台からもはみだし気味だった。
「……そう? 狭いかな……」
もぞりと身じろいだリンクスが顔を上げる。その拍子に形の良い鼻先が胸をかすめて、クロエは小さく息を呑んだ。
「俺は別に気にならないけど……」
「っ、リンクス……っ」
眠そうに呟きながら、かり、と鎖骨に歯を立てられて、妙な吐息がこぼれそうになる。
――本当に、こんなに大きくなるなんて!
愛情表現は昔のまま、身体だけ当時の倍近くに育った大きな弟をクロエは悩ましげに見つめた。
まったくもって修道女にあるまじきことだが、クロエはリンクスを、愛しい弟を、一人の男として意識してしまっていた。
――あぁ、主よ。浅ましき女をお許しください!
クロエは主に祈った。
リンクスに胸の高鳴りをおぼえるたびに、彼女はいつも主に祈り、心の中でリンクスに詫びる。
――私は、姉さんなのに。
姉ぶって接しておきながら、彼が魅力的な青年になった途端に不埒な想いを抱くなど、まるで孤児の少女を親切ぶって引きとり、年頃になったところで手を出す悪党のようではないか。
うう、とクロエがこぼした呻きをどう受けとったのか、するりとリンクスは身を起こし、ほう、と溜め息をついた。
「……わかった。ごめん、姉さん。いつも無駄にデカい図体が寝台の真ん中を陣取って、寝にくかったよな。今日から俺、長椅子で寝るよ」
「えっ」
ぺしゃりと三角の耳を下げ、ぎしりと寝台から足を下ろしたリンクスの腕に、クロエは慌てて手をかけた。
「だめよ、あんな狭いところ! 身体を傷めてしまうわ。私があちらで寝ます!」
「だめだよ。こんなやわふわな姉さんをあんな硬いところで寝かせて、俺だけ寝台で寝られるわけないだろう!」
「でもっ」
「……絶対に嫌だ。どうしても姉さんが長椅子に寝るって言うのなら、俺は床に寝るからな」
澄んだ金緑石の瞳の奥、縦長の瞳孔がスッと細まる。クロエは彼の決意を感じ、うう、と肩を落とした。
「……わかったわ。やっぱり一緒に寝ましょう」
それ以外、何と言えるだろう。「狭くてごめんなさいね」と謝るクロエに、リンクスはキュッと目をつむり、ひらいて、ニッと微笑んだ。
「ぜんぜん! 俺、狭いの大好きだよ。姉さんとくっついて寝ると、すごく温かくて幸せな気分になる……もう、ずっと寝てたいくらい」
ふあ、と欠伸をしながらリンクスは寝台に横たわり、クロエの腕をグイと引く。
きゃっ、と声を上げて寝台に沈みこんだクロエは「もう、リンクスったら」と窘めつつ、思わず顔をほころばせた。まったく、いつまで経っても子供のようだ。
「私も温かくて幸せよ。でも、いつまでもこのままというわけにもいかないし……どうするか考えましょうね」
「うん、わかった。考えておく。……ああそうだ。このあいだ女王陛下に献上した姉さんのハーブティー、お気に召していただけたみたいだよ」
「まぁ、本当に? それは光栄だわ――っ」
言葉を交わしながらリンクスに引きよせられ、分厚い胸にドンと頬がぶつかる。
「ご褒美もらえたら、姉さんにあげるね……おやすみ」
ぐるぐると喉を鳴らしながら、ぬいぐるみを抱えるようにギュッと抱きしめられる。
子供っぽい仕草と高い体温、寝衣越しに伝わる逞しい身体の感触に、ほのぼのとした気持ちと高鳴る鼓動が入りまじり、クロエは「ああ、本当に、きちんと考えなくては!」とあらためて思ったのだった。
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