黒衣の魔道士

オレンジペコ

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第三部 アストラス編~竜の血脈~

5.※心の天秤

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翌朝、身支度を整えて朝食を食べていると、何故かぐったりしたロイドを連れたシュバルツが爽やかな笑顔で現れた。

「クレイ!このままロイドと入籍することにしたから、あの約束を取り消してほしい」

突然現れて突拍子もないことを言い出したシュバルツに思わず目が点になるが、ロイドが縋る様にこちらを見つめてきたことから、この話は断った方がいい類の話だと察することができた。

「あ~…何のことかわからないが、約束は簡単には取り消さないぞ?」
「そうか。ところで、クレイは今回の件でロイドが傷ついて怒ってたけど……私たちが結婚すること自体には反対はしないよな?」
「え?ああ。もちろん。お前がロイドをもう悲しませたりせず、幸せにすると約束するなら…それもありだと思うが?」
「うん。じゃあロイドを守るためにすぐに入籍することについてはどう思う?」
「え?」
「今回みたいな件では、結婚によるメリットはすごく大きいと思うんだけど?」

それを聞いて今回のフローリアの件を思い返し、確かに結婚さえしていたら配偶者としての権利で動きようはあったのかもしれないと思った。

「そうだな。まあ今回みたいな状況で手を考えるならこれ以上ない権利と言えるか」
「うん。じゃあ今すぐ結婚しても祝福してくれるかな?」
「…?いいんじゃないか?」

だからそう答えたのだが、それに対してシュバルツがどこか腹黒い笑みを浮かべたのを見て、しまったと思った。
見るとロイドも顔に手を当てて肩を落としている。
どうやら言ってはいけない一言を言ってしまったらしい。

「ロイド。クレイもこう言ってるし、もう諦めようね?」

そしてふわりと回復魔法を掛けたシュバルツにロイドがギッと睨みを利かせて口を開いた。

「お前は!強引にもほどがあるぞ?!」
「嫌だな。ちょっと声が出ない状況にしたからってそんなに怒らなくてもいいだろう?」
「ふざけるな!こんなもの無効だ!」
「無効じゃないよ?ロイドが言ったんでしょ?クレイとの約束があるから結婚は二年後だって。そのクレイが今すぐ結婚してもいいって言ってくれたんだから、ね?諦めよう?」

どうやらそのやり取りに自分同様ロイドも嵌められたのだと理解してしまう。

「もう不安にさせないし、泣かせない。もしロイドの子供だって言って子連れでやってくる女がいたら全部追い返してあげる。仕事の邪魔だってする気は無いし、夜はいつだって欲しい時に欲しいだけ満足させてあげる。それでもダメ?」
「…………」
「トルテッティの方を気にしてるなら大丈夫だよ?よく考えたら入籍もトルテッティにこだわる必要はないし、父上には事後報告で十分だからソレーユでしてしまえばいいんだ。やっぱり二人の幸せを一番に考えないとね」

キラキラした笑顔で立て続けに紡がれる言葉が怖すぎる。
やはり白魔道士の結婚猛攻撃はどこも似たようなものなのだろうか?
とは言え欲しい時に欲しいだけ抱いてもらえるのは正直羨ましい。
きっとシュバルツはロックウェルのように焦らしたりはしないのだろう。

「~~~~ッ!この詐欺師!絶対に今すぐになんてサインはしないからな!」

ロイドが精一杯の反抗を見せるが、ここでシュバルツが思いがけない言葉を口にした。

「そっか…。それってそんなに嫌がられるほど今回の件で傷つけてたってことだよね?」
「え?」
「昨日も仕方なく抱かれてくれたのかな?」
「…………」
「それなら…暫く頭を冷やす意味で、距離を置いた方がいいよね?」
「……え?」
「許してくれるまで手は出さないから、結婚してもいいって思えるようになったら言ってくれる?それまでちゃんと反省して待ってる」

『いくらでも待つよ?』

そんな風に柔らかく微笑んだシュバルツに自分だけではなくロイドも絶句していた。
正直ロイドの中で『与えてもらえる快楽』と『すぐには結婚したくない気持ち』が天秤の上でゆらゆら揺れ動いているのが手に取るようにわかってしまう。
恐らくロイドに育てられたシュバルツの夜のテクは、他に類を見ないほどかなりなものになっているのだろう。
それを結婚するまで与えてもらえないと言われたならば、気持ちが揺らぐのもよくわかる。
この辺りは黒魔道士ならではの感覚かもしれないが、自分だってロックウェルに一週間抱いてもらえなかったら我慢できなくなる。
それだけ『甘美な閨』は心を支配してしまうものだから…。

「ロイド…頑張って一か月半くらいだろう?別れる気がないなら無理せず頷いておけ」

だからそう言ってやったのに、裏切り者とばかりに睨まれてしまった。
そんな自分達にこれまで黙って見守ってくれていたロックウェルが思い切り笑い出す。

「ふはっ…!シュバルツ殿?成長しましたね」
「ええ。私を育ててくれた恋人は一流の黒魔道士ですから」

そうしてにこやかに笑うシュバルツは本当に大きく成長したなと思った。
ロイドのプライドを傷つけずに事を進めるのが随分上手くなっている。

けれど────正直ロイドが弱っているところにつけ込むのはどうかと思う。

「ロイド。本当に相手はシュバルツでいいんだな?」
「…不本意だが閨は最高に上手く育ったしな。理想的に育ちすぎたからか、好きになりすぎて手放せないのが悔しいところだ」

やはりロイドはかなりシュバルツに惚れこんでいるようだった。

「まあ気持ちいいのは早々手放せないよな。好きなら尚更だ。とは言え……勧めた手前言い難いんだが、アベルよりも性格はマシだがかなりな腹黒に見えるぞ?そこは大丈夫か?」
「知ってる。でもそこも面白いし気に入っている」
「じゃあ気に入らないのはああやって強引に進めてこようとするところだけか?」
「そうだ」
「じゃあここは落ちてやる前に少し翻弄して、優位になるよう時間稼ぎをしてみたらどうだ?」
「そうだな。それは確かに」

そうしてヒソヒソと言い合っていると、途端に嫉妬の目を向けられてしまった。
本当に白魔道士は嫉妬と独占欲が強い。

「クレイ?ロイドと何を話してるのかな?」

(仕方がない…。ここは一肌脱ぐとしようか)

「いや?お前が結婚したいというのはよくわかった。でも急すぎてロイドが困っているだろう?そういうのはちゃんと双方合意の上ですべきだ。だから…もっと会話を持て。そうだな。お前がロイドの本名を教えてもらえたらという事にしてみたらどうだ?」

それが信頼の証だと言ってやったら、シュバルツは驚いたような顔をして、ロイドがそれはいいなと言わんばかりの表情になった。
これで少しでも時間稼ぎにはなることだろう。

「名案だな。閨で無理強いして聞き出す手段がない今、それができるのか…試してみたいものだ」

素直には教えてやらないぞと意地の悪そうな顔をして、そうしてやっとロイドらしくなったところで二人でしてやったりと笑ってやった。
やはりロイドはロイドらしくあってほしいと思う。
対するシュバルツもどこか悔しそうだし、これならロイドの優勢に繋がってくれることだろう。
そう思って安堵したのも束の間、そこで徐にロックウェルがシュバルツ側に加勢してきた。

「シュバルツ殿?その男の興味があることで籠絡してやればいいんです。何かあるでしょう?」
「え?」
「玩具でも快楽でも魔法のことでも…。あの二人は似ているところがありますし、新しい快楽をチラつかせてみるのは効果的だと思いますよ?」
「なるほど。じゃあ…」

何を二人でヒソヒソ言っているのかは知らないが、何やらこれはまずい予感がする。
ロックウェルはだてにこれまで自分を転がしてきたわけではない。
ヒュースや他の眷属達とも仲が良いから、こちらの情報はある意味筒抜けなのだ。
これは下手をすればロイドが不利になってしまうのではないだろうか?

「ロイド。もし本気の長期戦で焦らしにいくなら魔力交流である程度は満たしてやるから、負けずに頑張れ」
「…クレイ。物凄く嫌な予感がするから、今すぐ満足させてもらってもいいか?」

そんな言葉にロイドを窺うと、珍しく不安そうな顔をしていた。

「昨日十分満足させてもらったんだろう?」
「ああ。だからこそ逆に流される可能性もある。できればそれを上書きする意味で、腰が砕けるほど満足させてほしい」

そうでなければまた昨夜のように流されそうだとロイドが言い出したので、これはよっぽどシュバルツのことが好きなんだなと溜息を吐き、仕方なくそのまま瞳を解放していつも以上に魔力を送り込んでやった。

「ふ…ふぁあっ……!」

ビクビクと身を震わせうっとりと魔力に酔うロイドは、本当に最初の頃から変わらない。
縋り付くように夢中になって口づけてくるロイドを言葉通り腰砕けにしてやると、満足げに寄り添い身を任せてきたのでしっかりと支えてやった。

「クレイ…。はぁ…。気持ちいい」

そうして熱い眼差しで見つめてくるロイドに満足したかと尋ねていると、こちらに気づいたシュバルツが飛んできて、ロイドをあっさりと奪い去っていった。

「クレイ!何やってるんだ!ロイド!そんな欲情したような目でクレイを見るな!」

ロイドを腰砕けにするのは自分だけの特権なのにと睨まれた。

「クレイ?ロイドにあんなに魔力を送り込むとはどういう了見だ?」
「え?いや、頼まれたから好意でしただけだが?」

今回のこれは別に浮気目的でもなければ誘惑されたわけでもない。
ただ純粋にロイドへの応援的意味合いしかない。
それなのに怒られるのはどうしてなのだろう?

「……どうやら話し合う必要がありそうだな?」
「ちょっ…!待て!俺は悪くない!そ、そうだ!そろそろ仕事の時間だろう?!」

慌ててそう言うが、今日は急ぎの仕事はないから大丈夫だと言われてしまった。

「ロイド!どうしてクレイと魔力交流するんだ!酷い!言ってくれればいくらでもしてあげるのに!」
「煩いな。お前にいいようにされたくないからに決まっている!離せ!」
「…何それ?こっちはこっちで話し合う必要がありそうなんだけど?」
「ふん。魔力は十分満たされている。ちょっとやそっとではお前の口車に乗せられたりはしないぞ?」
「やっぱりクレイの方がいいってこと?!こっちからは婚約解消は絶対にしないし、何と言われても別れないから!」
「別に別れる必要はない。私の名を聞き出せばお前の勝ちだ。閨以外で精々知恵を絞るんだな」
「~~~~っ!」

そんな二人のやりとりにホッとしながら、こっちもなんとかしようとロックウェルへと向き直り、仕方がないかと溜息を吐く。
今日はこの後すぐに仕事の打合せがあるのだ。
場合によっては時間を要する依頼で、場所もタイミング悪くソレーユだし上手く抜け出さなければならない。
調査は眷属に頼めても、打合せと事を終わらせるタイミングは大切だから自分で行くしかないのだ。
ここで足止めされるわけにはいかない。

「ロックウェル。機嫌を損ねるようなことをして悪かった。お詫びに王宮まで送らせてくれないか?」

だから申し訳なさそうにそう提案する。

「この二人はもう大丈夫そうだし、ロイドよりお前を優先したい」

そうして少々本気で陥落スキルを駆使してやると、ロックウェルは暫く懊悩した後落ちてくれた。
ここ最近対ロックウェル用に色々考えておいてよかった。
これなら大丈夫だろう。
そうしてまだ言い合いをしている二人を置き去りに、ロックウェルを連れて素早く影を渡り王宮へと送り届けると、すぐさまその足で仕事先へと向かった。

(やっぱり仕事が一番だな)

そうして満面の笑みでひらりと身を翻した自分に、ロックウェルがやられたと怒っていたことをその時は気づいていなかった。


***


「くそっ!」

上手く逃げられたとロックウェルは久方振りに本気で怒っていた。
クレイがあの二人の結婚を推奨していた事と自分を優先してくれた事から、ここは多少寛容にいってもいいかと安易に許してしまった自分が許せない。
まさか、仕事>自分≧ロイドのような行動をしてくるとは…。

「少し甘やかしすぎたようだな」

結婚してからより一層快楽に溺れさせ随分従順にさせたと思っていたが、こうして時折黒魔道士然としながらスルリと逃げ出すクレイに自分の中に凶悪な感情が沸き起こる。
これだからクレイはたまらないのだ。
捕まえたと思っても全く油断ができない。
だからこそ自分の心をいつまででも捕らえ続けるのだろうか?
いつまでも思い通りにならないクレイが憎らしくも愛おしくて心が激しく乱される。

「ああ…今度はどうやって調教してやろうか」

今日はさっさと仕事を片付けて、早くあのどうしようもなく可愛い男を捕まえに行かなくては────。

そう考えるだけでやるべき事が次々と浮かんでくる。
ハインツがフローリアの件を知ったのだから王宮に於いても何かしら動きが出るだろうし、早々に手を打つ必要が出てくるだろう。
このあたりはドルトに相談だ。
次いでトルテッティの動きも把握しておいた事がいいだろう。
ソレーユサイドに口止めはしたしシュバルツが国には報告を入れたと言ってはいたが、もし万が一罷り間違ってハインツとカルトリアの姫との縁談に絡んでこられては非情に面倒だからだ。
それと共にカルトリア側にも注意を向けて、こちらの足元を見られぬよう諸々の現状把握を進めておかなければならない。
やるべきことは沢山だ。
けれど────。

(クレイ…王宮がバタついていようと、お前を許し逃す気はない。覚悟しておけ)

そんな姿に昏く笑う自分に周囲がガクブルと震えていたのには脇目も降らず仕事をこなす。
そんな中、ハインツが自分の元へとやって来る姿が見られた。


***


レイン家にルッツを養子として迎え入れてもらい、自身も身を置かせてもらえることになりホッとしたが、まさかその日のうちにハインツにバレるとは思ってもみなかった。
けれどなんとか関係ないと押し切る事ができたので、良かったと言えば良かったのだろうか?
自分はこれからここでルッツを元気に育てていかなければならない。
だから申し訳ない気持ちが溢れはしたが、本人に真実は語らなかった。
そもそもが自分が妊娠したことを口にしなかったのが悪いのだから、彼には何も責任はないのだ。
だから気にせず幸せになってほしい。
そう思ってのことだった。

そして今日、気持ちが少し落ち着いてきたので、これからの事を話せないかとロックウェルとクレイの姿を探していたのだが……。



「やっ!ロックウェルッ!」

どうやらロックウェルはあの黒魔道士を調教中の様だった。

「二日も帰ってこないとは、余程虐められたいようだな」

あの優しいロックウェルが怒り心頭と言わんばかりにサディスティックな声を出す。

「違うッ!あれは依頼が夜に掛かるものになったからで…ッ!帰ってこられなかったんだ!」
「場所がソレーユだったくせに、疑うなと?」
「うぅ…ロイドは関係ないし、浮気じゃないってヒュースから聞いて知ってるくせに…。酷い…」
「酷くはないだろう?気持ちいい癖に」
「ひうっ!うっうぅ…。ロックウェル…も、それ嫌だ…。許して……。あっ…優しくしてほしッ…あぁん!」

(流石ロックウェル様ですわ)

あの基本的に傲慢な黒魔道士が涙ながらに懇願する姿はなかなか見れないだけに思わず笑みがこぼれ落ちた。
やはりロックウェルは自分が見込んだ相手なだけの事はある。
兄でさえ御せなかったあのクレイをこうも易々と調教するとは。

(まあ黒魔道士など快楽漬けにしてしまえばどうとでもなりますもの)

他国では黒魔道士の方が白魔道士よりも大きな顔をしていたりするようだが、トルテッティでは白魔道士の方が立場は上だ。
だからああしてこちらの思い通りにする事は別段珍しくもなんともない光景だった。

邪魔をしても悪いし、今日のところは出直すことにしよう。
未練はないが、調教だとしてもロックウェルが他の誰かを抱くところはあまり見たくはない。

(そうですわ。レイン家に引き取って頂いたお礼に、ロックウェル様にトルテッティの魔法をいくつかご紹介致しましょうか。きっと調教にも役立ちますわ)

これは名案だと思いながらそっと自分の部屋へと戻ると、唐突に目の前に幻影魔法が展開された。
一体誰だと思っていると、相手は兄のアベルだった。
どうやら嘘を吐いたのがバレたようで、非常に怒っているようだ。

「フローリア。何故黙っていた」
「何のことか私にはわかりませんわ」

言いたいことはわかるが、自分から詳細を話すつもりはない。

「誤魔化すな!子が産まれ、クレイのいるレイン家に引き取られたと聞いたぞ!」
「ええ。そうですわね」

恐らくシュバルツあたりから連絡がいったのだろう。
けれど自分から子の父親を明言する気はないのだ。

「そのせいでこちらは今大騒ぎだ。叔父上はシュバルツの子でないと言われて寝込んでしまった。…それで、父親はクレイなのか?」
「ご想像にお任せ致しますが…クレイを怒らせぬようお気をつけくださいね?私では取り成しはでき兼ねますので」

そうしてクスリと笑みを浮かべる。
兄はクレイを恐れているから、恐らくこう言っておけばこれ以上踏み込んでくることもないだろう。
そしてトルテッティ国としてもそれは同様だ。
確固とした証拠がない為、アストラス側に強く出ることなどできはしない。
決めつけてクレイを怒らせようものなら、魔力を剥奪されるだけではなくサティクルドのように国がほぼ壊滅状態に追い込まれてもおかしくはないのだから。
クレイを制御できるのはロックウェルだけだが、そのロックウェルに手を出すことがどれだけ怖いかを身を以て知っているトルテッティに打つ手は残されていない。
そういった点で、ある意味自分はどこよりも安全な場所に逃げ込めたと言っても過言ではないだろう。


遠くからクレイの嬌声が聞こえてくる。
その声にはどこか悲痛な懇願の色が混じっているように感じられた。
何をしたのかは知らないが、ロックウェルはかなり怒っているように見えたので謝っても許してもらえないのかもしれない。
そうやってどこまでも強いくせにあっさりと快楽に堕ちるクレイに、思わずまた一つ笑みがこぼれ落ちてしまう。
シュバルツの方も結果的にあの黒魔道士との仲が拗れるよう動けたし、我ながらなかなか良い感じに復讐できたとスッキリしたような気がした。
性格が悪いと言われようとこれが自分だし、この性格は一朝一夕には変えられるようなものでもない。
自分を差し置いて自分だけ勝手に幸せになろうとするからだ。

「フローリア。お前はこれからどうするつもりだ?」
「さて…どう致しましょうか?」
「……ずっとアストラスに居るつもりか?」

アベルが暗に帰って来いと言ってくるが、ここで帰るとルッツと離れ離れになってしまうためそれは本意ではない。

「私は我が子と…ルッツと共に居たいのです。それ以上のことは何も望みませんわ」

可愛い可愛いルッツ。
あの子の為ならレイン家に身を置くことなどどうということもない。
お人好しなクレイを利用するようではあるが、そうしろと脅してきたのも向こうだ。
だから罪悪感など抱くつもりはない。
ただ……レイン家当主に挨拶をせぬままここに居ることに対しては少しだけ気になった。
確かレイン家当主は王の片腕とされる有能な男だったはずだ。
だからこそクレイを引き取ったともいわれている。
その相手に礼を欠けばたちまち王の耳へと入り、ルッツと離れ離れにさせられてしまうような気がした。

王はハインツを溺愛していると聞いたこともあるし、下手に話が耳に入ればハインツの為にも実子として引き取るなど言い出しかねない。
そんなことにでもなれば目も当てられない。
王宮に引き取られルッツに二度と会えなくなるのは絶対にごめんだった。

「私はお兄様がどう言おうと、ここに可能な限り居座るつもりです」

だから正直な気持ちを口にしたのだが、アベルは苦々しい顔をした後魔法を解除してしまった。
納得はいっていないようだったのでもしかしたらまた何か言ってくるかもしれないが、その時はその時だ。
状況が変われば身の振り方もまた考えなければならないだろう。

「ルッツ。ごめんなさいね。私が絶対に守ってあげるわ。だから…いい子に育ってね」

そうしてそっと抱き上げて、どこかハインツに似たその瞳を見つめると、ニコッと笑いながら自分を見上げてきた。

「あう…」

小さな拳が自分の小指を掴み、フリフリと振られて愛しさが込み上げてくる。

(ああ…これが『愛しい』という感情なのね)

こんな感情はこれまであまり感じたことなどなかった。
『好き』『嫌い』『どうでもいい』の三種類がこれまで自分の中を主に占めていたような気がする。
そこに新しく加わった『愛しい』という感情。
それはどこか心を満たし意図せずハインツとの夜を思い出させて、胸が切なく震えてしまった。

あの慈しむような優しい眼差しを思い出すと何故か胸が苦しくなるような気がして、思わずルッツをそっと抱きしめている自分がいた。
できればこの子もあのハインツのように優しい子供に育って欲しいと願う。
容姿は自分に似ていても、性格はハインツに似て欲しいと思うのはおかしなことだろうか?

幸せになってほしい────それは母親としての嘘偽りのない願いだった。



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