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52.聖者に抱く希望の光―マリウス視点―
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その日の夕刻はこちらへと向かう足音がいつもと少し違っていた。
もしやジフリート以外の者がここに来たのではと思い、急いでそちらへと視線を向けるとそこには食事のトレイを手にした見知った人物が立っていて、思わず声を上げてしまった。
「フィン!」
それは王家の影として育てられた辺境伯の三男であるフィン=ハウエルだった。
彼がここに来てくれたということは助けに来てくれたに違いがないという気持ちが込み上げてきて、胸がいっぱいになってしまう。
「王太子殿下。お久しぶりでございます」
そうしてこちらへと優し気な笑みを向けてくれる姿に思わず涙が出そうになった。
「フィン…助けに来てくれたんだな」
けれど彼から返ってきた言葉はひどく申し訳なさそうなものだった。
「申し訳ございません。心苦しくはあるのですが、今すぐにはここからお出しできないのです」
「そんな!むざむざヴェルガーに政権を簒奪されたままで私におとなしくしていろと言うのか?!」
思わずそんな言葉が口を突いて出てしまうが、それに対してフィンは淡々と申し訳なさそうに返してくるばかりだ。
「そう焦らずとも今王太子殿下のために多くの者達が手を尽くしております。ここから出る日は必ずやってまいります。それまでどうぞご辛抱ください」
そんな風に言われて心に強い希望の光が灯るのを感じた。
自分のためにヴェルガーやジフリートと対峙しようと尽くしてくれている者がいるというのは大きな希望だった。
自分は忘れられてはいなかったのだ。
これできっと自分達は助かるのだと心の底から安堵し涙が止まらなくなる。
やっとこの薄暗い牢から解放される日が来るのだ。
「さあ、今日のお食事です。どうぞお召し上がりください」
「ああ。すまない。ありがとう」
そうしていつも通り与えられるその食事を受け取った。
その食事を持ってくる役目をフィンがどうやってジフリートから請け負ったのかまで考えることなく、自分は安心しすぎていた─────。
「いつもこの食事には本当に助けてもらっている。賢者殿に感謝を伝えておいてくれ」
だからついそんな言葉を口にしてしまったのだ。
それに対してフィンはまるで世間話の延長のように軽く尋ねてきた。
「賢者殿はそのお食事に何かされていたのですか?」
「ああ。いつも回復魔法を掛けてくれているようでな。お陰で最近はノーラの調子もいいんだ」
「そうなのですか。…それは喜ばしいことです」
そして「ではまた」と言いながら微笑を浮かべながら去っていくフィンの背を見送って、さて食事をと思ったところで『それ』は起こった。
「グッ…!」
その声に驚いて前を見ると、そこには血を吐きながら倒れ伏す愛しいノーラの姿があった。
「ノーラ?!」
一体何がと慌てて駆け寄ると、ノーラの腹に鋭い氷の矢が刺さっているのが見て取れた。
「ノーラ!ノーラ!!」
必死に呼びかけると彼女の手がゆっくりと食事の方を差し、それをくれと告げてくる。
そんな場合ではないと口にするが、頼むからと言われ泣きながらそれを一匙一匙口へと運んでやった。
するといつものようにその食事には回復魔法が掛けられていたようで、見る見るうちにノーラの傷が癒えていく。
正直これほどの怪我でも治るのかと驚くばかりの回復力だ。
けれどそれに安堵したのも束の間、ヒヤリとする空気を背後から感じそっとそちらへと振り向くと、そこには底冷えしそうな笑みを浮かべたフィンが静かに立っていて、思わず固まってしまった。
「まさかこの檻の中で本当に回復魔法が使われるとは……思いもしませんでしたよ」
確かにその言葉はその通りだろうと思う。
何故ならこの檻は魔法を封じる働きを持った牢獄なのだから。
普通はその中で魔法が作動するなどありえない。
そう────檻の外から発動させて檻の中へと攻撃する以外には……。
つまりは先程ノーラに攻撃を加えたのは目の前に立つこのフィン以外にはあり得ないことで────。
「フィン!貴様が攻撃したのか?!よくも私の大切なノーラをっ!」
怒りのあまり強い口調で責め立てるが、対するフィンの方はどこ吹く風だ。
「そうお怒りにならなくとも、ちゃんと急所は外していたではありませんか。私は回復魔法の話が本当なのかどうか検証したまでの事」
うっすらと笑いながらフィンは事も無げにそんなことを言ってくる。
「ふざけるな!ノーラに攻撃するなど何を考えている?!彼女は私の婚約者だぞ!」
「ええ。彼女は確かに殿下の婚約者です。勿論知っておりますよ?」
「ならばっ!」
「ええ。それがどうかなさいましたか?殿下は私のお仕えする王族。けれど彼女は私からすればただの大臣の娘。何もおかしくはありませんでしょう?」
王族の血を引いているわけでもない替えの利く婚約者に何を気を遣う必要があるのだと告げるフィンの言葉に、初めて『おかしい』と思った。
彼は確かに王家の駒だ。
けれどここにきて、この男は非常に危うい思考を持っているということに初めて気がついた。
もしもその言葉をそのまま受け取るとするならば……この男は王族の血を引く者の命令ならなんでも聞くのではないだろうか?
それは即ち、祖母が王族であるヴェルガーの命令も─────?
そこまで考えて自分がどこまで軽率だったのかを思い知る羽目になった。
「お…前は私の味方では…ないのか?」
そう尋ねた声は激しい動揺から震えていたと思う。
けれどその言葉はフィンによって笑顔で否定された。
「いいえ。私は殿下のお味方ですよ?それに…殿下を救おうとする動きがあることも事実ですし、捜索の手がここまで迫っているのも確かです」
「ではっ…!」
何故ここでノーラをわざわざ傷つけてまで回復魔法の件を確認しようとしたのか?
それが疑問だった。
しかしそれはフィンにとっては別段変わったことではなかったようで、実に楽し気に軽快に笑い飛ばされてしまった。
「嫌ですね。私はただ事実確認をしただけではありませんか。それに…私はこの後のジフリート殿やヴェルガー様達の動き、それに踊らされる者達を見るのが楽しみなのですよ。ただそれだけなので、殿下を傷つける気は一切ありません。どうぞご安心を」
クスクスと笑う目の前の男は一体どういった男なのだろうか?
王家の諜報活動をこなす従順な姿しか見たことがなかったから完全に油断していた。
(狂ってる……)
例えるならその言葉が一番しっくりと来るような気がした。
ジフリートの持つ生々しい人間臭さよりも、まるで遊びを楽しむかのようなこの男の方がずっと───身震いするほどに恐ろしい。
いや。そもそも人を人と考えていないからこそ王家の闇の世界を生きていけたのかもしれない。
だとすれば現時点でこんな男が野放しになっている状況は悪夢の一言なのではないだろうか?
自分勝手に自由意思で己の楽しみのためだけに動き回る、闇に生きる男────。
「まあそう怖がらなくても何もしませんよ?殿下は外の遊びが終わるまでここで婚約者の方と幸せな時間をお過ごしください」
どうせそれもあと少しで終わるでしょうしとにこやかにフィンは言い放ち、今度こそここから去っていく。
その姿を自分は震えながらただ見送ることしかできなかった。
希望から絶望へと突き落とされて最早希望など何一つない。
自分がここから出る日が来たとして、あの男が野放しになっているのはきっと変わらないだろう。
それを自分が御せと言われて御すことなどできるのだろうか?
利用できるものは利用しろ────そう言っていた父王ならばできたのかもしれないが、今の自分にはとてもできる気がしない。
怒りも憎しみも希望も自信も、何もかもが先程の絶望に取って代わられた気がする。
今自分の中にあるのはただ、どうにもならない恐ればかり──────。
けれどそんな絶望にとらわれた翌日の夕刻────その手紙は突然もたらされた。
不機嫌に怒りを湛えたジフリートが荒々しく食事のトレイをこちらへと渡してきたので最初は何事かと思ったのだが、どうやらこの食事を賢者から受け取る際に腹の立つことを言われたらしい。
「賢者マナ=カサトル…!絶対に殺してやる…!」
ギリッと爪を噛み憤怒の顔で低く呻くジフリートはこれまでの自分なら怖いと感じたかもしれない。
けれど今の自分にはこのジフリートもまたフィンの遊びの駒に過ぎないのかもしれないと思われて、心が妙に凪ぐのを感じた。
こうして怒り狂う様は酷く人間らしくて、フィンよりもずっと理解ができた。
(この食事を作ってくださる賢者はマナ=カサトルというのか)
初めて名前を知ったなと思いつつ、刺激しないようスルーで見送った後、淡々と力なくノーラと食事をとっていたのだが────。
「マリウス様!」
ノーラのその声で初めて皿の下に手紙らしき紙が一枚置かれていることに気がついた。
これはもしや【賢者】からの手紙なのだろうか?
けれど今のこの状況で何が変わるわけでもないだろうと、ただ無感動にそっとその手紙を開く。
そこに書かれていたのはただ一言。
『王太子様、きっと塔まで助けに行きます 聖者マナ』
それを読み、気がつけば涙が頬を伝っていた。
間違っても文面に安堵したわけではない。
助けてもらえるなんて本気にしたわけではない。
ただ────差出人である【聖者】の言葉に涙が出たのだ。
ジフリートはじめ、フィンでさえこの食事を作っているのは【賢者】だと思い込んでいた。
けれどこの食事を作っていたのは【賢者】ではなく【聖者】。つまり【聖女】の男性版だったのだ。
これまで自分達をこっそりと癒し、時に救い、希望を持たせてくれていたのは【賢者】に偽装した神の使いだった。
得体のしれない人物などではない。
ずっと…自分達が待ち望んでいた人物。
国を纏めたものの悪に陥れられてしまった【賢者】ではなく、この国を正しき方向へと導いてくれる【聖者】。
その存在を、神は確かに自分達に与えてくださっていたのだ。
何を信じることが出来なくとも、この存在だけは何の保証も疑いもなく、素直に心から信じることが出来る。
それだけ王族にとって【聖女】【聖者】の存在は絶対的信頼のおける相手だった。
「ふ…うぅ…」
他の誰でもない。【聖者】がこうして自分達を助けると言ってくれたのだ。
自分達が囚われている場所もこの短い文面の中でさり気なく教えてくれている。
この先どういった状況になるかはわからないが、これを知っているのと知らないのでは大違いだ。
万が一にでも逃げられるシチュエーションが訪れれば対策も取りやすいというもの。
それを考えてくれたであろう聖者の気持ちが嬉しかった。
それならば自分達はただ希望を捨てずに待てばいい。
今はここから出た時に、国をどう立て直すかを考えておこう。
そしてここから出る時に少しでも力を振るえるように、魔力を高めるよう訓練をしておこうと思う。
ヴェルガーと顔を合わせたら先手必勝で反撃の隙を与えることなく得意な雷魔法を全力で落とそう。
そうすれば一瞬で事は終わる。
後は聖者の導きに従って国を繁栄させていけばいいのだ。何も憂いはない。
「聖者様……感謝します」
そうして泣きながら、気持ちのこもった食事を一口一口じっくりと味わい、力を蓄えるために有難く頂いたのだった。
もしやジフリート以外の者がここに来たのではと思い、急いでそちらへと視線を向けるとそこには食事のトレイを手にした見知った人物が立っていて、思わず声を上げてしまった。
「フィン!」
それは王家の影として育てられた辺境伯の三男であるフィン=ハウエルだった。
彼がここに来てくれたということは助けに来てくれたに違いがないという気持ちが込み上げてきて、胸がいっぱいになってしまう。
「王太子殿下。お久しぶりでございます」
そうしてこちらへと優し気な笑みを向けてくれる姿に思わず涙が出そうになった。
「フィン…助けに来てくれたんだな」
けれど彼から返ってきた言葉はひどく申し訳なさそうなものだった。
「申し訳ございません。心苦しくはあるのですが、今すぐにはここからお出しできないのです」
「そんな!むざむざヴェルガーに政権を簒奪されたままで私におとなしくしていろと言うのか?!」
思わずそんな言葉が口を突いて出てしまうが、それに対してフィンは淡々と申し訳なさそうに返してくるばかりだ。
「そう焦らずとも今王太子殿下のために多くの者達が手を尽くしております。ここから出る日は必ずやってまいります。それまでどうぞご辛抱ください」
そんな風に言われて心に強い希望の光が灯るのを感じた。
自分のためにヴェルガーやジフリートと対峙しようと尽くしてくれている者がいるというのは大きな希望だった。
自分は忘れられてはいなかったのだ。
これできっと自分達は助かるのだと心の底から安堵し涙が止まらなくなる。
やっとこの薄暗い牢から解放される日が来るのだ。
「さあ、今日のお食事です。どうぞお召し上がりください」
「ああ。すまない。ありがとう」
そうしていつも通り与えられるその食事を受け取った。
その食事を持ってくる役目をフィンがどうやってジフリートから請け負ったのかまで考えることなく、自分は安心しすぎていた─────。
「いつもこの食事には本当に助けてもらっている。賢者殿に感謝を伝えておいてくれ」
だからついそんな言葉を口にしてしまったのだ。
それに対してフィンはまるで世間話の延長のように軽く尋ねてきた。
「賢者殿はそのお食事に何かされていたのですか?」
「ああ。いつも回復魔法を掛けてくれているようでな。お陰で最近はノーラの調子もいいんだ」
「そうなのですか。…それは喜ばしいことです」
そして「ではまた」と言いながら微笑を浮かべながら去っていくフィンの背を見送って、さて食事をと思ったところで『それ』は起こった。
「グッ…!」
その声に驚いて前を見ると、そこには血を吐きながら倒れ伏す愛しいノーラの姿があった。
「ノーラ?!」
一体何がと慌てて駆け寄ると、ノーラの腹に鋭い氷の矢が刺さっているのが見て取れた。
「ノーラ!ノーラ!!」
必死に呼びかけると彼女の手がゆっくりと食事の方を差し、それをくれと告げてくる。
そんな場合ではないと口にするが、頼むからと言われ泣きながらそれを一匙一匙口へと運んでやった。
するといつものようにその食事には回復魔法が掛けられていたようで、見る見るうちにノーラの傷が癒えていく。
正直これほどの怪我でも治るのかと驚くばかりの回復力だ。
けれどそれに安堵したのも束の間、ヒヤリとする空気を背後から感じそっとそちらへと振り向くと、そこには底冷えしそうな笑みを浮かべたフィンが静かに立っていて、思わず固まってしまった。
「まさかこの檻の中で本当に回復魔法が使われるとは……思いもしませんでしたよ」
確かにその言葉はその通りだろうと思う。
何故ならこの檻は魔法を封じる働きを持った牢獄なのだから。
普通はその中で魔法が作動するなどありえない。
そう────檻の外から発動させて檻の中へと攻撃する以外には……。
つまりは先程ノーラに攻撃を加えたのは目の前に立つこのフィン以外にはあり得ないことで────。
「フィン!貴様が攻撃したのか?!よくも私の大切なノーラをっ!」
怒りのあまり強い口調で責め立てるが、対するフィンの方はどこ吹く風だ。
「そうお怒りにならなくとも、ちゃんと急所は外していたではありませんか。私は回復魔法の話が本当なのかどうか検証したまでの事」
うっすらと笑いながらフィンは事も無げにそんなことを言ってくる。
「ふざけるな!ノーラに攻撃するなど何を考えている?!彼女は私の婚約者だぞ!」
「ええ。彼女は確かに殿下の婚約者です。勿論知っておりますよ?」
「ならばっ!」
「ええ。それがどうかなさいましたか?殿下は私のお仕えする王族。けれど彼女は私からすればただの大臣の娘。何もおかしくはありませんでしょう?」
王族の血を引いているわけでもない替えの利く婚約者に何を気を遣う必要があるのだと告げるフィンの言葉に、初めて『おかしい』と思った。
彼は確かに王家の駒だ。
けれどここにきて、この男は非常に危うい思考を持っているということに初めて気がついた。
もしもその言葉をそのまま受け取るとするならば……この男は王族の血を引く者の命令ならなんでも聞くのではないだろうか?
それは即ち、祖母が王族であるヴェルガーの命令も─────?
そこまで考えて自分がどこまで軽率だったのかを思い知る羽目になった。
「お…前は私の味方では…ないのか?」
そう尋ねた声は激しい動揺から震えていたと思う。
けれどその言葉はフィンによって笑顔で否定された。
「いいえ。私は殿下のお味方ですよ?それに…殿下を救おうとする動きがあることも事実ですし、捜索の手がここまで迫っているのも確かです」
「ではっ…!」
何故ここでノーラをわざわざ傷つけてまで回復魔法の件を確認しようとしたのか?
それが疑問だった。
しかしそれはフィンにとっては別段変わったことではなかったようで、実に楽し気に軽快に笑い飛ばされてしまった。
「嫌ですね。私はただ事実確認をしただけではありませんか。それに…私はこの後のジフリート殿やヴェルガー様達の動き、それに踊らされる者達を見るのが楽しみなのですよ。ただそれだけなので、殿下を傷つける気は一切ありません。どうぞご安心を」
クスクスと笑う目の前の男は一体どういった男なのだろうか?
王家の諜報活動をこなす従順な姿しか見たことがなかったから完全に油断していた。
(狂ってる……)
例えるならその言葉が一番しっくりと来るような気がした。
ジフリートの持つ生々しい人間臭さよりも、まるで遊びを楽しむかのようなこの男の方がずっと───身震いするほどに恐ろしい。
いや。そもそも人を人と考えていないからこそ王家の闇の世界を生きていけたのかもしれない。
だとすれば現時点でこんな男が野放しになっている状況は悪夢の一言なのではないだろうか?
自分勝手に自由意思で己の楽しみのためだけに動き回る、闇に生きる男────。
「まあそう怖がらなくても何もしませんよ?殿下は外の遊びが終わるまでここで婚約者の方と幸せな時間をお過ごしください」
どうせそれもあと少しで終わるでしょうしとにこやかにフィンは言い放ち、今度こそここから去っていく。
その姿を自分は震えながらただ見送ることしかできなかった。
希望から絶望へと突き落とされて最早希望など何一つない。
自分がここから出る日が来たとして、あの男が野放しになっているのはきっと変わらないだろう。
それを自分が御せと言われて御すことなどできるのだろうか?
利用できるものは利用しろ────そう言っていた父王ならばできたのかもしれないが、今の自分にはとてもできる気がしない。
怒りも憎しみも希望も自信も、何もかもが先程の絶望に取って代わられた気がする。
今自分の中にあるのはただ、どうにもならない恐ればかり──────。
けれどそんな絶望にとらわれた翌日の夕刻────その手紙は突然もたらされた。
不機嫌に怒りを湛えたジフリートが荒々しく食事のトレイをこちらへと渡してきたので最初は何事かと思ったのだが、どうやらこの食事を賢者から受け取る際に腹の立つことを言われたらしい。
「賢者マナ=カサトル…!絶対に殺してやる…!」
ギリッと爪を噛み憤怒の顔で低く呻くジフリートはこれまでの自分なら怖いと感じたかもしれない。
けれど今の自分にはこのジフリートもまたフィンの遊びの駒に過ぎないのかもしれないと思われて、心が妙に凪ぐのを感じた。
こうして怒り狂う様は酷く人間らしくて、フィンよりもずっと理解ができた。
(この食事を作ってくださる賢者はマナ=カサトルというのか)
初めて名前を知ったなと思いつつ、刺激しないようスルーで見送った後、淡々と力なくノーラと食事をとっていたのだが────。
「マリウス様!」
ノーラのその声で初めて皿の下に手紙らしき紙が一枚置かれていることに気がついた。
これはもしや【賢者】からの手紙なのだろうか?
けれど今のこの状況で何が変わるわけでもないだろうと、ただ無感動にそっとその手紙を開く。
そこに書かれていたのはただ一言。
『王太子様、きっと塔まで助けに行きます 聖者マナ』
それを読み、気がつけば涙が頬を伝っていた。
間違っても文面に安堵したわけではない。
助けてもらえるなんて本気にしたわけではない。
ただ────差出人である【聖者】の言葉に涙が出たのだ。
ジフリートはじめ、フィンでさえこの食事を作っているのは【賢者】だと思い込んでいた。
けれどこの食事を作っていたのは【賢者】ではなく【聖者】。つまり【聖女】の男性版だったのだ。
これまで自分達をこっそりと癒し、時に救い、希望を持たせてくれていたのは【賢者】に偽装した神の使いだった。
得体のしれない人物などではない。
ずっと…自分達が待ち望んでいた人物。
国を纏めたものの悪に陥れられてしまった【賢者】ではなく、この国を正しき方向へと導いてくれる【聖者】。
その存在を、神は確かに自分達に与えてくださっていたのだ。
何を信じることが出来なくとも、この存在だけは何の保証も疑いもなく、素直に心から信じることが出来る。
それだけ王族にとって【聖女】【聖者】の存在は絶対的信頼のおける相手だった。
「ふ…うぅ…」
他の誰でもない。【聖者】がこうして自分達を助けると言ってくれたのだ。
自分達が囚われている場所もこの短い文面の中でさり気なく教えてくれている。
この先どういった状況になるかはわからないが、これを知っているのと知らないのでは大違いだ。
万が一にでも逃げられるシチュエーションが訪れれば対策も取りやすいというもの。
それを考えてくれたであろう聖者の気持ちが嬉しかった。
それならば自分達はただ希望を捨てずに待てばいい。
今はここから出た時に、国をどう立て直すかを考えておこう。
そしてここから出る時に少しでも力を振るえるように、魔力を高めるよう訓練をしておこうと思う。
ヴェルガーと顔を合わせたら先手必勝で反撃の隙を与えることなく得意な雷魔法を全力で落とそう。
そうすれば一瞬で事は終わる。
後は聖者の導きに従って国を繁栄させていけばいいのだ。何も憂いはない。
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