rose of silver

春野いちご

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 ギルバート様がどうして僕を側つきの小姓にしてくれたのか?
 一日経ち、二日経ち、数日経った今でもわからないでいた。
 ただ、僕が気に入られてというわけではないのだと、ギルバート様の態度でわかった。
 一生懸命やればやるほど、ギルバート様は冷たい視線を僕に向ける。
 ずっと見たいと願っていたギルバート様の瞳は綺麗な紫で、吸い込まれそうに魅力的だけど、決して明るい色はしてなかった。
 表情も殆どが変わらず冷たいままだ。
 そう言えば、笑った顔を見たことがない。
 お母さんを亡くしたのが原因なのか、足が不自由になったことが原因なのか、多分、どちらもなのだろう。
 できれば、ギルバート様のことを笑わせたいと思うのだけど……


「ギルバート様、お茶をお持ちしました」

 コンコンとノックした後、一呼吸置いてからドアを開ける。
 これは決まりなのだそうだ。
 もし、入られて困るようなことがあれば鍵がかかっているから、安心していいと聞いた。
 間違っていないはずだ。
 なのに、ギルバート様は僕が部屋に入ると、あからさまに怪訝な顔をした。
「今は君の顔を見たくはないんですけどね」
 そう言われて、落ち込む。
 けど、僕は僕のやるべきことをしなきゃと、テーブルにティーセットとお菓子を並べた。
「ギルバート様、どうぞお召し上がりください。今日のお菓子は苺のタルトですよ。とっても美味しそうな苺なんです」
 苺は大好物なんだ。
 だから、自然と涎が出そうになる。
 慌てて口許を拭いながら、僕はぺこりとお辞儀をした。
「僕の顔を見たくないようなので、失礼しますね。後で片付けに伺います」
 そう言って、部屋をでようとしたら、ギルバート様が僕を止めた。
「気が変わりました。君にはここにいてもらいます」
「えっ、あっ、はいっ」
 僕は返事して、ギルバート様の側に歩み寄った。
 車椅子を押してテーブルまで移動すると、ギルバート様は僕に座るように言った。
 僕は花柄の刺繍を施した布を張った豪奢な椅子に、ちょこんと腰かけた。
 向かい合わせに座るのは初めてじゃないけど、緊張する。
 ギルバート様は、僕なんかいないようにお茶を飲み始める。
「あっ、ギルバート様、今日おかしなことがあったんですよ」
 話す前から思い出し笑いをすると、ギルバート様が冷たく言った。
「君の話に興味はないです」
「でも、面白い話なんですよ。きっとギルバート様も笑っちゃいますよ」
「笑わなかったら、責任は取れますか?」
 問われて、僕はぐっと言葉に詰まる。
「……でも、ギルバート様にも聞いてほしくて」
「では、僕が笑わなかったらどうするかを、先に言ってください」
 ギルバート様は、いつも僕を困らせる。
 僕が困るのを楽しんでいるようにも見えないし、他の人にもこんななんだろう。
 ちょっとでも近づきたいと思っているのに……
「えと……あの……ギルバート様は、何をしてほしいですか?」
 思いつかなくて、そう尋ねる。
 ギルバート様はほんの少し眼を伏せて、小さく首を振る。
「君にしてほしいことなどないです」
 それはそれで悲しいことだ。
 どんな無理難題でも、応える気満々でいるのに……
 そうだよ。
 ギルバート様が望むなら、どんなことでもする。
「そうだ、ギルバート様が笑わなかったら、僕、手料理をギルバート様に振舞います」
「毒でも盛るつもりですか」
 とんでもないことを言われ、ブンブンと痛いくらいに首を振った。
「どちらにしても興味がないです。黙っていてくれませんか」
 剣呑な目つきに臆して、僕は何も言えなくなってしまった。
 もっと仲良くしたいのに――

「今日の苺は甘くて美味しいですね」

 珍しくギルバート様が、そんなことを口にした。
 僕はそれを聞いて、ぱあっと顔を明るくする。
「そうなんですか! その苺、とっても美味しそうですものね。僕、ここへ運んでくるときに、何度も誘惑に負けそうになりました」
 テヘッと舌を出す。
「苺が好きなんですか?」
 問われて、僕は思わず身を乗り出した。
「はいっ、大好物なんですっ」
 こんな風に僕のことを聞いてくれるのは、滅多にないことだ。
 喜びを隠しきれず、僕は満面に笑みを刻んだ。
「そんなに好きなら」
 ギルバート様がフォークに苺を刺して、僕の前に差し出した。
 ギルバート様が、僕に?
 こんなこと初めてでドキドキしてしまう。
 ギルバート様の手から、大好きな苺が食べられる。
 嬉しくてどうにかなりそう。
 緩みきった顔はきっとだらしないことになっているだろう。でも、嬉しさは隠しきれない。
「あ~ん」
 と口を開くも、ギルバート様は苺を引っ込めてしまう。
「ああぁ?」
 間抜けな顔のまま、ギルバート様を見つめる。
「僕が君に食べさせてあげると思いましたか」
 意地悪されたのか。
 でも、ギルバート様の表情はいつもと変わらず冷たいままだ。
 意地悪して楽しんでいるようには見えない。
「……思いました」
「そんなことしません」
 言って、ギルバート様は苺を自分の口に入れてしまった。
 それから、タルトの上に乗っている苺は全部、僕に見せつけるようにしてから食べた。
 これって、嫌がらせだよな。
 大好きな苺が全部なくなってしまって、多少、がっかりな気持ちにさせられる。
「甘い苺でした」
 そうなんだ。甘かったんだ。
 いいんだ。
 後で、こっそり食べさせてもらうんだ。
 そう心の中で思ったのに、ギルバート様はまるで僕の企みをご存じのように、ひどいことを言った。
「明日も苺のお菓子を用意するように料理人に伝えてください。それと、使用人が勝手に僕の苺を食べないように注意することというのも忘れずに」
 ううっ、ひどいよ。
 けど、ちょっとだけ、こういう意地悪は可愛いと思ってしまう。
「どうして笑っているんですか?」
 眉を顰めて、ギルバート様が僕に訊いた。
 考えていたことが顔に出ていたのかと焦る。
「ギルバート様が苺を好きで嬉しいなって思ったり」
「君は変なことを考えるんですね」
 変だろうか。
 僕にはギルバート様の方が変に思える。
 何にも興味を持たないし、にこりとも笑わない。
 心に負った傷は、そんなに深かったのだろうか。
「ギルバート様が好きなものを僕も好きだったり、ギルバート様が嫌いなものを僕も嫌いだったり、そういう共通する何かがあるのは嬉しいです。僕はギルバート様ともっと……」
 親しくなりたいというのは使用人が口にしていいことじゃないかもしれないと気づき、言葉を途切らせた。
「僕ともっと親しくなりたいですか?」
 僕の言葉を次いで、ギルバート様が言った。
 正にその通りなのだと、コクコクと頷く。
「君は人間だから、無理です」
「えっ?」
 それって、如何いう意味だろう。
 ギルバート様は本当に何を考えているのか、さっぱりわからない。
「犬か猫なら良かったですね」
 淡々と口にされては、冗談ともとれない。
 ひょっとしなくても、ギルバート様は人間嫌いなんだろう。
 足が不自由で、屋敷の外へは殆ど出ないと聞く。
 訪ねてくる友人も、僕が此処に来てから、見たこともない。
 やっぱり寂しい人だよな。

「無駄なお喋りは終りです。これを片付けてください」

 もっとお喋りしたかったけど、ギルバート様の命令は絶対だ。
 機嫌を損ねたくはなかったから、僕は従った。




「アレク、君にお使いに行って欲しいのですが、頼めますか」
 夕食が終わると、ギルバート様が言った。
 命令はされるけど、「頼む」なんて言葉は初めてかもしれない。
 ジーンと感動に震える。
「嫌なのですか?」
「あっ、いえ、行きますっ」
 慌てて答えるも、ギルバート様は然して気にも留めた様子はなかった。
「では、街へ出て黒い貴婦人を手に入れて来てください。店の者に僕の名前を言えば、お金は必要ないですから」
「黒い貴婦人って何ですか?」
 父が商人だったこともあって、僕も少しだけ商売をしていたことがある。けれど、噂にすら聞いたこともない。
 宝石のことだろうか?
 例えば黒曜石。
「今日、僕宛てに手紙が届いたことを知っていますね」
「はい」
 キースさんがギルバート様に手紙を渡すのを、隣で見ていた。
 内容までは知らないけれど……
「近く友人が訪ねてくるそうなのです。その友人への贈り物です。そう言えば、何かわかりませんか」
 問われて、僕は首を捻る。
 だって、僕はその友人を知らない。
 何を好む人なのか、どんな趣味の人なのかがわかれば別だけど、曖昧すぎて見当もつかない。
「あの……もし、間違えては困ります。どうか、黒い貴婦人が何なのか、教えてください」
 素直に手を上げた。
 だって、わからないものはわからないんだ。
「君は僕に何でもすると言いましたよね。だったら、僕が望むものを持ってきてください。異名ですが、物の名前は教えました。商人に聞けば、或いはわかるかもしれませんよ」
 ギルバート様は挑戦的に僕を見た。
 いつもと違って、その眼に生気を感じた。
 僕、試されている?
 無関心なギルバート様が、僕のことを試そうとするなんて……
 少しは近づけたのかな。
「あのっ、もし、もしも、正解だったら、ギルバート様は笑ってくれますか?」
 ここぞとばかりに、僕は兼ねてから思っていたことを口にした。
 笑った顔が見たいんだ。
「……面白くもないのに笑えません」
 ギルバート様の言葉に意気消沈する。
 でも、諦めたりなんかしない。
「ほんの少しでいいんです。唇の端っこをちょっと上に上げてくれるだけでいいんです」
 必死にお願いしてみる。
 すると、ギルバート様はふうと溜め息を吐いた。
 ああ、怒らせちゃったのかなと思っていると、意外にもいい返事がもらえた。
「わかりました。作り笑いでいいのなら」
 作り笑いというのは引っ掛かったけど、承知してくれたことがすごく嬉しかった。
「ありがとうございます」
 思わずギルバート様の手をぎゅうっと握ると、彼はびっくりしたように眼を見開いた。
 それには僕が驚く。
 無表情だったギルバート様の表情が崩れた。
 こんなこと、初めてだ。
「ギルバート様、そんなお顔もなさるんですね」
 ずずいとギルバート様に近づくと、彼は僕の手を振り払った。
 綺麗な形の眉が吊り上がる。
「君は立場を弁えるべきです」
 声には動揺も驚きもない。
 いつもと変わらない抑揚のない声。
 でも、ギルバート様にだって、ちゃんと感情はあるんだってことがわかっただけでも収穫だ。
「……すみません」
 僕は素直に謝った。
「とにかく、頼みましたよ」
 ギルバート様はそう言ってから、もう僕から視線を外した。
「あ、はいっ。では、行ってきます」
 お辞儀をしてから、僕は部屋を出た。


 でも、黒い貴婦人って何だろう?
 僕は部屋から外套を取ってきて、屋敷の外へと出た。
 陽はもう暮れていて、白い月が空に出ている。
 暗くなるのも、時間の問題だろう。
 早く行かなきゃ帰ってこれないことになる。
 急いで行こうとしたら、背後から呼び止められた。

「アレク、こんな時間にどこへ行くつもりだ?」

 問われて、僕は振り返る。
「あっ、キースさん、僕、ギルバート様のお使いで街へ行ってきます」
 頭を下げて、行こうとしてハタと気づく。
 キースさんなら、何か知っているかもしれないと。
「キースさん、黒い貴婦人って知ってますか?」
 そう訊いたら、キースさんは静かに首を振った。
「何のことだかわからないが、本当にギルバート様はお前に街へ行けと、そう言ったのか?」
 問われて、こくんと頷く。
 他に僕が屋敷から出る理由なんかない。
「そうなのか。ギルバート様に聞けばわかることだ。お前が嘘を吐いていないかどうか」
 キースさんの言葉に、疑われていたことを知る。
 自分に疚しいことなどないから、すっかり忘れていた。
 まだ、キースさんは僕のことを見張っているのだと――
「じゃあ、ギルバート様に聞いてください。僕、黒い貴婦人を買ってくるようにと頼まれたんです。近々訪ねてこられるご友人に贈るのだそうですよ。あっ、キースさんはギルバート様のご友人のこと、何か知りませんか? 今日届いた手紙の送り主なんだそうですけど」
「アレクは、ギルバート様からそんな話まで聞いたのか」
 僕にというよりも、キースさんは独り言みたいに口にした。
「はい。そうお聞きしました。それで、もし、ご友人のことが少しでもわかれば、黒い貴婦人が何か見当がつくかと思って」
 一縷の望みとばかりに、縋るような眼を向けると、キースさんは幾分表情を和らげた。
「手紙の送り主はシャルル様でギルバート様とは幼馴染だ。奥方様が亡くなってからも、ギルバート様を気遣ってくださる数少ないご友人だ。気さくでお優しい方だよ。使用人の話も熱心に聞いてくださる。貴族の中では、旦那様のように心の広いお方だ。外見は……そうだな、大輪の薔薇といった感じだろうか。シャルル様は周りまでも華やかにしてくださる。そんな印象のお方だ」
 大輪の薔薇か。
 さぞかしお美しい方なんだろうな。
 そう言えば、この屋敷の薔薇園で会った怪盗も僕のことを薔薇だなんて言った。
 自分のことは「銀の薔薇」だと言っていたし、そういう表現が流行っているんだろうか。
「アレク、街は歩いていけない距離ではないが、もう遅い。馬に乗っていくといい。ついて来い」
 考えこんでいると、キースさんがそう言ってくれた。
 僕は素直に従うことにして、厩へとついて行った。




 街は夜だというのに、賑やかだった。
 まだ開いているお店があってホッとしながら、僕は馬を降りて、きょろきょろとお店を物色した。
 何の店に行けばいいんだろう。
 並ぶ店は、副だったり靴だったり、様々だ。
 僕の村ではお店なんか、一件しかなかった。
 店を構えるほどではなかった父は色んな土地で交易をしていたから、時折、土産に珍しいものを持ち帰ってはくれたけど、黒い貴婦人なんて聞いたことがない。
 悩んでいても仕方ないとばかりに、僕は一件のお店に入った。
 来客を知らせるベルが軽やかな音色を奏でる。
 次いで、店主の明るい声が響いた。
「いらっしゃいませ」
 でっぷりしたお腹を揺らしながら、店主は僕に近づいてきた。
 けど、僕のことを上から下まで値踏みするように見た後、態度を変えた。
「もう店を閉めるところだったんですけどね。で、一体、何をお探しで?」
 ぞんざいな物言いだったけど気にせず、僕は尋ねてみた。
「あの……黒い貴婦人って、おいてますか?」
 途端、店主は訝し気に眉を寄せた。
「冷やかしか。さあ、出てってくれ」
 店主は僕の胸を雄ようにして、ドアの外へと追いやった。
「僕、ギルバート様の……ベルボント家の使用人です」
 そう告げるも、店主は店の中へと消えてしまった。
 なんだよ、あの態度。
 外套は父のお古だけど、ギルバート様の小姓として頂いた副は立派なものだ。
 それなのに、あんなに見下されるなんて悔しい。
 そんなに高級な店だったのかな。
 中を覗こうとしたら、灯りが落とされた。
 仕方ないから、別の店へと足を向ける。
 でも、もう閉店の時間なのか、次々と灯りが落とされてしまった。
 月明かりだけを頼りに、僕は明るい場所を探して歩いた。
 やっと賑やかな場所に出たと思ったら、そこは酒場のようだった。
 通りに胸の大きく開いた眼のやり場に困るようなドレスを着た女性が立っていて、道行く男に声を掛けている。
 こんな場所じゃ、お酒しか買えないよ。
 黒い貴婦人がお酒なわけないよな。
 いや、待てよ。
 友人に贈るものがお酒じゃないって、言いきれる?
 黒い酒となると、想像もつかないけれど……
 年代ものの濃い葡萄酒なら、黒っぽく見えないこともない。
 物は試しとばかりに、僕は馬を繋いでから、酒場の中へと入ってみた。
 酒場は想像以上に賑やかだった。
 一人で来たのは初めてで、ちょっと怖いと思ってしまう。
 人にぶつからないように気を付けながら、僕は店主の元まで進んでいった。
「あのっ、すみません」
 僕が声を掛けると、カウンター越しに客と話をしていた店主がこっちに視線を向けた。
「なんだ? お使いでも頼まれたのか?」
 店主は顎髭を触りながら、僕に訊いてくる。酒場の店主らしく屈強そうで、目の前に立たれると迫力があった。
「あの……僕、黒い貴婦人を探しているんです」
「黒い貴婦人……なんだ、そりゃ。未亡人のことか?」
 言われて、きょとんとしてしまう。
「そりゃいい。俺も未亡人を慰めてやりたいねぇ」
 僕の隣にいた男が口を挟んだ。
「未亡人?」
「喪服は黒いだろう」
 言われて、なるほどと感心する。
「ここに飲みにくるようなご婦人はいねぇよ。他、当たんな」
 主人の言葉に、僕は慌てて首を振った。
「違います。僕が探しているのは人じゃなくて……ひょっとしたら、そういうお酒があるのかと思って……主人から買ってくるように頼まれたんですけど、本当の名前は教えてもらえなくて……なにか、心当たりがあれば見せてもらえませんか?」
 こちらの事情を話すと、主人は僕のことを不躾に眺めてきた。
「で、お前の主人ってな誰だ?」
「ご領主様のご子息のギルバート様です」
 そう口にしたら、周りの男たちまでがこちらを見た。
「領民に顔も見せない箱入り坊ちゃんのことか」
 そんな風に言われて、僕は頬を膨らませる。
「ギルバート様は足が不自由なんです。でも、ちゃんと領民のことも、お考えになっています」
「どういう風に考えているのか、知りたいねぇ」
 問われてグッと言葉に詰まる。
 ギルバート様は嫌われていたりするんだろうか。
 ちゃんと言い返せないことが悔しくて、そんな自分が情けなくて落ち込む。
「領主様は気さくな方でよくこんな処まで飲みにも来てくださる。だから、余計に、代替わりされたらどうなっちまうんだろうって不安になっちまっただけさ」
 僕が黙ってしまったことを気にしてくれているのか、隣の赤ら顔の男がそう言ってくれた。
「そうだよな。領主様はいい方だ」
「悪い癖はお有りになるがな」
 誰かがそう言うと、周りで聞いていた人たちが笑い出した。
「悪い癖?」
「あぁ? お前さんは屋敷の使用人じゃないのか。主の噂を知らないわけじゃないだろう」
 言われてピンときた。
「あっ、あれは噂でしょう」
「火のないところに煙は出ないってね」
 そりゃそうだろうけど、領民にまで知られているなんて、恥ずかしくないのかな。
 それに、ギルバート様だってお可哀想だ。
 ご領主様はどうお考えなんだろう。
 ギルバート様を避けるように、殆ど家にも帰らずに女遊びをするなんて……
 奥方様が亡くなってるからって、好き勝手やりすぎなんじゃないか。
「お前さんも、可愛い顔をしてるから気を付けるんだな」
 下品に笑って、客の一人が言った。
「僕は男ですっ」
「男も女も関係ねぇって話だぜ」
 下卑た笑いを漏らし、他の男も言う。
 ったく、ご領主様は困った人だな。ギルバート様があんな風になったのは、全部ご領主様のせいだ。
 いつか帰ってきたら文句を言ってやろう。
「……ご領主様の話はもういいです。それで、黒い貴婦人についてなんですが」
「悪いな。黒い酒なんてものもあるにはあるが、貴婦人という味でも香りでもない。ましてや、貴族様の口に合うような代物でもない。他当たんな」
「そうですか。ありがとうございました。お商売の邪魔をして、すみませんでした」
 ペコリとお辞儀をすると、主人がちょっとびっくりしたような顔をしていた。
「えらく行儀がいいんだな」
 なんて言われて、子供扱いされてることに気づく。
 ニヤニヤと周りの男たちが変な目で僕のことを見るから、恥ずかしくなって急いで酒場を出た。
 ほおっと一息吐くも、馬がいないことに気づいて驚く。
「えっ、ここに繋いでおいたのに」
 周りを探すも、馬らしき姿はない。
 盗まれたんだ。
 どうしよう、僕の馬じゃないのに……

「なあ、さっき黒い貴婦人を探してなかったか?」

「えt?」
 馬のことで、すぐには頭が回らなかった。
「黒い貴婦人だよ。欲しいんだろう」
 言われて、僕は慌てて振り返る。
 見ると、よれよれの服を着た背の高い男が立っていた。
「俺、知ってるぜ」
 馴れ馴れしく僕の肩を抱くと、男は顔を近づけてきた。
「俺が売ってやってもいいぜ」
 吐く息が酒臭くて、気分が悪くなる。
 でも、願ってもない申し出に、僕は乗ることにした。

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